英賀手ヨヨヨ
政務殿に、英賀手の澄んだ声が響いた。
「──あたくし、民の夜市を見てみたい。ねえねが好きだったの」
言い終えた瞬間、重臣たちがざわり、と揺れた。
「……あ、あたくし?」
「“あて”ではなく……?」
「かはそに言葉を捨てられた……?」
ひそひそ声が渦を巻き、御簾の向こうの長上へ、刺すような視線が集中する。
英賀手本人は気づかぬまま、可憐な笑みを浮かべて続けた。
「市井の声を、じかに伺う。ねえねの志を継ぐのだ──」
「英賀手さま。その意気や天晴」
長上が静かに呼びかけた。
優しい声音だが、重臣たちは別の意味で震えた。
(こりゃあ長上が……言わせとる?)
(言葉から支配!?)
(王朝乗っ取り待ったナシ……)
完全なる誤解だった。
実際の長上は、かはそに言葉がほとんど話せない。
まず産まれが違う。かはそに言葉とは、
宮中──そして、その近辺で話される美しく風雅な都ことば。
長上は、辺鄙な山岳地帯の庶子である。
努力には限界があった。
英賀手もまた、実母は都外出身の刺羽氏である。
その影響があり、生粋のかはそに話者ではなかった。
つまり英賀手の言語変化は、ある意味必然だった。
だが外から見れば、英賀手が長上の言葉に寄せているようにしか映らない。
「長上、これはどういうことや!」
「宗女が“あたくし”など、前代未聞やで」
重臣たちが責め立てる。
長上は沈黙した。全ては英賀手が決めること。
だが英賀手の心は、どんよりと曇りまくる。
(……長上を……責めてはる……?
あたくし、なにか……あかんことを……?)
✦
宮中は今日も、おおさわぎ。
静かな医房の灯の中、
外部出身の凄腕医女は、女官たちと向き合っていた。
「英賀手さまは、長上に合わせようとして、
かはそに言葉を崩しているだけです」
医女は、落ち着いた声で告げた。
天媛が全幅の信頼を置き、生前、唯一箝口令を破らなかった人物。
「では……どうすれば……」と女官たち。
医女は静かに微笑んだ。
「使い分けを提案しましょう」
✦
翌朝。
女官に連れられ、英賀手は控えの間で医女と対面した。
「英賀手さま。私的な場では“あたくし”でよろしゅうございます」
「……いいの……? あたくし、で……」
「はい。ですが、公務では“あて”と、かはそに言葉をお使いください」
「……使い、分け……?」
「長上にどう言い換えれば伝わるか──相談する機会が増えます。会話も増える。
民の声も拾いやすくなり、宗女としての力にもなります」
英賀手の顔がぱっと明るくなる。
「……長上と、もっと話せる……?」
「もちろんです」
こうして、言語問題は立ち消えした。
重臣たちは安堵し、
長上は後見人として政務を整え、
英賀手は場に応じて言葉を自在に使い分けるようになった。
あやぎり朝は、ようやく形になり始めた──はずだった。
✦
だが、引き立て派閥は諦めない。
「長上の権力が強すぎる!」
「夜比古どのを宮中にお戻しせよ!」
「宗女の言葉が乱れたのも、長上の悪影響!」
他朝も噂を重ねた。
“長上は宗女を掌握しつつある”
“政務も祭祀も独占し、新朝を乗っ取ろうとしている”
完全なる誤解が、矢のように長上へ飛ぶ。
長上は眉ひとつ動かさず、それらを受け止め続けた。
だが、英賀手の心は痛みまくる。
(ヨヨヨ……あたくしのせいで、長上が……責められてはる……)
その心の涙を、まだだれも知らない。




