天音
天媛は、血の気を失った唇を震わせながら、英賀手の髪をそっと撫でた。
声はひどく掠れているのに、なぜか誰よりもはっきり聞こえた。
「……あて、死ぬつもりやなかったんよ。
都の遊女が、よく飲んどった薬やし……
こんなんなるなんて……思うてへんかった……」
英賀手の小さな手を握る指先が、涙で濡れる。
「英賀手……すまんなあ。
母親失格や。
あてのこと、恨んでええんよ……?」
英賀手は首をぶんぶん振って泣きじゃくる。
天媛は、そんな娘を見るだけで胸が裂けそうだった。
けれど、その奥底で、もうひとつの決意が固まっていく。
「せめて……後見人だけは、間違わん。
あんたを守れる人に託す。
長上……いや……阿諛やったな、“阿諛”。」
傍らで固まっていた阿諛が、びくりと肩を震わせる。
天媛は、彼の片手をつかみ、英賀手の隣へ引き寄せた。
「そんな名前、今日から捨ててしまえ。
あんたは……“あやぎり”や。
あての、一番好きな舞の名前や。
頼もしゅうて、幽玄で……
英賀手を託すに、誰よりふさわしい」
長上は崩れ落ちるように跪き、言葉にならない声で涙をこぼした。
天媛は、寝所に集まった重臣たちへ顔を向けた。
その目には、死にかけの者とは思えぬ烈しさが宿っている。
「王朝を……交替する。
あての跡目は、英賀手や」
寝所の空気が凍りつく。
長上は頬をひきつらせ、門客の薄ら笑いは消え、重臣たちは膝を折った。
「その成人までは……“あやぎり”が後見人として政務を担え。
重臣たちは……全力をもって、これを支えよ」
その言葉は、泣き声も嘲りも遮って、寝所を圧倒した。
夜比古はただ、固まっていた。
自分の中で何かが破裂しそうなほど痛むのに、天媛は――
静かに、目だけで彼を探していた。
天媛は、ゆっくりと手を伸ばした。
夜比古がその手を握ると、彼女は、ほっと微笑む。
「夜比古……すきやで」
その一言だけで、夜比古は息を呑んだ。
天媛は続ける。
残酷なほど優しい声で。
「その胎児は……長上の子やない。
心配せんでええ。
ほら……前に反乱で攫われたやろ……?」
夜比古の背筋がひやりと凍る。
「あの時……出来た子や。
だから……長上は関係あらへん。
あんたを苦しめるもんは……何ひとつ残したない」
天媛の眼差しは、痛々しいほど澄んでいた。
「夜比古……
英賀手を……頼むで……
あの子、あんたのことが……
大すきやから……」
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目を閉じた直後の天媛に、女の童が叫んだ。
「天媛、お待ち下さい! わたしは“天音”です。
お兄ちゃんの妹です。野山を出て、兄と暮らせるようになりました。
全部あなたのおかげです! 名前まで、あなたから一字いただいた。
あなたは、とても、情けの深いお人です」
人の聴覚は、最期まで残っているのだという。
天媛のまぶたから、一雫、水滴が流れた。
参考資料:【YouTube動画】
2018年5月5日 春日大社 子供の日萬葉雅楽会 舞楽「綾切」
(2025/12/14 8:53アクセス)
https://youtu.be/OIrWF8rNKCU?si=Hv9ENap45PAcx2ER




