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計里氏(けりし)

注意⚠️強い感情表現を含みます。心理的動揺や独占的な執着の描写があります。




阿諛は、水汲み道具を持っていなかった。


「喉乾いたー」と、置いてある柄杓の水を、そのまま飲もうとする。


「だめだ」と勾人が手早く制する。


「俺の手を使え」


阿諛はタジタジと後ずさりする。

勾人は自分の手のひらに水を移し、阿諛に差し出す。

手は大きく、力強い。


「ほら、早く。俺の手が汚いって、言いたいのか?」


その声には、微かに不機嫌さが混じる。

まるで伯父譲りの気むずかしさ。

でも同時に、どこか実父・計里氏を思わせる傲慢さも漂う。


阿諛は一瞬ためらったが、やがて小さく息をつく。


「……うーん、まあいいか」


そして手のひらから水をすする。


母はその光景を、ただ目の前で、呆然と見つめることしかできなかった。

当然の如く手を差し出す勾人、そして絡む手のひら。


母はふと、視線をそらした。

脳裏に浮かぶのは、あの暗い日々だった。





亡き夫は疑り深く、病床では、ほとんど言葉を発さないほどに気むずかしかった。

彼女がどれほど看病しても、当然の如くふるまい、感謝の言葉など、みじんも返さない。

義母も、追い打ちのように小言をぶつける。


「子もいないのだから、看病ぐらいきちんとなさい」


彼女が孤独に押し潰されそうになったとき、義弟がそっと寄り添った。


「義姉上、無理することはない」


その穏やかな声と、少し強引な手の温もりに、思わず心が揺れた。

やがて夫は死んだ。

どれだけ看病しても、なにも残らなかった。


彼女は寡婦となり、再婚話が持ち上がる。

相手は年寄りで、世話人が欲しい。

喪が開けたら嫁ぐように。


そんな折、義弟が突然迫ってきた。


「ずっと好きだった。子ができれば、再婚しよう」


ーー母は、知らず、手の中で勾玉を握りしめていた。


計里氏直系の証。

それは息子の身分を守る要であり、計里氏領主との、苦い過去の象徴でもある。

その冷たさが、記憶と現実を結びつけ、胸を凍らせた。


急に水音がばしゃりと鳴り、静かになった。


ふと、彼女は顔をあげる。



息子が阿諛に口づけていた。

強引に肩を抱き、頭を撫でながら。


母の凍りついた眼差しに気づいた勾人は、一切取り繕うことなく唇を離した。


「……阿諛。嫌なら嫌と言えよ。

 でも、続きは家でやる」


「やめなさい!」


思わず声が飛んだ。


阿諛がびくっと肩を震わせ、勾人がゆっくりと母のほうを振り向く。


「……なぜ?」


勾人の目は、本気でわからない、という色だった。

悪びれもせず、ただ疑問を投げかける幼さ。

しかしその口調と眉の寄せ方は、あまりにも――


(あの人に、似ている)


母は、胸の奥がヒシヒシと軋むのを感じた。


「阿諛は……その、嫌がっているでしょう」


「嫌がってない。だろ、阿諛」


阿諛は困惑して、勾人とその母の間で目を泳がせる。

その挙動まで、かつて母が、亡き夫と義弟の間で揺れていた日々を思わせた。


母は息を整えようとしたが、喉がうまく動かない。


「阿諛は、まだ分別も付いていないでしょう。

 あなたはもう大人なんだから、軽々しく、そんな真似を――」


「軽々しくじゃない」


勾人は静かに言った。

その言い方がまた、心臓を握りつぶすように、亡き夫に似ていた。


「俺は、本気で好きなんだ」


阿諛の肩に置く手は優しいのに、

“言えば従わせられる”と、どこか確信している力の入り方だった。

義弟が自分に向けた、あの甘い声と同じ。


母はたまらず口を閉じた。

言葉を足せば、涙がこぼれるのを堪えられなくなる。


「……だめです。阿諛、もう帰りなさい」


ようやく絞り出した声は、ひどくかすれていた。


勾人は、到底納得できないという顔で阿諛を見て、それからようやく母を見た。


「母上、なぜ怒るのですか? 天媛への求婚なんて、ただのフリですよ」


その問いが、胸に突き刺さる。

計里氏もきっと、同じことを考えていたに違いない。


(どうして……どうしてそんなところまで似るの……)


「俺と阿諛は、先に帰ります。計里の館まで、阿諛を送らなくては」


ーーもう、もう、わたしの息子は……どこにも居ない。

  勾人も結局……計里氏なのだ。





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