太母(たいも)
「……阿諛が捕虜だと? すぐに円理朝へ向かおう」
門客は短く呟き、そのまま海路を進んだ。
胸の奥に浮かぶのは、これから向かう円理朝首都ではなく――
そこに住まう、太母の険しい顔である。
太母。
円理朝の主座・百一の実母にして、
男梅を体現したようなクソトメの愛鳥家。
その執念は、もはや信仰の域に達している。
そしてその太母が、有名知識人の門客に繰り返し使いを出して、散々命じてきたのが“易占”だった。
息子の嫁・十和が男子を授かるかどうか、それを天意として導けと。
門客はようやく太母の招きに応じ、易占を行う。
占い如きとあなどるなかれ。易占はれっきとした古代の学問だ。
「南南東の戦を労い、牢内の捕虜を最低一名救い、
然るべき功徳を積めば、十和は男児を授かる」
その数詞の並びを、太母は脳裏に刻み込んだ。
門客を連れた太母の足は、両属地への補給基地
ーーそこに設けられた捕虜収容所に、自然と向かう。
✦
補給基地に併設された捕虜収容所は、すでに大混乱の渦中だった。
門客と太母が到着した時、中庭ではなんとバトル・ロワイヤルが勃発していた。
円理兵たちが賭けをし、かはそに朝捕虜同士が殴り合い、
そしてその中心で――
阿諛はひん剥かれ、景品として掲げられていた。
門客は息を呑む。
救出があと数刻遅れていれば、阿諛は命どころか自尊心すら粉々だっただろう。
太母は眉一つ動かさず、呆れたように吐き捨てた。
「まったく……救いようのない連中ばかり。
だが、まあよい。どうせ行く当てもなかろう」
その声は冷たいのに、奇妙な威厳に満ちていた。
太母が一歩踏み出し、檻の前で手を伸べる。
「そなた。名はなんと申す。円理朝へ連れて参るからには、名乗らねばならぬ」
阿諛の瞳が、信じられないほど大きく開いた。
「え……っ、え、…? わたしをお助けくださるので?」
太母は「当然であろう」とでも言うように、澄ました顔で頷く。
易占で示された“功徳”を、一つ一つ着実に積み上げる覚悟が、その仕草にあった。
こうして、阿諛は混沌と暴力の牢獄から解き放たれた。
✦
丘を越える風は乾き、遠くに両属地の荒れ果てた山脈が灰色に伸びている。
門客は迷わなかった。
幼少期の孤独も、渡来民としての迫害も、
知識だけを武器に牙を研いだ日々も、
文字を知らぬ者をどこか蔑んでいた自分も――
すべてが、今の行動へと続く一本の筋に変わっていく。
救うべき者を救い、正しい道へ導く。
それが、いまの門客を動かすただ一つの意志だった。
阿諛は、門客の影に守られながら、円理朝へ向かって歩みを進める。
太母の衣の裾が風に揺れ、どこか誇らしげに立っていた。
こうして、物語は大きく舵を切る。
門客の運命も、阿諛の未来も。
そして円理朝も。
すべては、まだ誰も読めぬ文字の上に――静かに書き始められようとしていた。




