血盥渓谷(ちたらい けいこく)
武勇の誉れ高き蒿雀氏。
その所領の大部分を占める血盥渓谷は、
名に反して美しい土地だった。
川沿いには良質な黒曜石がごろごろ転がり、強い武器を求める武人が群れをなす。
血筋など関係ない。
ただひたすらに「誰よりも強い」ことだけが、蒿雀氏の誇りだった。
若き日の匪躬おぢは、そんな蒿雀氏に将来を嘱望される逸材だった。
恵まれた体格、力自慢の腕っ節。
蒿雀氏直々の使いがやってきて、血盥渓谷へと迎え入れられた。
鍛錬も実戦も、楽しくてたまらない。
だが、蒿雀氏から与えられた妻女の扱いだけは、ほとほと困り果てた。
彼女は我儘など言わない。
ただ、とかく融通が利かない。
「食事は三食、決まった時間に取るものです」
匪躬が好きな物を食べたくて台所に立とうとすれば、
「男子厨房に入らず!」とピシャリ。
「いくさでは男も女もなく炊事洗濯掃除をしてる!」と反論しても、
「ここはまだ戦地ではございません」と一蹴される。
これではあまりに窮屈だ。
かといって、あれほど細やかに目配りしてくれる妻女を、裏切る気にはなれなかった。
商売女の香の匂いは、吐き気がした。
自然と、匪躬は気ままな独身武人たちとつるむようになった。
酔った勢いで、何度か行くところまで行ってしまう。
喜ぶ者もいれば、拒絶する者もいた。来る者拒まず、去る者追わず。
それでどうにか相手を見極め、それなりに充実した日々を送っていた。
――あの日が来るまでは。




