私を殺してください
トイレから出ると、梨恵は教室に戻った。
時刻は朝の五時。県内有数の進学校であるリエの高校は、朝活を推奨している。しかし、この時間に学校にいる者は、教員でさえ稀だ。教室にはリエしかいなかった。
リエの席は窓際にある。その位置からは、桜の高木を間近に見ることができる。リエは今の席が好きだった。
そのとき、扉が開いた。振り向いてみれば、夏生子がいる。リエと同じ吹奏楽部の所属であり、リエはクラリネットのパート長、カナコはホルンのパート長だった。
「カナコ?」
リエは訊く。この時間にカナコがいることも驚きだったが、目を引くのは、カナコは息を弾ませており、手斧を握りしめていることだった。
「どうしたの?」
「聞いた、今の?」
答える代わりに、カナコが尋ねてくる。
「何を?」
「悲鳴よ。そこの桜の木!」
席まで近づくと、カナコは、窓越しに見える桜の木を指さした。リエは首を振った。
え……、と、カナコは困惑したそぶりだったが、リエと会うことにより、落ち着きを取りもどしたようだった。カナコが息を整えている間に、日本史の一問一答を、リエは一ページだけ先に進める。
「確かにしたのよ」
「桜の悲鳴が?」
「この斧でさ」
そう言いながら、カナコは手斧を、前にあった机に投げ出す。斧頭の赤い斧は、学校に備え付けの、非常用のものだった。
「桜の木を叩いたのよ。そしたら『痛い!』って。私、驚いちゃってさ。誰かいないかと思って、ここまで逃げてきたわけ」
”話し過ぎる人は、他人の想像力を侮辱しています”
黒板の上に設置されたスピーカーから、女性の声が聞こえてくる。学校では、毎月「○○月間」というものが設けられており、スピーカーで生徒に周知される。そのテスト放送のようだった。
”今月は小語月間。語りは最小限となるように努めましょう――”
カナコの横顔を、リエは見つめる。新学期が始まって、一か月が経とうとしている。最終学年であるリエたちは、進路を考えなければならない。大学への推薦資格を得るための校内選考は、まもなく始まる。
リエの行きたい学部と、カナコの行きたい学部は同じで、推薦の枠はひとつだった。そのことに二人が気付いたのは、二年次の最終学期に入ってからのことだった。
――後味悪くなるくらいだったらさ、二人でさ、入試で目指さない?
どちらかが推薦を得るためには、どちらかは諦めなければならない。その矢先の、カナコからの提案だった。はじめは気安く賛成したリエだったが、次第に推薦にすがりたくなる気持ちが増していった。
そして――構内推薦の締切日に、リエは出願した。ひとつの推薦枠に、出願者はリエのみ。カナコはいなかった。
リエはカナコを裏切り、抜け駆けした。
「カナコ」
リエは言った。
「前、話してたよね? 進学先の話――」
「私さ、辞めたんだ」
思いがけないカナコの言葉に、リエはとっさに反応できなかった。
「え?」
「志望校、変えようと思うんだよね。兄貴が進学した大学に、私も行きたいな、と思ってさ。相当勉強しないとキツいけど、それでも狙ってみたいんだ」
カナコは小さく笑う。
「それで、リエに言おうとしたわけよ。『推薦余ったよ』って。そしたらさ、昨日で終わりだったんでしょ? ゴメンね。道連れみたいになっちゃって。私バカでさ――」
「カナコ、良かったよ……!」
「え?」
今度は、リエが多くを語る番だった。
「ホント?」
カナコの言葉に、リエは頷いた。
「そりゃ良かった。じゃあリエ、志望校に行けるんだね」
「うん」
「おめでとう」
「ありがとう」
「ハハッ」
カナコは笑って、机の上に座る。
「桜、切らないで良かったよ」
窓の外の桜を眺めながら、カナコは言う。そんなカナコの視線を、リエは目で追った。
◇◇◇
トイレから出ると、少女は教室に戻ろうとする。
時刻は朝の五時。県内有数の進学校である少女の高校は、朝活を推奨している。しかし、この時間に学校にいる者は、教員でさえ稀だ。
そのとき、廊下の向こう側から、慌ただしく階段を駆けのぼる足音が聞こえてきた。世界史の担当で、古参の教員でもあるナガオカ先生が、息を切らしている。
「先生」
少女は声を掛ける。ナガオカ先生の肩が、びくりと震える。
「着いてきてもらえませんか」
「一大事だ」
額から流れる汗を、ナガオカ先生は拭う。
「警察と、救急車を呼ばないと――」
「先生、だから、着いてきてください」
「え?」
「すぐに分かります」
そう言うと、少女は階段を降り、目的の場所まで、ナガオカ先生を案内する。二人は、視聴覚室の近くまでやって来た。廊下に取り付けられた、非常用の手斧の格納されているケースが、こじ開けられている。
「ここの斧を使いました」
その瞬間、夜明け前の薄暗さ、舞い散る桜の花びらのまぶしさ、振り上げた斧の重さ、悲鳴の鋭さ――が、少女の心によみがえってきた。自分でも気づかないうちに、少女は泣いていた。
「進路で、仲たがいしそうになって。犯人は私です。私を警察に突き出してください。さもなければ、私を殺してください」
”話し過ぎる人は、他人の想像力を侮辱しています”
テストの校内放送が、薄暗い校内に響き渡った。




