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誰かの隣人

作者: 差等キダイ
掲載日:2019/09/28

 毎日を何となく消化していくだけだった僕。

 機械のように職場と会社の往復をするだけ。

 それだけで人生を終えるのだと思っていた。

 でも、そうじゃなかった。

 彼女との出会いは、僕の人生に光と影を同時に残していった。


 *******


 とあるマンションの5階に住んでいる僕は、言うまでもなくエレベーターを使う。基本的に朝と夕方の二回だ。あとはたまに深夜にコンビニへ行く時くらい。

 そんな機械的な日常の中、朝と夕方のエレベーターによく乗り合わせる人がいた。

 7階に住んでいる若い女性で、いつも幼稚園に通う息子と手を繋いでいる。

 不審者扱いされたくないので、そこまでジロジロ見てはいないが、綺麗な人だと思う。肩くらいまでの亜麻色の髪はふわりとウェーブがかかっていて、まだ社会人二年目の僕には、それがやけに色っぽく思えた。もしかしたら、彼女は見た目より少し年上なのかもしれない。

 最初は軽く会釈する程度だったのだが、ある日、彼女の息子が僕に声をかけてきた。


「ねえねえ、おじさんはお仕事何してるの?」

「えっ?お、おじさん?」


 まだ僕は24歳だ。そんなに老けてもいない。しかし、このぐらいの子供からすれば、おじさんなのかもしれない。

 心の中でやんわりとショックを受けていると、すぐに母親が「こらっ」と割って入った。


「おじさんじゃなくて、お兄さんでしょう?あの、ごめんなさい。いきなり……」


 ぺこりと頭を下げる母親に倣い、子供も「ごめんなさい」と可愛らしく頭を下げる。そこまで気にしていたわけでもないので、何だか少し気まずい。

 しかし、何も言わないのももっと気まずいので、軽く頭を下げ、「大丈夫です」と言っておく。

 すると、彼女は優しげに目を細め、やわらかく微笑んだ。その上品な笑い方に、僕はつい言葉を失ったまま見とれてしまう。こんな風に、とくんと胸が高鳴ったのは高校以来かもしれない。

 そんなこちらの様子に、彼女は首を傾げた。


「どうかしましたか?」

「い、いえ、何でも……」


 声をかけられ、慌てて視線を外し、階数を表示するディスプレイに視線を固定する。人妻相手に一体何を焦っているんだか……。

 そんなエレベーター内での他愛ないやりとり。

 これが、僕と彼女のファーストコンタクトだった。


 *******


 それからエレベーターで彼女と子供に遭遇する回数が増えた気がする。

 彼女の子供は、無邪気という言葉を体現したような笑顔を向けながら、思いついたことをそのまま話しかけてきた。


「おじさ~ん。彼女いるの?」

「え?あー……」

「もうっ、ダメでしょ!まーくん!すいません……」

「いや、大丈夫ですよ」

「そ、そうですか。あのー、職場はこの辺りなんですか?」

「え?あ、はい……歩いていける範囲です」


 いきなりの質問に、ついきょとんとしながら答えてしまう。最近女性と話してないのもあり、つい噛みそうになってしまった。

 そんな僕の様子にも、彼女は包み込むような穏やかな微笑みを崩さなかった。

 やがてエレベーターは一階に到着する。

 ドアが開き、足早に出ていこうとすると、彼女から再び声をかけられた。


「あ、あの、いってらっしゃい」

「……はい。それじゃあ」


 いってらっしゃい、か……久しぶりに言われたな。

 僕は平静を装いながら頷き、普段は歩く道をいつもよりはやく駆け抜けた。


 *******


 夕方、またエレベーターに乗り合わせることになった。まあ、同じマンションに住んでいるのだから、別に不思議な事でもないし、ただ会釈してエレベーターに乗り込むだけなのだが……。


「ふふっ、よく会いますね」

「は、はい……」


 声をかけられ、ほんの少ししどろもどろになってしまう。あ、これは気味悪がられるやつだ。ていうか、緊張しすぎだろ、人妻相手に。

 すると、意外な助け船がきた。


「おにーさん、だいじょーぶ?」


 子供が純粋な瞳で心配そうに見上げてくる。ただテンパっていただけだから、なんだか申し訳ない。


「ああ、大丈夫だよ」


 下手くそな作り笑いで答える。作り笑いも久しぶりな気がする。

 それでも何とか笑えたことに安堵していると、母親の方は僕の左手にある買い物袋をじっと見ていた。


「カップ麺やレトルト食品ばかりですね」

「え?あ、ああ、好きなんですよ。楽なんで」


 自炊は独り暮らしを始めてから3ヶ月で諦め、それ以降はインスタント食品や外食で済ませている。これが楽すぎて定着してしまっていた。


「そうですか……」


 彼女は何か言いたげな顔をしていたが、目が合うとすぐに笑顔に戻った。

 やがてエレベーターは到着し、僕は会釈し、さっと下りた。

 そこで、何故かはわからないが、急に実家の手料理が恋しくなった。


 *******


 ある休日、突然の雨に見舞われた。

 たまたま折り畳み傘を持っていたので問題はなかったが、雨は嫌いなので、自然と気分は暗くなる。

 ぱしゃぱしゃと雨が地面を叩く音に耳を澄ませながら、蛞蝓のようにのんびりと進んでいると、見覚えのある顔が視界に入った。


「あ……」

「あら、こんにちは」

「上の階の……」

「黒野です。そういえば、名前言ってなかったですね」

「ああ、はい。えと、鳴海です」


 お互いに自己紹介をしたが、実際はそれどころではなかった。なぜなら……

 

「あの、どうぞ……」

「あら、優しい」


 彼女は雨に打たれていた。

 それも平然と。何食わぬ顔で。

 急ぐでもなく。雨雲を見上げるでもなく。

 ただ黙って雨に打たれていた。

 そして、その横顔はぞっとするほど美しく見えてしまった。


「……傘すぐそこで売ってましたけど」

「そう?でも大丈夫」


 何が大丈夫なのかはわからなかったし、聞かないほうがいいような気がした。

 ただ、そのまま放置していけるほどの精神力は持ち合わせていなかった。


「あ、あの……」

「?」

「傘買わないんでしたら、入っていきませんか?せっかくだし」

「じゃあ、お言葉に甘えようかしら」


 そこから何となく一緒に歩き出した。

 傘はそれほど大きくないので、左肩を濡らしながらの帰宅になったが、ちっとも損した気分にはならなかった。


 *******


 次の日は、朝は会わなかったけど、夕方に買い物から帰ったところで、マンションの入り口で遭遇した。今日はTシャツにデニムという比較的ラフな格好だった。

 それでも、木枯らしに揺れるふわふわした髪が、何故かやけに儚げに見え、口元の穏やかな笑みとちぐはぐな印象を受けた。


「あら、こんにちは」

「……どうも」


 どちらもそのままマンションの自動ドアを通過し、彼女がボタンを押し、エレベーターが来るのを待つ。

 今日は子供もいないからか、会話の糸口もなく、黙っていると、彼女の方から声をかけてきた。


「あの……今日はこの後予定ありますか?」

「……いえ、ないですけど」

「そうですか」


 会話の途中でエレベーターが到着し、僕は会釈をして、すぐに下りた。

 そのせいか、奥歯に何か挟まったような感覚がして、ついエレベーターの扉を何度か見返した。


 *******


 しばらく家に持ち帰った仕事をして、そろそろ食事にしようかと立ち上がったところで、呼び鈴が鳴る。はて、来客の予定はなかったが……

 インターホンのモニターを確認すると、そこには意外な人物が映っていた。


「はい」

「あの……上の階の黒野ですが」

「……はあ」

「あっ、いきなりごめんなさいね。ちょっといいかしら?」


 普通は先に要件を聞くべきなのだろう。

 だが僕は、玄関に向かい、鍵を開けていた。

 すると、当たり前だけど、モニター越しに見た姿と同じ姿がそこにあった。

 彼女は口元に笑みを添えたまま、唇を動かす。


「こんにちは」

「……こんにちは」

「はい。これ、どうぞ」

「え」


 赤い蓋のタッパを差し出され、何故かまったく躊躇もせずに受け取ってしまった。掌にはじんわりと温かさが広がり、それがひどく懐かしいものに思えた。

 こちらが何か尋ねようとする前に、彼女が先に口を開いた。


「この前のお礼。カレーが余っちゃったの。よかったら食べてくれないかしら?」

「はあ……」

「あっ、苦手だった?」

「いえ、その……好きですよ。ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げると、彼女はまたやわらかな笑みを浮かべた。

 その笑顔につい胸が高鳴るのを感じ、慌てて視線を逸らす。人妻相手に何ときめいてるんだか……。

 僕はタッパーに視線を落とし、極力彼女を意識しないようにした。


「それ、野菜たっぷり使ってますから、栄養満点なんですよ。カレーに入れたら、うちの子も食べてくれますし」

「……そうですか」


 その後何を話したのかはあまり覚えていない。僕が彼女を無駄に意識しすぎて、会話らしい会話にはならなかったような気がする。

 ただ、少しずつ何かが変わろうとしている予感めいたものがそこにあった。

 そして、それはただの勘違いだと自分を戒めた。


 *******


 翌朝、いつものようにエレベーターで彼女と子供と遭遇した。


「……おはようございます」


 こちらが先に挨拶したのが予想外だったのか、彼女は少し目を見開いたが、すぐに優しい微笑みを見せた。


「おはようございます」

「おはよーございますっ」


 子供も彼女に倣い、ペコリと可愛らしく頭を下げる。

 その姿に精一杯の固い笑みを向けた後、彼女に感謝を告げる。


「あの、昨日はありがとうございました……美味しかったです」

「そう、お口にあったならよかったわ」

「今日、タッパー返しに行きますんで……えっと確か7階でしたよね?」

「ええ。夕方5時過ぎには間違いなくいますから。あなたの都合がいい時間にどうぞ」

「わかりました」


 昨日より緊張しなくなった事に安堵しながら、エレベーターが一階に降りるのを待つ。すると、もう到着してドアが開いていた。

 ボタンを押し、二人が降りるのを待ってから自分も降り、あとは自分のペースで歩いていく。

 すると、彼女達を抜き去ろうとしたタイミングで声をかけられた。


「お仕事、頑張ってくださいね」

「……はい」


 その言葉に背中を押されるように、僕は気持ち速めに歩く。

 「頑張って」なんて言葉を素直に受け取ったのは、本当に久しぶりだった。


 *******


「鳴海、お前今日はテンション高くないか?」

「……いや、いつも通りだけど」

「いいや、お前がハキハキ動くとかテンション高すぎだろ」

「…………」


 失礼なことを言われているのは間違いないが、言い返せないのも事実だ。確かに今日の僕は、いつもより動きがいい、気がする。


「何かいいことでもあったか?」

「……いや、何も。昨晩しっかり飯食ったくらい」

「何じゃそりゃ」


 怪訝そうな目を向けられるが、別に構いはしない。これ以外に説明しようがないのだから。

 僕は一人で頷き、仕事に戻った。


 *******


「あら。こんにちは」

「……どうも」


 彼女とまた遭遇する。しかし、今回はマンションの敷地内ではなく、スーパーの野菜売り場だ。隣には当たり前のように子供がいる。

 カートに置かれたカゴに目をやると、野菜やら調味料やらが色々乗せられていた。


「鳴海さんもここで買い物してたのね」

「ええ、まあ……近いので」

「それもそうね。あっ、そうだ。嫌いな物、あります?」


 不思議な質問だと思った。

 普通こういう場合は好きな食べ物を聞くものだと思っていた。もしかしたら、必要以上の会話はしない僕がずれているのかもしれないが。

 とはいえ隠すことでもないので、答えることにした。


「……ピーマンが苦手です」

「ピーマン食べなきゃダメなんだよぉ!」


 彼女の子供が、腰に手を当て、「めっ」と叱りつけてくる。返す言葉もない。母親からも何度も怒られた。

 彼女はその様子を見て、クスクスと小さく笑った。


「なるほど。わかりました。あっ、ごめんなさいね。お買い物の邪魔しちゃって」

「いえ、大丈夫です……じゃあ、失礼します」

「ええ」


 その後は言うまでもなく、それぞれの買い物に戻り、別々に店を出た。


 *******


「はい。どうぞ」

「……えっと……」


 さっきの買い物から3時間後、僕は再び彼女から温かいタッパーを受け取っていた。


「あの……」

「中身は肉じゃがだから」

「はあ……」

「あっ、ごめんなさい。もしかして、もう済ませちゃってました?」

「いえ、まだですけど……何て言うか……さすがに申し訳なくて」

「別に構いませんよ。二人分も三人分も変わりませんし」

「はあ……でも、男の独り暮らしだし、あまり旦那さんもよく思わないんじゃ……」

「ふふっ、あの人はそういうの気にしない人だから。それに、今、海外なんですよ」


 そうか、気にしないのか。そういうものなのか。

 まあ、結婚したことのない僕には、その辺りの心の機微はわからないだけかもしれない。色々な夫婦がいるのだろうか。

 とりあえず、誰も気にしないのなら、ありがたく頂こう。


「じゃあ、その……ありがとうございます」

「ええ。それじゃ、失礼します」


 ゆっくり玄関の扉が閉まる。

 そこには、ほのかに甘い香りが漂っていた。


 *******


 翌日の夕方、僕は空になったタッパーと、駅前で買ったクッキーを手に、七階の廊下でやや挙動不審になっていた。

 ……そういえば、どの部屋に住んでいるかなんて知らない。

 お礼にと思い、数年ぶりに他人の家を訪ねようとしたのだが、慣れないことはするべきではなかった。このままここにいても、不審者扱いされそうな気がするので、もう帰るとしよう。


「あら?鳴海さんですか?」


 ちょうどエレベーターに向かおうとしたところで、エレベーターから彼女が出てきた。今日は隣に子供がいない。その空白が何だか新鮮に見えた。

 そして、彼女はいつものように、やわらかな笑顔を見せた。


「もしかして、タッパーを持ってきてくれたの?」

「えっと……はい。でも、部屋がわからなくて」

「今あなたの傍にドアがありますよ」

「えっ?」


 どうやら偶然彼女達の住んでいる部屋の前にいたようだ。

 まあ、こうして会えたから呼び鈴を押す必要もなくなったわけだが。


「あの、これ……」

「あら、これ駅前の……ありがとうございます。私も息子もこれ大好きなんですよ」

「……ならよかったです。あと、ごちそうさまでした。美味しかったです」

「ふふっ、ありがとうございます。お口にあったならよかったです」


 普段ならこのまま会釈して立ち去るところだが、今は何かが自分を突き動かし、次の言葉を自然と紡いでいた。


「……今日はお子さんはいないんですね」

「今留守番してくれてるんです。すぐそこのコンビニに行くだけだったから」


 彼女は買い物袋を揺すって見せた。確かに見慣れたロゴが印刷されている。中にはペットボトルの飲み物が入っていた。

 彼女の微笑みが無機質な空間に、ほんのりと温かい灯りを灯していくように思えたが、それで特に話題が広がるわけでもないので、もう帰ることにした。


「じゃあ、僕はもう帰ります。肉じゃが、ありがとうございました」

「ふふっ、どういたしまして。それと、クッキーありがとうございます」

「……いえ、大丈夫です」


 何が大丈夫だというのか、自分でも分からぬまま、僕は会釈をして、さっさとエレベーターに乗り込んだ。

 エレベーターの扉が閉まる直前、視線を上げると、笑顔の彼女と目が合った。


 *******


 その日は激しく雨が降っていた。

 高台にある公園の四阿山で雨宿りをしていると、何だか閉じ込められたかのような錯覚を覚える。そんな激しい雨だった。

 休日に何となく散歩をしただけなのにこの仕打ち……慣れない事はするもんじゃない。

 降りしきる雨にぼやける町並みを眺めていると、誰かがぱたぱたと駆け寄ってくる音が聞こえた。

 ただ、目を向ける気にもなれなかったので、そのままでいたのだが、とんとんと肩を叩かれた。


「こんにちは」

「え?あ……どうも」


 誰かと思えば、黒野さんだった。

 彼女はだいぶずぶ濡れになっていて、ふわふわした髪が、額や頬に貼り付いていた。

 しかし、それを特に気にした風もなく、ただいつもより、どこかしっとりした笑顔を向けてくる。


「……あの、大丈夫ですか?ずぶ濡れですけど」

「ええ。昔から雨に濡れるのは好きなの。主人には怒られるんだけど……」

「そりゃあ……そうですね。お子さんは?」

「今日はおばあちゃんが見に来てくれてるから」

「そうですか……買い物したやつ大丈夫ですか?」

「ええ。何とか。そっちは……」

「ああ、自分はただ散歩してただけなんで」

「そう。何か見つかりましたか?」

「え?」

「散歩の時って何か探しません?気に入りそうなお店とか」

「……自分はあんまり……どっちかというと、体を動かすことが目的なんで」

「そう……」


 彼女はゆっくり雨雲を見上げた。

 そのぼんやりとした瞳は、雲の向こうにある青空を探しているように澄んでいた。

 こんな彼女の瞳は初めて見た。

 やがて、彼女は雨に濡れた唇を、ふわっと開いた。


「ねえ……」

「?」

「少し、歩きませんか?もし濡れても構わないなら」

「…………」


 僕は何かに引き寄せられるように立ち上がった。それは甘い誘惑にも思える何かだった。

 四阿山を出て、雨に打たれると、別の世界に足を踏み入れた気分になった。


 *******


「……今さらだけど、風邪ひいたらごめんなさい」

「いや、どうせ止みそうもないんで、ずぶ濡れになってたと思います」

「ふふっ、まあ確かにそうね……今日はこのままかも」


 最後の一言だけは、独り言のように小さく頼りない呟きだったが、それでも僕の耳に届いた。その呟きは一粒の雫のように僕の心に落ちて、うっすら波紋を生んだ。

 そんな不思議な感覚に胸を支配されていると、彼女は再びにこりと笑いかけてきた。


「どうかしました?」

「いや、その……なんか不思議な人だなって」

「ふふっ、たまに言われますよ。なんか変わったところがあるみたい」

「でしょうね」

「あら、ひどい」

「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」

「ふふっ、わかってますよ」


 こんな風に暢気に話している間も、雨は僕と彼女をずぶ濡れにしていく。

 そんな状況に、何故か楽しさみたいなのを感じ始めた頃、彼女は僕の肩を叩き、自分の子供に似た笑顔を見せた。


「……鳴海さん、マンションまで走りませんか?」

「へ?」


 いきなり何を言い出すんだ、この人は……。

 首を傾げると、彼女は急に走り出す構えを見せた。どうやら冗談ではないらしい。


「ふふっ、競走ですよ!それじゃあ、よーいどんっ」

「あっ、ちょっ……」


 *******


「はあ……はあ……」

「ふぅ……久々に走ると疲れますねぇ」 


 結局マンションの前まで走ってしまった。雨やら汗やらでとにかくぐっしょり濡れたTシャツが割と不快だが、それ以上に久しぶりに走ったせいで、息が上がってしまって、さほど気にはならない。それなりに爽快感はあるようだ。

 黒野さんは大して疲れた様子もなく、こちらににこりと笑みを向けた。


「ふふっ、楽しかった。付き合わせてごめんなさいね」

「はあ……いや、別にいいんですけど。おかげで早く帰れたし……」


 彼女に目を向けると、白いTシャツ透けていて、ロングスカートは肌に貼りつき、かなり目のやり場に困る状態になっていた。

 僕は慌てて目を逸らし、何となく胸元を抑える。そこは普段より大きく鳴っているような気がした。

 そして、僕達はいつものようにエレベーターに乗り込み、たまたますれ違った他の階の住人に驚かれ、二度見された。

 

 *******


 その日の夜。

 僕は目を閉じても眠ることができなかった。

 目を閉じ、眠りに就こうとすると、彼女の雨に打たれた姿が浮かんでしまうのだ。

 あのぞっとするくらい美しい横顔が……。

 あの儚く消えてしまいそうな瞳が……。

 ただ、雨に濡れただけの姿はやけに艶かしくて、目の前にいるわけではないのに、つい手を伸ばしてしまいそうになる。

 ……何だ、この感じ。

 気がつけばじんわり汗をかき、喉がからからに渇いていた。

 一旦起き上がってから、かぶりを振って、冷蔵庫を開ける。丁度飲みかけのスポーツドリンクがあったので、一気に飲み干した。

 しかし、この感覚だけは飲み下すことはできなかった。


 *******


 それから、なるべく顔を合わせないほうがいいような気がしていた僕は、出勤時間を早め、使うスーパーを変え、極力彼女と顔を合わせないようにしていた。そんな苦労の甲斐もあり、ここ最近は顔を合わせることもなかった。

 これで、ここ最近の変なもやもやがなくなればいいのだが……。

 しかし、偶然なのか、誰かに仕組まれたのかはわからないが、とにかく、僕と彼女は引き合わされた。

 それは予報にない雨の日だった。 

 傘を叩く雨音に耳を澄ませながら、のんびり歩いていると、スーパーの前で、見覚えのある二人が雨宿りをしていた。

 そう、彼女は子供と一緒に、そこに立っていた。

 そして、僕と目が合うと、にこやかな表情を見せた。

 それだけで胸が高鳴るのを感じた。

 花に引き寄せられる蜜蜂のように、自然とそちらに向け歩き出した自分に、内心呆れながらも、胸の中には何故か安心感があった。


「……こんにちは」

「あら、こんにちは。何だかお久しぶりですね」

「こんにちはー!」

「…………」

「…………」


 どちらも言葉が続かず、しかし視線は逸らせずにいた。

 僕と彼女は別に友達でも何でもない。たまたま同じマンションに住んでいるだけの赤の他人だ。

 しかし、何故だろう……。

 彼女の瞳を見ていると、その奥にある感情を引き出そうと、つい言葉をひねり出す努力をする自分がいることに気づいた。

 ただ、それと向き合う気分にはなれなかった。


「あの、これ使ってください」

「えっ?でも……」

「じゃあ、僕行きますんで……!」

「あっ、鳴海さん!」


 僕は雨の中へと飛び出した。背後に視線を感じるのは、気のせいだと言い聞かせながら。

 叩きつける雨粒がやけに冷たかった。


 *******


 やっと帰りつき、シャワーを浴びていると、やたら生々しい温もりが胸を刺した。

 自分の中の決意が、あんなに脆く崩れていった事に、僕は落胆よりも驚きを覚えていた。

 これまで、自分が人より秀でた部分といえば、自分を律する心くらいだと思っていたのに……。

 瞼を閉じれば、ただ優しすぎる笑顔が浮かんできて、一人ぼっちの胸の中を激しくざわつかせた。


 *******


 髪を乾かした頃に、まるで狙い澄ましたかのように呼び鈴が鳴る。

 特に急ぐ理由もないのに、僕は早足でドアまで歩み寄った。

 そして、ドアを開くと、エプロンを身に着けた彼女が笑顔を見せた。


「さっきはありがとうございます。これ、さっきお借りした傘です。あと、これ。よかったら……」

「あ、ありがとうございます」


 なるべく目を合わせないようにしながら、久しぶりに温かいタッパーを受け取ると、微かに彼女の細い指に触れた。そのひんやりした感触だけで、どくんと胸が高鳴る。今となっては、それは警報のように思えた。

 そんな事を考えていると、笑顔の彼女と視線がぶつかった。


「…………」

「…………」


 ぽっかりと穴が空いたような沈黙が生まれ、ざあざあと響く雨音がやけに強調される。

 彼女の顔からは笑顔が消え、困ったような表情になった。


「あっ、ごめんなさい……」

「いえ……あの……疲れた表情してますけど、大丈夫ですか?」

「……大丈夫ですよ。ここ最近仕事が忙しくて、あまり眠れなかったんで……」

「そうですか。気をつけてくださいね……じゃあ、失礼します」

「はい。ありがとうございます」


 ゆっくりと、あまり音をたてないように閉じられたドアは、何かを隔てたように思えた。

 あとは鍵を閉めれば、完璧な隔たりができる気がする。

 しかし、体は勝手に動いていた。

 ドアを開け、エレベーターの方に目を向けると、彼女はこちらに顔を向けていた。

 驚きに目を丸くした彼女に、僕は思いつくまま声をかける。


「……あ、ありがとうございました!」


 さっき言ったじゃないかと自分でも思っていたが、何か声をかけずにはいられなかった。

 彼女はしばらくポカンとしていたが、やがていつもの微笑みを見せた。

 そして、エレベーターの扉が閉じるまで、その微笑みをこちらに向けたままだった。


 *******


 翌日、何かふっきれたような気分で、いつも通り会社に行こうとすると、当たり前のように彼女と子供とエレベーターで遭遇した。


「おはようございます」

「ふふっ、おはようございます」

「おはよーございます!」


 普通に声が出たことに安心しながら、挨拶を返してくれた子供に笑顔を向ける。

 しかし、目を逸らされてしまった。

 その様子を彼女は笑顔で見つめてから、僕にこっそり耳打ちした。


「ちょっと今日は機嫌がよくないんですよ。それと……肉じゃが、どうでした?」


 やわらかな吐息が耳をくすぐるのを、どこか心地よく感じながら、僕は黙って頷いた。

 前までならそれで終わりだが、僕も彼女に倣い、こっそり耳打ちした。


「……きょ、今日の夕方、タッパー返しに行きます」


 噛まなければ、もう少しいいシーンに見えたかもしれない。

 そうすれば、胸の高鳴りも少しは誤魔化せただろう。


 *******


 ある日の夜、決定的な出来事が起きた。

 仕事で普段より帰りが遅くなったけど、まだ午後8時だしタッパーを持って、彼女の家のチャイムを鳴らした。

 彼女のいつもの笑顔を想像しながら待っていたが、やけに出てくるのが遅い。

 ……もしかして、風呂にでも入っているのか?

 三十秒ほど待ち、今日は出直そうと踵を返したところで、背後でドアが開く音がした。


「な、鳴海さん……こんばんは……」


 振り向くと、彼女がこちらに笑顔を向けていた。慌てて出てきたのか、やけに息が荒い。

 とりあえず駆け寄り、タッパーを手渡す。


「これ……ごちそうさまでした」

「あっ、はい、夜遅くに、わざわざ……すみません」


 やけに息が荒い。顔も火照っている。

 彼女は、こちらが口を開く前に、ふらりと胸元に寄りかかってきた。


「あの、大丈夫ですか?」


 突然の出来事に、わかりきったことしか言えない。こういう場面に遭遇したのは初めてだった。

 とりあえず、家の中へ……。

 僕は、極力焦りを隠そうと努めながら、彼女に肩を貸した。

 柔らかな重みを肩に感じ、熱い吐息が首筋を湿らすのを感じながら、おそるおそる足を交互に動かす。

 ……今、誰かがこの光景を見たら、何て思うんだろうか。

 そんなしょうもない事を考えていると、彼女が意外と軽い事に気づく。いや、これは失礼になるのか。


「ふふっ、ごめんなさいね。重かったかしら?たまには走ってるんだけど」

「ぜ、全然重くなんかないです……それより、肩貸しますから中へ」

「……ありがとうございます」


 首筋を微かに濡らす吐息が、やけに生々しかった。

 彼女の部屋の中へとゆっくり歩いた。


 *******


 ソファーに彼女を座らせると、「ごめんなさい」と声が聞こえた。

 僕はそれに頷き、彼女の傍にかがんでから声をかけた。


「あの……救急車呼びますか?」

「ふふっ、大丈夫ですよ……そこまでしなくても。しばらく休んでいれば治りますので」

「でも、熱が……」

「あっ、じゃあ、そこの棚に冷却シートがあるから取ってもらっていいかしら?」

「わかりました」


 棚からすぐに取り出し、彼女に手渡す。

 しかし、そのぼんやりした瞳を見てから、代わりに僕が貼ることにした。


「ごめんなさいね」

「いえ、これくらいなら。いつものお礼ですよ」

「……最近は会う機会がなかったですね」

「……まあ、そういう事もありますよ」


 シート越しに彼女の額をなぞると、彼女の熱がほんのり伝わり、胸を打つような感覚がした。

 それは、この場にこれ以上いるべきではないという合図な気がした。


「じゃあ、僕はもう行きますから。無理せずゆっくり休んでくださいね」

「あ、見送ります……」

「いえ、大丈夫ですよ」

「ふふっ、もうだいぶ楽になりましたから……あ」

「っ!」


 彼女がバランスを崩し、胸元へ倒れ込んできた。

 さっきよりも甘く濃い香りが勢いよく弾け、鼻腔をくすぐってくる感覚と同時に、僕の腕は自然と動いていた。


「あっ…………」

「…………」


 僅かに漏れる彼女の声。

 首筋にかかる吐息。

 僕は彼女の華奢な身体をを思いきり抱きしめていた。


「あの……鳴海、さん?」

「……すいません」

「…………」

「す、すいません……ただ、僕は……」


 言い訳を搾りだそうとしていると、背中に彼女の手の感触を感じた。

 そして、その感触は優しく背中を這い回り、僕の感情を宥めた。


「もしかして……鳴海さんも寂しいんですか?」

「かもしれません。黒野さんは寂しいんですか?」

「……たまに、ですよ。息子がいて賑やかな日々なんですけどね。たまに……」


 彼女はその先を口にすることはなかった。

 代わりに、上目遣いでしっとり濡れた瞳を向けてきた。

 あまり厚みのない唇に目をやると、何だか震えているようにも見えた。

 そこからは、もう体が勝手に動いていた。

 どちらもさらに距離を詰めていき、それがゼロになる。

 彼女の唇は、やけに柔らかく感じ、このまま押しつけ合っていれば、一つになってしまいそうな甘い幻想を抱かせた。

 やがて唇が離れ、互いにもう一度見つめ合う。

 彼女の目には優しい温もりが溢れ、それは今にも頬を伝って流れてしまいそうに見えた。

 そうならないように、そぉっと親指で拭ってしまうと、儚げな笑顔も何だか明るい笑顔に見えてきた。

 彼女の笑顔を見ていると、何だか心が軽くなっていった。


「もう一回、いいですか?」

「…………」


 浮かれたような気分で言うと、彼女はこくりと頷いた。

 その控えめな返事と同時に、勢いよく唇を重ねる。

 何だか自分の知らない自分がさらけ出されている気がした。


「んっ……っ……」

「っ!」


 彼女が舌を絡めようとしているのがわかり、僕も不器用にそれに応じた。

 ざらついた生温かな感触が舌を這い、情欲をかきたてていくのが、たまらなく気持ちよかった。

 うっかり天まで昇ってしまいそうな夢見心地な気分になっていると、彼女の唇が離れた。

 二つの唇は糸を引き、それが途切れたと同時に、何かが止まった。

 時間なのか、衝動なのか、何なのかはわからないけど、確かに止まった。

 そして、今度はじわりじわりとゆっくり動き始めた。


「今日は……もう帰ります」

「ええ……ありがとうございました」


 自分はお礼を言われるようなことをしたのだろうか?

 今さっきの出来事を上手く思い出せないまま、甘い気持ちだけ抱えていると、彼女から声をかけられた気がした。

 僕は黙って頷き、部屋を出た。


 *******


 あの日以来、僕と彼女は奇妙な関係を結んでいた。

 会えば必ず体を重ねるような熱い関係ではなかった。

 ただ、会えば必ず手を握り、唇を重ねた。雨が降れば、ずぶ濡れで歩いた。

 僕らの間にある感情を何と呼ぶのかはわからない。

 非日常に酔っていたのか、スリルを味わっていたかったのか、わからないままに彼女にのめり込んでいった。

 しかし、ふとした瞬間に彼女の寂しそうな横顔を見ると、それ以上踏み込む勇気はなかった。

 多分、ここから先に進んでも、所詮自分はただの通りすがりの人間だと思い知らされてしまうからだろう。


 *******


 その日は突然、物音一つもたてずにやってきた。


「えっ……アメリカに?」

「そうなんです……主人が今後の生活の拠点をあちらに置くらしくて、私も今週中には行かなくちゃ……」

「…………」


 僕は何も言えなかった。

 引き留めることなどできるはずもなかった。

 仮にそれをしたとしても、彼女の心は1ミリも動きはしないだろう。

 本来ただすれ違うだけの人がたまたまぶつかり、今から正しくすれ違うだけなのだから。

 ならば今だけでも……。

 僕は白い手の上に自分の手を重ねた。

 彼女は肯定も否定もせず、しばらくそのままでいた。

 目を合わせると、どちらからともなく唇が重なる。

 多分彼女は忘れてしまうだろう。

 重ねた温もりどころか、僕の名前なんかも。それだけは確かだ。


「ねえ、鳴海さん。私達……」

「何も言わないでください。わかってますから」

「…………」


 彼女は黙って俯いた。

 しかし、このまま終わるのだけは嫌だった。せめて彼女の心の深い場所に大きな足跡を残したい。そんな密かな黒い願いだけが、心の中を占めていた。

 僕は彼女を強引に抱き寄せた。

 そして、有無を言わさずに口づける。

 その後はもう何がどうなったのか、上手く把握できなかった。

 二人の汗と鳴り止まない雨音が、夜を熱く湿らせていた。

 二つの吐息は混ざり合い、孤独な心をほんのり温めていた。

 そして、奥の部屋から聞こえる小さな寝息が、この瞬間が永遠ではないことを教えてくれていた。


 *******


 別れの日。

 別れの日なんて小洒落た言い方してみても、別に付き合っているわけではないので、特にやる事はない。

 自分の部屋から出ずに、ただぼんやりと過ごしていれば、全てが終わる。

 彼女の微笑みを思い浮かべながら、ベッドに身を委ね、逃げるように目を閉じていると、呼び鈴が鳴った。

 もしかしたら……なんて予感と共にドアを開けると、彼女は本当にそこに立っていた。


「こんにちは」

「……こんにちは」


 静かな挨拶が行き交うと、何ともいえない気持ちになる。

 こんな挨拶もきっとこれでおしまいだから。

 すると、彼女のひんやりした手が頬に触れた。


「……そんな顔しないでください」

「そんなひどいですか?」

「割と……可愛く思えるくらいには」

「じゃあしばらくこのままで」


 彼女の手に自分の手をそっと重ねる。

 たったそれだけの事で、彼女の気持ちが朧気にわかった気がした。


「……ごめんなさい」


 彼女は聞き取れるかギリギリの声で、それだけ呟いた。

 ポツリと落とされた謝罪の言葉は、場の空気をより一層切なくさせたので、僕はその分彼女を強く抱きしめた。

 もっと強く抱きしめたなら何かが変わるんじゃないか……なんて甘い幻想には浸っていられないけど。

 それでもこうしていたかった。

 彼女もそれに応じるように、僕の背中に腕を回した。


「……元気でいてね」

「ええ。そっちも」

「それと、私の事はできるだけ早く忘れてください」

「それに関しては努力しますが、難しいと思います」

「でも、まだ素敵な女性はいっぱいいますよ」

「いや、今も正直離したくないです。だから多分しばらく時間はかかるかと」

「そうですか……」


 そのままどちらからともなく唇を重ねる。不思議と服を脱がせたいとは思わなかった。

 でも……この時間がずっと続いて欲しかった。

 彼女は僕の背中をぽんぽんと優しく叩き、僕のほうは、それを合図に彼女を解放した。

 そして、僕は彼女をエレベーターまで見送ることにした。

 普段はすぐに来るエレベーターだが、今日は何故かのろのろと遅く感じた。

 だが、それでも当たり前のように到着した。

 彼女は淀みない動きで乗り、ゆっくり振り返った。


「それじゃあ……さようなら」

「ええ……さようなら」


 別れの挨拶を言い終えるとほぼ同時に扉が閉まる。

 そして、パネルの数字が1に変わった。

 僕は立ち尽くしたまま、その数字をしばらく見つめた。

 すべてが終わったことに気づくのに、しばらく時間を必要とした。


 *******


 ある晴れた日の午後。

 まだあまり見慣れていない街を一人でゆっくり歩いている。

 彼女が海外へ行ってから、僕も程なくしてマンションを引っ越した。一旦環境を変える必要があった。

 もうあのマンションの前を通ることはない。

 ただ、今でもたまに考えてしまう。

 あそこに住む誰かが、偶然の重なりに導かれ、泡沫のような恋をしているんじゃないかと。

 愛している相手がいながらも、違う温もりを求めているのではないかと……。

 そんなことを考えながらぼんやり歩いていたら、僕は前から来た見知らぬ女性とぶつかってしまった。 

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