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幸田露伴「つゆくさ」現代語勝手訳(2)

 其 二


 主人が持って来た三百円の紙幣(さつ)の数を木工助は丁寧にあらためて、懐にあった預かり(しょう)と引き換えに受け取り、そのままそれを雪丸の前に差し出して頭を下げ、

「これは叔母様からあなたへ是非差し上げるようにとのことで、私めが持って参りました。お受け取りの證にお一筆(ひとふで)お願いいたします。私めの役目はこれだけでございますので、お受け取り書さえ頂戴すればどこへなりともご勝手においでになっても(よろ)しゅうございます」と、素っ気なく言うので、

「それで、叔母様からお手紙か、お言づてでも無かったか」と問えば、

「一向に何もございません」と言う。

「この金はどうして下さったのか」と、又問えば、

「何か分かりませんが、ただあなたにお渡しせよとのことでございました」と言う。

「ええ、分からぬ。どんな理由で下さったのかと尋ねているのだ」と、少し焦れて言えば、

「ただお渡しすれば私めの役目は済むことと思うておりました。何だかまったく分かりませんが、お渡しすればようございます。早くお受け取りを下さいませ」と。

「他にきっとお言葉があったであろうに」

「イエ、ただお渡しするようにと仰っただけで」

「それでも、それでは分からぬではないか」

「分からないでも、ただお渡しせよと仰るだけで」

「ただ、渡せというだけのことではないはず」

「無くても何でもただお渡しせよと言いつかって参りました」と何度言っても同じことになるので、雪丸はどうしようもなく、

「何かまるで分からないこの金、俺は受け取らぬから木工助、お前が持って帰れ」と、言い捨てて席を立とうとすれば、

「ドッコイ、若様、そうはいかねえ。何が何でもあなたに上げてから帰って来いと、この(おやじ)は堅く命令(いいつけ)られております」

「それならどういう訳があってか」

「どんな訳かは知りませんが、ただ差し上げればそれでよいので」

「ただでは分からぬ」

「分からなくても何でもかでも」

「ええ、馬鹿(ばか)老夫(おやじ)め、分からぬ奴」

「馬鹿でもようございます。何でもかでもお渡しすれば私めの役目は済むのでございます」と、無理に懐へ(ねじ)()もうとする勢いなので、雪丸はやむを得ず、

「とにかく叔母様が下さったものに違いがないのなら素直に受け取りましょう」と、受け取り證に(したた)老夫(おやじ)に渡せば、木工助、額の汗を拭って、

「やれやれ、とんだ骨を折りましたが、お受け取り下さいましたので、まずは私めの役は終わりました。実は先日お発ちの時、『今一言、言うことがある、木工助、後を追い掛けて必ず雪丸を連れて来よ』とのお言いつけでしたので、一生懸命に後を追って、つい木更津まで走りましたが、一ト足違いで船は(いかり)を抜いてしまったところ、仕方なくすごすごと戻りましたところ、『よい、それならば木工助、お前はこの金を持って横浜へ行き、千葉屋という確かな宿だとかねてから噂に聞いている所があるので、そこに泊まって金子(かね)を預け、毎日毎日しっかりと停車場(ステーション)で見張っておれ、一旦言い出した上は、なかなか思い返すことの無い遠藤一家の者の気性、ことさら血気盛んな雪丸のことだから必ず十日と経たないうちに外国行きの船のある日を目指して横浜に来るであろう。よく気をつけて見逃すな。()うたら何が何でもこの金子(かね)を渡して来い。渡しさえすればそれでよい。手紙も(こと)づても別に無い。途中で掏摸(すり)なんかにやられるな、よく気をつけよ』と、抜かりの無いお指図通りにいたしまして、漸くただ今肩の荷を下ろすことになりましたが、若様、あなたは遠いところへいらっしゃるとか。薄々はお勘から承ってはおりましたが、もうこの老夫(じじ)などは二度とお眼に掛かることもできますまい。どうにかして立派になってお帰りなさる時まで、生きておりとうございますが、何時お帰りになりましょうか。なに? 何時とも決めていないと仰いますならこれがお別れ、宿の主人に聞いたところ、今宵は上海、香港などという遠いところへの船が出るとのこと。それ故、一層気を張ってお待ち申しておりましたところに、丁度お目にかかったところを考えますと、やはり今夜の船でお発ちになるのでございましょうか? 遠い他国へお出でになるのにお支度と言っても、それだけの小さな柳行李(やなぎごうり)一つで、さても大胆に万事を甘く見ておられるのではと、老夫(おやじ)なんぞの古代漢(むかしもの)は本当に驚き果てるばかり。まあまあご無事でおられるよう、このお守りはお笑いになるかも知れませんが、成田不動様の悪事災難除(あくじさいなんよけ)、持っておりましたのが幸い、この老夫の心ばかりのご餞別に差し上げます。なおもこれから何時までも毎日ご無事を祈りますが、せめて今宵は波止場までお荷物なりをお持ちしましょう」と、これまでよく親しんできた老人(じい)の言葉に偽りの無いことは、萎びた頬に伝う涙でも分かる。何とはなしに雪丸も其の真心を嬉しく思い、不動の守り札などマッチの代わりにもならないとは思いながらも受け納めて、その夜出船の『シティオブ北京(ペキン)』という船に乗る手はずをすべて済ませて、横浜の野毛の山を目指した。(ゆう)(がらす)が鳴き渡る頃、木工助を連れてイギリス波止場にさしかかったが、今しも(はし)()に乗ろうとする時だった。海はやや黒ずみ夕暮れも近く、水の(おも)から(もや)が寄せて来る浜辺の夕闇の薄暗い中、そんな中でもくっきりと分かるくらいに色の白い顔を浅黄(あさぎ)色の頭巾(ずきん)に包んだ、まだ年若い眉匂やかな女が後から駆け寄ってきて、雪丸の袖を掴むや否や、ワッとばかりに泣き出した。


つづく


次回で「つゆくさ」は最後となります。

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