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Chapter3

 帰りは特急もなく電車の接続も悪く、慣れない乗り換えでロスも多かったから、

寿史の家から自宅まで二時間近くかかった。

 ようやく自宅近くの地下鉄の構内から地上に出ると、むっとする熱と湿気がまとわりついてきた。

今夜は、エアコンをつけっぱなしで寝るようだろう。

 店の看板はまだ煌々とついており、中から人声がかすかに漏れ聞こえてくる。

有紀は店のわきの鉄製の小さな階段を上って自宅のドアを開けた。

 熱気のこもるリビングのエアコンのスイッチを入れると、ソファに倒れこんで有紀は目を閉じた。

かすかに階下からカラオケの伴奏と調子はずれの歌声が上がってくる。

ベランダの向こうから、すぐ隣のすし屋の灯りが漏れてくる。

美佐子と住み始めて八年。

この音やにおい、光、全てが有紀を包んではぐくんできた。今の有紀の一番落ち着く場所。

不意に喉が渇いて、有紀はのろのろと起き上がった。

冷蔵庫から冷えた麦茶を出す。

美佐子が仕事で酒を飲んだ後に欲しがるので、一年中冷たい麦茶は欠かさない。

コップ一杯の麦茶を一気に飲み干して、ふとベランダを見て、有紀はぎょっとした。

何かが、こちらを見ていた。小さい生き物。頭だけ、こちらに向けて。

目を凝らしてその正体が花だと知り、ほっとしつつも何だか不自然な気がした。

狭いベランダにはいくつかの鉢が置いてあるが、その一つが大きな睡蓮鉢だった。

水を張ったその水面に、一輪真っ赤な睡蓮が花開いていた。

茎や葉が見えなかった分、花だけが何かの丸い頭に見えたのだった。

それにしても、睡蓮は昼間の花ではなかったか。

確かこれは、美佐子が客の男の一人から鉢とセットでもらったものだ。

鉢が重いから、植え付けにはコツがいるから、という口実でこの家に上がり込もうとしているのは見え見えだったが、

そんな客をうまくあしらうのは美佐子の得意技だった。

睡蓮を植え付け、鉢に水を張り、ついでにベランダの掃除と排水溝のつまりまで直してもらって、

それでも機嫌よく客の男は帰って行った。

美佐子の役に立てたのが心から嬉しいようだった。

(真っ赤なスイレンっていうのも、何だかね。夜じゃ色もわからないのに)

 そう思いながら、それでも夜目にもあでやかな深紅の睡蓮は、

客の美佐子へのイメージや思い入れが精いっぱい詰まっているようだった。

(・・・疲れちゃったなあ)

 仕事帰りに婚約者の家に初めて立ち寄る、それ自体が少し無謀だった気がする。

なぜ寿史が昼間でなく夜を選んだのか、その意図が読めなかった。

 再びソファでくつろぎながら思いを巡らせているうちに、有紀の脳裏にある考えが浮かんだ。

(ひょっとして・・・)

 もしかしたら、そのまま泊めてくれるつもりだったのかも。

 でも、有紀が帰ると言ったら、両親は引き止めなかった。

(不合格、だったのかな)

 有紀があの家に嫁ぐ、というのが、寿史と両親の考えだったのかもしれない。

有紀は単純に寿史と家庭を築くのだ、とだけ思っていたけれども。

 だから、寿史は帰り際あんなに無口だったのだろうか。

 だとしたら、あの「ごめん」は・・・。

(そういう、意味かなあ)

 有紀はくすっと笑った。

せっかく気を利かせて、スナックをカフェなんてカムフラージュしたのにね。

ご両親には透けて見えたんだわ、私のことは全部。人生経験豊富な方々だもの。

 いや、最初から、寿史が自分の両親に美佐子の店をカフェと言った時から、結果はわかっていたのかもしれない。

 祖母と暮らした小さな町では、いつでも日向の縁側で年寄りが集まって話していた。

『美佐子ちゃんの店よ、いっぺん飲みに行ってみてえなあ』

『銀座の一等地のバーだってえ』

『違うよ、浅草のスナックだって』

『どっちでも変わんねえべ。美佐子ちゃんにビールついでもらえりゃ、それだけで日本全国どこでも天国よ』

 そう言ってきらきら笑うおじさんたちは、美佐子のことも有紀のことも心の中でいつも抱きしめているようだった。

 この町に来てから出会った小さな商店の人たちは、

身一つでこの町で店を開いた美佐子を受け入れ、励まし、引き立ててくれたそうだ。

七十過ぎて矍鑠とした老人だった有紀の三味線のお師匠さんは、

去年脳こうそくで倒れてもう稽古はつけてもらえないけれど、

たまに店に来て薄めた酒を恐る恐る出す美佐子にあまりろれつの回らない舌で

「有紀はどうした。もうやらねえのか。うちの姉ちゃんが稽古付けてやっから、いつでも来なって言っとけ」

と冗談半分に息巻いているらしい。

その姉ちゃんというのは三十歳を過ぎた師匠の娘さんで、

最近外国人観光客相手に復活して仕事も増えたお座敷をいくつもこなしながら、

一般の希望者や芸者の卵たちを何人も教えているので、毎日飛ぶような忙しさだという。


「有紀ぃ、どうだった?」

 耳元で酒臭い息で美佐子がささやいた。いつのまにかすっかり寝入ってしまっていたらしい。

「んー・・・」

「上手くいったの、玉の輿」

 そうだった、美佐子には話してあったんだっけ。

「ダメみたい。あんなお坊ちゃんだったなんて、ちっとも知らなかった」

「ひゃー、そんなにいいとこのボンボンだったん?」

 有紀の横になったソファのひじ掛けに顔をくっつけて、まだ化粧を落としていない美佐子の真っ赤な口紅がベランダの睡蓮とダブった。

「ねえ、あの睡蓮、なんで夜咲くの?睡蓮って、昼間咲くんじゃないの?ほら、モネのスイレンとかさ」

「マネーだかモネーだかは知らないけどさ、あれは熱帯の夜咲きスイレンなんだってさ。

昨日も咲いてたの、気が付かなかった?」

「ううん、全然。さっき初めて気が付いて、生首かと思ってぞっとした」

 有紀が眠そうにそう言うと、美佐子は酒ですっかり嗄れたのどでアハハと大声で笑った。

「すごい発想するねえ、あんたも」

「それだけ疲れたってこと」

「じゃあ、さっさとシャワー浴びて早く寝なさいよ、明日も仕事でしょうが」

 そう言うあたりはしっかり者の母さんだが、実際にはきっと明日の朝は顔も出さずに昼過ぎまでぐうぐう寝ているに違いない。

 だるい体を起こし、美佐子の言う通りシャワーを浴びていると、有紀は次第に体も頭もしゃっきりとしてきた。

 これであっけなく終わり、ではないかもしれない。

 寿史がこれからどう出るか、見てみよう。

 有紀も、祖母と母と、二つの世界を行き来してどちらも受け入れてきた。

その根底に流れていたものが同じだったから。

 もしかしたら、寿史の両親と、有紀の祖母や母の根底に流れているものも同じなのかもしれない。

そして、それを探るのがウエディングケーキを切るより先に二人でするべき初仕事なのかもしれない。

もし、寿史もそう思ってくれているのなら・・・。


 ピンクのバラとカスミソウも夜に咲く真っ赤なスイレンも、同じ水と光を糧としているのだから。



~終~

実はまだ、夜咲く睡蓮の花を見たことがありません。

一度見てみたいです。

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