Chapter2
「次、降りるから」
寿史に耳元でささやかれて有紀はふと我に返った。
慣れないラッシュの電車に酔ったのか、少し頭がふらふらしていた。
「大丈夫?駅から十分ぐらい歩くけど」
「あ、うん。たぶん大丈夫」
「おふくろに七時って言っちゃったから、あまり遅れられないんだ。
ほんとだったらどこかで一息つきたいだろうけど、もうちょっと頑張って」
寿史にぽんと肩をたたかれて、有紀は黙ってうなづいた。
駅に降り立つと、そこは見事にどこまでも整地された空間だった。
緩やかな円を描く駅前のバスロータリーの周りに、涼し気に配置された街路樹と木のベンチ、
コンビニや銀行の支店、ファストフードの店がいくつかと、不動産屋などの小店舗が配置され、
そこから住宅街に向かって放射状に舗道が伸びていた。
ガードレールの内側のしゃれたレンガ風の敷石の歩道には規則的に街路樹が植えられ、
片側一車線の車道にそれほどの車は通っていない。
いつも見る下町の風景とはまるで違っていた。
二車線、三車線の広い国道には絶えず大型トラックなどひっきりなしに車の列が途切れることはないが、
それらはすべて広大な林立するビルに遮られ、
裏道を一本入るとそこには昔ながらの落ち着いた古い家並が寄り添うように軒を並べ、
アスファルトの道路ぎりぎりまで植木鉢や発泡スチロールのケースに植えられた草木が
所狭しと始終増殖の機会を狙っている。
それはそこに暮らす人々のささやかな生きるエネルギーのように見えた。
寿史の住むここは、人々が住む前に町自体がきちんと管理され、ルール違反は一切なく、
暮らしは全て塀や柵の内側のそれぞれの家々の中に収まって、
そこから外に漏れることはないようだった。
寿史と並んで歩道を歩き、十分もしないでたどり着いたその家は、
黒っぽい金属の洋風の門扉の内側にきちんと刈そろえられた芝生が広がり、
その先にベージュ色の落ち着いた外壁の二階建ての広々とした一戸建てだった。
両親と数年前に嫁いだ寿史の姉との四人暮らしだったとしても、十分すぎる広さに有紀には見えた。
屋根は青い瓦、玄関ポーチには丸いアーチの柱部分にレトロな街灯を模した感じの灯がともっていた。
寿史が有紀をいざなって玄関の扉を開け、ただいまあと声をかけると、
待ちかねていたようにいそいそと寿史の母親がダイニングのドアを開けて玄関に小走りに出てきた。
細面で華奢な、いかにも上品な婦人という感じだ。
「お母さん、上原有紀さんだよ」
「初めまして、上原です」
寿史が紹介し、有紀が頭を下げる。
「お帰り、まあまあお疲れさまね、お二人とも。さあどうぞ」
有紀ににこやかに会釈して、寿史の母親は家の奥へと二人をいざなった。
十畳ほどのリビングダイニングの食卓には、寿史の父親がすでに席についていた。
有紀たちを見ると立ち上がって軽く会釈し、
「ま、座って座って」と席を示した。
割とがっしりした体躯の、銀行の関連会社の役員をしていたらしい物静かな品格を備えている。
有紀は座りざまざっとリビングの様子を見て取った。
落ち着いた黄色灯の室内の中央には飴色の天然木のどっしりしたダイニングテーブルがあり、
その周囲に配置された食器棚やカップボードも同じく天然木らしく、塵一つなくよく手入れされている。
壁に飾られた数枚の絵皿は寿史が幼いころ父親が単身赴任していたというドイツのものなのだろう、
柄は異なっていたが深い藍色の色調は統一されていた。
テーブルの上には銀のティーポットを花瓶に見立てピンクのバラとカスミソウが活けられていた。
すでにそれぞれの席に整えられた食器は、まるでコース料理のようにきちんとナイフとフォークが複数並べられていた。
そして出てきた料理はまさにコース料理で、寿史の母親の手作りだった。
主婦仲間と通っている近所のフランス料理教室で覚えてきたものだからあまり自信がないのだけれど、と言って出された料理は前菜からデザートまで完ぺきだった。
食後のコーヒーを飲みながら一通りのお互いの紹介を、と言っても寿史の家に有紀が招かれたわけだから、
もっぱら有紀の話題ではあったが、和やかな会話がよどみなく続く。
寿史と出会ったのは、入社して半年ほどたった秋の初めのこと、
ようやく新入社員として認められ上司に連れられて関係会社にアシスタントとしての顔見せに回った時のことだ。
寿史はIT会社の販売部門の営業に配属された有紀と同じ新入社員だったが、大学卒なので歳は二つ上だった。
まだお互いに社会人としてぎこちないながら、マニュアル通りに名刺交換と挨拶をこなし、
お互いの上司が新入社員同士世代の違うものより話が通じる部分もあるだろうと、
それぞれを連絡係として仕事上の付き合いが深まるようになると、次第に気心も知れてきた。
寿史から交際を求められたのが知り合って一年ほど後で、プロポーズされたのがさらに一年後。
順当なといえばあまりにも順当すぎるほどの流れで二人は今日の日を迎えていた。
「この人はねえ、こう見えて昔はチェロを弾いていたのよ。
私はピアノを少し弾くのが精いっぱいだけど、
小さいときにはどうにかお稽古の伴奏を手伝ったりしたものよ」
有紀は、寿史がチェロを弾くなんて初耳だった。どう反応していいか戸惑っていると、寿史の母親が
「有紀さんは、何か楽器をなさって?」
と尋ねてきた。有紀はうなづいた。
「高校生の頃、三年間お三味線を、ご近所のお師匠さんに習いました。
母の店の常連さんでしたけれど、お稽古は厳しくてびっくりしました。
お店の時と雰囲気が全然違うんです。
お母様も寿史さんには厳しくお稽古されましたか?」
話を広げるつもりでそう言った。
だが、寿史の両親の反応はそちらより三味線の三文字にあったようだ。
「ほう、三味線ですか」
「まあ・・・」
怪訝そうな、どこか異質なものに出会ったようなその反応に、有紀は戸惑った。
「ほら、有紀さんは下町育ちだから。三味線弾けるなんて、僕も初耳だよ。
日本の立派な伝統芸能だよ。すごいなあ」
あわててとりなすような寿史の言葉に、両親は少しほっとしたような表情を浮かべた。
「そうね。伝統芸能・・・」
「別にお座敷に出ていたわけではないよなあ」
「私はそこまで上達しませんでしたから。
でも、高校の同級生で芸者の修業をして、最近お座敷がかかるようになった子もいます」
そう言って有紀は目の前の初老の夫婦の戸惑いの色がさらに濃くなり、
あたりの空気がなんとなく固まってきたような違和感を感じてちらりと寿史を見た。
寿史は硬い笑みを浮かべてそれ以上有紀に何も言わせまいとするかのようにテーブルの下で有紀の手を握っていた。
もういいから、余計なことは言うなよ。寿史の目がそう言っているように見えた。
有紀は口をつぐんだ。これ以上自分の話をする気になれなくなっていた。
幼い寿史が母親のピアノの伴奏でチェロを弾く姿を、有紀はどうしても思い描けない。
そういった光景を有紀はテレビでさえ目にしたことがなかったからだ。
「そう言えば、お父さんの赴任先のドイツにも色々な伝統芸能がありましたよね。何でしたっけ、ほら・・・」
寿史の母親がすがるように父親を見上げ、
父親はパブなどで披露されるダンスを何度か見たことがある、などと話をつなぎ始めた。
それ以後はずっとドイツの思い出話に花が咲き、有紀についてそれ以上聞かれることはなかった。
コーヒーを飲み終わると、寿史の父親が軽くアルコールを勧めてきたが、お酒には弱いので、と断り、
有紀はそろそろいとまを告げることにした。
駅まで送る寿史と有紀をまた来てくださいね、と笑顔で見送った両親は、
先ほどの戸惑いはみじんも出さずに、もてなした客人を気持ちよく送り出してくれた。
外に出ると、どこかむっとする生暖かい風が吹いて、熱帯夜を思わせた。
「今夜はきっと蒸すわね」
「ここらはそれほどでもないよ、高台だし緑が多いから。これからだんだん涼しくなる。夜中には風も出てくるさ」
「ああ、そうなんだ・・・」
有紀はしみじみと、寿史と自分は異なっていると感じた。
「びっくりしたわ、あなたがチェロだなんて」
「こっちも驚いたよ、有紀が三味線だなんて」
二人は見つめ合い、思わず噴き出した。
「・・・びっくりすることだらけね、私たち」
歩道の向こうに、駅の灯りが次第に近づいてくる。
「一年以上付き合ってきたのにね」
寿史は答えない。
「会社じゃ、どれも同じ駒の一つみたいなものだし、街中じゃみんな同じようなカップルばかりだし、
意外とお互いを本当に知るのって難しそうね」
寿史の沈黙は続く。
駅舎が見えてきた。バスロータリーをぐるっと回り、改札口の少し手前で二人は立ち止った。
「あなたがなんでご両親にうちの店をカフェって言ったのか、わかったような気がするわ」
「・・・ごめん」
街灯を背にして立つ寿史がどんな表情をしているのか、逆光なので有紀にはよく見えない。
「帰り方はわかるから。今夜はありがとう。ごちそうさまでした。ご両親によろしく」
軽く会釈する。寿史はまだ、黙っている。
踵を返して、有紀は改札に向かった。
自動改札にICカードをかざしてホームに向かうとすぐに上り電車が来た。
それに飛び乗ると、有紀はあっけなくどんどん寿史から遠ざかっていった。




