Chapter1
パソコンの右下の小さな時刻を片目でちらっとチェックして、有紀は心の中でうなづいた。
大丈夫、定時少し過ぎたころにこの仕事は終わるだろう。
定時ちょうどで上がるのはばつが悪いし、少しでも早いと次の仕事が回ってきて軽く一時間は残業になってしまう。
今日はあまり残業するわけにはいかなかった。
寿史との待ち合わせは駅前の時計台の下で五時四十五分。
そこから郊外の寿史の自宅まで私鉄を乗り換えて一時間と少しかかる。
今夜は寿史の自宅で夕食をふるまわれることになっていた。
つまりは、顔見せだった。寿史の婚約者としての。
短大を卒業して三年半、仕事にもようやく慣れて、自分の時間や気持ちのゆとりができてきたところだった。
このタイミングでの結婚は、少し早すぎるかもしれない。
だが、就職した会社の取引先で知り合って一年以上付き合った寿史にプロポーズされて、断る理由が有紀には見つからなかった。
とりあえず結婚して、それからまた人生を仕切りなおすのもいいかもしれない。
もともと何でも楽観的に受け止める質の有紀はそう思った。
書類を仕上げて先に片づけを済ませてから上司に提出し、
思惑通り残業が付かない程度にタイムカードを押してオフィスの面々にいとまを告げ、
ちらほら帰る女子社員に交じって社屋を出た。
梅雨の曇天の下、時刻の割には薄闇が辺りを覆っている。
駅前の時計台は早くもグリーンのライトアップに彩られていた。
そのすぐ脇に寄りかかるように立つ寿史が、こちらに向かって笑顔で軽く手を挙げた。
「いいな、今日のワンピース、いいところのお嬢さんみたいで」
緩い天然パーマのウエーブにさっぱりした地味な顔立ちで、遠目にも少しお坊ちゃん風の寿史は、
少しはにかみながら有紀の服をほめた。
「そう?特に意識はしなかったけど、会社で浮かない程度でとりあえず気を使ったつもり」
有紀は軽く笑って今朝選んだピンクの麻混のワンピースに目を落とした。
襟元から胸にかけてシャネル風の白いラインが入り、膝丈のスカートはウエストの緩やかなダーツを経て少し古風なプリンセスラインを描いていた。
「・・・それで、有紀のお母さんのお店だけど、一応下町のカフェってことにしてあるから」
改札を抜けて寿史の導くホームに向かいながら、有紀は寿史のその言葉に思わず問いかけた。
「どうして?」
詰問するような有紀の声音に、寿史は一瞬ひるむようなそぶりを見せた。
と、そう思ったのは有紀の気のせいだったろうか。
「どうして?そこは、そう、って流すとこだろ。それにひと昔前なら間違いじゃないわけだし」
寿史流のうんちくを含んだ言い方に、有紀はかすかないら立ちを覚えた。私立の某有名大学を出た寿史は、経済学部卒でも歴史や文化に素養があることを時々さりげなく披露して有紀をリードしようとする。
「まあ、それはいいから、とりあえず帰りつくまでが大変だ」
うまく寿史にかわされた気がしたが、確かにラッシュ時の下り電車はかなりの混みようだった。
いつも行きは下り、帰りは上り電車を利用する有紀にはたじろぐばかりの混雑である。
会社や学校で疲れ切った人々が、ほっと安らぐ自分の住処へ、もしくは別の自由な空間へ、
一刻も早く自分を解き放つため最後の力を振り絞るエネルギーがホームから流れ込む濁流のようだ。
「あなた、いつもこんな電車に乗っているの?」
車内で離れ離れになりそうなのを寿史が有紀を抱きかかえるようにして何とか食い止めていた。
「そうさ、大したもんだろ」
寿史は得意げに有紀を横目で見つめた。
「しばらく駅に着くたび大変だぞ」
寿史の言うとおり、オフィス街を抜けるまでのいくつかの駅では降りる人はほとんどいず、乗る人ばかりだった。
それも一つ一つのドアから一人や二人ではない、十人単位で乗ってくる。
こんなに乗れやしないだろうと有紀が思っても、まるで人間が綿くずにでもなったようにいくらでも電車は人々を吸い込んでいった。
別の沿線に乗り換える駅では、雪崩のように人が下りた。
寿史はさっと有紀の手首を握り、慣れた足取りで波に乗ってすいすいとホームを泳ぐように歩いた。
乗り換えた先の私鉄もベッドタウンへ向かう下り線はかなりの混みようだったが、
特急電車だったので一駅の区間が長く、乗り降りの人の流れはかなりおさまった。
電車の速度も次第に増し、薄暗い車窓から見える灯りが少しずつまばらになり、その分緑が増えてきたような気がした。
有紀も子供のころはここよりももっと郊外、いやむしろ田舎と呼べる都会から遠く離れた小さな町に住んでいた。
周囲には田畑と屋敷森、寺や神社に用水路。物心ついた時から中学三年の春まで、有紀は祖母と二人でそんな風景の中で暮らしていた。
周りには親戚や地元の人たちの気さくで温かい目があり、幼馴染みの友達がたくさんいた。
有紀にとっては、時折訪ねてくる母親の美佐子の方が正直お客さんのようで緊張したものだ。
有紀が生まれてすぐ両親は離婚し、美佐子はいったん実家に戻ったが、有紀と二人で生きていくため都会に戻っていった。
だが、有紀と二人で暮らすためというのは半分口実で、美佐子は根っからの都会好きで、しかも冒険心豊かな人だった。
何年かいくつかの店で修業を積み経営のノウハウをつかむと、美佐子は隅田川にほど近い商店街の一角に小さな店を構えた。
その店が軌道に乗ったところで、有紀は慣れ親しんだ町を離れ、美佐子に引き取られていった。
そしてそこでの暮らしが、今の有紀の半分を構成している。
のどかな田園地帯と混みごみした都会の下町、不思議なことに有紀にはそれほどの違和感はなかった。
川は淀んで深さも知れないコンクリートで囲われた運河だったし、
迷路のように入り組んだ狭い路地は真夏になるとほとんど風も抜けず蒸し風呂状態だったが、
気さくな人情は田舎の町と大差なかった。
有紀は初めの頃こそ昔の友人たちを懐かしんだが、すぐにここでも友達や知り合いをたくさん作った。
美佐子はそんな有紀をさすがわが娘、世渡りがうまい、とほめてくれた。
そして高校に入ると、時々内緒で店の手伝いをさせられた。
母が経営するその店は、小さいスナックだった。
チイママ、と呼ぶには早すぎるからチイネエというのが有紀の通り名だった。
お客さんはほとんど地元の人たちで、クラスメートの親たちもよく来た。
お酒を出す店だから有紀はとりあえず高校卒業したてということになっていたが、
そんな客層だったからとっくに年はばれていた。
でも、それを学校に申し立てるような野暮な人は一人もいなかった。
ただ、有紀は酒とたばこと、何よりカラオケの時に登場する紫や緑のミラーボールのライトが生理的に嫌で、あまり店には出入りしなかった。
そんな有紀をまあ仕方ないわね、こっちも強制するつもりはないから、と美佐子はすんなり受け入れてくれた。
時々ひどく酔っぱらったり無断外泊することはあったが、美佐子はおおむねいい母親だった。
ほとんど一人で店を切り盛りしているから料理もその他の家事一般もテキパキこなし、店の二階にある住まいはいつも整っていた。
ただ、家の中でも店を思い出させる紫のライトが煌々と光る背丈ほどもある瀟洒なスタンドがリビングにでんと鎮座ましましているのには閉口した。
美佐子はこの光が落ち着くのよ、と言ったが、有紀は逆に落ち着かず、どうしてもなじめなかった。
そんな有紀のために、美佐子はリビングをしぶしぶ有紀に開放し、自分の部屋に自分の趣味の家具などを封じ込めてくれた。
それでリビングはどこにでもあるような平凡で野暮ったいが有紀にとって落ち着く空間になり、有紀はゆっくり寛ぐことができるようになった。
家で化粧を落としてごはんを作っている美佐子はいたって普通のおばさんで、
店での美佐子があでやかなのが有紀にはプロ意識の現れのようでむしろ誇らしく思ったものだ。
有紀が高校をそれなりの成績で通し、短大にすんなり合格すると美佐子は子供のようにはしゃいで喜んだ。
そして卒業後、都内の信販会社に就職が決まると、私の娘が会社員だなんて、と驚いた風を装いながらさりげなく周囲に自慢していた。




