災害に強い郵便~郵便物は人から人へ、地震から郵便インフラを守れ~
昭和35年(西暦1960年)5月23日の4時11分14秒。
現地時間では22日の15時11分14秒、南米チリ中部の近海でマグニチュード9.5の超巨大地震が発生した。
太平洋を挟んで反対側、遥か17,000km彼方の遠い国で発生した地震に対して、日本では初め無関心であった。
だが、地震発生から24時間後。まだ夜明け前の薄暗闇の中、太平洋沿岸の各地に“ゴゴゴゴゴ―――”と地鳴りのような轟音が鳴り響いた。
津波である。
17,000kmもの距離を24時間かけて到達したその津波は高さが最大で6.1mに達し、日本の太平洋沿岸各地を襲ったのである。
そうして結果的に142名もの死者行方不明者を初めとした甚大な被害をもたらしたこの大災害は、郵便にも影響をもたらしたのである。
津波の余波も収まり、津波に流された土砂や瓦礫を掻き分け、流され崩落した橋や道を迂回してやっと郵便ポストに収集に来てみれば、ポストが残っていれば良い方で、沿岸部にある多くのポストに投函された郵便物は泥水に使ってグチャグチャ。
配達に行って見れば、郵便物を届ける先の家々は津波に流され倒壊。さらには一家全滅で届ける宛も無くなった手紙が多く発生した。
なんという事であろうか。
それまで郵便強盗から熊や猪、果ては中共ソビエトの脅威から郵便物や郵便インフラを守る為、必死に銃や戦車の訓練に励んできたのに、この様である。
守るはずだった郵便物はどうだ?―――ほとんどはポストごと流され、ポストが残っていても中の郵便物は宛先も送り主も読めない有様だ。
手紙を受け取るはずだった住民はどうだ?―――いない。家族の誰かが生き残っていればまだ良い。それどころか一家全滅の世帯すら散見される有様だ。
どうしてこうなってしまったのか?
どうして守れなかったのだ?
そうした彼ら、郵便防衛庁の職員や郵便局員らの思い思いが発露したその結果―――、
「郵便の敵は生物に限らず、自然の脅威もまた郵便の敵である」
「郵便ポストを高所に移転させれば郵便物の津波被害は無くなる?それでは負けである。郵便ポストは防衛拠点であり、その後退は許されないのである」
「その土地に住む住民の一人一人さえ、手紙を送り、手紙を受け取るという郵便インフラの一部である。よって、彼らを守るのも郵便防衛庁の責務である」
こういった災害に対する郵便防衛宣言の数々が発表され、郵便防衛庁はこれらの宣言と共に国や各自治体に対し、沿岸部の防潮堤や水門の整備を強く要請。
それまで高所への移転を奨励してきた国や都道府県と、今の村落を固持し防潮堤の建設を要望する地方自治体との対立にも大きな影響を及ぼした。
その結果として各地の防潮堤建設は推進され、その予算の一部には郵政省と郵便防衛庁からの提供が為されたのである。
また、郵便防衛庁の装備にも変化が現れようとしていた。
一つは水陸両用車両。
遥か南米で起きた地震でさえ、津波で少なくない数の橋梁が破壊され、郵便集配ルートが寸断されたのだ。
つまりは、日本で発生する大地震ではもっと多くの郵便集配ルートが破壊される事が予想されるのだ。
ならば道路に頼らない郵便集配能力を保有すべし。その一つの答えとして水陸両用車両に至ったのである。
一つはヘリコプター。
何も自然災害は津波だけでは無い。地震そのものによっても郵便集配ルートが破壊される事が簡単に予測できた。
そして日本は山岳地にさえ多くの村落が存在し、そこに通じる道が崩落でもすれば戦車でさえ通行が不可能になってしまう。
ならば、陸上輸送が不可能ならば航空輸送だ。ヘリコプターなら休耕田でもあれば滑走路など無くても離着陸が可能であるから最適であろう。
こうして、郵便防衛庁への水陸両用車両とヘリコプターの配備が決定されたのだが、数多の騒動が発生したのはこの直後の話である。