航空郵便防衛部≪下≫~調布は燃えているか~
正直に言って、日本空軍の行動は性急に過ぎるのだと、私はようやく思うようになってきた。
ここは燃料補給の為に立ち寄った宮城県にある日本空軍の松島基地。
ソビエト空軍のTu-95などの大型爆撃機でなら作戦可能範囲に収まる、逆に言えばそれ以外の作戦機では空中給油機でも用いなければ手が届かない安全域である。
それなのに、私のMiG-25や護衛のF-104へ給油作業の為に取り付く日本空軍の要員らの動きはとんでもなく慌しい。
ソ連防空軍で給油作業を急いでやる整備兵など一人も居なかった事を思えば、彼らの慌て具合はとてつもなく奇妙に見えるのだ。
思い起こせば今朝だってそうだった。
亡命翌日のあの早朝にいきなり「なあ東京行こうぜ!お前パイロットな!」などと言われ、一晩のうちに日本空軍のラウンデルに書き換えられてしまっていたMiG-25のコックピットに押し込められてこのザマである。
ここ松島基地へのフライトだって、離陸してようやくソ連防空軍と日本空軍の燃料規格が同じ筈がないという事に気付き、少しばかりパニックに陥ってしまった程である。
それに昨日の亡命フライトでだって、僚機と組んでいた編隊から機体トラブルによる墜落を装って急降下機動を行なったのだ。いくら今年工場から出荷されたばかりの新品に近い機体とはいえ、もしかしたら機体の何処かにガタがある可能性だってあるのだ。
そしてだ、最も大きな問題が無線通信だ。
MiG-25に搭載されている無線機はソ連機としか通信が出来ず、日本空軍のF-104がなんとか此方からの無線を傍受可能という有様。これでは初対面のパイロット同士で性能の異なる機体で編隊飛行など不可能である。
それで私に渡されたのが日本製の携帯トランシーバーである。これなら、半径30km以内の管制塔と半径3km以内のF-104からの無線の受信が可能であるという。
だがしかし、それでも日本空軍ではロシア語話者が少ないらしく、護衛のF-104が8機を操るパイロットの内、2名のみが何とか私と意思の疎通が可能というレベルである。
やはりあと一日でも待って、もう一人でもロシア語を解するパイロットや、通訳も載せられる複座機を編隊に加えるべきではなかったのだろうか。
いや、それはフライト前のブリーフィングで伝えたのだ。だがしかし日本空軍のパイロットや指揮官らはケッソク時間(恐らく離陸予定時刻の事であろう)に間に合わないからと私の提案を却下したのだ。
やはり、日本空軍は性急に過ぎる。
函館で見たようなあの、ソ連軍にさえ対抗可能かもしれない膨大な陸上戦力を一晩で揃えられるほど戦略機動力が高い軍隊が、なぜこうまで急ぐのだろうか。
そしてたった今、MiG-25の給油作業が終了した。
殆ど同じタイミングで給油を開始した護衛機のF-104はすでに給油作業を終えて離陸を開始している。
やはりMiG-25は大飯喰らいである。
さてさて、ソ連から亡命しようと国を飛び出した私が、まさか敵国であった日本の首都東京に戦闘機で飛んで行く事になるとは。
まったく世の中は可笑しなものだ。
さて、ベレンコ中尉の亡命によって大騒動の中心となった日本郵便防衛庁であるが、一つ重大な事を忘れていた。
アメリカ政府と在日アメリカ軍への連絡を、さらには日本政府への情報共有さえもロクに行なっていなかったのである。
まず第一報、『ソ連機が日本の領空を侵犯し、さらにソ連軍が北海道へ侵攻する恐れ有り』という情報までは即座に関係各所へ共有された。
この情報共有の為に郵便防衛庁は、例えば国鉄と前々からの事前折衝によって締結されていた“災害時及び紛争時に於ける郵便防衛車両の緊急鉄道輸送に関する協定”をそっくりそのまま今回の事件へ適用する事によって、日本本土に配備されていた六二式郵便戦車から120両を抽出して一晩の内に函館へ展開させるという早業さえ成し遂げたのである。
だが、この後に函館郵便局からの通報で事件のあらましが亡命騒動だと分かると、もう郵便防衛庁の当事者らの頭の中身はMiG-25の郵便輸送の事ばかりで庁外への連絡と情報共有などすっかり忘れ去られてしまっていたのだ。
そしてようやく、各所から郵便防衛庁へ続報の問い合わせが殺到した事によって彼らが思い出したのは亡命翌日の昼過ぎ。
すでにMiG-25とベレンコ中尉、正確に言えば航空郵便防衛部のMiG-25とベレンコ主任が、調布郵便局調布空港分室の滑走路へ降り立った後であった。
彼らは本気になりすぎていたのである。―――郵便輸送に。
アメリカにしてれば続報の催促を一晩中続けていたのにも関わらず、翌日の昼過ぎになってようやく『調布郵便局調布空港分室への郵便輸送が完了しました』である。―――何が!?
さらに詳報を問い合わせてみれば、亡命パイロットと亡命機の所属がすでに日本郵便防衛庁航空郵便防衛部になっているというではないか。
それもアメリカからすれば喉から手が出るほど欲していたソ連が誇る超高性能戦闘機のMiG-25がである。
なんとしてでも欲しい。いや、どうせソ連に返還しなければならないのだから触って分解して解析するだけでもやりたい。
というか、MiG-25の調査を日本郵便防衛庁だけで行なってしまえば最悪、何も分からぬままMiG-25がスクラップに成り果てる恐れすらある。あの郵便狂い共がさらに何をやらかすのか理解出来る訳が無いのだ。
こうして、アメリカ側の迅速な『亡命機の共同調査』の申し出によって郵便防衛庁の独走はようやく止まったのである。
そして日米共同によってベレンコ主任も立会いの下MiG-25の調査はつつがなく執り行われ、この機体は日米両国が思っていたほどのハイテク高性能戦闘機ではなかった事が判明。
しかしそれでも、大出力エンジンと空気抵抗の小さな機体が可能とする最高速度マッハ3超の超高速性能、既存のあらゆるジャミングを無効化する大出力レーダー、前線戦闘機という名に相応しい整備性など、決して西側戦闘機に劣る性能では無かったのも確かであった。
だが、調査もそろそろ終盤、あともう少し機体をさらに分解してみようという頃に更なる事件は起きたのだ。
1976年10月22日深夜。
日米の調査チームが引き上げた後、郵便防衛庁の警備課員や米軍兵らがMiG-25の収まる格納庫を前日までと同様に警備していた時だった。
突如として調布郵便局調布空港分室に爆発音が響き渡った。
なんとMiG-25を駐機していた格納庫から爆発音が轟き、瞬く間に激しく炎上し始めたのである。
この事件、MiG-25亡命機爆破事件であるが、警察や消防、そして郵便防衛庁による捜査の結果、調布郵便局調布空港分室に所属の整備課員による凶行だった事が判明。
しかもこの整備課員、なんと共産シンパであったのだ。
この事件の為にソ連空軍最新鋭であるMiG-25戦闘機は全焼、その機体に使われていたソ連の未知のテクノロジーは灰燼と化してしまったのである。
もちろん、焼けた残骸がどう見てもレシプロ機であろうとも、それはMiG-25のものに決して違いは無い。紛れも無くMiG-25の残骸なのだ。
調布郵便局調布空港分室に8機配備されてたFD-25が見当たらない、なんて事もありえません。FD-25は隣の格納庫にありますよ。ちょっと数が減ってるかもしれませんが。
―――体の良い隠匿と旧式機処分である。
このために公式ではMiG-25は跡形も無く焼失したために機体調査は中断。残骸はソ連と日本政府による交渉の結果、日本が1000万ドルで買い取る事となった。
また、亡命パイロットの元ソ連防空軍中尉、今は航空郵便防衛部主任のベレンコ氏であるが、そのまま郵便防衛庁への転職の為に日本への亡命を希望し、これを日本政府が受理する事となった。
ベレンコ主任は亡命当日こそアメリカへの亡命を希望していたようであったが、郵便防衛庁航空郵便防衛部でなら旨い酒と旨い飯を飲み食いしながらパイロットになれると体感した為に亡命希望先を日本へ変更したという。
こうしてようやく、2ヶ月にも及んだ亡命事件の騒動は一先ず幕を閉じたのであった。