日本郵便防衛庁~発足までの道程~
“郵便防衛庁”という組織が、日本にはあった。
海外からは直訳して“JPDA≪Japan Postal Defence Agency≫”と、またはその実態をもじってAgencyをArmyと言い換えたり、さらには“JPF≪Japan Postal Force≫”と、つまりは日本郵便軍とも呼ばれている。
その組織の始まりは昭和25年(西暦1950年)の朝鮮戦争勃発時、GHQの指令に基づくポツダム政令“郵便保護令”により、そしてしばらく後に、在日アメリカ軍が朝鮮半島へ出動した後の日本に於ける治安維持力の空白を補う事を目的として郵政省の下に設立された“郵便保護課”にある。
当初、アメリカは同年に発令した“警察予備隊令”によって日本の再軍備、それが無理なら警察組織の強化拡充をと考えていたのだが、その両方が日本国内外の反発から頓挫。これによりアメリカは、軍や警察の形を取らない治安維持の模索を強いられた。
そして辿り着いたのが、明治6年に郵便強盗への対策の為に制定された“短銃取扱規則”、それが明治20年と大正5年にそれぞれ改められた“郵便物保護銃使用規定”によって定められ、昨年の昭和24年に郵政省の設立により廃止された郵便物保護銃である。
調べて見れば、日本の郵便屋は警察よりも早くに拳銃で武装していたのかとアメリカは驚愕したと共に、日本全国にある郵便ポストを始めとする郵便インフラを防衛するという名目であれば、治安維持や国防の一助にもなるだろうとも考えたのである。
しかれば、“郵便保護令”だ。これで郵便配達員らの装備を拡充しよう。郵便物保護銃は去年廃止した?そんな些細な事を気にするな。郵便強盗が廃業した訳でもないのに廃止したのが可笑しいのだ。
その結果として、日本全国の郵便配達員らはこう云うに至った。
「郵便銃 昨年腰から 置いたはず 今年は肩に 重きを吊るす」
どうして去年まで回転式拳銃が精々だった郵便物保護銃が、なぜ旧軍の三八式歩兵銃やアメリカ軍のM1カービンに化けてしまったのだろうか。
それでもまあ、熊や猪など猛獣への威嚇射撃などでは大きくなった銃声が役に立って意外に好評であったが、流石に配達中に重量のある小銃や騎兵銃を携帯するのは不評であった。
そこで新たに設立されたのが先程に挙げた“郵便保護課”である。これによって郵便保護課に所属する武装した郵政省職員が郵便配達員に同行、さらに危険地域への集配については郵便保護課の職員のみが業務を代行する事によって郵便配達員の負担を軽減させる事としたのだ。
だがGHQの要求はこれに留まらなかった。
昭和26年1月、朝鮮半島での戦争では北朝鮮軍がまたも韓国首都のソウルを陥落させて情勢が逼迫するとGHQ最高司令官のマッカーサー元帥は―――
「武装がライフルとカービンだけ?そんな豆鉄砲でどうやって共産軍の戦車から郵便ポストを守ると言うのだ?アメリカは日本郵便保護課に戦車と対戦車バズーカを貸与する準備がある。そして日本郵便保護課には日本各地にある郵便ポストを防衛する義務があるのだ!」
―――と発言。
流石に郵便保護課からは、郵便物の保護にそんな装備は必要無いとして拒否したかったのだが、なんと身内の郵政省から、「ついでだから郵便集配車両の拡充にアメリカから供与される車両を充てよう」という意見が上がってしまった。
これらの内外からの圧力により、郵便保護課の重装備、重武装化は進んで行き、昭和28年7月の朝鮮戦争停戦の時にはM24軽戦車が84両を始めとして、多数の装甲車両が“特殊郵便輸送車両”の名目で郵便保護課に配備され、郵政省は目論み通り多数のトラックを取得するに至ったのであった。
そして翌年の昭和29年7月。
郵便保護課はそれまで郵政省内にある集配課や輸送課など非武装部門と同列であった立ち位置から“郵便防衛庁”に昇格。郵政省の直接の下部組織として、郵便物と郵便インフラの防衛を任務とする本格的な武装組織となったのだ。
ちょっと勢いで書いてみました。
この後は短編を幾つか書いていく予定です。