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授業から帰ってきた四人が目にしたのは、満足そうに前足を舐めている猫と、からっぽの鳥籠だった。
「アオイ!!」
真っ青になったディライドが籠に駆けよる。
はずれてしまった籠を持ち上げ、その下に誰かいないか必死に捜す。
「ディライド、こっち!」
アルフォンスが床の一点を指さして叫ぶ。
ディライドは振り返った。
そこには、引きちぎられた小さな水色の布があった。
ところどころに襞をとられた、小さなネグリジェ。間違いなく葵の物だ。この部屋に他にこんなものを身につける人間はいない。
顔を強張らせたイレーユが呟く。
「これは……。クレイの新作ですね。アルフォンス! 部屋を出たのはあなたが一番最後でしたよね。今朝、アオイはどんな服をきていました?! もう夜衣から着替えていたのですよね?!」
「わっ、分かんないよ。僕が部屋を出た時はアオイ、まだ寝てたから」
半泣きになってアルフォンスが両手をわなわなとふるわせる。顔が真っ青だ。その横では、アルフォンス以上に血の気をなくした顔をしてディライドが固まっている。
独り冷静さを失っていないクレイが猫を捕まえ、自分の私室に閉じ込めた。
「アオイ、猫はもういない。声を出せるなら返事をしろ!」
低いクレイの声が部屋の隅々まで沁み渡る。
その声にこたえるように、小さなひっかくような音がした。
耳をよくすませていないと聞こえない、かすかな音。
「アオイ!」
ディライドが音の発信源を求めて顔を動かす。
クレイが床に積まれた本に駆け寄った。
一冊ずつ丁寧にどけていく。他の二人もその後ろに駆け寄り、固唾をのんでクレイの手元を見守る。
最後の一冊を持ち上げた手が止まり、また、本を元通りにおろす。
「まさか……」
固い声で問いかけたイレーユにクレイが首を横に振った。
「イレーユ、服を持ってきてくれ。アオイは裸だ」
部屋中に張り詰めていた氷が解けた。
どっとおこった安堵の溜息と笑顔の中、口もきけないくらい消耗した私は本の隙間から無事、救出された。
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元通り組み立てられた鳥籠を横に、私はテーブルの上につくられたベッドに寝かされていた。
「大丈夫? アオイ」
アルフォンスが真っ赤な眼をして覗きこむ。
「ディライドは?」
「食堂へ苺をもらいに行ったよ。アオイが目を覚ましたら食べさせるんだって」
私は薄く笑った。その選択は、まえにお茶会したときのことがあるからだろうか。ディライドのチョコケーキより、アルフォンスがくれた一語をほしがったことを彼なりにきにしていたのだろう。
生死の境を乗り越えて疲れているからだろうか。今は苺より甘くてほろ苦いチョコを食べたい気分だったのに。
アルフォンスが鼻をすすりあげる。
「ごめん、ごめんね」
必死に謝りながらアルフォンスが私の頭をなでる。
「どうしてアルフォンスが謝るの? 最後に部屋を出たのアルフォンスだったから? またイレーユにひどいこと言われたの? そんなの関係ないよ。私、アルフォンスのおかげで助かったんだよ。アルフォンスの本があそこになかったら、きっと、私、猫に食べられてた」
言いながら、私は目をつむった。
今までかわいい猫が大好きだった。
だけどもう抱いたりできないだろう。
犬でもだめだ。ハムスターやリスだって。とにかく毛むくじゃらの動物は全部だめだ。見れば絶対、今日の恐怖を思い出す。
脳裏に金色の目が浮かんでくる。
私は自分の体に腕を巻きつけた。震えが止まらない。それと同時にどっしりと重い睡魔が襲ってくる。
「……ごめん。疲れちゃった。もう少し、眠るね」
「うん、分かった。僕がずっと見張っててあげる。だから、安心して、アオイ」
アルフォンスの緑の瞳が真剣な色をたたえて私を見る。
私は目をつむると、再び深いまどろみの中へ落ちていった。
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すやすやと健康な寝息をたてはじめた葵を前にしてアルフォンスは目をこすった。顔を近づけ、何度も葵の息遣いを確かめる。
「生きてる、よね。大丈夫、だよね」
アルフォンスは呟いた。
葵の寝顔を眺め、考える。
異世界からやってきた、小さな小さな異邦人。
サイズも何もかも違う世界で懸命に自分の居場所を作ろうとしている頑張り屋の女の子。アルフォンスの夢を応援すると言ってくれた、頑張って夢をつかめと言ってくれた大切な子。
アルフォンスはそっと自分のポケットに手を伸ばし、中に入っていた紙を取り出した。
四角く折りたたまれた一枚の紙。広げると便せん二枚分くらいになる。
そこには複雑な円と文字の集合体が書かれていた。
アルフォンスが不眠不休で調べた術式。ディライドの力を断ち切り、葵を元の世界へ送り返す術式だ。天才と言われたアルフォンスだからこそ解明できた式。他の人間、たとえイレーユやクレイでもここまで完成させるには何か月もかかるだろう。
今、葵を還す手段を知っているのはアルフォンス一人だ。
アルフォンスは術式の書かれた紙を丁寧に折りたたんだ。そっとポケットの奥にしまう。
「アオイ、帰りたいんだよね。それとも、ディライドの側にいたい?」
暗い顔をしたアルフォンスはぽつりと呟いた。
*******
飴色をした猫がにゃあと鳴く。
イレーユは猫を抱きあげた。葵を殺しかけた非道な猫だが、それは持って生まれた本能であってこの猫の罪ではない。まさか復讐だ、と殺すわけにもいかず、かといって葵のいる部屋を通過して外に出すこともできず。仕方無く猫はイレーユとクレイの部屋にいる。
「これ、どうしましょう。食堂の裏手にたむろしてる猫の一匹ですよね。この猫を調べても葵を襲わせた犯人はわからないでしょうし。ここは三階だから窓から放すわけにもいきませんし」
クレイは無言だ。
「いっそ、飼いますか? クレイって猫、好きでしたっけ」
「いやに落ち着いているな」
クレイがぼそりと言う。その声には鋼の鋭さが秘められていた。
首筋につきつけられた短剣のような声をイレーユが肩をすくめてうけ流す。
「私を疑っているんですか? わざと猫を室内に入れたと? 確かにこれは内部の事情に詳しくないとできない犯行ですね。アオイの存在を知っていなければ猫を入れるなんて真似、するわけないのですから」
イレーユは腰をかがめると抱いていた猫を床に離した。再び上げた顔には不敵な笑みがついていた。
「心外ですね。私ならこんな生ぬるいことしませんよ。息の根を止める時はすっぱり一撃で仕留めます」
クレイが変わらない厳しさで追及する。
「お前は人を弄ぶのが好きだ」
「否定はしません。でも、私が失敗を嫌うということも知っているでしょう?」
「犯人の意図が分からない限り、失敗か成功かは分からん」
クレイが食い下がる。
イレーユは真正面からクレイの銀色の瞳を受け止めた。
「悪戯、嫌がらせ、の類だったら大成功とは言えないでしょうね。結果的にアオイは助かりましたが、あそこにアルフォンスの本がなければ、もしくは鳥籠が反対側に落ちていたなら、アオイの命はなかった」
イレーユの唇が薄い笑みを作る。
「アオイの命を狙ったのなら詰めが甘い。悪戯だったら悪質すぎる、というより起こりうる結果をすべて考えてやったとは思えませんね。軽率にすぎます。これでも私がやったと? 私を見くびらないでください」
「口ではなんとでも言える」
「その通りです。行動で示すべきですね」
二人の瞳が空中で絡み合う。冷たい温度のない火花が宙を舞う。再び、イレーユが口を開いた。
「にゃーお」
イレーユのものではない声。
張りつめていた空気が破れる。
緊張感をそがれた二人は視線を足もとにうつした。そこではのどかな声の主がごろごろと喉を鳴らしてクレイの足にすりよっていた。
「おやおや。ずいぶんクレイに懐いてますね。お腹、すいたみたいですよ」
「……アオイが寝てるかどうか見てくれ。外に放してくる」
クレイは猫をつまみ上げると言った。
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「結界を強化しましょう」
談話室に集まった面々を見ながらイレーユが言った。
「それぞれ一人一つずつ。結界を張って下さい。解き方は決して誰にも言わないように。ああ、ディライドはちゃんと紙に書いておいてくださいよ。忘れられると解読するのにやっかいですから」
「それって不便じゃないか。四人そろわないと部屋に入れないってことだろ?」
ディライドが抗議する。
「皆、イレーユに腹立たないのかよ。四人それぞれって、こいつ、俺たちを疑ってるんだぜ」
室内の視線が全てイレーユに集まる。
「何か言うことあるか? イレーユ」
ディライドの声が心なし冷たい。平然とした顔でイレーユが応える。
「アオイに何かあってからでは遅いでしょう。例外は設けていないんです。公平なやり方だと思いますけど?」
なおも言いつのろうとしたディライドを押さえてクレイが口を開いた。
「イレーユの言うとおりだ。何かあってからでは遅い」
イレーユの発言とクレイの発言では説得力が違う。その重い声に、沈黙が降りる。
皆、わかっているのだ。表向きは私に対する安全対策だ。
だが、それだけではない。
私に何かあれば、ディライドは永久に魔法が使えなくなる。
これがそのことを知る敵の嫌がらせに見せかけた罠ならどうする?
イレーユはそこまで考えて、防止策を考えている。そしてクレイも。私がディライドの弱点であるという情報が外にもれたのかどうかを気にしている。
ここにいるディライド以外の三人は、友だちでもあるけど、何より、ディライドにつけられた護衛でもあるのだから。
私は呆然と目の前のやり取りを聞いていた。
仲のよかった四人、その間に見えない亀裂が走ったように感じる。友だちの顔で隠していた下にあった、主従の関係、それが浮きあがってきてしまったというか。
気がつくとアルフォンスの顔が近くにあった。ふわふわの亜麻色の髪をした頭をよせ、私に囁く。
「アオイが気にすることないんだよ。元々、隠してただけで不和はあったんだから。友情じゃなく親の命令で、利害で結ばれてた関係だから。……哀しいけど、僕たちはそれ以上にはなれない」
友達になりたい。
だけどなれない。
人懐こくて寂しがり屋のアルフォンスの本音が透けて聞こえた気がした。
そしてその声は、クレイの言葉以上に私の心に重く沈んでいった。




