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夜。ディライトとクレイが帰ってきた。
もう遅いから、皆を起こさないようにだろう、二人で、ただいま、も言わずにこっそり入ってくる。
彼が帰ってきたら、元気にお帰りなさいと言うつもりだった。クレイには、ディライドのお誕生日会をしたいの、協力して、とこっそりお願いするつもりだった。
だけど、どちらもできない。
私は黙ってねたふりをした。二人が帰ってきたのを気づかないふりをした。
こんなことをしたって明日の朝になれば顔を合わせることになる。こんなふうにねたふりばかりしていられない。
わかっているけど、私の中でまだ答えが出ていなかったのだ。
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窓の外から小鳥のさえずる声が聞こえてくる。
気持ちの良い朝だ。頭の中のもやもやと今の気分に関係なく。
「アオイ、まだ寝てるの? 最近こんな挨拶ばっかだね」
そっとハンカチ布団の隙間からのぞくと、アルフォンスが小首をかしげてこちらを見ている。
「……ディライドは?」
「とっくに行ったよ」
私はもそもそと起きだす。といっても昨夜は一睡もできなかった。明け方になってやっとうつらうつらして。その間にディライドたちは出ていったらしい。
「アオイ、もしかして体調悪い? 今日は無理せずに寝ていて」
「うん、ありがとう」
アルフォンスの言葉に甘えて、お見送りもせずにまたもそもそとハンカチの間に潜り込む。ほんと、どうしちゃったのだろう、私。いつも考えるより先に動く超前向きな性格をしていたはずなのに。
眼を閉じて、いろいろなことを考える。
どれくらいそうしていただろう。さすがにお腹が空いてきて喉も乾いて。でも起きる気力がなくてどうしようと思っていた時、ふと、私は眼を開けた。
私の他は誰もいないはずの部屋に音がしたのだ。
扉が開いて閉じる、小さな音。
他の人間がいたらその人がたてる音で消えてしまいそうな小さい音。が、無人の部屋にはそれは大きく響いた。
「……ディライド? またさぼったの?」
私はハンカチから顔を出した。扉のほうを見る。
その顔が強張る。
振り返った視線の先。廊下へと続く扉の前に。私がいるのと同じ部屋の中に。
一匹の猫がいたのだ。
*****
「ど、どうしてここに猫がいるのよっ?!」
私は飛び起きた。あわてて背後までさがって、鳥籠の柵に背中を押しつける。
猫はぐっと背伸びをすると、後足を折って優雅に座り、前足をぺろぺろとなめ始めた。飴色をしたスマートで美しい猫だ。こんなサイズでなければ手をのばしておいでおいでと猫じゃらしをするところだ。
でも、今は。
「頼むからこっち見ないでっ」
私は震えながら祈った。だが、こう言う時の祈りというものは聞きとどけられたためしがない。お約束通り猫がひょいとこちらを見る。
目が、合った。
きらりと猫の金色の目が光る。
「いやーー!!」
私は絶叫した。
いいおもちゃを見つけたとばかりにごろごろいいながら猫が近づいてくる。
猫の脚力からすれば私にとって十階建てマンションに匹敵するテーブルの高さなど楽勝だ。
テーブルの下へと消えた体は、次の瞬間、テーブルの上にあった。
猫の丸い二つの眼、顔の周りに生えているたくさんのひげまでくっきりと見える。興奮した黒い瞳孔が大きくなって私を見ている。
「ああっ、元のサイズに戻ったらいくらでも遊んであげるから。だから今は向うへいってー!」
にゃんにゃんとスキップを踏むような軽い足取りで猫が籠の前までやって来た。首を傾げじっと私を見た後、すりすりと体を籠にこすりつけてくる。
私の全力キックでもびくともしなかった籠がぐらぐらと大きく揺れる。私は必死で中から両手で突っ張った。無駄なあがきと分かっているが何かせずにはいられない。
「ああっ、やめて、やめてっ、籠がこけちゃうっ」
その言葉は遅かった。
ごとりと籠が倒れ、そのままテーブルを転がっていく。
私はとっさに籠の内部に固定されている止まり木につかまった。ふり離されたら即、洗濯機脱水ショーの始まりだ。格好なんかかまっていられない。コアラかナマケモノのように、両手両足に力を込め、必死でしがみつく。水色の可愛いネグリジェがぱたぱたなびく。足がしゃれにならないラインまで丸見えになるがどうしようもない。
三百六十度回転していく視界。どんどん上がっていくスピード、ジェットコースターなんか目じゃない。しかも待っているのは奈落の底。
私は心臓が飛び出そうになる口を押さえ、おなかに力を入れた。今生の別れの言葉を声に出して叫ぶ。
「さよなら、皆っ! 会えて嬉しかったっ! お父さん、お母さん、こんなところで死んじゃってごめんっ。それと千明っ、一緒にコンサート行く約束してたのにごめんっ」
必死にディライドたちや父母、それに友だちに別れを告げた後、それ、は来た。
ふわりと体が宙に持ち上げられたかと思うと、ぐっとGが顔にかかる。
「きゃああああ」
籠が床に落ちる。
私の体が柵に叩きつけられ、また宙に浮かぶ。
そして、二度目の衝撃。最後に二回ばかり回転してようやく籠が止まる。
私はがくがくふるえる腕で止まり木につかまったまま目を開いた。天井のかわりにテーブルの裏側が見える。
「……え? 嘘、私、生きてる?」
先に床面に接した籠が衝撃を殺し、体が縮んだ分体重が軽くなり落下の衝撃が和らげられたのだという理由づけを私が知ったのは先の話。とにかく今はそれどころではない。
私は震えて冷たくなった手足を動かして起き上がった。自分がおかれている状態を見、唾を飲み込む。
落下の衝撃で籠の覆いが外れている。
籠の覆い部分と底が分離してしまっている。私の身を守っていた柵。それが大きめの鳥籠だったことが災いして、十分猫が入ってこれる行き止まりの檻になっていた。
「やばっ、早く出なきゃ」
私はあちこち痛む体に鞭打って立ちあがった。接地部分の柵を乗り越え、唯一の開口部となった柵の底から床に這い出る。見回しても猫の姿はない。まだテーブルの上にいるのだろう。逃げるなら今のうちだ。
私は素早く周囲を見回した。前に身を隠した戸棚に目標を定める。二個並べて置いてある戸棚。その戸棚と戸棚の間に葵が入るには十分な、だけど猫が入るには狭すぎる隙間があいている。なんとかあそこに滑り込めれば助かる。
私は震える足にぐっと力を入れた。
走り出そうとしたその時、私の横にすとんと軽い着地音がした。
私の足が固まり、止まる。
そっと横を見る。四本の太い柱が見える。それと、その柱の向こうでくいくいとリズミカルにゆれるしっぽ。
ゆっくりと柱の先を見上げていくと笑ったような猫の金色の目があった。
立ちつくす私に猫の前足がふり上げられる。動けない私にスローモーションで巨大な肉球が迫ってくる。
ぱしっという音とともに私の体が壁際にふっとんだ。
ごろごろ転がり、起きあがった私の前に床に積まれた本と本の間の隙間がうつった。
乱雑に山となって置かれた本が崩れトンネルを形成している。私のサイズなら充分立ったまま入れる。本は分厚い革装丁。猫の力では動かせない。
「アルフォンスの散らかし癖に感謝!」
私は隙間にすべりこんだ。と、その体が途中で引っ掛かって止まる。振り返って確かめると猫の前足が私のネグリジェのすそを押さえつけていた。
小首をかしげ、覗き込んでくる二つの丸い金色の瞳。私は両手でドレスをひっぱった。とれない。猫の力の方が強い。
ドレスの布地に引っかかった爪がくいと丸められ、ぐいぐいと私を引き寄せる。踏ん張った両足がずるずると前に出ていく。もうすぐ本の隙間から出てしまう。ネグリジェの下は一糸まとわぬ乙女のやわ肌だ。
だが。
命にはかえられない。
私は猫のひっぱる力に抵抗しながら胸のリボンをほどいた。




