第2話 魔女の呪い (3)
(な、何だ? さっきまで爽やかなまでの青空だったっていうのに……)
異様な光景だった。
空が紫色だった。
それも、色が変わったというよりも、何かが屋上と空とを分断するように覆っているという感じだ。
「ここなら誰にも邪魔されることはありません」
月夜詠さんが呟いた。
俺との距離はまだ二十メートルくらいはあったが、その呟き声は十分に俺の耳に届いていた。
「今は私と貴方の二人っきり」
密室で女の子と二人っきりのときに甘い声で囁かれたい言葉だった。
とはいえここは密室ではないわけで、さらに言うなら全然甘い雰囲気でもない。むしろ殺伐とすらしている。その原因はこの紫色の空――いや天井と言うべきか――であり、月夜詠さんは異様な雰囲気を醸し出している。
「え、えぇーと。それで話ってのは……?」
俺は少し声を張り上げる。彼女の声は二十メートル離れていても届いているが、俺の声が届くかどうかは分からなかったからだ。
それに気がついたのか、はたまたそうではない彼女の自己本位的な理由なのかは分からないが、月夜詠さんは俺の方へと近づいてきた。
それは喜んでいいのか、警戒すべきなのかはよく分からない。
とにかく、俺は彼女から目を逸らすことはできなかった。
月夜詠さんは近づいてくる。
今、俺と彼女の距離は十メートルとちょっとくらいだろうか。
ふと気が付くと月夜詠さんの右手にはあの大鎌が握られていた。
ぎょっとした。
(なぜに大鎌を! っていうか、どこから出したんだあんな大きなモノを!)
俺は困惑した。
大いに慌てた。
しかし、月夜詠さんはそんなこともお構いなしに、いきなり助走なしで飛びかかってきた。例によって大鎌を腰だめにして。それも俺に向かって直線的に。もはや滑空していると言っても過言ではない様子で。一瞬の後にはもう俺の目の前までやってきていて、大鎌をもつ手に力が入るのが見えた。
(この距離を一瞬でっ! どんだけの身体能力なんだ!)
まさに俺の命が刈られようとしているにもかかわらず、そんな悠長なことを考えている俺は底なしの莫迦なのかもしれない。
大鎌が振りかぶられ、俺の身にその刃が迫ってくる……。
(昨日は俺を助けてくれたんじゃないのか……!)
そんな疑問も湧くが、それを彼女にぶつけるには今さらで、そんな時間はもうない。
ザシュンッッ
大鎌が俺の身体を通過する。
(き、切られた……………………)
スチャッ
俺の背後で大鎌少女が着地する音を聞いた。
彼女が振り向いたような気配を感じる。
そして
「ふむ。やはり断ち切れませんか……」
……………………へ?
俺はその言葉に我に返り、自分の身体を見降ろす。
(あれ? 切れてない……。それどころか血すら出ていない。制服も破れていないし……)
完全に真っ二つにされたと思っていた俺の身体は何事もなく無事だった。
どういうことだ?
俺は振り返り、月夜詠さんに尋ねる。
「これはどういうこと……?」
いきなり襲いかかられたことに苛立ちも感じてはいたが、それ以上に困惑していた俺は状況説明を求めた。
おそらく、今の俺の表情はきょとんとしていたことだろう。
「私のこのデスサイズはあらゆるものを断ち切ります。断ち切るといっても物理的にではなく霊的に」
あの大鎌の名前はデスサイズというらしい。
「だから、貴方の身体に傷は一つもついていません」
そういうことらしい……。
「……それで、そのデスサイズ? ……で俺を切ったっていうのは、つまり、俺の何を霊的に切ったんだ?」
無論、そういうことになるのだろう。
至極まっとうに尋ねたのだが、それに対する返答には待ったがかかった。
「その問いに答える前に、貴方にはもっと知りたいことがあるのでは?」
見透かすかのようにそう尋ね返された。
(まぁ、確かにそうなんだけど。今日一日ずっと焦らされてはいたけど……。何? この肩すかし……)
とはいえ、説明をもらえるのは有り難い。
「そうだな。朝から訊きたかったんだが、昨日は何をしていたんだ? それにあの吸血鬼は何者なんだ?」
「そう焦ってはなりません。落ち着きなさい。急がば廻れと言うでしょう。」
うぐ。
(何なんだ。まず訊くことがあるだろうと言ったり。それを制したり)
だがしかし、次の彼女の言葉に俺はただ頷いて従った。
「順を追って説明しましょう……」
この世界には不思議なことが満ち溢れている。怪談話を初めとして神話や童話の類、生命の神秘に株価の増減まで。この世界には不思議なことで満ちている。
それら不思議なことはほぼ全て、人の〈想い〉で生じている。
人の想いには世界を捻じ曲げる力があり、強い想いが一点に集まると、それがいわゆる〈奇跡〉となる。だから小さなレベルで見れば小さな奇跡は至る所で起きている。ただ、それを人が〈奇跡〉と認識しているかどうかは別の話だ。
しかし、人類は大きな奇跡を認識してはいない。少なくとも有史以来歴史に残るような奇跡は経験をしてはいないと言える。なぜなら、それほどの奇跡を起こすに要される想いはそうとうに強いものでなければならない。しかし、そこまで強くなる前に、ある一定の水準まで想いが強くなると、それ自体が意思を持つようになり一人歩きを始める。それが〈奇跡〉によって物質化現象を起こすと自我を持った一つの個体としてこの世界に生まれるのだ。
そうして奇跡により生まれたその個体を〈精霊〉と呼ぶ。
古来より、日本では付喪神だとか怨霊、鬼や妖怪の類として伝承に残り、世界でも悪魔や人狼等の亜人、妖精などとして語り継がれているのは、まさにこの精霊のことだ。
そして精霊は、〈想い〉によって生まれた存在だから、その〈想い〉を実現しようとする。奇跡をも起こして受肉した存在ゆえに、彼らの行動は世界を変容せしむるだけの力を持っているのだ。そして、今度こそ本来の〈奇跡〉を起こそうと〈奇跡=霊術〉を駆使してさらに強い想いを集めるのだ。
それが月夜詠さんの説明の概要だ。
「じゃあ、昨日の吸血鬼は精霊なんだな?」
「吸血鬼ではありません。あれはただのコウモリです。」
「コウモリ……? でも……」
「精霊というよりも使い魔、が正確でしょう」
「使い魔? 使い魔って何だ?」
「何ですか? そんなことも知らないのですか? よく魔法使いとか魔女とかが使役しているアレですよ」
月夜詠さん、言葉づかいは慇懃なんだが、どことなく、無礼な気がするのは俺の気のせいだろうか?
「いや、それくらいは俺だって分かってる」
「だったら訊かないでください。時間を無駄にしました」
……やっぱり、態度がでかい気がする。
「いやいやいや。だから、〈精霊〉云々の話の中で出てきたよな? 〈使い魔〉って単語が……」
「だから答えたでしょう。魔法使いや魔女が使役している、と」
「ん? じゃあ、魔法使いとかそういうのが実在するってのか?」
「はい」
ん?
なんか混乱してきた。
〈奇跡〉によって強い想いが自我を持って具現化したのが〈精霊〉。
〈魔法使い〉は実在して、〈使い魔〉を使役している。そして昨日のコウモリは〈使い魔〉。
「それで、〈精霊〉の話と使い魔がどう関係するんだ?」
「……はぁ。貴方が余計な話をして口をはさむからややこしくなるのです。順に説明するから黙ってなさい」
む。なんか命令口調になったぞ。
だが、横柄とはいえ美少女だ。命令口調も様になっている。どこかのお嬢様というのもあながち間違いでもないのかもしれない。ただし、俺の妄想とは違った方向で……。
それはともかく。説明してくれるのだから、多少はむっとなってもそこは抑えて話を聞くのが男ってものだろう。
「貴方の疑問についてですが、この世界に生まれた〈精霊〉はそれぞれ生まれる際の想いの傾向からいくつかの類型に分類することができます。その一つとして〈魔法使い〉や〈魔女〉がいます。昨日のコウモリはその〈魔女〉の使役する〈使い魔〉である。そういうことです」
なるほど。
「……えーと、質問いいでしょうか?」
黙ってなさいと言われた手前、恐る恐る手を挙げる。
「許可します」
お許しが出た。
「さっき、昨日のはただのコウモリって言っていたが、だったらなんで人の姿に変身できたんだ?」
「〈使い魔〉ですから、〈魔女〉がそういうふうに創ったか、何らかの魔術を使っていたのでしょう」
ほうほう。
「先ほどはただのコウモリ、そう説明しましたが、それは〈精霊〉との対比の上であって、一般的に普通に生息しているコウモリとは異なります。アレは創られた存在です」
「あ、そうなのか」
「はい。そうです」
「あと、二ついいか?」
「何でしょう」
「えっと、昨日のは〈魔女〉がって言ってたけど、どうして〈魔女〉だって分かったんだ? というか、〈魔女〉と〈魔法使い〉って何が違うんだ?」
「一つ目の問いについては、私はその〈魔女〉を追ってこの学園に編入してきたから。二つ目の問いには、男女の性別の違いだ、と答えておきましょう」
月夜詠さんは〈魔女〉を追って編入してきた……?
何だか謎が深まったな……。
「で、もう一つなんだが……」
「もう既に二つ答えました」
「いや、さっきのは別に二つのつもりは……」
「二つ答えました」
「……いや、だから……」
「二つ答えました」
「……だから……」
「二つ答えました」
「……………………」
「……………………」
「……はい……」
「よろしい」
月夜詠さんの有無を言わさない雰囲気に呑まれ、俺はつい服従してしまった。
「いや、だがなぁ……」
「はぁ。仕方がありませんね。愚かな貴方のためにもう一つだけ質問に答えましょう。そうしたら、その後は黙って私の説明を聞いてくださいね」
「お、おう。さんきゅー」
「いえ。それより、さっさと質問してください」
「あぁ。それで、〈魔術〉ってのはまた何なんだ?」
「それは〈魔女〉や〈魔法使い〉が用いる霊術を称して言います」
「あ、そうなのか」
「はい。では、話を続けますよ」
「おう。よろしく頼む」
そうして、説明の続きが始まった。
「この恋路ヶ丘の街には〈使役の魔女〉がその魔手を伸ばしています」
「〈使役の魔女〉……?」
「はい。私はその〈使役の魔女〉を狩るためにこの街へやってきた、というわけです」
「狩る…って、何のために?」
「〈使役の魔女〉は最悪の魔女です」
「そうなのか?」
「はい。彼の魔女が使役する使い魔は千を下らないとか……。」
「千……」
何だか現実感のない数だった。
「はい。千です。そして、さらに彼の魔女が使役するのは使い魔だけに限りません」
「使い魔だけじゃない……?」
「はい。彼の魔女は、自身が魅了した対象を支配し使役することもできると言います。それゆえに彼の魔女は人々を支配し、〈奇跡〉を起こして世界をあらぬ方向へと変容せしめる可能性があるのです」
「なっ! 人間を支配⁉」
「そうです。過去、それによって歴史が変わったことは幾度もあったとか……」
「えっ? でも、最初にそんなに大きな〈奇跡〉は起きていないって……」
「それは、人類が認識している〈奇跡〉です。そうした〈奇跡〉は有名どころで言えば新約聖書にあるイエスの復活です。ところが、人類が認識していなくても〈奇跡〉は幾度となく起きています。例えば、第二次大戦期の原爆の発明と広島・長崎への原爆投下は、〈奇跡〉によって加速度的に現実化しました。本来ならあと二~三十年はかかる技術だったのです。しかし、そうした〈奇跡〉を有り得ない不思議なことではなく、理屈をつけて説明できるように人心を調整したり、歴史を改ざんしてきた存在もまたいるのです。それ故に人類は多くの〈奇跡〉を知りません。知らないが故に人類の歴史では〈奇跡〉は起こっていない、と言うことができるのです」
「……………………」
「そして、〈使役の魔女〉は自身で人々の心を改ざんすることで、その危険性を危惧する者たちの目をくらまし、今まで生き延びてきたのです」
俺は唖然としてしまった。
「魔女の特異性は、それ故に他の精霊の追随を許さないほどに危険なのです。なぜなら、通常の精霊の場合、〈奇跡〉を起こせば想いを遂げ、消滅するのが基本です。ですから、たとえ強力な精霊が〈奇跡〉を起こしたとしても、それはただ一度の世界の変容で済みます。しかし、魔女とは飽くなき好奇心・探究心により生まれます。すなわち、その好奇心・探究心が満たされるまで、彼女らは何度〈奇跡〉を起こそうとも、繰り返し次の好奇心を満たさんとして新たな〈奇跡〉を企てます。とはいえ、魔女の好奇心は無尽蔵とすら言えるものです。したがって、魔女はその存在意義により繰り返し世界を歪ませるのです」
俺はここまで、不思議で一般人には手に負えない、けど、人の想いにより生まれた時に憎めない存在が精霊なのかなと思っていた。しかし、そこまで世界を歪めてしまう存在もいるとは想像すらしなかったんだ。まさか、原爆は〈奇跡〉によって誕生していたなんて……。
「ですから、私は魔女を狩るのです」
「……………………」
言葉もなかった。
まさか世界は、そんな危険な可能性を身近に抱えていたとは……。
「そして、昨夜の話です」
ハッとする。
今までは大きなことでただただ圧倒されていたが、昨夜の話となればそれは俺にも関係する話だ。気を引き締める。
「私は使役の魔女によるものだろうと思われる〈創世〉を見つけ、そこに踏み込み、件の使い魔を滅していました」
「すまん、〈創世〉ってのは何だ?」
さすがに今の単語は話を理解する上で重要なものだろうと思い、即座に質問した。
「〈創世〉とは結界みたいなものです。あくまで、みたい、なものであって別物ですが」
月夜詠さんもすんなりと答えてくれた。だが、はっきりとした答えではなかった。
「結界みたいなもの、だけど結界ではない……のか?」
「はい」
「じゃあ、何なんだ?」
「それは説明が面倒なので諦めてください」
は……?
「いやいやいや。それはないだろう!」
「とりあえず、イメージとしては結界だと思ってくれればそれで構いません。今はそれほど重要なことではありません」
「そうなのか……」
「はい。そうなのです。続けます」
そう言って話を続けた。
「そこに貴方は現れた。通常、一般人は踏み込む事が出来ない創世の中に……」
「うん? そうなのか?」
「結界みたいなものといったでしょう。外界との接触を断つ。そのために存在するものです」
「なるほど。確かにそれじゃあ一般人が自由に出入りできるわけがないな」
「それだけでも不思議なのに、さらに貴方にはもう一つおかしなところがあります」
「うん? おかしなところ……?」
何だか話の雲行きが怪しくなってきた。どうも俺に何かが起きているらしい。
「はい。昨夜貴方はコウモリに咬まれその毒で死にかけました」
「やっぱりあれは毒だったのか! しかも死にかけたのか!」
「少々うるさいですね。黙って聞いてください」
う……。叱られた……。
「しかし、それは私が呪によって治したはず……。しかし今朝貴方を霊視すると、その毒はかすかにではありますがその存在を維持していました」
「ごめん。それって大丈夫なのか? 俺の命的に……」
さすがに恐ろしいのでそれだけは確認がしたかった。
「問題はありません。死にいたる要素はすべて消えていました。ただ、なぜ毒は完全には消えきらなかったのか……。私の呪が毒を完全には消しきれなかった可能性はありますが、しかし、おそらくは魔女本人が貴方に接触を果たし、毒の残滓を利用して貴方に呪いをかけた……。そう考えられるのです」
毒の次は今度は呪いか……。
「で、その呪いも大丈夫なのか?」
「先にも答えました。命に影響を及ぼすようなことはありません。ただ、貴方は魔女にマーキングされたと考えるべきでしょう」
「マーキング?」
「はい。貴方は使役の魔女の獲物として認定されたということです」
「獲物っ? 何で俺が!」
「そんなことは私には分かりません。魔女本人ではないのですから。しかし、昨夜の件が絡んでいることは確かでしょう」
ここまで一気に説明されたせいか、はたまた俺が標的であるという衝撃の事実のせいか、俺は情報が整理しきれず混乱していた。そこに畳みかけるように月夜詠さんは俺に告げる。
「ですから、刹那。貴方は使役の魔女を狩る私の協力をなさい」
命令だった。有無を言わさない圧力を感じる。
だが、月夜詠さんの雰囲気とは別に、心や身体に直接働きかける得体のしれない違和感を感じていた。まるで鎖で繋がれた奴隷のように彼女の言葉に従うのが自然なことである、というかのような感覚だった。
とはいえ、だ。
「協力って言ったって、俺は何をすればいいんだ?」
その違和感を振り切って尋ねると、月夜詠さんの眉がぴくっと動いた。
「ん?」
「いえ。何でも……。貴方は彼の魔女の獲物です。ですから、それを利用して魔女をおびき出す餌になってもらいます」
「いっ! それって俺は危険なんじゃ……」
「断ったところで同じです。遅かれ早かれいずれは彼の魔女に囚われ、彼女の好奇心・探究心が満たされるまで弄ばれるだけです。もっとひどければ貴方は使役の魔女の操り人形になるかもしれませんね」
「うぐっ」
協力すれば俺は魔女をおびき寄せる餌にされ、断れば弄ばれて最悪操り人形。
(だったら俺はどうしたらいいんだよ……)
「安心して下さい。協力するならば、魔女を狩るまでは貴方を守って差し上げます」
「うっ。そうなのか……?」
「はい。それだけの価値がありますからね」
「そうか……」
それは裏を返せば価値がなくなれば守ってくれないということなのだろうか……。
だが、少なくとも利用価値があるうちは魔女の手から守ってくれるということなのだから、ここで断る理由はないように思う。それに、月夜詠さんに協力して魔女が倒せるなら、それは世界のためにもいいことなのだろう。
もう一つ加えれば、月夜詠さんみたいな美少女とお近づきになれるし……。
男が女の子に守られるというのは何とも情けない話ではあるが、仕方があるまい。
「わかった。協力するよ!」
「当然です」
と、横柄な態度でそう言い放った。まぁ、結論は見えていたってことなのだろう。
まぁ、とりあえず。一度にたくさんのことを知りすぎたせいか俺の頭はまだ混乱状態から抜け出せずにいたが、この世界のこと、昨夜の出来事とその裏にいる存在、そして俺の現状などについては知ることができた。