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幽霊よりも

作者: 犬縫 ちよ

「それでね、うちの学校にもいるらしいよ」

「まさかあ」

「見たっていう子もいるし」

 園実は本気で言っているが、葵は話半分にも捉えていないようだった。

 園実の話というのは、幽霊についてだ。

 わたしたちの通う大学の周りで奇妙なことがいくつか起きていて、それは幽霊の仕業だというのだ。ただ、その奇妙なことはしれていて、窓ガラスが勝手に割れたとか、写真に変な光が写っていたとか、なんとでも言えるようなことだった。

 今は夏休み。毎日日差しが強くて、遊びに行くにしても暑くて遠出したがらない仲間がいるから学校の近くでぶらぶらしている。実を言うと、今は夏期講義の最中でちゃんと遊びにいくのはもとから不可能なのだけど。

「あたしも他の科の子から聞いたし、なんかやだなあって」

 月世は注文したかき氷を手に不安そうな顔をした。

「マンゴーエムサイズで」

「はい」

 わたしが注文すると、間髪入れずに園実が話を振ってきた。

「陽ちゃん、どうしよう。幽霊に会っちゃったらさあ」

「生きてる人間がいちばん怖いよ」

「もう、そんなこと言って。あたし寮だから怖いんだよ。噂のあるとこと近いし」

 園実は頬を膨らませて少し怒った。

 幽霊とかお化けとか、子供のころはよく噂をしたし、学校の怪談が流行ったこともあったけれど、この歳でこんな話をするとは思わなかった。

「お待たせいたしました」

 わたしが最後にかき氷を受けとると、四人揃って店を出て近くの公園に移動した。

 なるべく日陰を選んで歩き、公園に着くと屋根の下のベンチを陣取って、溶けないうちに氷をつついた。

「夏だし、やっぱ出そうじゃん」

「何が」

「だから幽霊だってば」

 園実はしつこく幽霊話を続けていた。葵が短く返事をすると、園実は声を大きくした。

「なんかね、寝てたらときどきピー、とかカタカタとか聞こえる気がするんだよ」

「ほんとにー?寝るときやだなあ」

 月世はスプーンをくわえたまま園実の話を聞いていた。

「でも月世は家族がいるからいいじゃん。あたしひとりだもん」

「あたしも陽もひとりだよ」

と言ってから葵がわたしの方を見るから、わたしはかき氷の手を止めて頷いた。

 そんなこと言ったら、わたしの住んでいるアパートはほとんどが下宿生だ。みんなひとりで毎日生活している。むしろ、キッチンにでも行けば誰かに会える園実は、葵とわたしより安心できるはずなのに。

「ねえ、葵。今日泊まりにきてよ。なんか音がするかもしれないし、一緒に聞いてよ」

「ええ。めんどくさいな」

 葵がちらりとこちらを見た。わたしも面倒だから泊まりたくはないんだけど。

 そう思っていると、

「葵は近いしいいじゃん。来てよ。お願い!」

と、園実は葵に懇願したのでわたしはちょっとほっとした。園実と葵には悪いけど、夜はゆっくり寝たい。明日も講義があるし。

 なんだかその話にも飽きてきて、わたしは軽くあくびをした。

「陽ちゃん、明日の予習した?」

 月世が全然違う話題を振ってくれたから、わたしはそれに従った。

「まだだよ」

「わかんないとこあるんだけどさあ、陽ちゃんわかる?」

 そんな他愛もないことを言いながら、わたしたちはベンチを離れた。結局葵は根負けして園実に付き合うことになったみたいだった。

 そして、園実の部屋で日が暮れるまで喋った。その間、園実の言っていたような音はひとつも聞こえなかった。もっとも、わたしたちが騒がしくて掻き消されていたのかもしれないけれど。

「また明日ね」

 月世とわたしは園実に手を振って学校を出た。もちろん葵を置いて。

「いいなあ、陽ちゃん。もう家に着いちゃうもんね」

「まあね。気を付けてお帰り」

「はあい」

 わたしは月世を駅で見送り、さっさと歩いて帰った。

 帰り道は、普段人通りが少ないわけではないが、今は誰も歩いていない。静かな夜に温い空気が流れると、時間の流れまで遅くなったように感じる。

 わたしは街灯の下を通って、アパートの階段を上り、いつものように部屋の鍵を開けた。

 そのまま部屋に入ろうと取っ手に手を掛けたとき、なんとなく気になってちらっと振り返ってみてわたしはどきっとした。

 アパートの目の前、街灯から少しずれたところに人が立っている。マスクをしていて顔全体は見えないが、わたしと目が合っているのはわかった。わたしはほんの数秒の間にそれが誰なのかを必死で考えた。学校の知り合いだったか、近所でよく会う人か、実家の方の顔見知りだったか。顔の半分を覆われたところから判断するのは難しく、焦りと恐怖が邪魔をして、わたしはそれが誰だか見当をつけることができないまま急いで目を逸らして部屋に入った。

 どうしよう、と思いながらも、まだ見ている気がする、という気持ちが拭えずに、閉めかけた戸の細い隙間から外を一瞬だけ覗いてみた。しかし、そこにはもう誰もいなかった。

 それを見て気が済むと、鍵とチェーンを掛けて、戸が閉まっているか何度も確かめた。あの人がそこから移動してどこへ行ったのかは考えたくなかった。

 わたしはしばらく部屋の奥でじっとして、物音を立てなかった。

 夜にたったひとりでいるときに、身元不詳の人とばっちり目を合わせてしまうなんて、気味が悪いに決まっている。

 それに、目だけでわかったのは、あの人が笑っていたということ。おそらくそれが怖かったのだ。知り合いで親しみを込めた笑みではなかった。そもそも知り合いなら普通は会釈のひとつでもする。でもそうではなかった。無機質というか、狂気じみた笑みだった。そして、わたしを見ていたとしか思えないことがわたしをさらに不安にした。

 あんな風に見られたことなんて今まで一度もなかったから、わたしは動揺していた。

 もしかしたら偶然目が合っただけかもしれない。そう考えられなくもない。自意識過剰だったかもしれない。そう思い込めば大したことではない気がした。

 少し時間が経って、なんとか落ち着くと、いつものように布団に入ることができた。けれどなかなか眠れなかった。眠った後も、悪夢で何度も目が覚めた。

 ふと振り向くと知らない誰かがこちらを見ていて、ものすごい速さで迫ってきたり、木陰からじっと目だけがわたしを追っていたり。口では言い表せない圧迫感と恐怖があった。

 その夜から、わたしは常に周りを警戒し、些細なことで驚くようになった。

「おはよう」

 翌朝、教室でぼんやりしているわたしに、月世が声を掛けながら横に座った。

「おはよ」

 わたしはいつものように声を掛けられただけなのに、驚いて大きく肩を震わせた。

「どうしたの?」

「眠いだけ」

 わたしは少し背筋を伸ばした。

「なんか変な夢見ちゃってさ」

「どんな?」

「知らない人に睨まれてる夢」

「やだ、怖いなあ」

 本当に怖かった。でもその夢より、たった今声を掛けられてびくっとなった心臓の方に気を取られている。そんなに驚かなくてもいいのに。相手は月世だから安心していいのだ。

「ねえ聞いた?」

「あ、園ちゃんおはよう」

 その後すぐに園実と葵が教室に入ってきた。園実は入ってくるなりわたしたちに話しはじめた。

「昨日の夜中、すぐそこで火事があったんだよ」

「そうなの?」

「陽の家にもサイレンは聞こえたと思ってたよ」

 葵にそう言われたけれど、昨日の夜はそれどころじゃなくて聞いた覚えはない。

「でね、その火で大ケガした人いたらしいよ。怖かったねえ、葵」

 園実はかばんから出したノートを口の前に当てた。

「見たの?」

「見てない。サイレンの音聞いて、隣の部屋の子から話聞いただけ」

 葵は淡々と答えた。

 話を聞いていると、どうして火事になったかはまだわかっていないらしい。

「幽霊かなあ?」

「放火じゃないの?」

 わたしもそう思う。それはそれで物騒で嫌だ。

「園ちゃんさすがにそれは幽霊じゃないと思うよ」

「月世までー」

 園実はしょげた。

「それで幽霊は出たの?」

 深い意味はないが、思い出したので尋ねると、

「何もなかった」

と、葵から返事があった。

「そうなんだよ、昨日は何もなかったの」

「ならよかったじゃん」

 わたしは簡単に言った。それでも園実は納得せず、これからも暇があれば葵を引きずり込むみたいだった。

 その晩、わたしはまたうまく眠れなかった。変な物音にいちいち目が覚めた。ものすごく驚いて、脈が早くなった。

 でも変な物音は、隣の部屋の壊れかけた水道の音や、真上の部屋で誰かが物を落とした音だった。たい大したことではないのはわかっているのに、神経が過敏になっている。落ち着け、わたし。

 その次の朝、まだ数日残っている夏期講議のためにわたしは学校へ向かった。寝癖を直すのに時間をとられたので急いでいた。

 その途中、小さな駐車場の横を通ったとき、一瞬視界にしゃがみ込む人影が映ったような気がした。はっとして少し通り過ぎたところでさりげなく振り返ると、そこに見えたのは赤いカラーコーンひとつだった。

 わたしは胸を撫で下ろすと同時に少し情けなくなった。

 もう一度辺りを見回したが、わたし以外に人はいなかった。カラーコーンに驚いているところを誰にも見られなかったのが唯一の救いだった。

「いけない」

 わたしは時計を見て学校まで走った。

「お、来た来た」

 部屋に入ると三人はもう席に着いていた。

「陽ちゃん遅かったね」

「髪直すのにちょっとね」

 寝癖を直して慌てて、カラーコーンに気をとられて髪を振り乱して走ったなんて、恥ずかしくて多くは語りたくなかった。

 わたしが一言で済ますと、

「陽ちゃん聞いた?」

と、園実が身を乗り出してきた。出たな、歩く瓦版。園実の情報がいつも早いのは、寮の中に新聞部並みの知りたがりが何人もいて、そこから情報を得ているからだ。それを誰かに知らせたくてわたしたちに言いふらすのだ。

「何?」

 園実は困った顔をしながら話した。

「昨日の夜、ここからちょっと行った大通りをちょっと越えたとこで、なんか人が死んでたらしいよ。家の庭だって。詳しいことはわかってないらしいんだけど、後ろから殴られたみたいな格好って聞いた」

 それは明らかに他殺ではなかろうか。こんなに近くで殺人事件とは恐ろしい。

「物騒だね」

「でね、もしかしたら」

「他殺でしょ」

「ゆ」

「園実、それはないでしょ」

 葵は園実の言葉を遮った。

「でもわかんないじゃん」

「園実、しつこい」

「なんだよー」

 園実は膨れっ面をした。その横で月世は黙ってにこにこしている。

「あ、先生来た」

 わたしたちは急に静かになり、その話は午後までお預けになった。

 確かに不審火も不審死も怖いけれど、そんなに騒がなくてもいいのに。とはいえ、最近何にでもびくっとしてしまう自分も人のことを言えたものではない。落ち着け、落ち着け。わたしに直接関わるようなことは何もない。わたしが怖れるようなことは何も起こっていない。

 そう思っているのに、わたしはまだ何かに怯えていた。

 それから数時間経ったところで大した情報は集まらなかったから、結局いつものようにお菓子や映画の話題で夕方まで盛り上がった。

「じゃあね」

 例の如く月世を駅まで見送り、わたしはコンビニに寄ってから家に帰ろうとしていた。

 まだ日は沈んでいなかったし、ゆっくりとお菓子を選んだ。明日みんなで食べよう、なんて考えながらコンビニを出てまっすぐ道を歩いた。

 公園を横切ればアパートはすぐそこだ。

 その公園の脇を通ると、木陰から人の気配がした。気のせいかもしれないと思いつつ、気になったわたしは、角を曲がるときに確かめようと思った。

 緊張して喉が鳴る。

 角を曲がるときが来た。今だ。

 わたしは不自然に見えないように目だけを木陰の方に動かした。

「なんだ」

 思わず口にしてしまった。

 確かに木陰に違和感はあった。でもそれは人ではなく、壊れた傘だった。ちょうど人の肩ぐらいの高さに傘が広がって木に引っ掛かっていた。

 また見間違いだ。なんだか自分が馬鹿らしくなってきた。

 そしてまた朝。今日は一日中雨らしい。先生が話す声にずっと雨音が混ざっていた。

「終わったねえ」

「今日はニュースないの?」

 伸びをしている園実になんとなく訊いてみた。

「今のところないなあ」

「そう」

「それじゃあ」

と、月世が話題を変えた。

「これからショッピングに行かない?」

「ごめん、あたしバイト」

 葵は申し訳なさそうに言った。

「あたし、この後補講」

「え、補講なんてあった?」

「できが悪いから来いって先生が」

「そういえば園実って馬鹿だったね」

「葵、ひどい」

 そういうわけで、残ったわたしが月世の買い物に付き合うことになった。

 いつもなら雨でもレインコートを着て自転車に乗るのだけど、月世がいるからバスで行くことにした。

 バスの窓に雨がばつばつと叩きつけられていた。結構強い雨だった。

「あたし、ひとりだとなかなか決められなくて」

と言って、月世はにこにこしていたけれど、本当にそうだった。服、ペン、本、どれを買うにも「どう思う?」と訊いてきた。おかげで自分は大したものを買っていないのに、月世と同じくらい買い物をした気分になった。

 別れ際、月世はとても満足気な顔をしていて、わたしも悪い気はしなかった。

「今日はありがとね」

「どういたしまして」

 月世は電車に乗り、わたしはバスでアパートの側まで帰った。

 かばんと小さなショッピングバッグを提げて、傘を差しながら家へ向かった。

 雨が強いから、足下に気を付けながら早足で部屋の前まで行った。

 閉じた傘を腕に掛けて鍵を開け、狭い玄関にその傘を立て掛け、戸を閉めようとしたとき、なんとそこには赤い人が立っていた。

 わたしは思わず持っていた荷物を落としてしまった。

 誰だ、と驚きながらもう一度よく見ると、それはたまたま壁に掛けてあった赤いレインコートだった。

「びっくりした」

 心臓をドクドク言わせながら、わたしが改めて戸を閉めようと手を伸ばしたとき、戸が勝手に閉まった。

 風で閉まったのかと思ったが、風は吹いていない。

 どういうことだ、と考えるのと同時に赤いレインコートが動いた。

 息が止まりそうになったままレインコートを凝視して、わたしは怖くて何も言えずに固まった。

 それはわたしのレインコートではなくて、レインコートを着た人間だったのだ。

 その人間は黙ったまま、睨みつけるようにこちらを見ながら笑っていた。

 どこかで見た気がする。

 そう思ったとき、わたしは悟った。

 わたしはずっとこいつに見られていたのだ。あの夜からずっと。

 でもその根拠が掴めなかったわたしは怯える自分を落ち着かせようと、無意識のうちに記憶をすり替えていた。

 あれはカラーコーンではなくてしゃがんでいる人間だった。

 あれは壊れた傘ではなくて木陰に隠れた人間だった。

 そしてさっきのは、わたしのレインコートではなくてこの人間だった。

 恐怖と疑問でわたしは混乱し、予想外に大きな声で叫んだ。

「なんで?」

 レインコートの人間は笑うのをやめて答えた。

「あなたが幽霊なんていないっていうから、思い知らせてやろうと思った。幽霊が見える人もこの世にはいるんだから」

 耳につく喋り方、どこかで聞いた気がしなくもない。でもこんなやつ、わたしの知り合いにはいない。

「だからわたしをつけてたの?」

「はい」

 その一言でわたしはやっと思い出した。

 こいつはあのかき氷屋の店員だ。

 どうしてこいつにこんなことを言われなければいけないの?

 そう思うと怒りが芽生えてきた。

 それなのに、わたしは何も言い返せないまま思い切り突き飛ばされて、仰向けに倒れた。

 胸の辺りに妙な感覚がある。うまく呼吸ができない。視界にぼんやりと赤が広がり、わたしは意識を失った。

 やっぱり、幽霊なんかより生きている人間がいちばん怖い。

 はっと目を覚ましたとき、そいつはまだそこに立っていた。

「ちょっと!突っ立ってないでなんとかしてよ。わたし、動けないんだから」

 そう言ったのに、そいつはわたしを見てにやりとして部屋から出ていった。

「待ってよ」

 わたしは叫んだけれど、誰も聞いていないようだった。

 ねえ、待ってよ。

 わたし、葵に言わなきゃいけないことがあるのに。

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― 新着の感想 ―
[一言] 最初にマスクの人影を見た時の緊張感が凄く伝わってきました。 ラストの種明かしが唐突過ぎるのと、犯人の動機が弱いのは気になりますが、読ませる展開でドキドキしながら最後まで読みきりました。 やっ…
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