1.目が覚めたら美人女医がいた
――――。
目蓋を持ち上げる。最初に目に映ったのは、白一色に染まった天井だ。わずかに汚れはあるが、シミというほどのものはない。
その天井の中央にある蛍光灯――いや、LEDだろうか。照明は点いていないようだが、部屋の中は十分に明るい。
光源、明るい方に顔を向けてみると、少し離れたところに大きな窓がある。カーテンはすでに開けられており、陽光が差し込んでいた。
視線を反対側に向けてみると、引き出しの付いた小さな棚が置いてある。棚の上には、空の花瓶が乗せてあるが、他には何も置いてなかった。
(ここは……?)
再度、目を閉じて考える。
少なくとも、ここは自分が訪れたことのない――知らない場所であるのは間違いない。
(今、自分は……?)
仰向けに横になっている。身体には薄い布団が掛けられていて、かつ視線の高さがそれなりにある。
つまり、ベッドに寝かされているのだ。
(どうしてここに……?)
残っている、最後を記憶を探り出す。
学校……そう、いつものように悠と学校に行き、変わらない生活を送ったはずだった。
そして、放課後は生徒会室で過ごし、校門付近で……何かが吊るされていた気がするが、これは関係ないだろう――妹の悠や、友人の十流と落ち合って共に下校したのだ。
普段通りなら、適当に十流と別れてそのまま帰宅する、あるいは夕食の買い物を行っているはずだが。
――いや。
(あの日は、確か――)
そうだ、本屋に行こうとしていたのだ。
確か、何某かの心理学の本を探しに……
(いやいやいや。それは関係ないな)
確かそれは自分で棄却したはずだ。
それで、そのまま帰宅しようとしたところ、悠が何かを見つけて足を止めて……
「――思い出した!」
がばっと上半身を起こす。刹那――
「っい――!?」
上半身を強烈な激痛が襲った。特に右半身――肩口から痛むようだった。
「ふぬ……ぉ……っ!」
変な呻き声を上げながらもんどり打って、再びベッドに寝転がる。
落ち着けるために幾度も深呼吸を繰り返し、痛みが通り過ぎるまでひたすら堪える。
この痛みのおかげで脳が活性化したのか、落ち着く頃には意識もクリアになってきた。
よし、と、続けて状況を整理する。
(そうか……確か、男と転落して……あの高さから落ちて無傷ってことはない――よな)
考えてみれば、三階からの落下である。全身が総毛立つ浮遊感を思い出してしまい、身震いしてしまった。
下が芝生だからまだ良かったものの、コンクリートならばただでは済まなかっただろう。
身体の状態を確かめてみるため、右手から順に少しずつ力を入れていく。左手、右足、左足……首も大丈夫だ。
わずかに鈍いものの、一応は全てが正常に動くようだ。状況から鑑みるに、五体満足は僥倖な結果といえよう。
自身の無事を確認したところで、再度、周囲に目を配る。
殺風景だが清潔さを漂わせる室内、そのやや隅、白のシーツで統一された整えられた寝台に自分は横になっている。
枕元に垂れ下がっているコードの先端には、押し込み式のボタンが取り付けられていた。
(病院……だな、おそらくは)
転落の衝撃で意識を失い、そのまま救急搬送されたのだろう。その場に居合わせた妹は、心臓が竦み上がったに違うない。
一体どれくらい眠っていたのだろうか――少なくとも、この部屋に時計の類はないようで、意図的に患者に時間を知らせないようにしているのかは不明だ。もちろん、自身の所持品も一切置かれていないので、携帯もなく、確かめる術はない。
太陽の位置からおおよその時間を察しようにも、今の時間の部屋の窓の位置関係からでは直接確認することはできないようだった。窓際まで移動し、影の伸びる長さを見ればおおよそは分かるだろうが……。
いや、今、重要なのは時間より日付の方だろう。時間に関しては、とりあえず日中ということだけ分かれば十分である。
――ただ、それよりも重要なことに思い至った。
(悠と……あの男は……)
ベランダから落下した際の予測位置から、悠の位置まではかなりの距離があった。
あの状態から巻き込むとは考えにくく、憶測でしか言えないが、かなりの確率で何事もないはずだ。
今、この場にいないのは、おそらくは学校へ行っているのだろう。
休日ならば、悠の性格を考えれば、間違いなくこの場にいる。
となると、最大の懸念は一緒に転落した『あの男』であるが――
(おそらくは、同程度かそれ以上の負傷……最悪の場合は……)
あまり考えたくはないが、その悪い可能性もゼロではないだろう。
こと、これに関しては、この場でどれだけ考えていても結論は出まい。
大体の考えは纏まったので、さらに状況を知るべく、頭上にあるナースコールへと手を伸ばし、ボタンを押した。
ボタンを押しても何も起こらなかったので、やや不安になったが、しばらくして女性が現れた。
てっきり看護師が来るものだとばかり思っていたのだが、女性は「君の主治医」だと言った。
紹介された名前は、鈴峯翔子。
白衣ごしでも無意識に目を惹いてしまう、豊かな胸部に下げられたネームプレートにもそう綴られていた。
●
一見して分かるくらいに、見目の麗しい女性だった。はっきり言って美人である。
白衣を脱いで、綺麗な私服に身を包んで街を歩けば、モデルと間違えられても不思議あるまい。
ふちのない眼鏡を掛け、伸ばした髪は高いところでひと纏にしてある。
ぱっと見では、覇気を感じにくい表情だが、目が合うと、その瞳には仕事に対する強い責任感と意志を感じた。
唯一惜しむべきは、やはり医師という仕事が想像以上に重労働なのか、肌や目元からわずかな疲労が見て取れてしまったことか。
「あはは、夜勤明けで……ね。ごめんなさい。本当は患者さんに気取られてしまうなんて、医者としてあるまじきことだと思うのだけど……」
話してみると、端的に近寄りがたい美人――という見た目に反して、思ったよりだいぶ気さくな人のようだ。
そして、鈴峯という先生は言葉を続けてきた。
「そのままでいいわ。まずは、こちらから貴方にいくつか質問と説明をするわね」
こちらは横になった姿勢のまま、視線だけを先生の方に向けて頷き返した。
「まずは、おはよう――と言っておこうかしら。怪我の度合いに関わらず、意識の回復がまず、最初のターニングポイントだから。どれだけ身体が大丈夫でも、意識が戻らなかったら……ね?」
と、微笑んだ。
泣きホクロがチャーミングである。
「はい、おはようございます……といっても、今が朝なのか昼なのか確認する手段がありませんが」
「ふふ……OK――意識は、はっきりしているようね。今はお昼を少し回ったところよ」
じゃあ、続けるわね――と。
尋ねられたのは、身体で不都合のある場所はないかということ。
つまり、視覚や聴覚といった五感の乱れや意識の混濁、手足に痺れなどはないか―といった質問だ。
今のところ、特に自覚できる症状はないので、特にありません、と答える。
次に、当時の状況の確認を問われたのは、患者の認識力を計るためであろう。
「あら、貴方も同じような境遇なのね。偶然って面白いわ――と、あまり人の個人情報を漏らすのはよくないわね」
と、苦笑を浮かべる先生。
自分と何が同じような境遇なのかは気になったが、個人情報――と、医師が遮った内容だ。聞き返しても、おそらく返答は笑ってかわされるだろう。
「あと、貴方がどれくらい眠っていたのか、なんだけど……」
日時については、こちらかは質問しなくても、医師の方から説明があった。
結論から言うと、事故があった日から『二週間』が経過しているらしい。二週間も――と思えばいいのか、二週間で済んだ――と思えばいいのか。
後ろ向きに考えるメリットはないので後者を選ぶことにした。
とはいえ、家族には『二週間も』心配を掛けてしまったのは事実だ。
人助けとはいえ、無茶を通したのはあくまで自分による行動の責任なので、あとできちんと謝罪と感謝せねばなるまい。
「あの、一緒に転落した人は……?」
「えぇ、彼はね――」
この質問は初めから予測していたのか、先生の受け答えに淀みはなかった。
しかし、いざ話を聞くとなると、こちらから質問したものとはいえ最悪の結果が脳裏をかすめ、心音が高まる。
「――別状はないわ。意識が戻った時は、しばらく混乱していたのだけど……意識が戻るのも貴方より先で、怪我の度合いも軽い。既に退院したわ」
「そう……ですか……」
脱力した。――はぁ、と、先生にも聞こえるくらいに大きな安堵の息を吐く。
先生も、その様子を見て感慨深げに笑っているようだ。
「無事で良かったわね。もしかしたら、相手のことなんて気に掛けてないんじゃないか――なんて心配もしてたんだけど、要らなかったわね」
「いえ、それは心配しますよ。とにかく……安心しました」
ふぅ、と、もう一度息をつく。
「そう」
と、先ほど以上ににっこりと微笑む先生。
こんな美人な女医がいるなら、病院というのもあながち悪いものではないな――なんて、口に出したら、悠に大変な目に遭わされるだろう。
「貴方も……色々と大変だろうけど。私でよければ、いつでも相談してね」
「あ、はい。お心遣い、ありがとうございます」
とても有り難い言葉だった。十人、あるいはそれ以上の味方を得た気分になる。
「ふふ……礼儀正しいのね。先生、そういう子は好きよ」
大人が子どもに対して言うようなニュアンスの台詞だと分かってはいても、ドキリ――としてしまう。
思えば、大人の女性に対する免疫は乏しいような気がした。
「さて……ちょっと言いにくいんだけどね。きちんと、話さないといけないから……」
語尾が消沈する先生。
自分も無事で相手も無事なら、これ以上何があるのだろうか――と、首を傾げた。
もしや、こちらが落ち着くのを確認してからでないと言えない様な重大な後遺症でもあるのだろうか、と内心で冷や汗を流しつつあると。
「いえね。まぁ、いずれ気付く……というか、もしかしたら、当人である貴方なら理由も心当たるかもしれないんだけど……」
そこで一拍置いてから続けた。
「気落ちしないで聞いてちょうだいね。実は……ね、貴方が入院してからの二週間。最初にご家族がお見えして以来、一度も顔を出しておられていないのよ」
「はい……?」
最初に――ということは、つまり、両親も悠も、まる二週間病院を訪れていないという意味だ。
予想とはまるで違う、しかし、ある種では信じられない先生の言葉に、自分の耳を疑うこととなった。
「え……え? 妹も、ですか?」
「妹……さん?」
「はい、妹です」
「――あ、ごめんなさい、随分大人びて見えたから、ちょっと驚いただけよ。彼女は、貴方の妹さんだったのね」
思い出すように少し考えて、先生は複雑そうに微笑んだ。
「そうね、妹さんも初日以来……でも、私も始終居るわけではないし、受付管理簿の記載も義務付けられてるわけじゃないから、私が知らないだけで訪れていた可能性はあるのだけど……」
「なるほど……」
そういうことなら、部活終えて、急ぎ足で向かったと思えば、説明がつかないこともない。
とは言え、毎日来ていればさすがに一度も見てない――なんてことはないだろうし、やはり訪れた回数はかなり少ないのかもしれないが……。
その後、先生といくつか交わした会話は、何のことはない日常的な雑談だった。
こちらを気遣ってのものだろう――あまり聞き慣れない、医者特有のブラックユーモアは、なかなかに刺激的なものが多かった。