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プロローグ

 


 コンコン――。

 乾いた音を立てるのは、自室の扉だ。

 普通ならここで入室を許可する返事をするのだが、あえて、保留してみた。

 理由は、目覚めが億劫だから――という、単純なものではない。

 それもゼロであると断言はしないが、実のところ、自分は起床して(のち)、それなりの時間を経過している。

 よって、本当の理由はなんだろう、と思推(しすい)していると、しばらくして、控えめに扉が開けられた。


「あ……おはよう、お兄ちゃん」


 ひょこっと顔を出したのは、女の子――妹だ。


「おはよう、(はるか)


『悠』というのはもちろん、目の前にいる妹の名前である。フルネームは、上結悠(かみゆいはるか)

 現在十五歳で、学年は自分より二つ下。近くにある私立の中学校――正確には『中等部』に通っている。

 大抵の人は『ゆう』と読んでしまうようで、友人の間では、それがそのまま愛称として定着しているようだ。

 つやのある長い黒髪、長いまつ毛にぱっちりとした瞳。

 スタイルは華奢で、年齢よりやや幼い顔立ち。反して、制服の上からでも分かるメリハリのある身体。

 街を歩けば人目を惹くし、中学でも一、二を争うくらい男子に人気があるというのも頷ける話だ。


「あはは……返事がないからちょっとだけ期待したんだけど……やっぱり起きてるよね。もしかしたら、今日こそは起こせるかなーなんて期待したのに」


 恥ずかしそうに、しかし、わずかに残念を含んだ微笑みを浮かべる。


「まぁ、勉強というのは、寝起きにやるのが一番効率いいからな」


 あまり知られていないかもしれないが、これは本当の話だ。

 脳が覚醒シークエンスの際に知識を叩き込んだ方が、実は吸収が速いのだ。

 寝ぼけた頭で勉強するなど、知らない人が聞けば大変に非効率かと思うかもしれないが、少しだけ考えてみて欲しい。

 本当にその通りならば、朝のニュースラッシュによる多大な情報なんていちいち覚えてはいないだろうし、それではメディアも何の為に報道しているか分かったものではない。

 意外と、朝ニュースで見た内容なんかは長い間記憶されてることが多くないか?

 ――よって、自分は起床から一時間を、勉強の時間として割り当てているのだ。


「凄いなぁ……頭では納得できるけど、とても真似できそうにないよ」


 漫画であれば、妹の目は><のようになっているのだろう。


「ははは。女の子は、身嗜(みだしな)みを整えるのに時間がかかるしな。その時間で、女の子のステータスを磨いてると思えば問題ないさ。妹が可愛くなるのは、兄貴としても鼻が高いよ」


「え――えへへ……そ、そうかな?」


 それは本心だった。


「うん。俺にとって、悠は自慢の妹だよ。勉強だって夜にしてるから成績もいいじゃないか。あ――。あと、もちろん御粧(おめか)しなきゃ見てくれが悪い、って意味じゃあないぞ」


 悠は生まれ持ったものがいいんだからな――と、付け加える。

 すると、悠は赤面し、


「お、お兄ちゃんほどじゃないよ! お兄ちゃんは勉強もできるし、運動だって凄いし、器用だし、優しいし! クラスの女の子にもね、『今度、お兄さん紹介して!』ってよく言われるんだよ? も、もちろん紹介なんてしないけど……って、別にこれは変な意味じゃなくて――」


 などと、ひとりまくし立てながら慌てる妹。

 そんな悠の様子を眺めていると、胸の内から温かくなるのを感じる。

 あぁ、なるほど――朝の、こんな些細なやり取りが好きだから、ノックに対する返事を保留したのか――と。


「そう、ストレートに褒められるとちょっと照れるな。……しかし、あれだ。紹介はしてくれないのか?」


「――! そ、それは……あの、わ、私、勉強の邪魔になるし、先に下降りてるからねっ! お兄ちゃんも時間になったら降りてきてね!」


 と、何か都合が悪くなったかのように、早足で部屋から出て行ってしまった。

 こちらの想いとしては、もう少し悠と話していたい気もするのだが、いなくなったものは仕方がない。右手のペンをくるっとひと回しして気持ちを切り替え、参考書へと意識を戻した。

 その後は、適当に勉強を切り上げ、妹の用意した朝食を手早く済まし、軽く容姿を整えてから鞄をぶら下げて、「いってらっしゃい」という母の挨拶に「いってきます」と軽く片手をあげて返事をし、妹と一緒に通学した。




 ●




『キーンコーンカーンコーン……』



 終了を告げるチャイムがなる。

 放課後になった。


 担任の教師――『嵯峨野』が退室すると、張り詰めていたクラスの緊張の糸がぷっつりと切れた。

 教師、嵯峨野刀虎(さがのとうこ)は、ここ【私立白山鵬学園しりつしろやまおおとりがくえん高等部】における生徒指導、および風紀委員会の顧問を務める強面(こわもて)として名の通った教師だ。

 その屈強さは、高等部だけには留まらず、中等部にまで伝播している。

 身長は2メートルをゆうに越え、教職にあるまじきスキンヘッド――は、自前のものかは恐ろしくて追求できない――に加え、眼帯(アイパッチ)を着用している。

 実戦形式の格闘技によって鍛え上げられた見事なまでの屈強な肉体は、あまさず隠すことをまるで惜しむことなく一見して高級と分かるスーツに包まれるもそれはパツパツに伸び切っており、しかし、びっと決まったネクタイにおいては一片の曲がりもなく、教師の、意外にきっちりした一面をうかがわせる。

 何故か、膝上に揃えられたハーフパンツによって、これを見よ! と、言わんばかりに隆々に膨れ上がった大きなふくらはぎを露出している――ようにも見えるが、これは正確には地肌ではなくストッキングだ。

 よって、この教師が着用しているのは、スーツに違和感満載のハーフパンツなどではなく、実のところは『スカートスーツ』だ。

 血を(すす)ったかのような赤いルージュに合わせられた真紅のパンプスは、生徒の返り血で染まったなんて(まこと)しやかに囁かれていたりもする。

 そこで、それらが教師の変な趣味ではない――と、みなに誤解を招かないようにはっきり断言してしまうと、『トウコ』の名前が示す通り、この教師は紛れもなく『女性』なのである。

 しかし、女性どころか男性視点からでも圧倒的過ぎるその迫力から『白山鵬の四天王』――なんて呼び名に加え、『女帝』――などどいう愛称もある。

『女帝』に関しては、一説によると自称らしいという噂もあるが、ここでは一旦置いておく。


 HRが終わると、クラスメイトは思い思いにそれぞれの行き場へと散っていったようだ。

 遠い席から、わざわざこちら近くまで寄って「じゃあな」や「またね」などと声を掛けていくクラスメイトも多いのが、内心では喜ばしい。

「放課後空いてない?」なんて誘いも受けるのだが、残念だけど生徒会の仕事があるから――と、丁重に断わらなくてはならないのが胸に痛い。余談だが、相手は女子である。

 机や下駄箱に入っていた可愛い封筒の便箋も、忘れる前にきちんと読み終えておいた方がいいだろう。

 以前、男の差出人と(おぼ)しき封筒から、何故か剥き出し『カミソリ』がプレゼントされたのだが、本体がついていなかったので、とりあえず鉛筆削りとして愛用している。


 生徒会――自分は、副会長を務めている――の雑務を終えると、既に太陽は傾きかけていた。

 使っていたパソコンをロックし、三階にある生徒会室を出て正面玄関へと向かい、二年の並びにある下駄箱から自分の革靴に履き替える。

 正面玄関から真っ直ぐ進むと、学園の記念樹である《メタセコイア》――生徒がぶら下げられているのは、おそらくは嵯峨野先生の教育的指導の一環だろう――の横を通り過ぎた先の正門付近、見慣れた影が立っていた。


「お兄ちゃん、お疲れ様っ!」


 こちらの姿に気付いて駆け寄ってきたのは、妹の悠だった。

 妹の通う中等部は、正式名称は【私立白山鵬学園中等部】といい、高等部と同じ敷地に校舎がある。

 正門から記念樹を境に道が分岐し、向かって左に行くと中等部、右に進むと高等部――という配置になっている。

 中等部と高等部の並ぶ校舎の奥には、部室棟や研究室、体育館に武道場といった様々な施設、左右には運動場や室内プール施設といったものまである。

 まぁ、ちょっとしたマンモス校だ。


「悠も、おつかれ。今日は練習だったのか?」


 問いかけると、


「うん、もうすぐ大会も近いから、みんな気合はいってるんだよ!」


 大会――と聞いて、各部のスケジュールリストを脳裏に広げると、そういえばもうそんな時期だったかと思い当たった。


「うちの部の大会も、もちろんだけど……他の部の大会も、うちにとっては大きな見せ場だからね」


 立てた人差し指をこちらに向け、にぱっと微笑む。

 悠が言う『うちの部』というのは、妹が所属している部活――チアリーディング部を指す。

 運動部の大会の度に遠征する必要があるのだから、少し考えるだけでも相当な労力を必要とするだろう。

 加えて、悠はチアリーダーのポジションに()いているのだ。


「あんまり無理をするなよ。身体を壊したら元も子もない」


「へへへ……ありがと。でも、大丈夫だよ! それに、そんなこと言ったら、お兄ちゃんだって結構無理してるじゃん。お兄ちゃんに比べたら私なんてまだまだだし……」


「そうか? 俺は、言うほど無理はしてないぞ」


 実際のところ、体調やスケジュールといった自己管理は怠っていない。全てをバランスよくこなすのが大事なのだ。

 しかし、悠の行動は『他人を応援する行為』なのだから、まるでベクトルが違うと言えよう。本音を言えば、感心してしまう。


「あーあ……『生徒会』も応援できればいいのにな」


「試合も大会もない生徒会を応援するのは……面白い発想だけど、機会に乏しいな。壇上スピーチにリアリーディングがついていたら何事かと思うだろう」


「あはは」


 状況を想像してみると、なかなかにシュールな光景だと思える。

 しかし、インパクトだけを考えれば絶大な効果はありそうなので、いっそ来年の生徒会長選に依頼してみようか――などと熟思していると、


「でもね……一番応援したい人を応援できないのはつらいな……」


「――ん? 何か言ったか?」


 どうやら、小さく呟いた悠の言葉を聞き逃してしまったらしい。

 こちらの過失なので、謝罪しつつ、もう一度聞き直そうと試みたのだが、悠は繰り返すつもりはないようだった。

 こればかりは仕方あるまい、と、自分を納得させる。


「ま、何かあったらいつでも『お兄ちゃん』に言え」


 そうして、優しく頭を撫でてやると、悠は目を薄めて喜んでいるようだった。

 そのまましばらく撫でていると、悠は少し考え込んだ表情になり、


「お兄ちゃんに――かぁ」


「うん? ……俺じゃ不満だったか?」


 少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。もしも、それが言葉通りのニュアンスなら、自分でも相当にショックを受けるのだが……。


「えーと……『副会長』の方が良かったか? 確かに、中等部にもいくらかの関与はできるが……」


 これは事実である。

 生徒会長が高等部に忙殺されているのに対し、副会長は、高等部単体で見ればそれほどでもない。

 その理由は、生徒会長の補佐と、影の仕事として『中等部の生徒会の補佐』もあるからだ。


「もうっ! そうじゃないってば! ……そんなに深い意味じゃないから気にしないで」


 どうやらフォローの仕方を間違えたらしい。

 少し怒ったような表情になったと思ったら、一転して半泣きに近いような態度に変わった。

 普段、滅多に機嫌を損ねない妹なので、こういう時にどう接すればいいのか……自分の経験からでは最適解が導き出せなかった。

 よっって、妹心理学の参考書でも探しておこうか、などと一考していると――


「おーっす。コースケも今帰りか?」


 振り向くと、背の高い男がこちらに寄ってきた。なかなか良いタイミングであるとは、こちらの内心の話。

 ちなみに、コースケというのは自分の名前であり、字は功祐と書く。


「あぁ」


 自分もそれなりに背は高い方だが、それよりもいくらか高い。180はあると聞いているが、まだ伸びているだろう。

 わずかに赤みがかった短髪、日焼けした肌、部活によって鍛えられた体躯はなかなかのものだ。

 全く同じ制服を着ているのは、もちろん同じ高等部の生徒であることを示す。

 名前は、『府破十流(ふわとおる)』。

 人当たりがよく、男子にも女子にも人気があり、見た目にまるでそぐわない愛称で親しまれている。


「『ふわりん』も今帰りか?」


「その名で呼ぶな――! せめて『ふわっと』の方にしろ!」


 友人はそれなりと多いと自負しているが、その中でも最も親しい友人だ。

 中等部に上がった時からずっと同じクラスなので、何某(なにがし)かの意図的なものを感じないでもない。


「まぁ、部活が終わって出てきたらお前の姿が見えたもんでな。ちょっくら走って……って、うわ!」


 普通に会話していて、唐突に何に驚いたのかと思いきや。


「――は、ハルカちゃんもいたのか! ごめんっ、気が付かなくて! 挨拶が遅れちまった」


 悠に向かって、両手を前に合わせる十流。

 確かに、自分と同じく後ろから真っ直ぐやってきた十流の位置からは、悠は死角になっていただろう。


「いえいえ。フワさんも部活お疲れ様です」


 にっこり微笑む悠。


「――ずきゅーん!」


 びんっと全身を伸ばす十流。

 どうやら、悠の微笑みパワー(当社比50%ほど)に当てられたようだ。見慣れている自分と言えど、気持ちは分からなくもない。


「……おい、中学生相手にヘンなこと考えるなよ」


「かっ、考えるわけねーだろ! 馬鹿なこと言ってんじゃねーよ!!」


 冗談で言ったつもりなのだが、そんな慌て方をされると当たらずとも遠からずだったのではないかと疑ってしまうではないか。


「悠、身の危険だ。さっさと行こう」


「え……? う、うん」


「――ちょっ! そのヒき方、冗談でもまじで酷くない!?」


 適当にすたすた歩くと、十流もやや諦めつつ後ろをついてきた。

 もちろん、こんなのは日常よくある友人とのやり取りというもので、別に本気でやっているわけではない。

 歓談しながら歩いていると、すぐに十流の帰宅ルートの分岐へ差し掛かり、軽く手をあげて別れを告げた。


「お前のことは忘れないぞ」


「なんだそのもう二度と会わないみたいなニュアンスは――!」


 最後まで愉快なヤツだった。

 あれで将来有望なアスリート選手なのだが。




 ●




 さて――。

 ここから通りを真っ直ぐいけば自宅方向だが、左に逸れれば商店街がある。

 幸い、まだ日は傾いただけで沈んでおらず、外は明るい。

 夕飯――は、今日は母が買い物を済ませるだろうと推測し、では、例の参考書でも探そうかと本屋へ向かうか逡巡しつつ、さすがに妹を連れたまま買うようなものではなく、さりとてここで悠と別れてまで探すほどのものでもないだろう――なんて頭を巡らせていると。


「あれ……? お兄ちゃんちょっと……」


 悠が、困惑した様子でこちらの袖を引いている。

 視線を追いかけてそちらを見やると、古びたマンションがあった。

 悠が見ているのはそのさらに上の方。

 目を凝らして見上げてみると、


「あれは……いや、まさか……」


 見ているのはマンションの屋上だ。そこに人影がある。

 それだけなら、特に問題もないのだが、問題は、その人影が屋上のフェンスを越えている(・・・・・)のだ。


「おい……まずいぞ、アレ(・・)は――! 冗談じゃない」


 思い当たったのは、まかり間違っても妹の前で見せられる光景ではないし、そも性格的に放っておける状況でもない。即座にその場を飛び出した。

 走りながら周囲を見渡すが、付近に人はおらず、飛び降りたとしても受け止められるような物もない。

 こんなことなら十流もいれば――なんて、今更意味のないことなど考えるだけ脳内へ赤血球が運び込んだ酸素を無駄に消費するだけなので、とにかく走った。


「悠――! お前はあいつを下から説得してくれ!!」


「う、うん! 分かった!」


 後ろをついてきていた悠だが、こちらの走る方向から意図を察したようだ。

 こちらが投げ捨てた鞄を拾い上げた悠は、すぐさま人影の立つ正面へと移動するべく方向を転換した。

 まだ日も暮れない住宅地であんなことを仕出(しで)かす人間なら、あるいは誰かが引き止めるのを待っている可能性もある。

 そうやって何とか悠に時間を稼いでもらう計算をしつつ、急いでマンションの反対側へと回りこんだ。


「入り口は……あっちか!」


 勢いのまま、マンションの入り口へと飛び込んだ。

 古い建物であることからセキュリティの類のものが一切ないことを今は有り難く思いつつ、管理人に何かひとこと叫んで緊急を告げようか迷ったが、管理人室に人気がないのを察し、素通りで階段を目指した。

 作りとしては、初めに入り口の階段で二階まで上がった(のち)、さらに通路を進んだ先――マンションの中央にある階段を登らねばならないようだ。

 すれ違った住人に「申し訳ありません!」と謝罪を述べながら、なんとか中央階段へと辿りついた。

 ここまででも、既にかなりの体力を消耗しているが、ここから先は気力と根性との勝負だ。

 自主的に身体は鍛えているとはいえ、本職の運動部とスタミナ勝負をすれば分が悪い程度の自覚はしている。

 それでも、今はただ、全力で走るしかなかった。


(あと……半分――っ!)


 屋上の状況がどうなっているのか全く掴めないのがもどかしい。

 よもやもう飛び降りてはいないだろうか、なんて暗い思考を振り払いながら、自身の足に鞭を打って駆け上がった――。


 バンッ――と、大きな音を立てて、おそらくは屋上へと続く扉であろう、鉄製のそれを押し開けた。

 飛び出した先で、やや茜がかった空へと視界が広がり、目的地に着いた――なんて安堵の息をつく暇もなく、急いで先の人物を探す。

 外から鍵を掛けられてないのは幸いだったが、思えば、ここで大きな音を立てたのは失策だったかもしれない――そう気付いたのは、目的の人物と目が合ってからだ。


「な――なんで――っ」


 声を上げたのはフェンスの外にいる男だった。

 不精な髪型に、使い古されたシャツ――見るからに不健康そうな身体つきをしている。

 パっと見では、その全く自身を(いたわ)っていない外見から年齢を判別しにくいが、少なくとも大人ではなさそうだった。

 間に合ったと思うのも束の間――どうやら、注意は完全に悠へと向いていたのだろう――思いがけず、背後から大きな音を立てたことが、一瞬だが男に動揺をもたらし――そこからは、スローモーションで網膜に焼き付いた。



 ――驚いた男が、踏鞴(たたら)を踏んで後ろに下がる。


 ――もちろん、その先に地面なんてない。


 ――男の右足が空を切り、身体が大きく崩れ落ちる。


 ――遠くから妹の悲鳴が聞こえる。


 ――既に息を切らしながら、それでも必死に駆け寄るが、とても間に合う距離ではない。何よりフェンスが邪魔だ。


 ――進路を変更し、フェンスを迂回して、できうる最速の速度で男が居た場所へとたどり着いた。


 ――絶望的な光景を見ることになるだろうと覚悟して下を覗き込んだが、量らずも、予想していた最悪の結果とまでは至っていなかった。



 しかし、それでも状況は予断を許さない――。


「クソっ……なんとか引っかかってはいるが、あれじゃ長いこと()たないぞ!」


 男は、階下のベランダに干してあった布団を引っ掴んで、なんとか落下にブレーキを掛けたようだった。

 覗き込んでいた時に、男の代わりに落下していたのは、大きな敷き布団である。

 しかし、その反動で頭と足の位置が反転し、今はさらにその下の階のベランダにズボンが引っ掛かってぶら下がっているだけの状態だった。

 周囲には、妹の悲鳴を聞きつけた住人がなにごとかと集まってきているようだが、該当する部屋――あるいは上下左右隣接する部屋の主は、気付いてないのか不在なのか――は判別できないが、とにかくこの場にはいない。


(引き返してる……時間はなさそうだな――)


 そもそも、部屋の住人が留守では、その場まで走っても結局は玄関の前で無駄に立ち往生となる。


(ならば、やるしかない――!)


 屋上の縁に対して背中を向ける。そのまま姿勢を沈めつつ、縁に両手を掛けて、足を降ろす。

 つまり、ここから下の階へ移動するのだ。


「――お、お兄ちゃん!?」


 妹の悲鳴と引き止める声が聞こえる――それはそうだろう。

 しかし、今はそれを聞いている余裕はなかった。

 何せ、一歩間違えれば、明日の朝刊の紙面を飾るのは間違いなく自分になるからだ。

 雑念は全て捨てて全神経を集中しなければならない。


(一階辺りの高さは、床や天井を含めてもおそらく3メートルほど――足場となるベランダフェンスを1.3メートルと見積もり、かつ自分の身長177センチから腕の伸ばした状態から縁に手を掛けた状態を差し引いてもゆうに2.1メートルは越える――つまり、落下なしで届く!)


 思考は一瞬だ――。

 見えない足元を必死に探りながら、なんとかベランダフェンスに着地することができた。

 後は、ここでバランスが崩れないように屋上部分の裏側――ベランダ部分の天井へと手を着き、ベランダフェンスに乗せた足に力を入れて姿勢を固定する。

 再度、同じ作業で次の階へと移動すればいい。


(こんなに緊張するのは、生まれて初めてだな――)


 今までの人生では、己の努力の甲斐あって、何事も卒なく――むしろ、全てにおいてほぼ望む結果を叩き出してきた。

 勉強だろうが、運動だろうが、人間関係だろうが、論文だろうが、芸術だろうが、音楽だろうが、あるいは料理だろうが―!


(俺にできないことはない――!!)


 そう心の中で叫び、自身を叱咤激励する――!

 実際には、できないことの方が大半であるのが現実だという事実を頭では理解しているが、今の自分にはそれが必要だった。

 そうして男が宙吊りになっている階から、さらにひとつ下の階へと目指す。

 理由は、大の人間一人を引き上げるより、下から内側――つまり、ベランダ側へと引き込んだ方が成功率が高いと踏んだからだ。

 周囲から掛けられる『激励』の声を胸に、そうして、再度降下を開始しようと手すりに手を掛けて身体をぶら下げると、ここで予想外の事態が生じた。


 ――なんと、宙吊りになっている男が、こちらの身体を掴んできたのだ!


(……は!? お、お前なにやってんだよ――!!)


 せめて、こちらが下の階のフェンスに足を着けた後ならまだしも、まだこちらは腕の力だけでぶら下がっている(・・・・・・・・)状態である。

 もし、こんな状況で男が落下を始めたら、とてもではないが二人分の体重など支えきれないのは目に見えているし、一気に背筋が寒くなる。


「お、お前――必死なのは分かるが、絶対助けてやるからとにかく落ち着け!」


 まさに溺れる者は藁をも掴む、というやつだろう。

 こちらの言葉などまるで聞こえてないかのように、さらに男は両の腕を回してしがみついてきた。

 冷静に考えている余裕はないが、何故、つい先ほどまで自殺しようとしていた人間が、ここまで生に必死に執着するのだろうか疑問ではある。


(くそっ――せめて、足だけでも下に着けないと――!)


 急いで足場を探る。こちらも動揺しているせいか、思うように足が届かない。その上、手すりにかけた手は汗を握り、脳内が警告を発している。

 ようやく右足がフェンスに届き、左足を乗せる――その時だった。

 引っ掛かっていた男の服が破れ、加重が全てこちらに移る。


 ――次の瞬間、二人は一体となって落下した。

 周囲の人の悲鳴があがる。とりわけ耳につくのは悠の悲鳴か。


(しまっ――!)


 助かるべくの最善の策を見つけるべく、思考を巡らせる。

 落下する高さは、三階+フェンス分の高さ――9メートル強だ。

 受身――できれば、三点着地以上、そして頭部を守れば命に別状はないはずだ!


(しかし――っ!)


 問題はこちらにしがみついている男だ。

 これでは受身をとることもままならないし、落下角度によっては男の加重までこちらが背負うことになる。

 その先に待っているのは、確実な死(・・・・)だ――。

 男を下にすればこちらは助かる可能性も高まるが、それでは何の為にここまで苦労をしたのか分からないし、何より悠も含め、(あと)を引く記憶も最悪なものになるだろう。

 よって、その思案は排除し、他の可能性を模索する。

 だが、現状は一刻の猶予も許さなかった。


(俺は――)


 拳を握る。


(最後まで――)


 そして腕を伸ばした。


(諦めん―――!)


 伸ばされた先の両手が何かを掴んだような記憶があるが、直後、身体を襲う大きな衝撃と共に、意識が途切れた。

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