54、mind
不思議な感触だった。
ここにくるのは二回目でしかないというのに、小さな安心感があった。
荒い波、静かな波を掻き分けて訪れた場所。
東西南北に部屋が配置されたあの場所。
そのうちの二箇所は前回の【ソウルブラスト】でどういう場所なのか分かっている。
一つは現代的な、言ってしまえば私の現実世界に存在するであろう部屋。
もう一つは宗教的な、荘厳さが佇む部屋。
どういう理屈なのか、どういう事態なのかは全く分からないが二つの部屋について考えられることがある。
最初の私達の世界にありそうな部屋、あそこで見たシルエットはおそらく彩香さんなのだろう。
残念ながら顔立ちが分かるほどの形を成していなかったし、一方的に生活のワンシーンを見せ付けられただけで会話は成立しなかった。
限られた時間の中では訪れるべき部屋ではないだろう。
もう一箇所の部屋、そこにはクランヌがいる。
それはゲームマスターとして彩香さんが演じているのではなく、エッダーやノディアンが知っている方のクランヌ。
ある意味でオリジナルといった存在、会話のやり取りが成立する存在。
何か手がかりを得るならばここしかないだろう。
残り二つの部屋も気になるけど、何かしらの危険にさらされるかもしれない。
自身の心臓音を鎮めるために、胸に手をあてた。
さあ、いくわよ。
ドアがすんなりと開くと、以前見たままの風景が視界に広がった。
美しく佇む花のような女性は変わることなくそこにいた。
――あら、またいらしたのですね。
ええ。またお邪魔しにきたわ。聞きたいことがあるの。いいかしら?
――ええ、かまいませんよ。ですが、以前私と交わした約束は……
忘れてない。でも、そこに関わる問題があってね。だから聞きたいのよ。
―わかりました。それでは何をお話ししましょうか?
ほんの少し考えた。
事情を一から説明する余裕は多分、ない。
ここがゲームであるのかリアルなのか、そういうことは省いていくべきだろう。
じゃあ……、あなたはいつからそこにいるの?
――気がついたら、でしょうか。でも、そう遠い昔じゃありません。
自分の意思でそこにいるの?
――望んでは、いません。私にはまだなすべきことが、話をするべき人達がいます。
エッダーやノディアンかしら?
――ええ。それにモリスティーニ、ネーキル教主も。
みんなを説得するために?
――それが難しいのは分かっています。せめてエッダーとノディアンだけでも、争いを止めてもらいたいと。これ以上、罪無き人々の犠牲が生まれてはならないのです。
教会が人体実験をしている。
――……はい。私はそれを伝えなければなりません。
エッダーから聞いているクランヌ像と一致する。
優しい性格の彼女が教会の勢力拡大、それに伴って生じる様々な悪を受け入れているとは思えない。
ジェニーのように親を失ってしまった子、記憶と正常な肉体を失ったソロを生み出した人体実験などを肯定できるはずがない。
前回本人が名乗ったようにクランヌであるのは間違いがない。
そして彼女自身が人体実験の事実を知っていて否定的な立場をとっている。
ということはモリスティーニとネーキルにとっては厄介な存在ということ。
少しだけ見えてきた。
具体的な技術はやっぱり分からないが、彼女はネーキル達に何らかの処置を受けてここにいる。
ディライフを知ってるわね?
――絶対に、この世に存在してはならないものです。
もしかして、あなたも開発に関わっていたの?
――……。体だけじゃない。心の傷を治すことのできる薬になると思い、協力していました。
あれが薬に? どういうこと?
――ディライフを知っているあなたなら、多くのものを終わらせてくれる気がします。知っていることは全てお話しします。
ーーーーーーーーーー
そうして私はクランヌからディライフの作成経緯、そしてそこでの彼女の役割を聞きだした。
少し整理してみる。
東側のドームと西側の教会。
二つの勢力は過去に負ったそれぞれの被害の為に、正面衝突しながら戦うことはなかったものの小競り合いは常に発生していた。
純粋な戦力でいえばドームが教会を上回っていて、本気で戦争になればドームの勝利だというのは教会の人間でもわかっていた。
ドームの高い戦闘力というのは、端的に言えばソルジャーの存在で成り立っていた。
どんなに攻撃を受けても死ぬことはなく、やがて戦場に舞い戻ってくる不死者。
そんなのを相手にしているのだから教会の劣勢は仕方がないものだったけれど、教会は教会なりに敗北を逃れようと足掻いた。
それがサイキック能力の強化、そしてそのためのディライフ精製である。
どういった着想で意思力を物質化すると考えたのか、またそれが可能だと考えたのかはクランヌも知らない。
しかしドームと違い、宗教そのものである教会では"神の奇跡"という便利な考え方があるので、特にそこは追求せずにディライフの研究がスタートされた。
――ディライフは人の意思力、感情などを物質化してできます。苦痛だけじゃない。喜びや楽しさ、寂しさなどもそうです。
最初はケガを癒すための薬の作成だった。
何らかのケガを負った人間を癒し、その癒される過程で感じ取れる感覚を削って物質化する。
クランヌはサイキック能力、"教会の華"つまり"活力"を行使し、ディライフの材料のために意思力を削られた人間のケアに当たっていた。
司祭としてのカリスマ性、人しての優しさという魅力を兼ね備えていた彼女の為にと、人体実験に身を捧げる人間を集めるには苦労しなかった。
被験者は純粋に傷を治してもらっているのだと思っていた。
そして実際にクランヌの力で体は治っていく。
そうした癒しの感覚から生まれたディライフは、投与すると体の怪我を治すことができる万能薬となった。
だけど、ディライフ精製には問題がいくつか発生していた。
一つはそれが持つ副作用である。
体に怪我を負った人をクランヌの力で回復させる。
その際に生じる癒しのイメージを削り取る。
イメージとはすなわち感覚であり記憶でもある。
体は回復しても、イメージを削られた人達にはいつしか奇行が見られるようになった。
既に治っているのに関わらず、体の治療の必要性を訴えだしたのだ。
その原因を探る過程で、ディライフには麻薬のような依存性とある種の快楽性があることに気づいた。
しかし、誰にでも奇行が起るわけではなく、実際に何も悪影響がみられない人間も一定数いたことで、教会はディライフを厳重に扱いながらも、研究を続けることに決めた。
もう一つの問題は、ディライフ研究のためにあえてケガ人が発生するような人員配置を行い、危険な任務を信徒に負わせている節がみられたということ。
ディライフを精製するためにはケガ人が、そしてなるべくなら重症の人間が必要だった。
そうして戦地におくり、重症な人間に対応していくうちに教会は気づいてしまった。
――癒しのイメージよりも、死ぬことを恐れる恐怖や、痛みによる苦痛のほうが安定したディライフを生み出すことができるのです。
そこからが悪夢の始まりだった。
重症の者を死の一歩手前までさらなる傷を負わせイメージを削りとり、そしてクランヌの能力で回復させる。
苦痛によって生まれたディライフは性質が安定しやすく、体を癒す薬としては使用できないが投与した人間の精神を崩壊させる毒として有用だった。
またその苦痛が生み出すイメージ――死や絶望、怒りは投与を耐え抜ける精神力を持つ人間にサイキック能力という名の力を発現させた。
ネガティブなイメージほどではないにしろ、喜びや快楽、または虚無感や哀しさといったイメージですらも、研究の結果で物質化できることが分かった。
ありとあらゆる感情イメージは材料になる。
そのために苦痛を与えるだけではなく、特殊な人体実験も行われていて、それら全てをクランヌですらも把握できていなかった。
――既に、止まることはできなかった。
苦痛を拡大させる、人間の感情をコントロールする。
そうした行為にクランヌは危機感を募らせた。
しかし研究を止めることはできなかった。
何故なら、ディライフは確かに治療薬的な力を持っていたこと、そしていつか来るであろうドームとの衝突に備えなければならないことがわかっていたから。
そこまでして抵抗しなければならないほど、ドーム側の搾取は苛烈だった。
だから彼女はその身を実験に捧げた。
彼女が持つ能力で体は治癒され、そして教会の兵として戦地にでていた経験はその精神力を揺ぎ無いものにした。
――モリスティーニが、手伝ってくれましたから
モリスティーニの"教会の杖"の能力で、苦痛を紛らわせる幻覚をクランヌにかける。
戦闘だけでなく、人体実験でも司祭同士の連携は上手くいった。
――しかし、せめて私だけが犠牲となるだけなら良かった。
人々にサイキック能力をもたらす奇跡の水―ディライフの存在は確かに教会の戦力を増幅させた。
だけどそうした戦力を背景に支配力を拡大することにエッダーが異を唱えた。
そんな彼がもしも奇跡の水が人々の犠牲によって生み出されたもの、それどころかクランヌ自身をも材料にしていると分かれば彼の教会からの離脱は簡単に予期できることだった。
――だから私達は、エッダーを教会の中央から遠ざけ、いざというときのためノディアンに協力を求めました。エッダーが事実を知らずに私が我慢さえすれば、少なくともこれ以上は西側の人間が搾取されることはないと思ったのです。
そう上手くはいかなかった。
――私の知らないところで私以外の人々が実験材料にされていました。そしてその過程でできた粗悪なディライフが教会の資金源として街で売りさばかれる。そして、私自身にも問題が生じてきていました。
それはどういう?
――体の傷は能力で癒すことができました。しかしイメージを削りとる作業を繰り返すうちに私という存在が少しずつ希薄になっていったのです。抽象的な表現かとお思いでしょうが、言葉どおり、私の体が消えかかろうとしていたのです。
体が、消える?
リアルならば起りえない現象だが、ゲームの世界であるここならばそう不思議ではないかもしれない。
と、いうよりもゲームとして考えるべきなのか、それとも科学的に判断できない事象が起きているのか、その境界は既にあやしいけれど、そこを考えるのは私のするべきことじゃない。
では、ここにいるあなたは何なの?
――体が消えかかろうとしたとき、一か八かの処置が私に下されました。イメージを削られることによって希薄な存在と化した私を、私ではない別の存在に移すということが行われたのです。
別の存在に移す……。
――外にいる私、それは厳密には私ではありません。クランヌではないということです。私はこの場所にいることで、この肉体の持ち主に能力を付与し続ける役割を与えられました。それは"教会の華"である"活力"。
能力を付与する? それって……。
――まさしくディライフです。私は生きたディライフとしてこの肉体に宿り続けています。肉体を失った私はもはや生きてここから出ることはできません。ここからでるということは即ち死。今更、このような実験に加担した私が神に生を懇願することは畏れ多いことです。むしろ、私自身で私を終わらせられればこんなにも悩む必要がなかったのです。
自力ではでられない。だから、終わらせて欲しい、と?
――外の私は能力が邪魔して終わらせることが難しいはず。でも、精神が形を成して漂うこの場所にあなたは自由に行き来できる。ここならば私を、消せる。
そう……。
具体的かつ技術的に現状を説明することはできない。
だけど分かることがある。
それは今目の前で対話している人物が本来の、エッダー達と共に時間を過ごしてきたクランヌであるということ。
そして肉体は、マルタの恋人である彩香さんのものであるということ。
なんと恐ろしいことだろうか、言いようのない恐怖がまとわりつく。
私達は一時的な来客のはずだったのだ。
作られたゲームの世界を訪れ、仮の体験をするだけの旅人。
それは少なくとも私達がゲームの世界に足跡を残すことはあっても、あちら側は現実世界の領域には踏み入ることができないはずだった。
彩香さんがもともとゲーム世界の住民であるのならば、それは一人のかわいそうな犠牲者というだけの存在ですんだのかもしれない。
でも彼女は、リアルを生きていた、マルタと一緒に現実を生きていた人間だったはず。
この体の持ち主はだれなの?
――消えかかっていた私には、それを確かめる術はありませんでした。ただ、付近から感じとれる弱い気配から、もしかしたら女性なのでは、と思っていました。
一体だれがコントロールしているの?
――私ではありません。そして、もともとの体の持ち主でもないでしょう。私ほどのサイキック能力を受け入れて、そのまま精神を安定させるなんてことはとても難しいことです。
肉体に関して言えば、GMという存在の特殊性が働いているのかもしれない。
彼らは能力よりもずっと上の力、"設定"で死ぬことがないのだから。
だけどこうした精神の世界まで数字でコントロールできるわけではないのなら、この肉体を動かしているのは……。
――そう、難しいはずなのに、肉体と精神との連動が安定しています。
穏やかだったクランヌの表情に影が差した。
死ぬ覚悟ができているはずの彼女の体が小刻みに震える。
でもきっとそれは、死に対する恐怖じゃない。
――恐ろしい考えが、予感が、浮かんでくるのです。だからこそ、今ここで約束を果たしてください。
私と彼女の恐怖は同一ではない。
だけど嫌なモノを取り去ってしまいたいのは、感覚を持つ生き物としての自然な行動なのだろう。
その点は一致している。
一致しているのだ。
お互いの利益の為に、命を消すのだ。
――お願いします、早く、終わらせて。
抵抗する気がないであろう彼女に【ソウルブラスト】を仕掛ければ、終わる。
モリスティーニが死に、ノディアンはエッダーと拮抗している。
後はネーキルを見つけるだけ。
終わらせてしまえば、少なくとも教会の行いからジェニーを遠ざけることができる。
終わらせなければ、外のクランヌは倒せない。
約束を果たせない。
私はうつむいていた顔を上げてクランヌを見据えた。
――覚悟が、できたようですね。
ええ、終わらせるわ。私は、思い出したから。だから確かめる。
――どういうことです? 何をなさるつもりなのですか?
あなたを、あなた自身の感情を見せてもらう。
――!?
私はクランヌの瞳を凝視した。
確かめるべきはクランヌ自身の精神世界。
ここはあくまでも、他人の器で覆われている世界。
彼女の剥き出しの感覚を確かめる必要が、私にはある。
すっと、意識がもう一層深いエリアにいく感じがしている。
高いとか低いとか、そうした三次元の感覚で説明するのは難しい。
クランヌの精神世界に佇むクランヌの精神体。
その精神世界を私は泳いでいる。
泳いでいる感覚はあるけど、何も見えないし何も聞こえない。
嗅覚も触覚も働きはしない。
ただただ、深い闇のようなところを漂っている感覚。
触覚がないのにそういうイメージが脳に飛び込んでくる。
あまりにも深すぎたのだろうか?
戻ってこれるのだろうか?
私は残された唯一のチャンスを、棒に振ってしまったの?
唯一働いていた脳のイメージさえも、ぼやけて……。
ーーーーーー
ああ、何もかも嫌だ。
昼間に見上げる薄い青空。
どうしてそれはそんなにも私を生かそうとするのか。
それ自身に意味はないとわかっていても、それは私に生きるようにと仕向けてくる。
夕暮れに見下ろす橙色の水面。
どうしてそれはこんな私を際立たせようとするのか。
寂しさを感じとれるほど、私は得ても失ってもいないというのに。
分かっている。
それらに意味がないということは。
いつだって意味はこちら側にあるんだ。
だから私は、悔しくて、情けなくて、何度も立ち止まってしまう。
そんなときは決まって、胸の内側からやってくるんだ。
――分かっているんだろ?
……嫌なものは嫌だ。我侭かもしれないけど。
――あなたは、守ってくれている。
……ただの執着よ。
――わたしは、生きてる。
……それでよかったの? 無くしたものだらけで?
――怖いだろう? 恐ろしいだろう?
……とても恐ろしい。生きることが。
ああ、複雑な感覚が、複雑に絡みついてくる。
ひとつひとつを分解することも判別することもできないけど、それでも分かるんだ。
感覚がある――生きているということ。
また立ち止まるだろう。崩れるだろう。
だけどこうして、いつだって内側からやってくる。
――これは本当のことなのだから
ーーーーーーー
全ての感覚が体に戻った。
視界は黒の闇一色だけど、それは怖いことじゃなかった。
私はそれが黒だと見えているのだから。
クランヌの感覚が伝わってくる。
言葉で語りかけてはこないけど、気持ちが分かる。
彼女の精神世界は後悔と贖罪の念で埋め尽くされている。
だけどその黒色の塊を波立たせるような強い気持ちが、私には伝わる。
そう、彼女はまだ生きたいのだ。
――わ、私の中に?
あなたの本当の気持ちが分かったわ。だから私はあなたを終わらせない。
――い、いけません。お願いですから終わらせてください。これ以上私でない私が犠牲者を増やすことに耐えられない……。
生きて、やるべきことがある。私の責任以上にそれは大きいの。
――できるのならばやっています! できないからこうして……。
いえ、できるわ。あなたを終わらせる結末よりベターな結果を残してみせる。私を信じて。
私はクランヌと視線を合わせた。
精神世界に行くためじゃなく、本当の約束を結ぶ意味を込めて。
観念したのか、気持ちを汲み取ってくれたのか、彼女は静かに頷いた。
――あなたは、どうしてそんなに……。
始めるわよ。私の思念に消されないように自分を守ってね!
私は【ソウルブラスト】を発動させた。