羽化
水が床を叩きつける音。
湯気がぼんやりと広がる浴室。
キュッ。
蛇口を締める音。
やけにいつもより大きく聞こえた。
身体の水粒をタオルに吸わせながら、鏡を見る。
映る自分の身体を手で触って確かめた。
「少し、痩せた……かな」
特に運動をした訳でも、ダイエットをしている訳でもなかった。
夏の暑さのせい。
そういうことにした。
何気なくテレビをつける。
深夜のニュース番組。
「落下事故が──」
「男性に偏り──」
耳が痒い気がして、綿棒を一本持つ。
耳の中の水分を拭き取った。
それでも痒みは取れずに残った気がした。
ベッドに横になり、スマホを見て過ごす。
暗い部屋の中、自分の顔がライトに照らされ浮かぶ。
『カサカサ』
微かに音が聞こえた。
「耳垢、奥にいっちゃったかな」
『カサッ』
一晩中、
耳の中の音が止むことはなかった。
朝、ワイシャツに袖を通す。
家を出る前に竹製の耳かきで耳の中をほじる。
『カサカサ』
なかなか届かない。
「結構、奥入れてるのにな」
『カサカサ』
「……休みの日に耳鼻科に行くか」
テーブルの上に竹製の耳かきを置いた。
扉の閉まる音が部屋に響いた。
満員電車に乗り、会社へ向かう。
『カサカサ』
「……結構、気になるな」
「そういや、イヤホン入れてたはず」
カバンからBluetoothイヤホンを取り出し、耳に押し込んだ。
音楽を流すと少しだけあの音が紛れた気がした。
声が聞こえた気がして、横目に隣を見ると見知らぬ女性の口が忙しなく動いていた。
イヤホンを片方だけ外し、耳を澄ませる。
女性は何も無かったかのように黙った。
首を傾げながらもう一度イヤホンを付けた。
女性の視線はずっと耳から動かなかった。
会社に到着し、イヤホンを外す。
『カサカサ、カサカサ』
音が少しだけ激しくなった気がした。
「もしかして耳石か?」
「早めに病院に行った方がよさそうだな」
次の日は半休を取り、午前中に耳鼻科へ行くことにした。
『……カサカサ、カサ』
休憩時間。
いつもの流れで社員食堂へ向かう。
なぜか腹が減らない。
「……夏バテ、かな」
後ろから肩を叩かれる。
「おう!今日も日替わり?」
同期入社の男だった。
「お疲れ、なんか食欲なくてさ」
同期は眉を顰めて低い声で言う。
「なんか痩せたな、大丈夫か?」
「ああ。大丈夫だよ」
『カサ……』
耳を小指でほじる。
「ん?どうした?」
不思議そうに見つめる同期。
「昨日から耳が痒くてさ、変な音するし」
「へえ、お前もなんだ」
『カサッカサカサ』
「お前も?」
「俺らの年代に多いらしいぞ」
「それ、どういうことだよ」
「みんな飛んでるって話」
同期の男はそれ以上何も言わずに食堂の列へと消えた。
「……意味わかんねえよ」
『カサ』
「なんなんだ、この音」
頭を軽く掻き、社員食堂を後にした。
食堂の端では昼のニュースが流れている。
「落下事故が──」
「男性に偏り──」
朝のニュースを繰り返す。
何度も。
何度も。
次の日の朝。
ふと、鏡の前に立つと明らかに頬がこけていた。
「あれ?こんなに痩せてたか?」
久しぶりに体重計を取り出し、乗る。
前に測った時よりも十キログラムほど落ちていた。
『カサッ』
「なんだよ、これ」
病院へ行く前に再度、竹製の耳かきで穴をほじくる。
何も出てこない。
『カサカサ』
大人しく耳鼻科へ向かった。
病院に到着し、受付を済ませる。
しばらく待つと名前を呼ばれた。
医者の前に置かれた丸い椅子に座った。
「今日はどうしましたか?」
「耳の奥に耳垢が溜まったみたいでカサカサ聞こえるんです」
マスクをつけた医者が、ゆっくりと目を細めた。
「では診てみましょう」
丸い椅子を回転させ、横を向く。
医者が頭のライトをつけ、耳の中を覗く。
「ええと……中は綺麗ですね」
「えっでも音が……」
「反対も診てみましょう」
反対側に丸い椅子を回転させる。
「こっちも綺麗ですね」
「いや、先生よく診てください」
『カサカサ』
「今も聞こえるんですよ!」
『カサカサカサカサ』
医療器具の並ぶ机が目に入る。
咄嗟に綿棒を手に取り、耳の中に入れて見せた。
「このもう少し奥で音がするんです!」
「そ、そうですか」
医者は真剣な表情で話を聞く。
目元が震えて見えた。
「……何、してるんですか?」
隣の看護師も目を見開き、俺を見ていた。
「何、見てるんですか?」
『カサカサカサカサ』
「音が、音が聞こえるんです!」
「突っ立ってないで……診てくださいよ!」
自分の怒声が診察室に響く。
自分の声が反響して聞こえた。
『カサ』
急に笑顔になる医者と看護師。
「大丈夫ですからね」
「落ち着いて、深呼吸しましょう」
俺は丸い椅子に座っていた。
荒くなった呼吸を整える。
「診察は終わりましたよ」
笑顔の医者が退室するように促す。
小さく息を吐き、立ち上がった。
「……ありがとうございました」
掠れた声。
自分の声はこんなにか細かっただろうか。
指先が冷え、痺れるような感覚が残った。
ガラガラと扉が引かれ、診察室から出る。
待合室で待つ患者が笑顔で出迎えた。
数十人の視線を感じた。
「……なに見てんだよ」
か細い声で呟く。
『カサカサ』
「……うるせえな」
誰に言うでもなく呟く。
『カサ、カサ』
まるで煽るかのように耳の音は止まらない。
自分を笑っているかのように聞こえた。
名前が呼ばれる。
支払いを済ませ、背を向けた。
『カサ』
『カサカサ……』
「何なんだよ!この音」
『カサ』
「は?」
『カサカサ』
立ち止まり、両耳に小指を突っ込む。
『カサカサ、カサ』
「これがいいのか?」
「カサ」
そのまま歩き出す。
通行人が何人も振り返ったが、もうどうでも良くなっていた。
家に帰ると、ソファにもたれた。
体が沈み、軋む音が響く。
『カサッカサ』
「なんだよ」
『カサカサ』
何となくテレビをつけた。
『カサ』
適当にチャンネルを回す。
ニュース番組で何となく手が止まった。
「落下事故で──」
「共通する性別──」
『カサ』
ソファから立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
「何もない……か」
引き出しを開け、カップラーメンを手に取る。
「別に食欲もないし」
鍋に水を入れ、コンロに乗せた。
ツマミを押しながら回す。
カチカチカチ。
音の後に青い火が上がった。
『カサカ……』
「別に怖くないだろ」
『カサ』
沸騰したお湯をカップラーメンに注ぐ。
湯気が広がっていった。
ラーメンのスープが残るテーブル。
テレビの音に耳を傾けながらワイシャツに袖を通す。
『カサカサ』
「うるせえな!どうせ社畜だよ!」
『……カサ』
玄関で靴を履き、扉を閉めた。
電車に揺られ、会社へ向かう。
気分を上げようとBluetoothイヤホンをつけた。
『カサカサッ』
「は?何でだよ」
『カサ、ゴソ』
「……これは名盤だぞ」
『ゴソゴソ、カサ』
「ああ。お前、そっち派ね」
電車は珍しく空いていた。
会社に到着し、PCを起動する。
『カサ、カサカサ』
「わかってるよ」
決められた作業を終え、定時を迎えた。
『カサカサ』
「そうだな。たまには良いか」
席を立ち、帰り支度をする。
両耳の中に小指を突っ込み会社を後にした。
電車の窓から景色をのぞく。
並ぶ雑居ビル。
蛍光のネオンが輝く。
『カサカサ、カサ』
「ん?行かねえよ」
『カサ、ゴソ』
「なに?言ってみろよ」
『カサカサ』
「……そうだったな」
顔を上げると、電車の窓に知らない男の顔が映っていた。
玄関を開き、バタバタと部屋に入る。
『カサカサ』
「分かってるって……」
「これで取れるかな」
テーブルの上の竹製の耳かきを掴み、耳奥へ突っ込む。
ガシガシと激しく掻き出す。
『カサ、コキ、コキ……』
ぽろり。
何かが床に落ちた。
栓のようなもの。
「取れた。これでいいか?」
『カサ』
「……なんだこれ」
竹製の耳かきをテーブルの上に置き、栓のようなものをそっと拾い上げる。
何となくテーブルの上に置いた。
そして──
ふと、思い出した。
「……う、上だ」
呟く。
「高いところ」
何度も呟く。
「行かないと」
靴を履き、外へ飛び出す。
走り出す。
通行人は、笑顔で振り返る。
『……コキ、コキ』
「お前まで笑ってんのか」
思わずフッと吹き出す。
「やっと、とべるっ」
振り絞るような笑い声。
腹筋が震えた。
走り続けた。
そして、足が止まる。
雑居ビルの屋上。
足元にはネオンが広がる。
風が心地よい。
フェンスに足をかける。
金属がぶつかり揺れる音。
「はははっ」
心底楽しそうな声。
『ゴソ、ゴソ』
「わかってるって」
男は耳に小指を突き立てた。
グリグリとまわす。
『カサ』
勢いをつけて飛び出した。
「はははっ!」
夜空がどんどん近くなる。
一面の星空。
「やっぱり、そうか!」
『やっと出られたんだ』




