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羽化

作者: 家宝ダンゴ
掲載日:2026/07/17

水が床を叩きつける音。

湯気がぼんやりと広がる浴室。


キュッ。

蛇口を締める音。


やけにいつもより大きく聞こえた。


身体の水粒をタオルに吸わせながら、鏡を見る。

映る自分の身体を手で触って確かめた。


「少し、痩せた……かな」


特に運動をした訳でも、ダイエットをしている訳でもなかった。


夏の暑さのせい。


そういうことにした。


何気なくテレビをつける。

深夜のニュース番組。



「落下事故が──」


「男性に偏り──」



耳が痒い気がして、綿棒を一本持つ。

耳の中の水分を拭き取った。


それでも痒みは取れずに残った気がした。



ベッドに横になり、スマホを見て過ごす。

暗い部屋の中、自分の顔がライトに照らされ浮かぶ。


『カサカサ』


微かに音が聞こえた。


「耳垢、奥にいっちゃったかな」



『カサッ』


一晩中、

耳の中の音が止むことはなかった。




朝、ワイシャツに袖を通す。

家を出る前に竹製の耳かきで耳の中をほじる。


『カサカサ』


なかなか届かない。


「結構、奥入れてるのにな」


『カサカサ』


「……休みの日に耳鼻科に行くか」


テーブルの上に竹製の耳かきを置いた。


扉の閉まる音が部屋に響いた。




満員電車に乗り、会社へ向かう。


『カサカサ』


「……結構、気になるな」


「そういや、イヤホン入れてたはず」


カバンからBluetoothイヤホンを取り出し、耳に押し込んだ。

音楽を流すと少しだけあの音が紛れた気がした。


声が聞こえた気がして、横目に隣を見ると見知らぬ女性の口が忙しなく動いていた。

イヤホンを片方だけ外し、耳を澄ませる。


女性は何も無かったかのように黙った。


首を傾げながらもう一度イヤホンを付けた。

女性の視線はずっと耳から動かなかった。



会社に到着し、イヤホンを外す。


『カサカサ、カサカサ』


音が少しだけ激しくなった気がした。


「もしかして耳石か?」


「早めに病院に行った方がよさそうだな」


次の日は半休を取り、午前中に耳鼻科へ行くことにした。



『……カサカサ、カサ』



休憩時間。

いつもの流れで社員食堂へ向かう。

なぜか腹が減らない。


「……夏バテ、かな」


後ろから肩を叩かれる。


「おう!今日も日替わり?」


同期入社の男だった。


「お疲れ、なんか食欲なくてさ」


同期は眉を顰めて低い声で言う。


「なんか痩せたな、大丈夫か?」


「ああ。大丈夫だよ」


『カサ……』


耳を小指でほじる。


「ん?どうした?」


不思議そうに見つめる同期。


「昨日から耳が痒くてさ、変な音するし」


「へえ、お前もなんだ」


『カサッカサカサ』


「お前も?」


「俺らの年代に多いらしいぞ」


「それ、どういうことだよ」


「みんな飛んでるって話」


同期の男はそれ以上何も言わずに食堂の列へと消えた。


「……意味わかんねえよ」


『カサ』


「なんなんだ、この音」


頭を軽く掻き、社員食堂を後にした。


食堂の端では昼のニュースが流れている。


「落下事故が──」


「男性に偏り──」


朝のニュースを繰り返す。


何度も。


何度も。



次の日の朝。

ふと、鏡の前に立つと明らかに頬がこけていた。


「あれ?こんなに痩せてたか?」


久しぶりに体重計を取り出し、乗る。

前に測った時よりも十キログラムほど落ちていた。


『カサッ』


「なんだよ、これ」


病院へ行く前に再度、竹製の耳かきで穴をほじくる。

何も出てこない。


『カサカサ』


大人しく耳鼻科へ向かった。


病院に到着し、受付を済ませる。

しばらく待つと名前を呼ばれた。


医者の前に置かれた丸い椅子に座った。


「今日はどうしましたか?」


「耳の奥に耳垢が溜まったみたいでカサカサ聞こえるんです」


マスクをつけた医者が、ゆっくりと目を細めた。


「では診てみましょう」


丸い椅子を回転させ、横を向く。

医者が頭のライトをつけ、耳の中を覗く。


「ええと……中は綺麗ですね」


「えっでも音が……」


「反対も診てみましょう」


反対側に丸い椅子を回転させる。


「こっちも綺麗ですね」


「いや、先生よく診てください」


『カサカサ』


「今も聞こえるんですよ!」


『カサカサカサカサ』


医療器具の並ぶ机が目に入る。

咄嗟に綿棒を手に取り、耳の中に入れて見せた。


「このもう少し奥で音がするんです!」


「そ、そうですか」


医者は真剣な表情で話を聞く。

目元が震えて見えた。


「……何、してるんですか?」


隣の看護師も目を見開き、俺を見ていた。


「何、見てるんですか?」


『カサカサカサカサ』


「音が、音が聞こえるんです!」


「突っ立ってないで……診てくださいよ!」


自分の怒声が診察室に響く。

自分の声が反響して聞こえた。


『カサ』


急に笑顔になる医者と看護師。


「大丈夫ですからね」


「落ち着いて、深呼吸しましょう」


俺は丸い椅子に座っていた。

荒くなった呼吸を整える。


「診察は終わりましたよ」


笑顔の医者が退室するように促す。

小さく息を吐き、立ち上がった。


「……ありがとうございました」


掠れた声。

自分の声はこんなにか細かっただろうか。


指先が冷え、痺れるような感覚が残った。


ガラガラと扉が引かれ、診察室から出る。


待合室で待つ患者が笑顔で出迎えた。

数十人の視線を感じた。


「……なに見てんだよ」


か細い声で呟く。


『カサカサ』


「……うるせえな」


誰に言うでもなく呟く。


『カサ、カサ』


まるで煽るかのように耳の音は止まらない。

自分を笑っているかのように聞こえた。


名前が呼ばれる。

支払いを済ませ、背を向けた。



『カサ』


『カサカサ……』


「何なんだよ!この音」


『カサ』


「は?」


『カサカサ』


立ち止まり、両耳に小指を突っ込む。


『カサカサ、カサ』


「これがいいのか?」


「カサ」


そのまま歩き出す。

通行人が何人も振り返ったが、もうどうでも良くなっていた。


家に帰ると、ソファにもたれた。

体が沈み、軋む音が響く。


『カサッカサ』


「なんだよ」


『カサカサ』


何となくテレビをつけた。


『カサ』


適当にチャンネルを回す。

ニュース番組で何となく手が止まった。


「落下事故で──」


「共通する性別──」


『カサ』


ソファから立ち上がり、冷蔵庫を開けた。


「何もない……か」


引き出しを開け、カップラーメンを手に取る。


「別に食欲もないし」


鍋に水を入れ、コンロに乗せた。

ツマミを押しながら回す。


カチカチカチ。

音の後に青い火が上がった。


『カサカ……』


「別に怖くないだろ」


『カサ』


沸騰したお湯をカップラーメンに注ぐ。

湯気が広がっていった。



ラーメンのスープが残るテーブル。

テレビの音に耳を傾けながらワイシャツに袖を通す。


『カサカサ』


「うるせえな!どうせ社畜だよ!」


『……カサ』


玄関で靴を履き、扉を閉めた。



電車に揺られ、会社へ向かう。

気分を上げようとBluetoothイヤホンをつけた。


『カサカサッ』


「は?何でだよ」


『カサ、ゴソ』


「……これは名盤だぞ」


『ゴソゴソ、カサ』


「ああ。お前、そっち派ね」


電車は珍しく空いていた。


会社に到着し、PCを起動する。


『カサ、カサカサ』


「わかってるよ」


決められた作業を終え、定時を迎えた。


『カサカサ』


「そうだな。たまには良いか」


席を立ち、帰り支度をする。

両耳の中に小指を突っ込み会社を後にした。


電車の窓から景色をのぞく。

並ぶ雑居ビル。

蛍光のネオンが輝く。


『カサカサ、カサ』


「ん?行かねえよ」


『カサ、ゴソ』


「なに?言ってみろよ」


『カサカサ』


「……そうだったな」


顔を上げると、電車の窓に知らない男の顔が映っていた。



玄関を開き、バタバタと部屋に入る。


『カサカサ』


「分かってるって……」


「これで取れるかな」


テーブルの上の竹製の耳かきを掴み、耳奥へ突っ込む。


ガシガシと激しく掻き出す。


『カサ、コキ、コキ……』


ぽろり。

何かが床に落ちた。


栓のようなもの。


「取れた。これでいいか?」


『カサ』


「……なんだこれ」


竹製の耳かきをテーブルの上に置き、栓のようなものをそっと拾い上げる。


何となくテーブルの上に置いた。


そして──


ふと、思い出した。



「……う、上だ」


呟く。


「高いところ」


何度も呟く。


「行かないと」


靴を履き、外へ飛び出す。


走り出す。


通行人は、笑顔で振り返る。


『……コキ、コキ』


「お前まで笑ってんのか」


思わずフッと吹き出す。


「やっと、とべるっ」


振り絞るような笑い声。

腹筋が震えた。


走り続けた。



そして、足が止まる。



雑居ビルの屋上。


足元にはネオンが広がる。


風が心地よい。



フェンスに足をかける。

金属がぶつかり揺れる音。


「はははっ」


心底楽しそうな声。


『ゴソ、ゴソ』


「わかってるって」


男は耳に小指を突き立てた。

グリグリとまわす。


『カサ』


勢いをつけて飛び出した。


「はははっ!」


夜空がどんどん近くなる。


一面の星空。


「やっぱり、そうか!」



『やっと出られたんだ』


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