第1章 「任務の終わりは、世界の終わりだった」
夜の山岳地帯は、音を拒絶していた。
風はほとんどなく、樹木の葉が擦れる音すらしない。聞こえるのは、自分の呼吸と、装備が体に当たるごく微かな音だけだ。月明かりはあるが、視界は悪い。夜目が利くとはいえ、油断すれば一瞬で地形に飲み込まれる。
俺――蒼真は、陸上自衛隊特殊作戦群に所属する一等陸曹だ。
レンジャー課程修了。空挺、潜水、山岳、いずれも一通り叩き込まれている。選ばれたという意識はない。ただ、生き残ってきただけだ。
今回の任務は、実戦を想定した極秘訓練。
想定敵勢力が潜伏する山岳拠点への夜間侵入、情報取得、必要であれば制圧。その後、痕跡を残さず撤退する。
分隊は四名。
先頭を行くのは斎藤准尉。
判断が早く、無駄な言葉を使わない。俺が信頼している指揮官だ。
二番手が俺。
三番手と四番手には、通信と後方警戒を任せている。
全員、無言。
必要なやり取りはハンドサインのみ。
――異変は、あまりにも突然だった。
目標地点まで残り四百メートル。
事前に確認した地形と、目の前の景色が一致しない。
あるはずの尾根が消え、代わりに見たこともない密林が広がっている。樹木は異様に高く、枝葉が上空を覆い、空がほとんど見えない。
俺は斎藤にハンドサインを送る。
「地形不一致」
斎藤は即座に分隊を停止させた。
訓練とはいえ、ここで判断を誤れば全滅もあり得る。
俺たちは実動部隊だ。演習でも「絶対安全」は存在しない。
その瞬間だった。
視界が、白に塗り潰された。
閃光とも爆発とも違う。
音が、衝撃が、時間が――消えた。
上下の感覚がなくなり、身体が宙に放り出される。
内臓が浮くような感覚。
次の瞬間、俺は地面に叩きつけられていた。
反射的に受け身を取り、転がる。
銃を構え、呼吸を整え、周囲を確認。
「……蒼真、生きてるか」
インカムに、斎藤の声。
ノイズ混じりだが、聞こえる。
「生存。意識明瞭。軽度の打撲のみ」
他の隊員も次々と応答する。
全員、生きている。
それだけで、まずは及第点だ。
だが、問題はそこからだった。
森だ。
だが、日本の森ではない。
樹皮の色、葉の形、土の匂い。
どれも微妙に、しかし決定的に違う。
「……空を見ろ」
誰かが呟いた。
夜空には、月が二つ浮かんでいた。
一つは見慣れた月に近い。
もう一つは小さく、青白く、不自然な光を放っている。
コンパスは回転し続け、GPSは沈黙。
無線は短距離のみ辛うじて通じる。
「……転移、か」
斎藤が、冗談とも本気ともつかない声で言った。
俺は否定しなかった。
現実を見れば、それ以外に説明がつかない。
状況不明。
場所不明。
敵勢力不明。
それでも、やることは変わらない。
「円形配置。警戒継続。音に注意」
俺たちは即座に展開する。
長年叩き込まれた動きが、思考を先行する。
そのときだった。
藪の向こうで、枝が折れる音。
単独。
重量は軽い。
俺は照準を向け、呼吸を止める。
現れたのは――人間の少女だった。
年齢は十代後半。
銀色の髪。
腰には剣。だが、構えが甘い。
「……人、ですか?」
知らない言語。
だが、不思議と意味が理解できた。
翻訳されている感覚。
説明できないが、頭がそう判断していた。
「敵意なし」
俺は銃を下げず、声を抑えて言う。
「ここは危険だ。動くな」
少女は震えながらも、その場に留まった。
逃げない。
武器を抜かない。
――非戦闘員。
斎藤が一歩前に出る。
「蒼真、周囲の警戒を」
その瞬間、俺は気づいた。
少女の背後。
森の奥に、複数の気配。
人間ではない。
動きが違う。
「接触!」
叫ぶより早く、俺は少女を引き寄せ、倒木の陰に押し倒した。
「伏せろ!」
次の瞬間、異形が姿を現す。
小柄な人型。
灰色の肌。
錆びた刃物。
――ゴブリン。
知識でしか知らない存在が、現実としてそこにいた。
距離、約三十メートル。
俺は躊躇なく引き金を引いた。
銃声が夜を裂く。
一体が倒れる。
二体目、脚部。
三体目、肩。
連射はしない。
確実に、止める。
だが一体が、杖を掲げた。
次の瞬間、火球が放たれる。
「魔法だ!」
俺は転がって回避。
火球が背後の木を焦がす。
斎藤の銃声。
魔法使いが倒れる。
他の隊員も合流し、扇状に展開。
無言の連携。
実戦と同じ動き。
戦闘は一分もかからず終わった。
敵は全て沈黙。
静寂が戻る。
俺は銃を下ろし、少女を見る。
彼女は震えながらも、こちらを見ていた。
「……助けて、くれたんですね」
「危険だった」
それだけ答える。
感謝されることに慣れていない。
ましてや、任務外だ。
「私は……エリシア。レインフォール王国の王女です」
王女。
その言葉が、状況の異常さをさらに強めた。
斎藤が小さく息を吐く。
「……蒼真、面倒な役目を引いたな」
「分かってます」
だが、俺は思った。
この少女を、見捨てるという選択肢は――最初から存在しなかった。
それが任務外であっても。
合理的でなくても。
彼女は、俺を見上げて言った。
「……あなた、名前は?」
「蒼真だ」
「蒼真……」
その呼び方が、胸に微かな違和感を残す。
俺は兵士だ。
守るのは国であり、命令だ。
だがこの異世界で、
最初に守ろうとしたのは――一人の少女だった。
それが、
この世界でのすべての始まりになることを、
俺はまだ知らなかった。




