リリー・フラレンシア男爵令嬢について
メルティアーノ・ラ・ドメニア国王
ドメニア王国第十五代目の国王。ある時まで王太子として資質に問題ありとされていたが、婚約者の愛によって矯正され、後に賢王と呼ばれた。
「も、申し訳ございません!」
桜の花が舞い散る中、桃色の髪が地面につくのも厭わず、頭を下げる少女がいた。リリー・フラレンシア男爵令嬢だ。男爵令嬢は、何者かにぶつかったようで、荷物が散らばっていた。
「新入生か? 顔をあげよ」
「全く無礼である!」
「殿下にぶつかるなど、言語道断!」
優しく問うたのは、殿下と呼ばれる少年で、少女を非難するのは、その側近たちだ。少女が刺客であったのなら、殿下と呼ばれた少年への接近を許した側近たちの命はない。その八つ当たり、と言わんばかりに騒ぎ立てる。
「君は愛らしいな」
「め、滅相もございません」
少女の顔を気に入った殿下。その様子にホッとした側近たち。少なくとも、殿下から咎められることはないとわかったからだ。
その一方で顔色を悪くした男爵令嬢。平民から貴族へと上がったばかりがゆえ、身分社会の恐ろしさをみなまで理解していたのだった。
「王太子殿下。婚約者であるわたくしを放って、そちらの小娘にご執心と聞きましたわ?」
いつものように、王太子が男爵令嬢を侍らせていると、婚約者である公爵令嬢が現れた。
「そなたこそ。婚約者として義理立てしにきただけだろう。去れ」
そう言われて、悔しそうに顔を歪めた公爵令嬢は、振り向きつつ去っていく。
その様子を見ていた公爵令嬢の取り巻きたちは、その日から男爵令嬢に嫌がらせを行った。
「リリー。また、いじめられたのか?」
男爵令嬢に声をかける王太子。慌てた様子で身体の後ろに泥に塗れた教材を隠す。
「な、なんでもございません!」
「少しは私を頼ってほしい」
「恐れ多いことでございます」
そう答えた男爵令嬢に、王太子は満足げに近づく。
「さすがリリー。私の思った通りの女性だ」
そう言って男爵令嬢を抱き寄せた。次の日、男爵令嬢に嫌がらせをしていた者たちは、停学処分が降った。
「王太子殿下。わたくしの派閥の者を困らさないでくださいませ」
男爵令嬢と昼食をとっている王太子の元に、公爵令嬢が現れた。
「リリーに嫌がらせをしたのだ。そもそも、そなたが派閥の者を管理しないのが悪い」
「わたくしを想っての行動ですわ」
「それでも、卸せなくてどうする。未来の王妃が」
「……所詮元平民の男爵令嬢。飛んで吹くような者について、些事は不要かと」
そう言って、公爵令嬢が少女を見遣る。
びくっと身体をすくませた少女を、王太子は抱き寄せた。
「脅すでない。そなただって、私を想っていないだろうに」
「……少なくとも、臣下として、婚約者として、想っておりますわ。それに、殿下のように堂々と婚約者を蔑ろにしておりませんもの」
そう言って扇を広げて公爵令嬢は去っていった。
「リリー、最近の私の婚約者についてどう思う? リリーを婚約者に据えるべきではないか?」
「殿下。わたしは、殿下の愛をいただければ、どんな身でもかまいませんわ」
「其方は本当に愛らしい」
そう言って、王太子は男爵令嬢の髪に口付けた。
男爵令嬢は、徐々に王太子の望むようにねだることを覚えたのだ。
「奴を公衆の面前で婚約破棄し、断罪しようかと考えている」
「まぁ、殿下。わたし、昔から正々堂々と殿方に手に入れられることを憧れておりますの。そのような方法でわたしへの愛をお示しになるのですか?」
涙目で王太子の袖を引く男爵令嬢。その顔を見て、ふんと笑った王太子は言った。
「正々堂々と君を手に入れて見せよう」
試行錯誤し、公爵令嬢との婚約を解消した王太子。養女として公爵家に男爵令嬢を押し込み、後見を得たまま男爵令嬢と婚約した。
「リリー。隣国を攻めようかと思っている」
「まぁ、陛下。わたし、隣国よりも我が国の宝石の出土を増やすように予算を分配してほしいですわ」
「リリー。伯爵家が我儘を言う。取り潰そうかと思うんだ」
「陛下。わたし、伯爵領の湖を見てみたいと思っておりましたの。取り潰しなんてやめて、突然伯爵領に視察に行く予定を立てて、困らせてしまいましょう?」
メルティアーノ国王が崩御すると、リリーは即座に王太子に戴冠式を執り行わせ、離宮へと住まいを移し、隠居した。
「まぁ、お義姉様。ごきげんよう」
「リリー王太后。ごきげんよう」
「まぁ。昔のようにリリーとお呼びになってくださいな。わたしももう隠居した身ですから」
そうねだるリリーに、元公爵令嬢は言った。
「リリー。貴女にずっと謝りたかったの。王妃なんて押し付けてしまって」
「あら? お義姉様が幸せになって、わたしはとても嬉しいのよ?」
元公爵令嬢は、心の中でこっそりと愛し合っていた現宰相で当時の王太子の側近の一人と結婚したのだった。
「貴女、陛下を愛していたの?」
元公爵令嬢のその問いを、リリーは聞こえなかったことにした。
「リリー。貴女、幸せだったかしら?」
「えぇ、お義姉様。わたしは、国を盛り立てる一助となれて、本当に幸せでしたわ」
翌年、リリー王太后は安らかに眠ったのだった。