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4、白紙のままで死を想え

 

――。

 めがさめた。

 あれ、と思って。

 けれど、声がでない。

 あ、と、お、の中間音がでる。

 わたしは……?

 わたしは、なに?

 あ、でも、眠い。

 自分が何かとか、そんな事を考えるよりも甘い睡魔が襲ってきて眠りに落ちる。

 

――。

 あ、と天井を見る。白い照明、明かり。

 白に落ち着く。

「起きたかい?」

 白い光を遮って影が見える。人の顔。弓なりに曲げた眉。

 薄い笑み。嫌な物ではない。

「赤ちゃんみたいなものだっけ……どうしたらいいのかな?」

 んー、と疑問といううなりを上げてしかし、無意識に近く手が動いて髪を混ぜられる。不愉快にはならないくすぐったいとは思う。

「あ、ごめん」

 そう言って手を引かれる。

 う、と小さい声を漏らしてその手を引き留めようとするが手が動かない。

「不調は無いみたいだな」

 すす、と足を撫でられる。

――ん。

 感覚は薄い、まどろみの中だからなのかは分からないけれど、ともかく薄い感触は鳥の羽根でなぞられた様。

――だれ?

 疑問と共に逆光の顔を見る。

 どこか心の底の方で知っているという様な声が聞こえるが、その告げている細かい内容は分からない。誰なのか私との関係は何なのかそれはわからないけれど、知っていると言う事だけは分かって。

 意識がそこを中心に集約しようとして、けれど、負荷が掛かって切れた綱のようにはらはらとほぐれて意識が散る。

 

――あ。

 感覚が再起動して。天井は白から少しくすんだ色へと変わっている。ベージュと思って、それは天井の色ではなく顔の目の前にあるシーツの海の色だと分かる。

 くすんだ白は、

(水が染みこんで……)

 乾いた後だ。

 顔の近くのシーツのシミならばそれは。

「泣きやんだみたいだね」

 今度こそはっきりと開いた目。その正面に立つ男の人は顔が細かいところまで見える。

「あ――」

「どうしたんだい?」

「あー」

 意味もない延ばしの音を放って、けれど、その音が目の前の男を示しているのだと妙に確信する。

「あー、ここはどこですか?」

「――話せるんだね」

「? へんなことをききますね、あたりまえじゃないですか」

 私はそう言って、けれど、自分の言葉に妙なところを感じるのも確かだ。

 話せる事が当然であると思っていながら、

(――理由がない?)

 どうして話せるのが当然なのか、根拠も何もない。

「――自分が誰か言えるかな?」

「……っ!」

 痛い、疼くように。鱗を逆立てた蛇が頭の中でぐるりと回ったように、摩擦のような痛みがくる。頭の中、体ではない何かが削られるような。

「――言えないか」

 溜息とも安堵とも付かない息を吐いて。

「初めまして、俺の名前は東だ」

「――? 初めまして、じゃないですよ多分」

「そう? ……まぁ、どちらにしてもこれからよろしく」

「あー、は私となかよくしたいですか?」

「そうだね」

「では、なかよくしましょう」

 私は背を起こそうとして、しかし力が入らないのを悟って右腕だけを伸ばす、天に向けて。

 震える手を、――しかし、東は取って。

「それではよろしく」

 とそう言って、しばらく私の手を握っていた。

 

 

「それでは問題はない、と?」

 俺はあの子の目が覚めてからの一連の出来事を柊女史に確認を取っていた。メールでは埒が明かないので、電話での確認をして貰うことになった。

『はい、本来柊の記憶消去は紙の上に書かれた鉛筆の文字を消しゴムで消すような物です。文字としてはそこで消去されますが、それ以下のレベルでは残ります、いわば、紙に鉛筆の通った後が凹みとして残るようなものですね』

「それは影響がでないものですか?」

『えーと、記憶操作前に何度も何度も重ねて書くような強い記憶は紙への圧が強くなりますので、同じ域を使おうとすれば違和感の様な物が出てきます』

「そうですか、――運動域は?」

『そこは念入りにとの事でしたのできつめに消してありますね。砂消しゴムで消したような感じです』

 紙ごと痛んでいるかもしれないと言う事か。

「身体認識は?」

『そこは多分大丈夫です。そこは元々消しやすいですから。スポーツの練習でも最適な運動方法を上書き出来るでしょう? そういう風にきちんと順番を踏めば身体認識の書き換えはコツ次第です』

――分からなくはない、通常の記憶はそれぞれで記憶するが、身体の動かし方は命令と一々の対応だ。百メートル走、二十五メートルクロール、走り幅跳び……最適な体の動かし方は人それぞれではあるが一人一つだ。つまり、一番良い物だけを一番出しやすい場所に記憶するということだろう。

「じゃあ、大丈夫ということですか?」

『そうですね、普通には問題ないでしょう』

「――ありがとうございます」

『はい、――えと、伺った方が良いですか?』

「――いえ、問題があったらまたご連絡いたします」

 電話を切った。

 

 

「あー、てすとって?」

「――ま、身体測定みたいなものだね」

 あのとき、あーに起こされてから三十日くらいがたった。

 私はなぜか歩けなかった――歩き方を忘れてた?――が今では普通に歩ける様になったし、体に不調はない。

 その間に……身体測定は何度かやった。背の高さや体重を量ったもので。結果を教えて貰った事はないが。

「なにをはかるの?」

「筋力とか――えーっと、どれくらいの物を持ち上げられるかとか、どれくらい高く飛べるかとか」

「ここで?」

「いや、違う部屋で」

「いく」

「あぁ、行こうか」

 あーに手を引かれて部屋を出る。

 私は空色のワンピースを着ている、サンダルもコルクを使った物だそうで、足に反動が来にくい。

 第二試験場、と言うところに行くらしいのだが部屋を出たところに男が立っていた。

「やぁ、東とその姫じゃないか」

「――なんだ、谷」

「おいおい、お前の姫に挨拶くらいさせてくれよ」

 そう言ってあー、に谷と呼ばれた男は私の目の前に立った。

 底冷えする様な目で此方の目をじっと見て。

「っは! なるほどな」

 くく、と笑って谷は立ち去った。

「……気にするな、うみ」

――うみ、か。

 私の名前、らしい。あーが言うにはだけれども。

 自分ではその名前にまだ違和感を憶える。三十日かけてもなれないという事はそれより前に長く使っていた名前があるんだろう。

(――つぅ)

 いたい。そういうことを、三十日より前のことを思い出そうとすると頭の中の蛇が動いて、私を戒める。痛い、というよりも不快に近いが、それも値が大きくなれば痛いと感じる、と、そう言う事らしい。だから、とりあえずと、前提をつけて私の名前はうみだ。

――ところで、本当の名前でないとすれば、うみという名をくれたのはあーなのだろうか?

 その思考の勢いを持ってあーを見上げるとあーも此方を向いていた。どうしたと、その目は問うていたが答える言葉はもたない。

 だから、答える代わりに前を向いて前進を促す、意味を汲んだのかそれとも意思疎通を諦めたのか、東も前に歩き始めた。

 

 

 てすとが終わって食堂に来た。

 今日の食事は『いたりあふう』だと研究員の人が言っていた。女の人で頭の中専門のお医者さんだ。馬の尻尾のような髪型を揺らしながら私の前を歩いて、『いたりあふう』の特徴を教えてくれた。

 とまと、という赤い野菜とちーず、という牛乳を固めた物をよく使うらしい、あとはおりーぶ、という果実の油をよく使うのだ、とか。日本人の舌に合っていてカロリーも低い、のだそうだ。

 『だから一杯食べても大丈夫』と自分に言い聞かせていたような気がするがあれはなんだったのだろう?

 ともかく、美味しいと言っていたので期待しながら食堂に入ると、確かに良い香りがした。

 付いてきてくれた東に何が食べたい? と聞かれた。厨房を覗くと色とりどりの皿があった。

「……んと、あの緑のと、隣の肉」

「――うみは意外とがっつりいくなぁ」

 感想を得て、あーが注文をしてくれる。

「そこのジェノベーゼのパスタ、肉は――それ仔羊? あぁ、うんそれとあとはカプレーゼとカルボナーラ」

 あーは私の分と、自分の分を注文してすぐに持ってくる。人気商品は予め決まった時間帯には大量に用意されているらしい。今はその『夕食』の時間だ。

 あーの後ろにちらりと私に『いたりあふう』のことを教えてくれた女の人が肉を二皿とデザートを三皿持って歩いていたのが見えた気がするが、気にしない事にしよう。

 私はあーが運んでくれるのを邪魔しないようにカトラリー置き場からナイフを二本とフォークを二本持ってくる。空いている向き合い席に先周りしてナイフとフォークを置く。

「ここに」

 というと、あーは笑みの顔で皿を持ってきた。

「じゃ、食べようか」

 というとフォークを赤い野菜に突き刺した。

「『いたりあふう』というのは香りがおいしいですねぇ」

 と言うと東がくすくすと笑った。

「あ、ごめん。良い事を言うなと思ってね」

「――そですか、許します。でも何でふうですか? ふうって、~みたいな、という意味ですよね? いみてーしょんいたりあ?」

 くるくるとフォークを回して麺を絡め取る。平皿の麺はこのようにして食べるらしい、どんぶりに入った物はお箸で、と言うのが教わった事だ。

「さぁね、調理員の事はあまり知らないけど、何でも昔料理の修業を途中で止めたんだとか。それから彼は『~風は作れても~料理は出来ないっす、自分半端ものですから!』っていうらしい」

「――よく分からないですけど、これはイタリア料理、というものと殆ど同じと考えて良いのですか?」

「ま、俺も料理に詳しい訳じゃないし、多分、としか答えようがないけどね。少なくとも味と栄養はしっかりしてると思うよ」

 栄養、は口にしただけでは私にはわからないけれど、味はうん、あーの言うとおり心地よい味だ。

――あ、あの女の人がお代わりに走っている。

 真剣に厨房を覗いて、三皿のデザート皿と小さなコーヒーカップを持って席に戻った。

「――えと、そうですか。イタリア、ってなんですか?」

「えーと」

 私には知識がない。今持っているのは三十日間に獲得した物だ。と言っても、一から学ぶのとは違うらしい。『普通』の子供が学ぶ順ではなく『思い出す』のに近いのだという。イメージとしては頭の中に『辞書』を持っているがその辞書に『見出し』がない状態らしい。『関連づけ』が失われている、と言う事らしいが詳しい事はわからない。

「えーと、長靴の国、キリスト教の中心を内包した国、美術の国、職人の国……ってくらいのイメージしかないね」

 俺のイメージも貧弱だなぁというあーの言葉を聞きつつ。

「長靴ってこの前お話しして貰った猫のお話の履き物ですか?」

「そうだよ、あの挿絵の黒い靴みたいな形をしているから長靴の国と呼ぶのだそうだ」

 へぇ、とよく分からないけれど頷いておいた。

 むぐむぐとパスタを噛む。しばらくすると味が単調になってきたので肉をナイフで刻んで口に含む、肉汁と塩の味が混じって口の中の味が一新される。

 そして、またパスタを口に入れると緑の濃い味が心地良い。

「てすとはあれでよかったですか?」

「……あぁ、十分だ」

 幾つかのてすと項目があったが一番最後にやったのは垂直跳びというやつだった。助走なしで上に跳ぶ、運動の連動よりも単純に運動能力が測れると言う事だった。

 手を上に伸ばして、ジャンプした到達点との間を測るのだが。

「100センチですか?」

 私の身長の七割弱を跳んだ計算になるが。

「十分すぎるぐらいだ」

 と褒めるあーは、赤い野菜と白いムースのような物を一緒にフォークに突き刺して口に運ぶ。

 私は、ナイフで骨から肉を切り離す作業に移る。

「あとはばらんすと短距離走ですけど」

「どっちも十分以上だから気にする必要はない。それとも褒めて欲しいか?」

 あーに、意地悪い笑みと共に聞かれる。けれど、私が。

「うんっ!」

 と答えると途端にあーの表情が戸惑うような物に変わる。

 それは、前からの勢いに押されるように。

「あ、えと。うん」

 あーは口ごもるようにもごもごと言ってカルボナーラの肉だけを集める。そして。

「ごめん」

 あーに謝罪の言葉を受けるが私が欲しかったのは褒める言葉だ。

――でも。

 と思って。

 全部を望むのは良くないかな、と言い聞かせる。

「いいの、べつに、きにしないで」

 いうと、あーは困ったような笑みを浮かべた。

 

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