鬼のお手伝い
季節が移り変わる瞬間を初めて見たような気がする。枯れ葉がひらひらと舞い落ちて冷たい風が通り過ぎる。今冬が来たと言っているよう。
「晴子さん、いいところに。これを手伝ってもらえませんか?」
外を眺めながら、ふらふら歩いていると花月から声がかかった。元気に承諾の返事したことに後悔した。なぜってそこにはぼろぼろの着物が何着も山のように置いてあったからだ。
「これはいったい……」
「鬼たちの着物なのですが」
「もしかして私が頼まれたのは着物の修復?」
「はい、彼らは喧嘩ばかりしていて困ります」
「花月さんのも入っているんですか?」
「ええ、物は大切にしなければいけませんからね」
「そうですね……」
試しに一番上の着物を広げてみると、片方の袖は一本の糸で辛うじてつながっている状態。そして胴体の部分にはいくつも破れた個所が見つかった。きっと鬼たちが喧嘩をして着物を駄目にしたのだろう。その姿はまだ見たことは無いけれど、鋭い牙や爪、あとは角を使って喧嘩をするのだろうか。
それにしてもどれくらいの鬼が喧嘩に関わっていたのだろうか。ざっと見るだけで百着はある。百人もの鬼が一斉に喧嘩をしたら大変なことになったのではないだろうか。それ以上に気になったのは、花月も喧嘩するということだ。
時々陽に対して小言を言うが、手を出した姿は見たことが無い。それにそんな姿想像できない。優しく丁寧な彼にもまた、知らない一面があるのだろうか。
気にはなるが、今はまだ聞かないでおこう。もし彼が話してくれるのであれば、その時はしっかり受け止められるようにしたい。
「みんな怪我したんじゃないですか?」
「ええ、でももう回復していますよ」
「そうですか」
「晴子さんは優しいんですね」
そう言われて少し複雑な気持ちになった。確かに怪我の具合は気になった。でも、鬼は恐ろしい生き物だと感じてしまったのだ。私が鬼に何かされたわけでもないのに言い伝えやら想像やらで決めつけていた。
会ったことは無いけれど、心の中で謝った。そして、破れる前の着物の状態に近づけられるように丁寧に繕うことにした。
針を使って布を縫うなど久しぶりだ。家庭科の授業以外で裁縫などしたことが無い。正直ボタンをつけるのがやっとなのに着物を縫うなんてことが出来るだろうか。
それでも、手伝うといった手前出来ないなんて言っていられない。それに鬼のことについても何か知ることが出来るかもしれない。花月のほかにも鬼がいるらしいが、皆姿を現さない。鬼に会うことが出来たら何を話そうか。どんな話題がいいだろうか。
ふとそう考えている自分に驚いた。今までなら誰かと関わりあうことを極力避けてきた。仕事で何か関わらなければならない時は最小限に抑え、仕事以外の話はしない。
そんな日々を送ってきた私が、会ったこともない鬼に何の話をしようかなんて今まででは考えられない。きっと、これもここに来たからだ。
ここの住人と関わっていくことで自分が変わるのがよくわかる。まあ、初の方はみんなからの猛攻撃みたいに感じて少しだけ疲れたけれど。でもそれは今まで誰とも深くかかわることが無かった代償なのだろう。
相手との関係が深くなればなるほど難しい。どうでもいい人相手なら自分がどう思われようとも構わない。嫌なことを言われた時は傷つくけれど、心まではえぐられることは無い。
でも、その相手が大切に思っている人なら話は別だ。嫌われたくないし、相手の目に自分はどう映っているのか気になって仕方がない。嫌なことじゃなく、ちょっとした一言でも考えすぎて一人傷つく。だから苦しいのだ。
誰かを知ることは自分のことを見せることになる。私は自分に自信が無い。好かれるような人間だとは思えないから、いつも隠してしまう。その結果、相手は私に歩み寄ることを止める。それでよかった。傷つくくらいなら、苦しむくらいなら一人でいる孤独の方がよほど居心地いい。
そう思うきっかけは大人になってから。最初は誰かの役に立てることが嬉しい。お礼を言われるとこちらまで嬉しくなるから人との関りは好きなのだと思っていた。けれど、いい人ばかりでないことも知った。
理不尽な要求を突き付けてくる人、何も言っても返事をするどころか目すら合わせようとしない人、自分の不機嫌をぶつけてくる人。挙げたらきりがない。
そんな人たちのせいで私は人と関わるのが苦手になった。人間の嫌な部分を見てしまうことでそれがすべての人がそうではないのかと考えてしまう。
だから、自分が傷つかないように最初から期待を持たない。きっとこの人は嫌な人なのだと最初から決めつけておく。そうすると嫌なことを言われても「やっぱりね」で流せる。
けれど、その人がいい人だった時は自分の心の醜さに嫌気がさす。だから、もう何も感じたくない、何も聞きたくない、何も考えたくないと全てのアンテナを切ってしまった。
多分あれがきっかけというだけで、元々そういう性格だったのだ。他の子と比べて友達を作ることも仲良くなるまでも時間がかかった。仲良くなっても自分から声を掛けるのは緊張するし、遊びの約束も断られるのではないかと不安で誘われるのを待っていることしかできない。
今思えば本気の喧嘩なんてしたことが無かった。喧嘩をすることは自分の本心を包み隠すことなく吐き出すことだと思うから、私の苦手とすることだ。
本音と本音がぶつかり合うからこそ言い争いになるし、時には深い溝を作ってしまう。けれど、喧嘩は時として人と人との絆を深めるものでもあると思う。心の底にある言葉を伝えるから嘘が無い。だから、難しい。
言葉は自分の思った通りに伝わらないものだ。それはいつだって受け取った側に左右される。私がどれだけ必死に本心だと言っても伝わらないことはある。逆もまた然り。
だから、本心なんて話したところで意味が無い。言ったところで伝わらない。伝わらないのなら伝える必要が無い。けれど、どんなに思っていても言葉にしなければ決して伝わらない。態度で示す方法もあるけれど、それは言葉よりももっと曖昧。気付かれなければ、伝わらないのだ。
こんなこと考えながらではいけないと、作業に集中しようとしたら針で指を刺してしまった。けれど、痛みばかりで血の一滴も出てこなかった。
着物の修繕作業が板についた頃、最後を繕い終えた。少し残念に思っていたところ、また花月から声がかかった。
「晴子さん。今から着物を届けに行くのですが一緒にどうですか?」
「私が行っていいのかな?」
「ええ、あなたが直したんですから」
そう言われてもあまり気が乗らなかった。それは鬼が怖いからという理由ではない。目の前にいる鬼が穏やかだということを知っている。聞いた話によると、鬼は人の気配が苦手なようで人里離れた山奥や岩の中で生活していると。だから、この家の住人と交流はあるが花月以外の鬼は一緒に住むことは無いのだと。
そんなこと聞いたら、私が会いに行ってもいいと思えない。むしろ人間が繕った着物を着てもらえるのかすら疑問だ。花月は大丈夫だと言っていたけれど。
「ちなみに、鬼は何人いらっしゃるのでしょうか?」
「十人ほどです」
「でも、着物は十倍くらいありますよね」
「これは彼らだけのものではないのです。実は私、鬼から腕を買われてたくさんの地域の鬼たちから依頼されているのです」
「そういうことか」
「安心しましたか?」
「はい。百人の鬼なんて迫力がすごそうだったから」
ずらっと並んでいる様子を想像するとやっぱり威圧感がすごい。尚且つあの着物の破損具合を見ているとどれほど激しい喧嘩なのだろうかと心配になる。
「では行きましょう」
初めて来た森は私が見たことのある中で一番深かった。まるでそこだけが別世界のようで、屋敷の近くだというのにそうは思えない。しんと静まり返ったこの場所は、空気が澄んでいて何度も深呼吸をした。
それにしても、花月は見かけによらず力持ちだ。あそこにあった着物のほとんどを大きな風呂敷に包み背負っている。風呂敷が破れないのも不思議なのだが。私は三着持つのが精いっぱいだ。
しばらく歩いたところで花月が足を止めた。
「蒼羽、花月です。着物を届けに来ましたよ」
「ああ、花月。いつもすまないね」
音もなく現れた鬼は私たちの後ろに立っていた。話し方は乱暴には聞こえず、むしろ礼儀正しさがあった。けれど、どんな姿をしているのかはまだ分からない。どんな姿でも驚かないようにしようと決意し、振り返るとそこには想像をはるかに超えた鬼の姿があった。
「初めまして。晴子と申します」
深々と頭を下げる私をおかしそうに蒼羽が笑う。
「これは礼儀正しいお嬢さんだ。ご丁寧にどうも」
鬼も私に頭を下げて挨拶を返してくれた。けれど、驚いた。目の前にいた鬼は鬼の形相ではなく人間と同じような見た目だった。
「鬼が珍しいのかな」
「大変失礼しました」
人の顔をじろじろ見るなんて初対面の相手に失礼極まりない。自分がされたくないことなのに人にしてしまうなんてなんて無神経なのだろう。
「構わないよ。俺も君のことが気になるからね」
「そうですか」
「本当に不思議だ。この森へ入ってきた時何も感じなかった」
どういうことだろうかと考えているのが分かったのか彼は説明をしてくれた。
この森は彼らの住処。ここにどんな者が入ってきたのか瞬時に把握することが出来るそうだ。悪意を持って入ってくるものは特に彼らの神経に響くそうで、すぐに追い返しに行く。そして、追い返される者のほとんどが人間。
彼らは鬼退治にこの森へやってくる。だから、この住処を守るために人間に対する警戒はとても強くなっているはずなのに私のことは分からなかったそうだ。
なんとも複雑な気分だ。悪意が無いこと感じてもらえたのはいいのだが私は人間なのだろうかと心配になる。
「ああ、君は……。そういうことか」
何か納得したように頷く。勝手に納得されて、腑に落ちない私は首を傾げた。もしかしたら、知らない間に死んでいて彷徨っていたりするのだろうか。もしそうであっても不思議ではない。
時々自分が生きているのか分からなくなることがあった。ここに存在している理由を考えては抜け出せない思考に入り込み、最終的にすべてが分からなくなってしまうのだ。そして、自分が本当にここに在って生きているのかを疑ってしまう。
「君はとても心が綺麗なのだろうね」
予想していた答えが出てこなかったことに少し安心した。
「そんなことありません。私は会ったこともない鬼を怖いものだと決めつけていました」
「それは仕方ないさ。鬼はいつの時代も嫌われ者なのだから」
「そんなの失礼すぎる」
「そうやって自分の非を認めることが出来る。それは素晴らしいことだ。それに、君は俺たちのことを理解しようと来てくれたのだろ?」
確かにそうだ。本当は怖かった。でも、知らないということはもっと怖いことだと感じたから。ちゃんと知ることで、理解することで彼らに近づけるかもしれないと思った。
彼らは私の思いに答えるように、たくさんのことを教えてくれた。この森に伝わる伝説とか薬草の名前や即席の薬の作り方。何百年も前のこの村のことや仲間たちのこと。
勇気を出してここへ来て良かった。鬼がこんなに優しいことも物知りなことも知らないまま怖がらずに済んだ。いろんな話をしているうちに夜が近づいてきた。
「だいぶ暗くなってきた。今日もう帰った方がいい」
「そうですね。そろそろ夕飯も出来ている頃でしょう。晴子さん、行きましょう」
「はい」
名残惜しいけど、居座られるのは迷惑になるだろう。せっかく花月が繋げてくれたこの関係を消してしまいたくないから、もう少しだけ勇気を出してみる。
「蒼羽さん」
「どうしたのかな?」
「あの、またここへ来てもいいですか?」
心臓が煩くてしまたない。自分から約束を取り付けるなんて何年ぶりだろう。これまでの人生でほとんど無かった。
「もちろんだ。食事処をやっているんだ。今度食べにおいで」
「はい」
帰り道に見上げた夜空は、いつもより近くに感じた。