夏休みみたいな日
蝉が騒ぎ出す季節は出来る限り動きたくない。カンカン照りの太陽の下に出るだけで体力を奪われるのだ。庭に出るのも一苦労だというのに、そんな中で何かできるとは思えない。海ではしゃいだり、バーベキューをしたりなんてもってのほか。だから、夏の思い出なんて何一つない。
別に日焼けした人を見て羨ましいなんて思っていない。ただ、どんな感じなのか気になっただけ。夏のせいにして、羽目を外すのは楽しいのかと。嫌なことを忘れて、はしゃげたらどんなに楽だろうと。
いつもは人通りがほとんどないが、近くに海があるせいで世間が夏休みに入ったことを知らされる。楽し気に話す声は甲高く響き、私の好きな音を壊していく。
縁側の少し内側で風鈴の音色を聞いていると、不審な視線を向けられた。ひそひそと話す三人。何を話しているのか分からない。けれど、心がちくりと痛んだ。彼女らが視線を一瞬外した隙に声の届かない奥へと逃げた。
昔から落ち着いているとよく言われていた。別にそうしようとしているわけではないし、自覚も無い。私からしてみれば、皆どうしてそんなにはしゃげるのかと聞きたいくらいだ。
学校に通っていた頃は毎日のように思っていた。あんなに人がいる中で、よくそんなに元気でいられるものだなと感心するくらいだ。一人悶々としていると声がかかった。
「はるちゃん、一緒に川遊びに行こうよ」
河童の翠翠は、巾着に溢れんばかりに詰められているきゅうりの一つを差し出し誘ってくれた。そう言えばここへ来てまだ一度も川行ったことが無かった。泳ぐのは得意ではないけれど、この暑い中、川で過ごすのは気持ちいいだろう。想像しただけで、ひんやりしてくる。
けれど、どこからか涼を求めてくる人はいるだろう。どうしようか悩むが、せっかくの誘いを断りたくない。
「秘密の場所があるの」
少しためらいはあるが、そんなに輝く目で見られては断るなんて出来ない。一日くらいなら我慢できるはず。
「すぐ準備してくるね」
「玄関で待ってるからー」
「はーい」
駆け足で階段を上り、「廊下は走らない」と凛に叱られながら部屋に到着する。どうしたのだろう。こういうイベントごとは嫌いなはずなのにわくわくする。夏場は特に外出を避けていた。
必要な外出さえも億劫で、家を出るまでに何度ため息が出たことやら。だというのに、冒険には何を持っていこうかなんてはしゃぐ子供のような感覚だ。
真夏の陽ざしの中では帽子は必須だ。日焼け止めを塗ってパーカーを羽織ろうか悩むところだ。きっと空気が澄んでいるところに違いない。そんな場所に行くからにはその空気を全身で感じたい。日焼けは気になるが羽織は持って行かないことにした。あと必要なものは何だろう。いろいろ考えたが、結局私はきゅうり一本を手に玄関へ向かった。
「はるちゃん、これ持っていきなさい」
玄関へ向かう途中、凛が大きな包みを渡してくれた。廊下を二度も走ったことへのお咎めはうけたものの、浮足立った心は萎むことは無い。そもそも、凛も怒るつもりは無いようだ。
それにしても重たい荷物だ。風呂敷の結び目が今にも解けそうなまんまるになっている包みは、聞かなくても何が入っているのか分かった。
「もしかしてスイカですか?」
「そこの庭で藤庵さんが育てたものよ。みんなで食べて」
「ありがとうございます」
それにしても大きなスイカだ。食卓に出てくる野菜は藤庵が全て育てているそう。手ぬぐいを頭に巻いて、農作業している姿は簡単に想像できた。野菜の袋に写真を載せれば、ファンクラブでも出来てしまいそうだ。やさしいおじさんだったが、日焼けして豪快に笑う姿は女心をくすぐると思った。
それにしてもこんなに立派なスイカも育てていたとは。二人ではきっと食べきれないだろうなと思っていたがその不安はすぐに消えた。
玄関で待っていたのは翠だけではなかったのだ。どうやら翠が誘ったようだ。みながきゅうりを手にしていた。彼女は何か誘いたいときはきゅうりを渡す癖があるようで、私も先ほど渡されたところだった。
きっと彼女からの招待状なのだろうと持ってはいたが、この先どうすればいいのか悩むところだ。このまま持っていてもいずれ腐らせるだけだ。
かといって食べてしまうのはもったいない気がすると考えあぐねていたが、悩んでいるのが馬鹿らしくなった。玄関先で気だるげ立っていた陽が「遅せえよ」と言いながらきゅうりを完食し、翠におかわりを催促していた。そのほかのみんなも手にしたきゅうりをかじりながら待っていた。食べられる招待状は案外いいものだ。
私が最後だったらしく、草履を履くと出発した。狭い道ではないというのに、一列に並ぶ様子は何とも可愛らしい。先頭は翠、その後に亜矢、唐傘の寒九郎、雪女のふぶきに小さい夏葉。大きい夏葉ではなくていいのかと思ったが、翠たちと一緒に居る時はこっちの方が都合がいいそうだ。
そして、少し遅れたところに陽と私。改めてみると不思議な組み合わせだ。翠と亜矢は仲が良く一緒にいるところをよく見かけた。ふぶきは夏が一番好きだという。だけど、日差しには弱いので、日よけの役割を任された唐傘もついてきた。雪のように白い髪と肌を守るのは大変だろう。
けれど、寒九郎は気合が入っているのかオレンジ色になっていた。日傘代わりにされているようだが、いつもより高く跳ねている様子からして楽しみにしているようだ。彼の趣味は傘の色を塗り替えることらしい。彼にとって傘は服のようなものなので、かなりのお洒落さんだとふぶきが教えてくれた。
ふぶきと話していると夏葉が怒ったように手招く。
「はるちゃん達、早くしないと遊ぶ時間が少なくなるよ」
「ごめん」
この場に夏葉がいるのには納得だ。彼は賑やかな場所にはいつも参加している。だから、今日もいるだろうとは予想していた。問題は陽だ。彼がここに居る理由が思い浮かばない。確かに彼も週末によく開催される宴会には参加している。誰よりもはしゃいでいる様子をよく見るが、こういう行事のようなものには興味ないと勝手に思っていた。
「陽は楽しいことが好きなの?」
「まあな。騒がしいところが落ち着く」
そんな考えもあるのだな。私は騒がしいとは少々苦手だ。その騒がしいのが、あやかし達なら問題は無いのだが。
「一人じゃねえって分かるだろ」
豪快に一升瓶から酒を飲む姿からはなかなか想像できないが、陽は寂しがり屋なのだろうか。
「俺に気付いてくれたのはこの家だけだった」
陽は昔の話をしてくれた。彼は一人過ごしていた。けれど、どうしても家族が欲しくなり他人の家に上がり込んでは勝手に生活を始めたという。けれど、彼の存在に気付く者はおらず家庭に溶け込むも空しさは増えるばかりだったそう。そんな時見つけたこの場所は誰もが彼を温かく迎え入れた。
「だから、騒がしいのが好きなんだ」
彼は騒がしいことが好きと言っているが、みんなのことが好きと言っているようなものだ。なんとなく彼の心内を知ることが出来て嬉しかった。
彼は自分の求める場所を見つけたのだ。それが羨ましく思えた。きっと簡単ではなかっただろう。それでも、その先へ進んだから出会えた。萎みかけていた心に、少しだけ勇気をもらった。
「そうだ、陽は冬治郎さんと仲がいい?」
「ああ」
「じゃあ、今度こういう行事があったら誘ってもらえないかな。実は今日、この川遊びに誘ったんだけど断られちゃって」
部屋で用意した後、どうしても冬治郎のことが気になり彼の部屋へ訪れていた。だが、見事に断られた。それもそのはず。大して面識の無い人に誘われても来るはずがない。他の人に誘いの依頼をすればよかったと後悔していた。
「あいつは来ないだろうな」
「仲良くなりたいと思ったんだけど」
「やめとけ」
「なんで?」
「あいつはそういうやつだ」
なんとも納得がいかないが、私より彼のことを知っている陽がそう言うなら仕方がない。いまだ冬治郎とは距離を縮められないでいた。
毎日恒例の挨拶の最後に必ず彼の部屋を訪れる。簡単な道のりではないが、迷路のような廊下をなんとか突破できるようになっていた。だが、うまくいったのはそこまで。
廊下から声を掛けてみても返事が無い。それどころか物音ひとつしないのだ。最初はいないものだと思ったが、どの時間帯に行っても返事が返って来ることは無かった。どこかでばったり会ったりしないものかと、廊下をうろうろしてみても会えない。
冬治郎の目撃情報もなかなか集まらない。彼に会えないのは私だけではないようだったが、彼のことを知らないのは私だけだった。
ここへ来てしばらく経ったが、まだまだ知らないことがある。それでも楽しそうにはしゃぐみんなを見て、頭を悩ませるのはもう少し後でもいいかと思った。石の上で座っていた私を誘う声がする。「はるちゃんもおいでよ」と可愛い三人に手を引かれ、草履をはいたまま脛まで川に浸かってしまった。
こんなところまで来て、あれこれ考えるなんて一緒にいる彼らに失礼だ。ぱしゃぱしゃと水をかけてくる三人に負けじと私もしぶきを上げる。いつだったか楽しまなければ損だと言っていた陽の言葉が今ならよく分かる。
こんなに楽しいのに一緒になって笑えないのは本当にもったいない。服に沁み込む水は体を重たくさせるけど、心は軽くなる一方だ。逆流に足を取られながらも、彼等に駆け寄り夢中で川の中を走り回った。
大人になってから、こんなに子供のようにはしゃいだのは初めてだ。大人は大人らしくしていなければならないと思っていた。私は私らしくしてはいけないと思っていた。だけど、それは違った。
だってこんなにも楽しい。これが間違っているなんて思えない。陽の言葉にこんなにも共感するとは、私はずいぶんと変わってしまったようだ。
遠くの方に目を向けると、昔の自分が見えて気がした。水に足もつけず石の上に座ったまま、どこかを眺めてつまらなそうに距離を置く。
自分の人生はなんてつまらないものだろうと思っていた。この世界が悪いのだから仕方ないと諦めていたが、つまらない原因は自分自身にあったのかもしれない。
「危ない」
その声が聞こえた時にはもう遅かった。私の背中には何かがぶつかり、その拍子に何かを突き飛ばしていた。両手と両ひざに痛みが現れた頃、何が起こったのか理解できた。私の後ろには夏葉がいて、その後ろにはふぶきの作った氷の滑り台。恐らく身軽な夏葉は思いのほか飛んでしまったのだろう。そして、私が突き飛ばしてしまったのは陽気に酒を飲んでいた陽だ。その様子からして、怪我はしていないようだが全身ずぶ濡れになっていた。
「ごめんなさい」
慌てて謝るも、陽はご機嫌な様子で「ばーか」と言っただけだった。それからは陽も水かけ合戦に加わり、頭の先からつま先までずぶ濡れになった。
びしょ濡れの服は、夕暮れ時の風にあたると少し冷えるけれどこれもまた楽しい。一列になり皆で陽の背中を盾にして風をよける。先頭を歩けて陽気だった彼はそれに気付くと、一番後ろに回り込んだ。
するとみんながそれに続きいつの間にか私が先頭になってしまった。振り返ると楽しそうな顔が並んでいる。振り向けばこの景色が簡単に見られるのなら、みんなを風から守ってみせよう。
意気揚々と先頭を引き受けたが、案の定風邪を引いた。一緒に川遊びに行ったあやかし達が代わる代わる看病をしてくれた。氷水を用意してくれたり、うどんやみかんを持ってきてくれたり。
皆があまりにも申し訳なさそうにするものだから、普段は入れない気合を入れて、一日で治した。
一人うなされていた頃とは不安度が違う。お腹が空くのに、体がだるくて寒くて動くことが出来ない。一人布団にくるまっても温まることは無かった。軽い風邪のはずなのに何日もずるずるこじらせていたなんて嘘みたいだ。
それでも悪夢は見る。うなされ目を覚ますと、のぞき込んでくる顔がそこら中に見える。ぼんやりしていたからなのか、目を覚ますにつれて多くなる姿に元気をもらった。