風の色
あの日以来、彼は大きな姿で過ごしているところをよく見かけた。住人達に驚かれてはいたが、自他ともに大して気にしていないようだった。余計なことを言ってしまったかと思い悩んでいたが、彼にとってはいいことだったよう。
いつもは垂れ下がり気味の尻尾は元気に動いている。そんな尻尾を見送り居間へ行くと、縁側で外を眺めている深月が見えた。
「お隣いいですか」
「もちろん」
「何を見ているんですか?」
「風を眺めていたよ」
さてはて風とは目に見えるものだっただろうか。水の上や葉っぱを巻き上げていれば、ある程度は分かるだろう。それでも、風が見えたという感覚にはならない。私には見えない何かが見えるのだろうか。
横に座り、同じ目線で見上げるもいつもと変わらぬ景色。
「見たいものがあるなら、一度空っぽにしてみればいい」
「具体的にどうやるんですか?」
「本当に君は難儀なことだな」
空っぽにしろと言われてもどうやればいいか、はたまたそれは頭なのか心なのかさえ分からない。
「例えるなら旅先に持っていく荷物だ。なにかと理由をつけて持ち物を入れていくだろ。それを全部置いて行く。感覚としてはそれに近いと思うね」
一人で頭を悩ませている私に助け船を出してくれたが疑問は消えない。第一旅先で何も持たずにいては不便なことが多いだろう。
前提としてある程度のお金の所持はしていることにしても、飲み物や地図、着替えにそれを入れるための鞄。どう考えても手ぶらではいけない。
彼が言ったことを理解するにはまだ時間がかかりそうだが、なんとなく感覚はつかめた気がする。なにせ私はここへ来るのに、ほとんど荷物を持ってきていなかったのだから。洗い替えに必要な服に歯磨きセット。大きめのリュック一つでここへ来た。世間一般の引っ越しと比べればかなり少ないほうだ。
それでも、全くの手ぶらというわけにはいかない。最低限の物を置いて行くにはなかなかの勇気がいる。念のためにと荷物が増える人の気持ちはよく分かる。
私もかつてはそうだった。きっと必要になるだろうと詰め込んだもので溢れる鞄はいつでも重たかった。それでも、減らそうとしないのは不安だったから。その重さは安心の証明といったところだろう。
ならば深月の言う空にするというのは、その安心を全て捨て去らなければならないということだろうか。そうなれば難易度は格段に上がる。
要らないものを捨てるだけならまだ私にも出来る。その上に、必要になるであろう物までも手放さなければならないのなら無理な話だ。
「長い時の中に居るとな、気付かぬうちに余計なものを抱え、大切なものは溢れてしまっていることがある」
ただ空を仰ぎ見る彼は私に向けられた言葉なのだろうか。どこか違う人に向けた言葉のように思える。
「暗闇にいる者にとって太陽とは救いではない。ただ、煩わしいだけの存在。ならばどうすればいいか」
「分かりません」
「それは簡単なことだ。ほんの小さな灯り一つでいい」
「そんなものでは闇は消えないですよ……」
「消す必要は無いんだよ。ただそこにあるだけでいいのだ」
やはり、彼の言うことは難しい。いつか私にも理解できる日が来るのだろうか。早く知りたくて、彼の真似をして空を仰いだ。
太陽が沈み始めた頃、なぜか風にあたりたくなった。そう言えばこの近くには海もあると聞いた。昼間は暑くてかなわないが、この時間なら気持ちの良い風が吹いているに違いない。
日差しは強くないが、帽子を持っていこう。人の視線を遮るのにちょうどいい。ここへ来て、あやかし達といることには慣れた。四六時中一緒にいるのだから嫌でも慣れる。
だからといって、人も大丈夫だということではない。確かに姿かたちはそっくりな者もいる。けれど、何かが違うのだ。その違いは何なのかは分からない。だけど、ときどき道ですれ違う人はまだ駄目だった。
「お出掛けかな?」
頭上で声がしたので見上げてみると、下駄箱の上でくつろいでいる鈴蘭があくびをしていた。彼は化け猫らしい。確かに猫の耳や尻尾があるが、夏葉と同じく人間に近い姿をしている。だが、行動は猫そのもの。小さく丸まって尻尾を揺らしている。
「うん、海の方へ行こうと思って。一緒に来る?」
「いや、わしはここで眠っているよ」
じゃあ、なんで声を掛けたのだろうかと思いながらも丸まっている姿は何とも言えない。体は大きいが、やることなすこと猫のようでライオンとか虎みたいだなと思いながらいつも見ている。そのたびに撫でたい衝動に駆られるのだが。
何度か試みてはいたが失敗してばかりだ。気付かれないようにこっそり近づいてもすぐに気づかれて逃げてしまう。嫌われたのかと思えば、今みたいに声を掛けてくる。
本当に気まぐれでつかみどころがない。目は閉じているようだが、尻尾はひらひらと動いている。起きているのなら少しくらい目を開いてくれてもいいのにと思うが、言ったところで私の要望は聞き入れてはくれないだろう。
「行ってきます」
返事は帰ってこないけれど、きっと見送ってくれているのだろう。振り返るとまた寝たふりをしそうなので今日は彼の視線に見送られることにした。
もう大丈夫だと思っていたが、まだ完全に抜け切れてはいなかったようだ。ふいに嫌な記憶が蘇る。人に話しかけた時に返事が無いのはとても辛い。もちろん、さっきの鈴蘭の態度が悪いというわけではない。ただ、そんな些細なことが引き金になることがある。
以前、仕事をしている時にはよくあった。仕事なのだから仕方ないと思ってはいてもそれが続くと結構精神を削られるものだ。
だけど、こちらも無言でいようなんてそんなことはできるはずがない。店員という立場はそういうものなのだ。客はよくて店員はだめ。それが世の常だと言われれば従うしかないのだけれど。
何度「いらっしゃいませ」という言葉を捨ててきただろう。どれほどの「ありがとうございました」を無駄にしただろう。受け取る相手のいない言葉たちは数えきれないほどある。
仕事と言うものはそういうものだと割り切れれば何の問題も無い。だが、私にはそれが出来なかった。そして、いつしか私は誰かに届けたい言葉さえも無駄にしてしまっていた。
本当は、それが嫌でしかたなかった。だから返事が帰ってこなくてもどこかに捨てられようとも、私が口にする言葉は意味のあるものにしたいと思った。そうするきっかけをくれたのは鈴蘭なのだ。
彼は私の独り言をよく聞いてくれた。眠っている彼を見つけてはそばに腰を下ろし話をする。返事は無いが、その尻尾が彼の声なのだと知った時から、私の独り言は会話になった。だから今日も、独特な挨拶を交わし屋敷を出た。
海へは来たものの、景色を楽しめそうにはない。海水浴をしに来たわけではないが、荒い波を見ていると、拒まれているようで近づけない。近くに何もなかったので砂浜に座り込み、時間が過ぎていくまで遠くで跳ねるしぶきを眺めていた。
鈴蘭のことは分かってきた。だから悲しくは無いのだが、昔のことを思い出すとどうも弱くなってしまう。今日は誰とも会いたくなくて裏口から入ろうと思ったが、生憎鍵がかかっている。壁を伝い屋根に上ることは出来ないので、玄関へ向かった。
そっと戸を開けると近くには誰もいないよう。このまま部屋へ向かってしまおうと、音を立てないように中へ入るとランプの火が灯った。
「遅かったな」
姿の無い声は鈴蘭だ。いつも私が帰って来ても目を開けることすらしないのに、今日は薄闇の中で目がばっちり開いている。
猫独特のあの目に射抜かれるとなんだか動けなくなってしまう。だが、彼の視線はすぐに消えた。それ以上言うことは無く、いつものようにあくびをして腕に顔をうずめてしまった。
眠ったかと思いきや、尻尾は揺れている。もしやこれは彼なりの謝罪なのではないだろうか。
そういうことなら私言葉を返さなければ。「ただいま」の声に耳をこちらに向けた。大して大きくない声だったのに、皆が続々と出迎えてくれる。彼らは私の声を聞いてくれる。知っていたのに、長く続いた負の感情に消し去られていた。深くまで根を張る塊を追いやるように、明るく響く声はしばらく続いた。