冬と別れる日
縁側で揺れる池を眺めていると、静かな足音が聞こえた。見ずとも分かるが、その人に早く会いたい。彼が横に来る前に振り返ると、少しだけ口角を上げて横に座る。
まるで当然だというかのように横に座る様子は何度体感しても嬉しいものだ。何を話すことなくただ横にいる。そこに会話は無いが、心地いい。ここは空気が綺麗なのか、楽に呼吸が出来る。
「晴子、話を聞いて欲しい」
「聞かせてください」
以前のような仏頂面。目が合ったというのに、微笑みさえもくれない。なんとなくこの先の言葉は予想できる。それでも、彼の言葉なら聞きたいと思った。
「俺は晴子が好きだ。ずっとそばに居たい。だが、また君を一人にしてしまう」
目を合わせることなく話す冬治郎は言いづらそうにしている。
「だから、君を幸せにしてくれる人を探してほしい。きっと、君の居場所はそこにあるはずだ」
今日の冬治郎は一段と無口だ。こんなにも彼の声を聞けているというのに、その言葉は届いてこない。もう聞きたくない。
優しい人は嫌いだ。私を思ってつく嘘は彼の心を傷だらけにしている。そして、私のことも。それを知らぬ彼ではない。知っていても、分かっていてもその言葉を選んだ。
私はこの言葉にどう応えるべきだろう。苦しみながらも私の幸せを考えてくれた。だが、彼の提案するそれは私が望むものではない。ならば、私が思う彼の幸せは彼の望むものではないのだろうか。
「私は、いつまででも待っていますよ」
笑って見せると彼は顔を曇らせる。どうしてこうも私たちはすれ違ってばかりなのだろう。互いを思いう気持ちは同じはずそれなのにそれぞれが望む未来は交わらない。
「私はここ以外に行くところがありませんから」
「君には俺なんかより、優しい人間が似合う」
「でも、それは私の好きな人じゃありません」
我ながら自分らしくないと思う。いつもの様に諦めれば冬治郎も笑ってくれる。それでもここで引き下がることは出来ない。それは彼が心から望んでいることのようには思えないから。
「君を悲しませるのは嫌なんだ」
「それなら心配ないですよ。私は今とても穏やかな気持ちなんです」
幸せという言葉では表せない。淡くじんわりとしたこの気持ち。それは冬治郎がいなくなったとしても消えることは無いだろう。
「私はあなたと居られることがこの上なく嬉しい。冬治郎さんは違いますか?」
伏せた目はいったい何を思っているだろう。苦し気に結ばれる口元は何か言いたげだ。
「いつの日かその時が来るなら、生きて君に会いたい」
泣きそうな顔をして言うものだから、私は涙を堪えきれなかった。
陽が昇りかけたこの時間は心地がいい。騒がしいのは嫌いではないが、こうして静かに景色を眺めている時間も好きになった。
春も終わりに近づいたとはいえ、この時間はまだ肌寒い。冷える指先をすり合わせる。緑が多くなった桜の木を見ながら季節が流れていることを知らされる。
ここへ来た時も同じくらいだった。この一年が長かったのか短かったのかよく分からない。目まぐるしく過ぎていく毎日に背中をされるようにここまで来た。
得体のしれない焦燥感に追われる毎日とは大違いだ。ここへ来られてよかったと思うばかりだ。風が吹き、花弁が散っていくが悲しくはない。
花は散り、葉が生い茂り枯れていく。そしてまた美しく咲くために蕾をつけることを知っているのだから。苦しみや悲しみを超えた先に穏やかな時間が待っているとは限らない。それでも進みたいと思ったのは出会ってしまったから。
「体が冷えてしまうぞ」
思い浮かべていた人の声は冷えた体ごと暖めてくれそうだ。振り返ると不揃いの湯呑を二つお盆に乗せて立っていた。
差し出された湯呑を受け取るとふいに指先がすれ違うが、何事も無かったかのように桜に視線を戻す。何を話すでもなく流れる時が過ぎてしまうのが名残惜しい。
それでも、過ぎていく時間に抗いたくはない。気付けば、両手で握った湯呑で指先が温まっていた。
私の人生に何かが足りなかった。どんなに満たそうとしても流れ出てしまうのは、その入れ物が小さいからだ。差し当たりおちょこ程度の入れ物。決してからではないのだが、入れ物は小さいがゆえに満たされても溢れてゆく。
何を注いでも、最終的にはそこにあったものは無くなっている。そうとも知らず、空っぽの入れ物を満たしてくれる何かがあるはずだと信じ、探し続けていた。
けれど、見つかるはずもない。仮に見つかったとしても、それは同じように流れ出てしまうのだ。
それを知った今でも、溢れるほどの物をくれる彼らと一緒にいる限りはどうにもならない。それ故この場所から逃げ出してしまいたくなることがある。抱えきれない優しさで押しつぶされそうになる。
けれど、私は見つけた。ずっと探していたものを。私が抱えきれず溢れさせてしまった思いを受け止めてくれる、いわば桝のような存在。それが冬治郎だった。
だから、彼の隣にいるだけで満たされた気持ちになる。それがどれほど嬉しいことなのか知らなかった。満たされなのは自分が欲張りなのだと思った。溢れてしまうのは、私が手にしてふさわしいものではないと思った。
そんな私に、それは違うと教えてくれた。だから私は、今日もここで冬治郎を待っている。冬治郎と話がしたいのに言葉が出てこない。話したいことはあるはずなのに、何を言えばいいのか分からなくなるのだ。
それでもいいと思えたのは隣に居るのが彼だから。風に吹かれる桜の花弁を、何を言うこともなく見つめている。
「すまないな」
その声が聞こえると共に、私の指先は冷たくなった。それが冬治郎の体温だとすぐに分かった。指先はどんどん冷たくなる。
「なぜ謝るんですか?」
「また、君を置き去りにしてしまう」
「私、あなたを待っていますから。いつかまた帰って来てくれるのでしょ」
「ああ、必ず」
強い風が吹いた時、寂し気な微笑みを残し最後の花弁は散ってしまった。
「またここに来ていたのかい」
声の主は鈴蘭だ。いつもの様に声だけの登場にはもう慣れた。どこにいるのかと探していると、不意に机の奥の窓が開く。驚いた私を見てにやりと笑い満足げだ。
「掃除しに来ただけだよ」
「昨日も掃除していたのに、熱心なことだね」
簡単に見透かされた本音は、彼の手によって引き出されてしまいそうで口をつぐむ。いくらここへ来ようともう冬治郎には会うことは出来ない。
それなのに毎日のようにこの部屋に来ては何もせずただ時間が経つのを待っている。そんな私を馬鹿だと笑う者はここには居ない。
ここへ来る時、彼らは決まって私を一人にしてくれる。そして、この部屋を出たら待ってましたとばかりに構い倒すのだ。「元気を出して」と言わんばかりの対応に救われるばかりだ。
私がここへ来れば皆が心配してしまう。だから、心配かけないようにと思いながらも、気付けばここへ来てしまっているのだ。
この部屋にいい思い出はほとんどないばかりか、悪い思い出の方が多い。ここへ来ては追い返され、肩を落として鈴蘭に笑われる。だが、今ではそんな思いでさえ愛おしい。
「晴子、ちょっと開けてみな」
鈴蘭が指さした引き出しを開けると、見えたのは分厚い日記帳だった。それは見覚えがある。何度か冬治郎の部屋に訪れた時、机の上にあったものだ。
「見てみな」
まるで自分の物であるかのように言ってるが、これは冬治郎の物だ。確かに私から遠ざかっていた頃、彼が何を思って毎日を過ごしていたかは気になる。それでも、本人の許可なく見るのは気が引ける。
「勝手に見たら、きっと冬治郎さん怒るよ」
「怒るものか。そこに書いてあるのは思い出なんてものじゃない。あんたに伝えられかった言葉たちが綴られている。いわばあんた宛ての手紙だ」
「でも……」
「へたくそなあいつの言葉を聞いてやってくれ」
そんな風に言われれば断れない。恐る恐る開くと、所狭しと文字が並んでいた。
四月六日
今日はこの屋敷に人間がやってきた。顔を見なくても誰なのかすぐに分かった。だが、声を掛けることは出来なかった。あの様子からすると、昔の記憶はないのだろう。ならば、知らないふりをするのがいい。きっとそれが晴子の幸せだ。
五月二七日
最初に来た時よりも、声が明るくなった。だが、時折苦し気な横顔が気になる。今も昔も変わらぬ晴子に、この世はさぞ生きづらかろう。屋敷の皆とは打ち解けられたようで安心した。
六月一〇日
晴子が部屋を訪れた。だが、彼女の顔をまともに見ることが出来ない。俺なのだと訴えかけてしまいそうになる。もう、ここへは来ないで欲しい。
七月一日
皆が笹に願い事を括り付けている。そんな子供だましのような行事に興味はない。それに、今更願うことなど思いつかない。俺の願いは叶っている。晴子は何を願っただろう。
八月二日
風鈴の音が聞こえてきた。晴子が雪女の氷を使って作ったようだ。皆が褒めている言葉に嬉しそうな笑い声。心地よい音がする。
九月九日
みんなで海へ行ってきたようだ。いつもうるさい屋敷は静まり返っている。けれど、晴子の周りは笑い声で溢れているのだろう。帰ってきた皆の話し声はいつもり疲れていたが満足げで嬉しい。
十月〇日
月から兎が土産を持って降りてきた。挨拶に来たやつは星のかけらを持ってきた。晴子にも同じものを渡したらしい。彼女は喜んでいたそうだが、やつのあのにやけ顔は気に食わない。
十一月一六日
夏葉と晴子が出かけたそうだ。山に山菜を採りに行ってきたようで、子供のように泥だらけになって帰ってきた。楽しそうで何よりだ。笑顔が増えて安心した。
十二月二七日
晴子が手作りの大福を持ってきた。これでもう何度目だろう。要らないと言っているのに何度も持ってくる。今日も温かい緑茶と大福。俺のためだけに作ってくれたのだろう。嬉しいのに受け取れなかった。
一月一〇日
また、晴子に冷たくしてしまった。深月に叱られた。だけど、彼女の未来に俺はいらない。晴子はこれからも生きていく。これから消えゆくだけの俺などいない方がいい。だが、庭から聞こえてくる晴子の声は心地いい。顔を見なくともどんな顔をして笑っているかなんて容易に想像できる。
二月四日
晴子は俺のことを思い出さない。そのことが苦しくてたまらない。けれど、ここに居る事実が嬉しくてたまらないのも本心だ。彼女がここに居てくれるのならそれでいい。遠くから見守ることに徹しよう。
三月六日
桜が綺麗だと喜ぶ晴子の笑顔はとっても綺麗だ。満開の桜でも霞んでしまうほどに。晴子さえいてくれれば、桜など必要ない。昔、晴子に桜の押し花を作ってやったことがあった。あの子はそれを大切に持っていてくれたが、今の晴子もそうだろうか。だが、この現代では写真で保存している方が綺麗かもしれない。
三月二四日
晴子があの栞を使っていない。大切そうに扱いながら、眺めていた。本に挟むための物だというのに、観賞用にしているらしい。晴子がくれた季節外れの紅葉で栞を作ったら、喜んでくれるだろうか。
四月一八日
明日は俺が晴子と初めて会った日だ。今でも思い出す。優しい春風のような笑顔。そんなあの子に何度暖めてもらっただろう。氷のように冷たい男だと言われていた俺のそばにいる晴子は変わり者だ。それは今でも変わらない。人も世も変わってしまう。新しいものこそ良いとされている時代かもしれないが、俺は何年経っても変わることのない晴子を愛している。この時代に染まらぬ、優しく真面目な晴子でいて欲しい。
彼の日記には私のことばかり書いてあった。時々出てくる住人やお客さんとのやり取りも書かれてあり、彼がどれほど慕われていたのか容易に想像がつく。そして、私への願いを最後に終わっていた。
最初からそっけなくしていたのには彼なりの理由があった。そして、ずっとそばで見守ってくれていたのだ。