Step 9. 雨の匂いがしていたから
それからシーズンが始まるまでの間、数回練習の機会があったが、ついぞライラが軍人への怯えを取り去ることは叶わなかった。相手がシャノンだとわかっていても、過去の記憶は容赦なくライラを苦しめている。本人が努力しようとしていることを知っているだけに、シャノンは歯がゆい思いでいっぱいだった。
時は誰をも待ってはくれない。アシュトン伯爵にも状況を説明し、シャノンはしばらく社交の場では軍服を着ないということになった。軍人はたいてい礼装や隊服で社交の場に参加するし、シャノンも今までそうしていたから多少目立ってしまうかもしれないが、致し方ない。
とうとうやってきたシーズン最初の王宮舞踏会の日。今シーズンにデビューする貴族令嬢は、舞踏会の前に開かれる式典に母親と参加し、両陛下に挨拶をする。そしてそのまま王宮に用意された控室で舞踏会用の装いに着替え、父親や兄、婚約者といったエスコート役の迎えを待つのだ。
近衛の職務をユーインと交代し、シャノンは宿舎に戻って夜会服に着替えた。瞳の色味と合うように仕立てた濃緑の夜会服は、特筆する点のないシンプルなものだが、それだけに着こなしやすい。おしゃれに気を遣うということをあまりしてこなかったシャノンにとって、それはかなりありがたいことだった。
足早に、デビュタントの控室へ向かう。急いで支度をしたつもりだったが、あまり余裕のない時間になってしまった。ただでさえ緊張して待っているだろうライラを余計に不安にさせてしまっては申し訳ない。
しかし、控室で待っていたライラは、笑い声さえあげながら、赤茶色の巻き毛を見事に結い上げた令嬢と親しげに話していた。
内心かなり焦っていたシャノンは、少し拍子抜けしてしまう。けれど、もう親しく話せる友人ができたのであれば、それはとてもいいことだと思い直した。
出入口付近で所在なく立っているシャノンに気づいて、ライラは立ち上がった。デビュタントであることを示す白いドレスは、上品な甘さを讃えたデザインで、華奢なライラの可憐さを余すところなく魅力的に見せている。立ち上がったライラの視線を追って、話していた令嬢もシャノンの方を見た。少し吊った目尻が特徴的な、美しい令嬢だった。
シャノンが歩み寄っていくと、ライラがにっこりと笑った。
「こんばんは、シャノン」
「こんばんは。よく似合ってるよ、そのドレス」
「……あ、ありがとう」
シャノンがためらいもせずに誉めたことに驚いたのか、ライラは言葉を詰まらせた。その様子にシャノンまで照れが遅れてやってくる。上官の娘御をエスコートすることになったと知った母に、着飾った女性を前にしたらまず褒めることと口を酸っぱくして言われたので、すぐに実践したのだが。
どこかぎこちない空気を破ったのは、先ほどまでライラと話していた赤毛の令嬢だった。
「こんばんは、私はチェルシー・アークライトと申します。あなたがライラのエスコート役ですか?」
令嬢の方から急に話しかけられたことに驚いたシャノンだったが、家名を聞いてもっと驚いた。アークライトと言えば、傍系王族であり代々国軍の元帥の肩書を持つアークライト公爵家だ。かの公爵家に、今年デビューする令嬢がいるとは知らなかった。
「はい、シャノン・ハーシェルです。お見知りおきを」
「シャノンは父の部下なの」
ライラも言い添える。チェルシーはそうなの、と頷いた。
「あら、私も迎えが参りましたわ。ライラ、またお話しましょう」
「ええ、ぜひ。ありがとう、チェルシー」
離れていくチェルシーを見てにこにこしているライラに、シャノンはそっと話しかけた。
「さっそく友達ができたんだな」
「ええ、そうなの! チェルシー、公爵家の方なのにとっても気さくで……私、少し緊張していたのね。見かねて話しかけてくれたのよ」
「へえ」
両手を合わせ楽しそうに話すライラに、シャノンは自然と微笑んだ。同性の親しい友人がいれば、エスコートを任されたシャノンとしても安心である。
そんなシャノンを見上げ、ライラははにかんだ。
「シャノン、さっきはありがとう。あなたも、とっても素敵よ」
そんなことを急に言われて、シャノンはせき込みそうになった。ライラとしてはさっきのお返しのつもりなのだろうが、そんな風に褒められるのは心臓に悪い。
「いいから、俺はべつに……」
照れ隠しでそうとしか返せないシャノンだった。みっともない自分をごまかすように、片腕を曲げてライラに差し出す。
「さあ、そろそろ行こう」
ライラは頷いて、そっとその腕に手を添えた。ぐっと近くなった距離に、花のような香水が香る。
ライラの纏う香りが届くということは、逆もしかりだ。シャノンの考えがそこに至ったとき、まるで通じたようにライラがたずねた。
「シャノンは、何かコロンとか付けているの? ……ごめんなさい、こんなことを聞くのは良くなかったかしら」
シャノンは焦った。諜報員としての仕事に差しさわりが無いよう、普段から香りをまとうことはしていないのだ。隊服から着替えるときに軽く身を清めたが、足りなかったのかもしれない。
「いや、俺こそごめん……汗とか、におう?」
離れようとしたシャノンを引き留めるように、ライラも焦って言葉をついだ。
「いいえ、そういうことではないのよ! まったく、そんなことはなくて……」
それならよかったとシャノンは安心した。言いよどむライラの次の言葉を待つ。
「その、シャノンは……いつも、雨の匂いがしていたから」
シャノンは思わず顔をしかめた。
「それって、そんないい匂いじゃないよな。ごめん」
「そう? 私は雨の匂い、嫌いじゃなくなったけれど」
「……そう」
「ごめんなさい、変な話をして」
シャノンは首を横に振った。
(雨の匂い……)
ライラがこの一月ほどの間、どのような気持ちで雨の日を迎えていたのか、少し気になったシャノンだった。
しかし思考に囚われている暇はなく、舞踏会が始まる。
ホールへ入場する段になると、シャノンの腕にかかったライラの細い手に力がこもった。
「御父上の言葉を覚えている?」
「……ええ」
今夜は陛下の傍を離れられないアシュトン伯爵から、控室のライラ宛にカードが届いていたのだ。
「今夜は、無理をしないこと」
ライラがカードに記されていた言葉を口にする。
シャノンは頷いた。
「ファーストダンスを踊ったら、壁際で休んでいよう。もしダンスに誘われても、御父上の許しを得ないと踊れないと言えばいい」
シャノン以外と踊ることができるか不確実だという懸念は、アシュトン伯爵が過保護な父親を演じることでやり過ごすことにしたらしい。
「わかったわ」
シャノンとライラは、他のデビュタントたちに続いて会場へ足を踏み入れた。
シャノンはひそかに心配していたのだが、ファーストダンスは問題なく済んだ。すっかりシャノン相手のダンスに慣れたのか、ライラは笑顔さえ見せたのだ。
「なんだか不思議だわ」
踊り終えて、手筈通り壁際へ移動しながら、ライラは頬を上気させて言った。
「何が?」
「練習のときと同じように踊っただけのはずなのに……とても楽しかったの」
「……そうか」
シャノンの胸の奥が、じわりと温かくなる。
「私、とうとうデビューしたのね……」
感慨深げに、ライラは呟く。きっと、こうして無事デビューできたことへの実感がようやく湧いてきたのだろう。
「ライラ、お祝いしよう。何か持ってくるよ、何がいい?」
壁際には、休憩や歓談のためにソファやテーブルが設えられている。その一つにライラを座らせて、シャノンは聞いた。
「ありがとう……リンゴ酒がいいわ」
「甘くておいしいよな」
シャノンがそう言うと、ライラは笑った。きっとシャノンが甘党であることを思いだしたのだろう。
シャノンがリンゴ酒のグラスを二つ持って戻ってくると、ライラは数人の女性に囲まれて少し困った顔をしていた。戻って来たシャノンに気づき、あからさまに安堵している。
そんなライラの反応を見て振り返った女性たちは、シャノンも面識があった。
「まあ、シャノン! お久しぶりね、リズは元気?」
「だめよ、もうハーシェル少尉とお呼びしなくては」
「立派になったわね、デビュタントのエスコートまでしているなんて!」
全員、姉のリゼットの友人たちだった。早々に夫を放って夫人同士の社交に興じているらしい。リゼットとそっくりなシャノンのことはどうも弟のようにしか見えないらしく、一向に子供扱いを改めてくれない。
「お久しぶりです。姉は元気にしているようですよ。今日には間に合いませんでしたが、今シーズンは王都に来る予定です」
「まあそうなの、嬉しいわ!」
「ではそろそろ行くわね、お邪魔をしても悪いし」
「しっかりね、シャノン。ライラも、今夜を楽しんで」
口々に言って、彼女たちは去っていく。他の女性たちの輪に入って、楽しそうに会話しだした。
「もう行ってしまったわ。お姉様のお知り合いなのね」
「ああ……」
シャノンが戻ってきて会話もそこそこに去っていった彼女たちを見て、シャノンは自分の失敗に気がついた。
「悪い、ライラ。一人にして」
飲み物を取りに行くわずかな時間とはいえ、大切に預かっているライラを一人にしてしまった。特に今夜はデビューであり、ライラは不安も抱えている。誰か知り合いなりを見つけてから、離れるべきだった。楽しそうなライラを見て、すっかり浮かれてしまっていた。
彼女たちは、その状況に気がついてライラと話していてくれたのだろう。
「……何もなかったのだから、そんな顔をしないで」
「……うん、ありがとう。……さあ、乾杯しよう。デビューおめでとう、ライラ」
「ありがとう」
シャノンとグラスを合わせ、ライラは花がほころぶように笑った。
(ライラはやっぱり、笑っている方がずっといい)
そう思うと、シャノンは背筋が伸びるような気がした。ライラが憂いを取り払い、アシュトン家もライラ自身も認められる婿を見つけるために、シャノンは全力を尽くす決意を新たにする。
何人か、ライラをダンスに誘う男性がいた。アシュトン家と結びつきたい者はたいていが軍人である。話しかけられるたび恐怖に身体を強張らせていたライラだったが、父親を理由に自分で断った。
男たちは納得して引き下がるが、去り際シャノンを睨みつけていくのを忘れない。中にはライラに聞こえないように嫌味を耳打ちしていくやつまでいた。
「娘に取り入るとは姑息だな、落ちこぼれが」
シャノンが無視を決め込むと、面白くなさそうに去っていく。
いちいち気にしていては身が持たない。相手もわかってはいるのだろう、娘に取り入ろうが、父親に認められなければエスコートなど任されるはずもないのだから。
「何か、嫌なことを言われたの? ……私のせいで」
「君のせいじゃない」
「でも」
「気にするなよ。でも、そうだな、いいか、ああいうやつは駄目だ。これからも相手にしない方がいい」
シャノンがそう言うと、ライラは目を瞬かせた。
シャノンは少し首を傾げる。
「……忘れてないよな、君が社交を頑張らなきゃいけない理由」
「も、もちろんよ。そうよね、私も見極めなくてはいけないわね」
二人でそんな話をしているところに、声がかかった。
「ご一緒してもいいかしら?」
背の高い男性にエスコートされたチェルシー・アークライトだった。ライラは嬉しそうに頷く。
「お兄様、ありがとうございます。わたくしはしばらくここにおりますわ」
「わかった。帰りたくなったら声をかけなさい」
兄、ということは、この男性が次期アークライト公爵ということだ。ダークブラウンの髪を丁寧に撫でつけたその姿には一部の隙も無い。切れ長の目元と高い鼻筋が堅い印象を与える整った顔立ちをしている。話し方からも、厳格で真面目そうな人柄が伺えた。チェルシーにはあまり似ていない。
シャノンが会釈すると、彼は軽く頷いて去っていく。
「ごめんなさい、兄は無口な人なの。社交もあまり好きではないみたいで」
「いえ」
「ライラともっと話したくて、声をかけてしまったわ。本当にお邪魔ではない?」
「大丈夫ですよ。ライラも先ほど、あなたとお話したと嬉しそうにしていましたから」
「シャノン!」
シャノンがばらしたからか、ライラは顔を赤くした。チェルシーは声をあげて笑う。チェルシーはきつい印象の美人だが、屈託のない笑顔は飾ったところがなかった。
それからは、ライラとチェルシーが楽しそうに会話をしていた。シャノンはあまり口を挟む隙が無い。もとより二人の邪魔をするつもりもなかったので、シャノンはライラの結婚相手になりそうな男性を観察して過ごした。