Step 8. まだ、手が震えてる
その夜、シャノンはアシュトン伯爵の親戚の名義で借り上げている家に寄り、真っ黒なドレスに着替えた。ダークブロンドのかつらを低い位置で結いあげ、小ぶりの帽子をかぶる。つばから垂れた薄墨色のベールが目元を隠し、シャノンの明るい緑の瞳を灰緑色に見せる。
諜報部の備品の中には、かつらや髪の染粉はもちろん、短時間だけ瞳の色を変える薬品もあるという。貴重なうえに副作用もあるので、よほどのことでない限り使うことはない。今日のシャノンのように目元を隠す服飾品でどうにかするものだ。
今夜の設定は、さる資産家の未亡人。亡き夫の通っていた賭場に、酒を飲みに立ち寄るということになっている。
家の裏口から出て、路地からさっと通りに紛れる。いつの間にか斜め後ろには、侍女の装いをしたティナが伏し目がちに歩いていた。
「焦る気持ちはわかるけど、もっと歩幅を小さくした方がいい」
聞き逃してしまうほど小さな声で、ティナが忠告する。シャノンははっとして歩幅を縮めた。
「悪い、ありがとう」
「いいえ」
賭場に着き、誰に咎められるでもなく中へ入る。賭け事に参加するならば帳簿に名前を書かなければいけないが、中のバーカウンターで飲食するだけならその必要はない。
カウンターの隅に陣取り、甘めのカクテルを注文する。こうした賭場には素性を隠しておきたい人間も多く、帽子を取らなくても奇異の目で見られたりはしない。グラスを少しずつ傾けながら、シャノンは見覚えのある顔がいないか注意深く観察を始めた。
ティナとは別行動だ。彼女は店の裏手に潜り込み、密売の証拠を探っている。危険な役割だが、隠密行動はティナの最も得意とすることらしく、シャノンはとてもまねできない。シャノンはシャノンで軍関係者にはティナよりも通じているので、今回の任務においては的確な役割分担といえるだろう。
じりじりと時間が過ぎていく。軍関係者――もっと言えば、そういった横領行為に手を染めて、隠していられるような立場、地位の人間は限られている。目星をつけた人物の周辺の顔は、一向に現れない。
カクテルとともに供されたナッツの皿が、もう空になりそうだ。
(今夜は空振りか)
時計の短い針は、もうすぐ真上を指そうとしている。賭場の盛り上がりはまだまだこれからとはいえ、軍人がそれほど遅い時間に出歩いていると日々の勤務に差し障りが出るだろう。軍内部で怪しまれないためにも、朝まで遊び歩くような目立つ行動は避けているはずだ。
カウンターの向こうにいる店員に、チェイサーとしてライム水を注文する。もうしばらく粘ることを考えると、あと何杯かグラスをあけなければならないだろう。酔ってしまっては台無しだ。
時間的に最後のグラスがもうすぐ空いてしまう、という頃になって、周囲がわずかにざわめいた。入り口近くを見ると、数人の男たちが入って来たところだった。全員帽子を目深にかぶっていて顔が見えづらいが、体格や身のこなしは軍人らしく見える。
そして、中でも長身の一人の男は、その長身故か座っているシャノンからは目元まで見ることができた。よく知っている顔だった。
(トマス・アーキン……!)
驚いて、グラスを取り落とすところだった。アーキン家は代々軍人を多く輩出している家柄で、数代前に男爵位を叙爵された武門派の名家だ。中でも現男爵であるアーキン大佐は軍内部でかなり幅を利かせており、その息子、トマス・アーキンは士官学校時代から威張り散らしていた。シャノンと同学年だったが、なにかと絡んで文句をつけてくるのでできるだけ避けていた厄介な相手である。さらにアーキン家はアシュトン家と折り合いがよくないため、近衛になったシャノンとは完全に対立関係だ。
目の端で追う。彼らはどうやらカードで賭けをするようだった。相手は、シャノンが来たときからずっとカードのテーブルに陣取っていた長髪の男。
カードなんて、いくらでもイカサマできてしまう。そもそも本当に賭けをするのかも怪しい。
歯がゆいことに、シャノンの今座っている位置からだと、テーブルに並べられたカードは良く見えない。移動しては怪しまれるだろう。
グラスの持ち方をわずかに変えて、どこかに紛れているティナに合図をする。しばらくして、音もなく彼女が近づいてきた。
「……カードのテーブル。長髪の男が相手をしている奴らがそうだ」
ほとんど口を開けず、ティナに告げる。それだけ聞いて、ティナは頷いて離れていった。
カードのやり取りの中身を探るのはティナに任せて、シャノンは周囲の観察に戻った。トマスたちに注目している店員が二人。堂々とトマスたちを眺めて嫌な笑みを浮かべている太った男が一人。
報告を上げるために人相を覚え込む。そうしているうちに、それなりの時間がたっていたらしい。トマスたちは席を立ち、帰るようだった。
後を追っていると思われない程度の時間を置いて、シャノンも席を立った。ティナがそばに戻って来たので、侍女に勘定をまかせる夫人を演じる。
賭場を出た二人は、周囲に人がいないことを確認すると足音を殺して駆けた。トマスたちの後を追うためだ。
彼らは酒場帰りの軍人といった風情で、堂々と歩いていた。貴族の邸宅が多くある地区に差し掛かると、トマスが一人別れて歩いていく。残りの面々はどうやら軍営の宿舎住まいのようで、王宮の方へ向かう道を進んでいった。
ティナに身振りで示し、シャノンは一人トマスを追う。彼はさほど周囲を警戒していない。ほどなくしてアーキン男爵邸に着き、門の中へと消えていった。
あの賭場に現れたこと以外、トマスの近辺に怪しい影はなさそうだ。
日付が変わって数時間、シャノンはようやく帰途に就いた。
眠気を冷水で無理やり振り払い、シャノンは身支度を整えた。カーテンを開けて窓の外を見ると、朝だというのに曇天ゆえか薄暗い。遠くの方の雲は黒々としている。
雨が降るかもしれないな、と考えたとき、シャノンは少し身構えた。
雨が降ったら。シャノンは軍の礼装を着て、ライラとの練習に向かわねばならない。
なぜ自分が、と思いながらも、緊張してしまうシャノンだった。
案の定、昼過ぎには雨が降り出した。予定されていた外出が取りやめになり、セラフィーナは憂鬱そうに窓の外を眺めている。ユーインに後を任せ、シャノンは持ち場を離れた。
宿舎に戻り、近衛の隊服から礼装に着替える。この二つは装飾やデザインはよく似ているが、基調とする色が違う。近衛の隊服は白なのに対し、礼装は戦闘服や常装と揃いの濃紺だ。
国民の多くが、軍服といえば濃紺のものを想像するだろう。
ライラが父の格好で見慣れているだろう隊服ではなく礼装を指定したのには、色も関係しているような気がしていた。
姿見の前で、飾緒を整える。緊張の色が濃い緑の瞳が映っていて、戸惑ってしまった。
(何を怖がっているんだ……)
自分のことがよくわからない。深みにはまりそうな思考をいったん脇に追いやって、シャノンは部屋を出た。
いつものように馬車に乗り、アシュトン邸に行く。一歩一歩、ライラのいる部屋が近づいてくるごとに、緊張が増していった。
執事がノックをすると、か細い声で応えがあった。扉が開かれる。シャノンは思わず、一度両目をつぶった。息を大きく吸って足を踏み出す。
「シャノン……」
ライラの声は、隠しようもなく震えていた。シャノンを見て見開かれた目。立ち上がって迎えてくれたライラだったが、震える体を自分で抱きしめるようにしている手も、大きく震えている。浅くなった呼吸が痛々しい。ライラは数歩後ずさると、シャノンから顔を背けるようにして座り込んでしまった。ピアノの傍に控えていたガヴァネスが駆け寄って、ライラの背を撫ぜる。
「ごめんなさい、シャノン、ごめんなさい……」
尋常でなく怯えているライラを前にして、シャノンは自分が緊張していたことなどどこかへ行ってしまった。
「やっぱり、軍人が怖いんだな」
確信を得た問いに、ライラは震えながらも頷く。シャノンはすぐに部屋を出た。廊下で控えていた執事に話をつけ、着替えるために部屋を借りる。念のため用意していた着替えが役に立った。白いシャツとサスペンダーで吊った焦げ茶のスラックスという簡素な服に急いで着替え、ライラのいる部屋へ戻る。
いつものティーテーブルが用意されていた。ライラの気を落ち着かせようとしたのか、ガヴァネスや侍女らが彼女に紅茶をすすめている。
シャノンが戻って来たのに気がついて、使用人たちはお辞儀をして一歩下がった。ライラが慌てたように立ち上がろうとするのを手で制する。
着替えてきたことを示すように少し手を広げて、尋ねる。
「これなら、平気?」
「……ええ。……ありがとう。さっきはごめんなさい」
「いいんだ」
シャノンはできるだけゆっくり歩み寄った。静かに椅子を引いて腰かける。ライラは、そんなシャノンをじっと見ていた。
「……話すわ。約束していたものね」
「まだ、手が震えてる」
言外に無理しなくていいと伝えたシャノンだったが、ライラは首を横に振った。
「聞いて。……あなたがさっき言った通り、私が怖いのは……軍人なの。男の人も、少し怖いけれど……あまり威圧感がない人なら、おそらくそれほどではないわ」
口を湿らせたかったのかカップを持ち上げたライラだったが、いまだ手が震えている。ゆっくりとその手をおろして、話を続けた。
「軍人を見ると、思い出してしまうの。今目の前にいる人のことが怖いのではなくて、昔……、幼いころ、とても怖い思いをして……そのときのことを思いだしてしまって、どうしようもなく怖くなってしまう」
ライラは目を伏せ、脇腹にあてた片手を包み込むように、もう片方の手でさすった。
「シャノンも、軍内部の派閥争いは知っているわよね。父を中心とする穏健派……いわゆるアシュトン派と、好戦的で過激思想とも言われるアーキン派……先の戦争を交渉による停戦で終わらせたことに反発したアーキン派の一部が、父の膝を折らせようと、私を誘拐した」
シャノンは息をのんだ。
「もう顔なんて覚えていないのに、さっき、あの紺の軍服で現れたシャノンを見たらあのときの軍人たちの姿が浮かんできて……。シャノンだって、怖くないって頭ではわかっているのに……」
沈痛な面持ちで話すライラに、シャノンの胸も痛んだ。一体どうすれば、ライラの心の傷を癒せるのだろう。
「ライラ……」
思わず名を呼んだシャノンの顔を見て、ライラは困ったように眉を下げて微笑んだ。
「シャノンは優しいのね」
「……そんなことない」
「いいえ。優しいわ……聞いてくれて、ありがとう。両親以外にこの話をしたのは、あなたが初めてよ。……お医者様がね、誰かに話すことで、気持ちを整理できることもあるって仰っていたの……話せて、少しすっとしたわ」
ライラの言うことを疑うつもりはなかったが、シャノンは探るように彼女を見つめてしまった。
シャノンの視線には気づいているだろうに、ライラはそれに応えずにカップを傾ける。シャノンも、すっかりぬるくなった紅茶を飲んだ。
この日は結局、ダンスの練習はせずに、菓子を食べながらぽつりぽつりと会話をして過ごした。いつものように玄関ホールまで見送りに来たライラは、シャノンをまっすぐ見つめて言った。
「これからも、練習のたびに着てきてくださる? シャノンだってわかっていたら、そのうち平気になるかも」
「……君たち親子は、荒療治が過ぎる」
「それくらい、本気でどうにかしたいのよ」
そう言って気丈にも微笑んだライラは、見え隠れする怯えなどないかのように、なぜだかとても強く見えた。