Step 7. その方が、きっと楽しい
三度目の練習は、朝から雨の降る日だった。
平時の軍人は訓練が仕事のようなもので、シャノンは一日中訓練の予定が組まれている。午後になり、足早に宿舎に戻って私服に着替えると、シャノンは馬車に乗ってアシュトン邸へ向かった。
今日もさっそく一曲踊った後、二人は休憩のためにティーテーブルを囲む。
シャノンは慣れた手つきでティーカップに角砂糖を二つ入れた。それを見ていたライラが、遠慮がちに口を開く。
「その、……もしかしてシャノン、紅茶が苦手なの?」
「え?」
思いもよらないことを聞かれて、シャノンは首を傾げた。
「苦手じゃないけど……ああ」
答えながら問われた理由に思い当たり、シャノンはカップを見下ろした。
「甘いのが好きなんだ。……やっぱり二つも入れるのは多いと思う?」
「……少し」
ライラは正直に頷く。ただ、苦手なわけではないと知って安心していた。
「俺としては、甘くておいしいし、疲れも取れるし、良いと思うんだけど」
言葉を切って、シャノンは一口紅茶を飲む。おいしそうに目を細めたが、そのあとすぐに顔をしかめた。
「子供舌だとか、顔に似合いすぎるだとか、今までにも色々言われたな」
それを聞いたライラが目を伏せたので、シャノンは少し慌てた。
「ごめん、君に腹を立てたわけじゃない。苦手かどうか心配してくれただけだろ」
小さく頷いて、ライラはほっとしたように微笑んだ。
シャノンも安心して、話を戻す。
「大体、甘い味が好きだと子供舌だっていう理屈には、納得がいかない。味覚が鈍って苦味をおいしく感じるようになるのが大人だってのは筋が通るけど、それは甘味を好まなくなるのとはまた別の話じゃないか」
そこまで一気にしゃべってから、シャノンははっと口をつぐんだ。ライラが聞き上手なのか、シャノンの口が回りすぎているのか、こうしているとついつい話し過ぎている気がする。
そんな自分を苦々しく思いながらライラを伺うと、彼女は口元を手で隠して、ふふ、と笑った。
(笑った……)
シャノンはつい、まじまじとライラを見つめてしまった。
その視線を受けて、ライラが恥ずかしそうに笑いを収める。
「ごめんなさい、あなたの話を笑ったわけじゃないの」
「うん」
「私、今まで同年代の男性と関わってこなかったから……普通のお友達みたいに話をしているのが、楽しくて」
ライラの大きな瞳と、視線が合う。楽しげに輝く紫の瞳は、ただただ美しかった。
「みたい、じゃなくて、友達になろう」
迷うことなく、シャノンは浮かんだ言葉を口にした。
驚くライラに、シャノンは笑って続ける。
「その方が、きっと楽しい」
みるみる笑顔になったライラは、ありがとう、と言って大きく頷いた。
その後練習を再開した二人は、何曲か続けて踊る。ライラはすっかりダンスそのものを楽しめるようになってきたようだった。
帰り際、アシュトン邸の玄関ホールまで見送りに来たライラに、シャノンは話を切り出した。
「もう俺と踊るのは問題なさそうだな」
「そうかしら……私、ちゃんとできている?」
シャノンが頷くと、ライラは考え込むように目を伏せた。やがてシャノンを見返すその表情に不安が滲んでいくのがわかって、シャノンは思わず問いかける。
「何か心配なのか」
「……とても、重要なことよ」
ライラは耐えるように目を閉じた。数秒ののち開かれた目には怯えとためらいが揺れている。
「お願いがあるの」
「……うん」
「次の練習の時には、軍の礼装を着てきてくださる?」
軍の礼装。軍人が式典や社交の場に出るときの正装だ。
これまでの練習で引っかかっていた、踊り終えたときのライラの様子。その理由は、おそらく軍に関係している。
シャノンが感づいたことを、ライラは悟ったのだろう。
「早く話すべきだったわ。……次の練習の時に、聞いてほしいの。私が……こうなってしまった理由」
罪悪感に塗れた声音は、聞いていてシャノンもつらくなった。ライラが悪いわけでもないだろうに、こうして苦しんできたのだろう。
「わかった。礼装を着てくると約束する。でも、本当に、無理に話さなくていいから」
首を横に振って力なく微笑んだライラは、帰っていくシャノンの背中を見えなくなるまで見送っていた。
この季節には珍しく、雨の降らない日が続いた。社交シーズンの到来は間近に迫っている。
アシュトン伯爵もライラも、焦っているのではないか。よく晴れた空を見上げて、シャノンはそんなことを考えた。
だが、シャノンはあまり焦ってはいなかった。とりあえずシャノンとであれば踊れるのだ。ダンスすらできない訳あり令嬢だと思われてしまう最悪の事態は避けられる。
それに、シャノンには確信めいた考えがあった。
おそらくライラは、軍人相手でなければぎこちなくとも接することができるのだろう。
だから問題は、アシュトン伯爵が娘婿に軍人を迎えたいと思っている場合だ。十中八九そうだろう。女系相続の認められたアシュトン伯爵家で実際に爵位を継ぐのはライラが産む男児ということになるが、現アシュトン伯が近衛隊長を退いてからその子が引き継ぐまで、娘婿をその席に座らせたいと考えているだろうことは容易に想像がつく。
軍の宿舎の食堂で、シャノンは一人考え事を巡らせながら昼食をとっていた。少し足を延ばして実家のタウンハウスに行けば、料理長が腕を振るって用意した食事を給仕付きで食べられる身分ではあるが、シャノンは身分関係なく軍の関係者であればだれでも利用できるこの食堂に不満はなかった。王宮敷地内の宿舎だけあって味も申し分ないし、さっと食べてすぐ持ち場に戻れるのも都合がいい。
そろそろ食べ終わるかという頃、食堂がにわかに騒がしくなった。遠征訓練に行っていた中隊が戻る日だったということを今更思い出して、もっと早く食べ終わればよかったと後悔する。
その中隊には、学生時代さんざんシャノンを目の敵にしてきた同級生も所属している。たまに宿舎で顔を合わせるたびに、嫌味を言ってくるところはちっとも変っていない。この数週間平和だったのは、そいつが遠征訓練で留守にしていたからだ。
一人黙々と食事をするシャノンを目ざとく見つけ、そいつはわざと声が届く距離のテーブルに仲間たちと陣取った。これ見よがしに悪口大会が始まる。
軍内部での、近衛隊に対する見方は様々だ。名誉ある花形ととらえる者もいれば、お飾りの閑職だと考える者もいる。この同級生は後者で、軍人として劣っていると考えるシャノンに似合いだと言ってはばからない。その実近衛の地位は羨ましいようで、屈折した悪感情を隠せていない。
自分自身に対する嘲りは受け流せる。尊敬する上官に認めてもらえている事実が、シャノンの心を支えているからだ。
けれど、自分のせいで矛先が自分以外に向いた悪意は、どうしてもうまく受け流せなかった。
「姫殿下のお人形」
王族相手に大胆な口をきくものだ。腹の底にたまっていく煮え立つような怒りと悔しさをやり過ごして、シャノンはきれいに空にしたトレイを手に席を立った。
相手にしないのが一番なのだ、ああいう輩は。
けれどこういうとき、シャノンの根底にまだくすぶっているコンプレックスが顔を出す。顔立ち、体格、力強さ……努力しても変えられない、限界の見えてしまうあれこれとの折り合いは、まだ付け始めたばかりだ。
沈み込んでいく思考の縁に、ふと挑むような怯えた目つきが浮かび上がる。紫色をしたその瞳は、今なお苦悩のただなかにいる少女のものだ。
ライラのことを思いだして、シャノンは気持ちを切り替えた。自分は今、大切な役目を負っている。これをやり終えたら、もっと自信が持てるだろうか。
カウンターにトレイを置くと、厨房に下げるためにエプロンをつけた娘が奥から出てくる。見知った顔だったので、シャノンは袖口を直すふりをしてさりげなくその場に留まった。
ひっつめにした髪をヘッドキャップに包んだその娘は、化粧っ気のない地味な顔立ちで、とかく印象に残りにくい。シャノンも初めの頃は覚えられなかったくらいだ。
「今夜、3番通りの賭場。わたしも行くことになったから」
それだけ言って、娘はトレイを持って厨房へ戻っていく。
彼女はアシュトン伯爵の部下の一人だ。正式に軍に所属しているかどうかすら、シャノンには知らされていない。たまにこうして食堂にいて、シャノンにメッセージや指示を伝えることがある。
彼女について知っていることと言えば、ティナという本名かどうかもわからない名前と、化粧次第で顔の印象ががらりと変わるということ、身のこなしが軽くなんらかの戦闘訓練を受けているということくらいだ。何度か一緒に任務をこなしたが、仕事の腕はかなり信頼できる。
今夜、もともとシャノンは3番通りの賭場に潜り込む命を受けていた。軍の武器が運び込まれ、密売されているという噂があるためだ。
この五十年あまりでかなり小型化した銃は、いまだ高価で管理も難しく、軍人か一部の特権階級でない限り普及しているとはいいがたい。多くの者の想像する銃といえば、持ち運びに難があり素早い連射もできない猟銃の類だろう。
隠し持つことも容易にできてしまう銃が横流しされているとしたら、大問題だ。
ティナも一緒ということは、ほぼ黒なのだろう。心してかからねばならない。