Step 6. 命令だから従ってるわけじゃない
雨が降りしきる外の景色に目をやって、セラフィーナはまたもや物憂げにため息をもらしたが、やがて言った。
「まあいいわ。シャノンがもっと強くなって帰ってくるなら、訓練も必要よね」
本来ならば訓練だが、今日は違う。別命を帯びてとある令嬢のダンスの練習に付き合うのだと知られたら、セラフィーナは不快に思うのではないだろうか。
シャノンの胸に、罪悪感が染みを落とす。まだ近衛として仕えて数か月だが、セラフィーナがまたとない主であると感じていた。
離宮を辞するシャノンの足取りは重かった。ライラの任務には全力で取り組みたい。アシュトン中将に認めてもらいたいと気が急くばかりだが、その比重が大きくなって近衛の任をおろそかにしてはいけないのではないだろうか。
離宮から軍の詰め所へ向かう道の途中に、地味な馬車が一台とまっていた。御者の顔に見覚えがある。御者の方も、シャノンをみとめて合図を送ってきた。
そこで、どこで顔を見たのかを思い出した。アシュトン伯爵邸だ。
雨の日の午後の訓練時、アシュトン伯爵の手配する馬車で伯爵邸まで向かうことになっている。
(なるほど、ここで待機しているわけか……)
この道は、軍の詰め所や離宮に用がある馬車が多く往来する。現に今も、シャノンの脇を商家の紋をつけた馬車が通っていく。離宮へ品物を納めに行くのだろう。
早足で歩み寄り、シャノンは馬車に乗り込んだ。
「悪いんだが、宿舎に寄ってくれないか?」
多少ではあるが、雨に濡れてしまった。それに、軍服で二度目の練習に臨むのは、ライラを委縮させてしまうように思える。
近衛など王宮勤務の軍人には、敷地内にある軍の宿舎に一室が与えられる。ハーシェル家は王都に邸宅を持ってはいるが、朝の弱いシャノンは主に宿舎で寝起きしていた。
立ち寄ってもらった宿舎で手短に着替えを済ませる。シンプルな白のドレスシャツに、細身のベストとズボンは黒よりも柔らかい印象の焦げ茶色。急いでいたのですぐに身につけられるループタイを締め、ジャケットを手に持ったまま再び馬車に乗り込んだ。
上官の家に訪問するには略装過ぎるが、ライラはあまりかしこまるなと言っていた。緊張を強いては目的の達成からは遠ざかるばかりだ。
前回と同じ部屋で待っていたライラは、シャノンを迎えてぎこちなく微笑んだ。
「ごきげんよう、シャノン。今日もよろしくお願いします」
シャノンは少し驚いた。今日は侍女の格好をしていないから、呼び方や態度を戻してしまうのではと考えていたのだ。
「よろしく、ライラ」
シャノンがそう短く返すと、ライラは瞠目した。
「上官の娘として接するな、って言ってただろ? だからこれからは素で話そうと思って。……構わない?」
シャノンとしても、砕けた口調で話せるのは楽だ。
「ええ」
「よし。じゃあ、さっそく練習しよう。時間が惜しい」
シャノンに促され、向かい合って立ったライラだったが、そこからなかなか動こうとしない。一向に合わない目線が、ライラの怯えを物語っていた。
「無理そうか?」
「待って、……平気よ」
二度目の練習にして、ライラが見かけよりも強情だということがわかってきた。
挑むような目つきを正面から受け止める。目の前にしているのは華奢なご令嬢だというのに、士官学校や軍での訓練で手合わせをしているときのような感覚に陥る。
「前回と真逆のことを言って悪いけど……君は一度俺と一曲踊りきったんだ。侍女の格好だったとしても、中身は俺だった。外見が変わったからって、前回できたことができないはずない」
シャノンは自分でも、めちゃくちゃなことを言っているという自覚があった。そう簡単な話ではないだろう。けれどシャノンは、うまくいくような気がしていた。
左手を差し出すと、ほとんどやけのようにライラは右手をのせた。
背中に右腕を回し、そのまま踊りはじめられるほど距離が近づいても、ライラは目をそらさない。
「……大丈夫?」
「今日は顔を見ていた方が平気そうなの」
確かに言われてみれば、シャノンの前回と同じところは顔くらいかもしれない。
ガヴァネスの奏でるピアノの音に合わせて、二人は踊り出した。
ライラの動きは、前回に比べるとやはり少し硬い。
繊細な面立ちに似合わない強い光をたたえた紫水晶の中に自分が写っているのをみて、シャノンは不思議な感覚に囚われていた。
(ダンスって、こんなに近かったっけ……)
ピアノの音、ステップを踏む靴音。それ以外の音が遠ざかっていく。
柔らかな栗色の髪と同色のまつげが瞬いて、ライラの白い頬に影を落とす。そんな様子まで仔細に見える距離だ。
澄んだ集中の時間は、ピアノの音がなくなって、静かに終わった。
「踊れたわ……」
わずかに息を弾ませたライラは、そう呟いて考え込むように眉を寄せる。
前回と同じような表情に、シャノンはやはり疑問を抱く。
まるで、踊れると確信していたかのようにも見えるのだ。
なんと言うべきかわからなかったが、男の格好をしたシャノンとも踊ることができたのは喜んでいいのだろう。
「頑張ったな」
それでもうまい言葉が見つからず、少々ぶっきらぼうな言い方になってしまった。
けれど、ライラはその言葉に笑みを見せた。
「ありがとう、シャノン」
喜びを込めて呼ばれた自分の名に、シャノンは思わず瞬いた。そして徐々に、シャノンの胸にも喜びが実感として湧いてくる。
誰かの、変わりたいという願いを叶える助けになれたのだ。そして、成功への一歩は確実に踏み出された。恩のある上官の期待にもこたえられることが素直に嬉しい。
シャノンの顔にも、自然と笑みが浮かんだ。
「ライラ、少し休憩したら、もう一回練習しよう。……さっきのはまぐれなんかじゃないよな?」
シャノンの少し挑発するような物言いに、ライラは気を悪くした風でもなく決意を込めて頷いた。
そして、迷いを見せながらも、微笑んで言う。
「お茶にしましょう?」
さほど時間をおかずに、部屋の隅によけられていたティーテーブルに紅茶や焼き菓子が並べられる。準備を整えて使用人たちが出ていったあと、部屋の扉が細くどころかほとんど開け放たれていて、シャノンは少し笑ってしまった。ライラはどうやらよほど可愛がられているようだ。シャノンに対しても主人の部下だからか遠慮がなく、いっそ清々しい。
ライラも扉の方を見て、顔を赤くした。
「ごめんなさい、失礼よね……」
「いや、いいよ」
気にするなというふうに片手を軽く振って、シャノンはティーカップに角砂糖を二つ落とした。ティースプーンでくるくるとかき混ぜながら、迷いを振り切って口を開く。
「話したくなかったら、別にいいんだけど。どうして男が怖いの?」
突然の問いに、ライラは持ち上げかけていたカップを置いてしまった。
「……お父様から、なにも聞いていないの?」
「なにも」
眉を寄せ、ライラはうつむいた。知り合ったばかりのシャノンに簡単に話せるような事情なら、苦労はしないだろう。シャノンは気が急いた自分を責めた。
「悪い、考えなしだった。忘れてくれ」
シャノンはティーカップを傾ける。甘くあたたかな紅茶が喉を通る感覚に、気持ちが落ち着いてくる。ライラは膝の上で重ね合わせた手に視線を落とし、迷っているようだった。
なんとなく、気づまりだ。ライラは気丈にふるまおうとしてはいてもぎこちなさが抜けていないし、シャノンも男所帯で長年過ごしてきたせいか気の利いた話ができるわけでもない。
もとより、ライラが問題なく社交をこなせるようになるまで男に慣れるという目的が達せさえすれば、二人が親しくなる必要はない。けれどシャノンは割り切ってしまえるほど人間関係に器用ではなかった。
シャノンにとって年の近い身近な女性と言えば、二年前に嫁いで家を出た姉、リゼットである。瞳の色以外は自分とそっくりな顔立ちには少々複雑な感情を持たざるを得ないが、それは誰が悪いというものでもない。あの穏やかな姉はどんな話を好んでしていただろうかと思い返していると、ライラに小さな声で話しかけられた。
「上手く話せなくて、ごめんなさい」
「謝るようなことじゃないだろ」
シャノンは心底驚いてライラを見た。しかし予想に反してライラの表情は沈んでいない。
「いいえ、ここまで何も聞かずに協力してくれているのに、不誠実だと思うわ。どうして……どうして、父の言う特例は、あなたにとってそれほど重要なものなの?」
その問いに答えるのは、簡単だった。けれど同時に、難しくもあった。真剣な問いには、こちらも真剣に答えなくてはならない。
「重要だ。でも、命令だから従ってるわけじゃない」
ライラはぱちりと瞬いた。
「隊長は、俺が考えを変えるきっかけをくれた人なんだ。俺はずっと、こんな見た目をどうにかしたい、変わりたいと思ってた。でも、この見た目だからできることもあって、これが俺自身なんだって思えるようになってから、すごく楽になれた……ずっと持てなかった自信も持てた」
シャノンは自分でも驚くほど、するすると言葉がでてきた。ずっと考えていたことだったが、誰かに話したことはなかった自分の考え。やはり、ライラを自分と重ねてしまっているのだろうか。
じっと目を合わせて聞いているライラに向けて、話を続ける。
「容姿を気にしてるんなら、女装なんて嫌なんじゃないかって思ってる?」
「……ええ。嫌じゃ、ないの?」
「俺の場合、変装が目的だから。むしろ自分じゃない誰かになったような感じがして、視界が開けるんだ。……逆にこの容姿を利用してやるって開き直ったら、全然平気だった」
不思議なことに、自分の姿を一度受け入れてしまうと、今までの悩みが軽くなったのだ。もちろん、すべてを割り切ることができたわけではない。それでも、この容姿ごと誰かの役に立てているのだという実感が、シャノンの心を救ったのだ。
「自分じゃどうしようもないことを抱えたまま変わるのは、すごく大変なことだ。でも、誰かの小さな手助けとか、言葉とかがきっかけをくれる……と、俺は思ってて」
語っているうちに、自分は何をべらべらとしゃべっているんだと、シャノンは恥ずかしくなってきた。ライラが真剣に聞いているから尚更だ。青臭いことを言っている自覚もある。シャノンは一瞬ぎゅっと目をつぶって恥ずかしさを耐えた。
「隊長に頼ってもらえたのが嬉しいのは確かにあるよ。でも、俺自身も、誰かが変わる手助けをできたらいいなと思ったんだ」
ここまでは聞かれてもいなかったのに、話してしまった。シャノンは顔が赤くなってはいやしないかと気が気でない。
ライラは、呆れるでもなく笑うでもなく、どこまでも真剣に聞いていた。シャノンが自分に協力してくれる理由を知り、決意も新たに宣言する。
「私、頑張るわ」
シャノンは羞恥をごまかすように、頭の後ろに手をやった。無意味に髪を数度撫でつけ、やがてライラに向けて頷いた。
「よし、じゃあそろそろ再開しよう」
その日、練習を終えてシャノンが帰るころには、ぎこちなかったライラもシャノンに向けて微笑むくらいには慣れてきたようだった。