Step 23. 何よりも怖いのは
響く銃声とともに斜め後ろから強い力で突き飛ばされ、とっさにライラをかばいながら受け身を取る。それまで自分たちがいた場所を、鉛玉が硝煙をあげて目にもとまらぬ速さで通り過ぎて行った。
押し殺したライラの悲鳴をかき消すように、軍靴の堅い足音と銃声が再び響き渡る。今度の発砲はティナだった。
「早く立ちなさい! お嬢様を逃がさないと」
鋭く叱責されるまでもなく、シャノンは素早く立ち上がった。ライラもしっかりと自分の足で立つ。
「シャノン・ハーシェル!」
銃口をぴたりとシャノンに向けて、トマス・アーキンが吠えた。トマスの周りには守るように彼の部下が数人いるばかりで、それを囲むアシュトン家の私兵とにらみ合っている。彼らが制圧されるのも時間の問題だ。
「やめろ、トマス・アーキン。銃をおろすんだ」
シャノンは努めて冷静に呼びかけた。トマスの持つ銃の先は、シャノンたちから動かない。
やむを得ず、シャノンも銃を構えた。背にかばうライラの手を強く握ると、彼女は心得たように身を低くして半歩下がる。
「貴様の邪魔が入らなければ、すべて上手くいったのだ。……もう、後には引けん」
引き絞るような声音とともに、ぐっとトマスの眉間に力が入る。
しかし、トマスが引き金を引くよりも早く、シャノンの持つ銃が弾丸を放った。
キン、と耳障りな音ともに、トマスの腕がしなる。弾き飛ばされた銃が地面に転がった。
すさまじい形相でシャノンを睨んだトマスは、地を蹴って向かってきた。
「ティナ、ライラを!」
とっさにライラの手を離し、シャノンもトマスを迎えうつ。トマスの手に光る刃をみとめ、外腿に帯びていたナイフを抜く。肉薄した凶刃をナイフの刃で滑らせて受け流したシャノンは、士官学校時代の手合わせの記憶を呼び戻して次の動きを予測した。
素早く膝を折って体を沈めると、逆立った髪の先を風が切る。目の前に迫った腹部にナイフの柄を叩きこんだ。トマスの口からうめき声が漏れる。
「ぐっ……くそ、舐めるな!」
再びトマスが吠えた。ナイフによる血をライラに見せたくないという戦闘中のとっさの判断とはいえ、シャノンがまるで手加減したかのように柄の方を使った図式になったのは確かだ。
腹部へのダメージから立て直しきれていないトマスと距離を取ろうと、シャノンが顔を上げたときだった。
トマスの頭上から差し込む日光が、シャノンの視界を焼いた。
(こんなときに、まだ薬の効果が……!)
眩しさに耐えきれず、致命的だとわかっていてもシャノンは目を閉じてしまった。瞬間、左瞼に氷のような冷たさと、焼けるような熱さが走り抜けていく。
「シャノン!」
悲鳴のようなライラの声に呼ばれて、シャノンは目を開いた。左側が赤い視界の中、トマスが嫌な笑みを浮かべたのが見える。
遅れて痛みがやってきた。けれど、この痛みに今負けるわけにはいかない。
再び迫って来た刃を渾身の力で受け止め、手首を返して自分のナイフごと眼前から下げる。躊躇なく、トマスがナイフを捨てた。シャノンもナイフを手放す。
次の瞬間にはトマスの右拳が降ってくる。左側からの攻撃には反応が遅れてしまうのを理解した動きだった。
失うもののないトマスの攻撃は、動きも力もすさまじかった。士官学校時代の、そして卒業試合のときの型通りの動きとは何もかもが違う。
(まずい、押し負ける……!)
力勝負ではトマスに分があるのは以前と変わらない。トマスの部下たちも粘っているのか、味方の加勢も期待できる状況ではなさそうだった。
気は進まないが、血がどうなどとは言っていられるほどの余裕がない。自分の弱さを痛感したシャノンが、腰のホルスターにしまった銃に手をかけたときだった。
ライラのいる方から飛んできた何かが、鈍い音を立ててトマスの頭に当たる。
呻いたトマスの動きが止まる。その隙を逃すシャノンではなかった。
響く銃声。トマスが腿を抑えて地に膝をつく。すぐ脇の地面に、かかとの高い靴が片方転がっている。濃紺の軍服がさらに色を濃くしていく様を、シャノンは半分に狭まった視界の中で見つめていた。
ゆっくりと瞬きをする。ティナや他の味方がトマスたちの動きを完全に封じた。
(終わった、のか)
シャノンの身体から、ふっと力が抜ける。情けなくも座り込んだシャノンのもとに、ライラが駆け寄って来た。
「シャノン!」
白いハンカチがシャノンの左目にそっと押し当てられた。痛みにうめき声を上げたくなるのをこらえて、自分の手で強く押し当てる。
「汚してごめん……ありがとう」
シャノンの言葉に、ライラが目を見開いた。どこか怒っているような表情は初めて見る。視界が狭いのが惜しいなんて考えていたのが伝わったわけではないだろうが、ライラが眉を寄せた。
「何を……怪我までして、どうしてそんなに優しいの……」
ライラの目から涙がこぼれた。
ライラが泣くところを、シャノンは初めて見た。紫水晶の瞳が揺れて、あとからあとから涙がこぼれていく。顔を歪ませて泣くライラの表情は、見ているシャノンの方が苦しくなるほど悲痛で切ないものだった。
手袋を抜き取って、シャノンはそっと手を伸ばす。ライラの滑らかな頬に触れた手は、振り払われることはなかった。大きな瞳は涙で輝きを増して、まっすぐにシャノンを見つめている。
(綺麗だな)
ずっと見ていたい美しさだ。けれど、ライラが泣くところはできれば見たくない。相反する想いを抱えたまま、ライラを見つめ返す。
シャノンは指を滑らせて、おそるおそる、という表現が似合う動作でライラの涙を拭った。
「なんてあさましいのかしら」
ライラがぽつりとこぼした言葉に、シャノンの手が揺れる。しかしその言葉は、ライラ自身に向けられたもののようだった。
「シャノンには、もらってばかりなのに。どうしてそんなに優しくするの。どうして、それがこんなに嬉しいの……」
ライラが吐露した心を、自分に向けられた想いを知って、シャノンは歓喜に震えた。込み上げる想いに逆らわず、言葉にする。
「愛してる、ライラ」
ライラがこぼれそうなほど目を見開いた。頬へ滑り落ちる涙をシャノンの指が掬う。
「もらってばかりなんて、そんなことはないよ。ライラがひたむきに頑張る姿に、俺もたくさん力をもらったから」
ライラが瞬く。涙に濡れたまつげが頬に影を落とした。
「君を泣かせないで守れるようになりたいけど、高望みなんだろうな」
シャノンはきっと、望むようには強くなれない。それでも。
「二度と泣かせないなんて、俺じゃそんな約束はできそうにないけど……君の涙を拭うのは、いつだって俺でありたい。ライラ……許すと言って」
そう言って、シャノンはライラの手をそっと握った。そのまま持ち上げて、手のひらに短く口づける。
顔をくしゃくしゃにゆがめたライラが胸に飛び込んできて、シャノンはふっと笑みをこぼした。
急激な安堵と幸福感に、シャノンの身体が弛緩する。そう言えば、少し頭がくらくらする……と思ったときには、シャノンの視界は暗くなっていた。
ゆっくりと意識が浮上したシャノンの視界に映ったのは、見覚えのない天井だった。
(どこだっけ、ここ……)
首を巡らせて、自分が寝かされている部屋を見回す。不自然に視界が狭い気がして、それについて考えていくうちに、思考がクリアになってきた。そして、自分の状況を思い出す。
大した傷ではないが、左瞼を負傷してかなり出血したのだ。ライラが無事だった安堵で何かいろいろと思いのままに口走った挙句気を失ったことまで思い出して、思わずうめき声が漏れる。
「シャノン、目が覚めたの?」
一番聞きたかった声がして、シャノンはそちらへ視線を向けた。目元を赤く腫らしてはっきりと泣いたことがわかる表情のライラが、ベッドの脇に座っていた。
「ライラ」
半ば無意識に手を伸ばすと、すぐに細い両手でそっと握られる。その手の柔らかな温かさにほっとして、次の瞬間にはたまらなくなった。
衝動のまま、握り返した手を自分の方に引く。小さく声をあげて、ライラが体勢を崩した。
そのまま背中に腕を回してさらに引き寄せる。シャノンに覆いかぶさるようになってしまったライラは、すぐに手をついて体を少し離した。
(ライラは無事だ、ちゃんと……)
「シャノン……!」
非難するようなライラの声を無視して、シャノンは問いかけた。
「俺、どのくらい寝てた?」
恥ずかしそうに頬を染めたまま、ライラは表情を改める。
「ほんの2、3時間よ。緊張状態から解放されて眠ってしまっただけだって、軍医さんが」
「そうか」
「瞼の傷も、見た目ほど深くないし失明の心配もないって……本当に、良かった」
眉を下げ、ライラは唇を引き結んだ。泣くのを耐えるようなその表情とうるんだ瞳に、シャノンは安心させるように微笑む。ベッドの上で体を起こして、まっすぐに目を合わせた。
「だとしたら、ライラのおかげだ。押し負けてたから、あのときライラが……投げたの、靴? 最高だな」
はは、と声をあげてシャノンが笑うと、ライラははにかんだ。
「自分でも、無茶なことをしたと思うわ。あなたに当たってしまったかもしれないのに」
「でも、おかげで助かった。すごいよ。怖かっただろ」
ライラはゆっくりと首を横に振った。
「あのとき、わかったの。気がついたの……ようやく」
いったい何に気がついたというのだろう。シャノンが目で促すと、ライラは言葉を選ぶように少し間を置いた。
やがてひそやかな、けれど芯のある声で、ライラは告げた。
「過去の記憶よりも、軍人よりも、何よりも怖いのは……シャノン、あなたが傷つくこと。あなたがいなくなってしまうこと」
シャノンは束の間、息ができなかった。
ライラが大きく息を吸って続ける。
「軍人だとか、男の人だとか。いつまでも殻に閉じこもっていた自分が、愚かでした。頭では初めからわかっていたの。怖い人ばかりではないって。いとこも、おじさまも、お父様の部下の方々もみんな優しくていい人だって、もちろん知っていたわ。でも、でも、どうしても、怖かった記憶から逃げられなかった……! シャノンが、私の殻を破ってくれたのよ」
ライラの語る声をきいているうちに、シャノンはじんわりと彼女の言葉を認識する。そして、言った。
「それは違うな」
「え?」
反論されるとは思いもしなかったのだろう。ライラはショックを受けたような顔を見せる。
「俺じゃない、君自身だ。ライラが自分で乗り越えたんだ。俺は手を貸しただけ」
強張っていたライラの表情が、泣きだしそうに歪む。
「……本当に、シャノンって」
(そろそろ、笑わせたいな)
決して悪い意味の涙ではないだろうが、シャノンはライラの笑顔が見たかった。少しおどけてみたくなる。
「でも、そうだな。そこまで買ってくれてるんなら」
一度言葉を切ったシャノンは、自分が呆れるくらいに緩んだ表情をしているだろうことを自覚して、ますますおかしくなってしまった。以前に同じようなことを言ったときとはまるで態度が違いすぎる。我ながら単純な自惚れ屋だ。
この申し出を、こんなにも自信を持って言えるときがこようとは。
「君の結婚相手には……やっぱり、俺を選んでよ、ライラ」
額を合わせるようにしてそう言うと、ライラの顔には驚きの後にゆっくりと笑みが広がっていった。
「これ以上あなたに望むなんて、欲深くて嫌になるわ」
ため息のようにこぼされたそれは、まさしくライラの本音なのだろう。相変わらず、ライラはライラ自身に厳しい。
けれどライラは、自分の願いを手放すようなことはしなかった。
「それでも、私も……シャノンが好き。あなたのためにできることを、一つ一つ返していくから……私のそばにいて」
頬を染めて、潤む瞳でライラがそう言ってくれたこのときのことを、シャノンは生涯忘れないだろう。
幸福に満たされた心のまま、シャノンはじっとライラを見つめた。恥ずかしそうに目線を彷徨わせたライラは、やがてぎこちなく目を閉じる。
ほんのひととき、触れるだけの柔らかな口づけは、甘い幸せの味がした。




