Step 15. 俺は役立たずなんだ
その夜は、王太子であるパーシヴァル殿下主催の夜会だった。いつものようにシャノンはライラを迎えに行く。瞳と同系色である菫色のドレスで着飾ったライラは、隊服姿のシャノンを見上げて微笑んだ。
「先日は言い忘れてしまったのだけど、シャノンは近衛の隊服がとても似合うのね」
急に褒められて、シャノンの頬が熱くなる。誤魔化すように、上げている前髪を確かめるふりをして手を髪にやり、顔を隠した。
「そうか? 俺は上背もないし肩幅も狭いし、そうは思えないけど」
「そんなことないわ。白も似合うし、姿勢もいいもの」
そう言いながら、ライラは嬉しそうにシャノンの腕に手をかける。
ライラをエスコートするのには、かなり慣れたはずだった。けれど、急に褒め殺しにされて平然としていられるほど、シャノンは場慣れしていない。やっとの思いで、次の言葉を絞り出す。
「……君も、そういう色がよく似合うな」
「ありがとう! この瞳の色は、私も好きなの」
(瞳の色「は」か……)
ライラが自身のことをあまり好いていないのは、今までも言動の端々から感じていた。この前ようやく、その理由の一端を知ったシャノンとしては、どうにもやりきれない思いだ。
そしてもうひとつ、こんな風にして気軽にシャノンを褒め、シャノンに褒められても平然としているライラを見ていると、心にもやがかかったような気分になる。この感情が何なのか掴みかけてはいるものの、シャノンは見ないふりを続けていた。
会場である王宮の大広間は、眩いほどのきらめきに満ちていた。着飾った人々のざわめきの中、王太子の挨拶で宴が始まる。
すぐにチェルシーと会ったシャノンたちだったが、挨拶だけで彼女は兄に連れられて離れて行ってしまった。
チェルシーを見送るライラが少し沈んでいるように思えて、シャノンはライラをダンスに誘う。
笑顔で応じたライラだったが、踊り始めてからも心ここにあらずといった風情だ。
「考えごと?」
「えっ……」
急な問いかけに驚いたのか、ライラのステップがわずかに乱れた。腰に回しているシャノンの腕に、力がこもる。
何事もなかったように、ライラのステップは正確さを取り戻した。
逡巡は、そう長くはなかった。
「チェルシーが……何か悩んでいるようなの」
「チェルシー嬢が?」
「心配だわ……だけど、どこまで踏み込んでもいいものか、わからないの」
悩むライラを前にして、シャノンには一つ思い当たることがあった。チェルシーがトマス・アーキンと会っていた夜の記憶がよみがえってくる。あれから調べたところ、最近アーキン家がアークライト家に接近しようと動いていることがわかったが、アークライト家側がそれにどう対応しているのかはあまり見えてこなかったのだ。
思っているよりも、チェルシーはこの件に深く関わっているのかもしれない。
もしチェルシーが悩んでいることが、アーキン家に関することだとしたら。たとえ大切な友人の悩み事であっても、ライラが踏み込むべきではない。
ライラの言葉にどう返すべきか、シャノンは頭を悩ませた。
そうこうしているうちに、曲が終わる。続きは落ち着いて話そうとダンスの輪から抜け出したが、二人を呼び止める声があった。
「シャノン・ハーシェル。いい夜だな。そちらのご令嬢を紹介してくれないか」
濃紺の軍服を身にまとった、長身の男。がっしりとした肩をそらせてシャノンを見下ろし、尊大な口調で話しかけてきたその男は、トマス・アーキンその人だった。
シャノンは爵位を継げないとはいえ伯爵令息で、トマスは男爵令息だ。本来ならシャノンの方が身分が高く、紹介する義務は生じない。けれど、卒業試合で優勝したトマスは士官候補生から一足飛びに中尉になっており、軍の階級的にはシャノンの方が下になる。応じないわけにはいかなかった。
軍服の威圧的な男を前にして、ライラの身体が強張るのが伝わって来た。シャノンはさりげなく一歩前に踏み出して、二人の間に距離を取らせる。
「こんばんは、アーキン中尉。……こちらは、ライラ・アシュトン伯爵令嬢です。ライラ、こちらはトマス・アーキン中尉だ」
「こんばんは、アーキン中尉」
ライラが軽く膝を曲げて礼を取る。声は微かに震えていたが、体の震えはどうにか抑え込んでいるようだった。
「ライラ嬢、どうか一曲踊ってくださいませんか」
トマスの誘い方は、断ることを許さない尊大さだった。無遠慮に差し出された手を見て、ライラがはっと息をのんだ。
「ち、父が――」
父親を理由に断ろうとしたライラに、トマスは意地の悪い笑みを浮かべた。
「中将閣下には許可を得ました」
ライラとシャノンは目を見開いた。アシュトン中将が本当に許したとは到底思えない。けれどそれを証明する手立てはない。アシュトン中将が控えているのは広間の向こう端、王族が座るテーブルで、そこまでたずねに行くのを待つような相手ではないのだ。
「ライラ嬢。いつまでも、軍人相手の社交を避けてはいられませんよ」
今度こそ、ライラは半歩後ずさった。シャノンも驚いて身を固くする。トマスの口元は笑みを作りながらも、眇められた目はにこりとも笑っていない。
(こいつ、全部知っているのか)
「いいだろう? ハーシェル少尉。君は中将閣下に命じられて彼女の傍についているだけなのだから、その閣下の許しを得た私の邪魔立てはしないな?」
こう言われては、今のシャノンの立場では手も足も出なかった。それでもなんとか状況を打開しようと考えを巡らせるが、時は非情に過ぎていく。
とうとう、ライラが震える手をトマスの手に乗せた。
勝ち誇ったような笑みを残し、トマスはライラを連れてダンスの輪へと滑り出していく。引きずられるように歩くライラの足が、恐怖でもつれているのが見えた。
「ライラ……!」
たまらず彼女の名を呼んだシャノンの声は、あまりに情けないものだった。振り返ったライラの怯えきった瞳が、シャノンの目に焼き付く。
このまま引き離されるわけにはいかない。なにかあったときにすぐに助けられる距離にいるには、シャノンもパートナーを見つけてダンスの輪に入る必要があった。
シャノンはすぐにチェルシーを探した。幸い彼女はこのやりとりを目にしていたようで、険しい顔で近づいてくる。
「あなたが誰をライラに紹介しようと勝手だけれど、あの男は感心しませんわ」
「生憎、アシュトン伯の後ろ盾が機能しなきゃ俺は役立たずなんだ」
己の無力さはシャノンが一番よくわかっている。チェルシーも、シャノンを責めても仕方ないと承知で言わずにいられなかったのだろう。お互い八つ当たりをしたことを気まずく思いながらも、二人はダンスの輪の中へ滑り込んだ。
「チェルシー嬢は、トマスについて何を知っているんです?」
シャノンの問いは思いのほか鋭く響いた。チェルシーがわずかにひるんだような素振りを見せる。しかし彼女はすぐに目に力を込めてシャノンを見返した。
「知っているというほどの間柄ではありません。ただ……近頃、よく絡まれるのです。私を利用して父に近づこうという魂胆を隠そうともしていなくて、気味が悪い」
そう言って、チェルシーが眉をひそめたときだった。トマスの驚いたような声と、周囲の貴族たちのざわめき。ライラが真っ青な顔でうずくまっていた。
「ライラ!」
シャノンとチェルシーは、すぐさまライラのもとへ駆け寄った。不快そうな顔をしているトマスのことも、周りでひそひそとささやきあっている人々のことも、今のシャノンにとっては後回しだった。震えているライラの肩に、そっと手をかける。
シャノンに先を越された形になったチェルシーは、幾分冷静に周りを見回した。ひとつ深呼吸をして、トマスと向かいあう。唇の端を吊り上げて、高飛車な笑みを作った。
「まあ、アーキン中尉。淑女の足を踏むなんて、とんだ無作法ですわね」
シャノンはぎょっと目をむいた。この状況で、あまりにも悪手に思えたからだ。
「何を言っている。ライラ嬢が急に……」
「言い訳は見苦しいですわ。どちらにせよ、ライラは早く手当てをしてもらった方がよろしいと思いますけれど」
急なことで驚いていたようだったトマスも、怒りに顔を赤く染めた。完全に意識がチェルシーに向けられている。
シャノンはチェルシーの意図を理解して、そっとライラを立ち上がらせた。肩を支えるようにして歩かせ、人の輪から抜け出す。
「庶子風情が偉そうに……!」
(……庶子?)
トマスがチェルシーを罵る言葉に、シャノンは思わず振り返った。チェルシーの顔は色を失っているが、目は強くトマスを睨み据えたままだ。チェルシーから、否定の言葉は発せられない。周囲のざわめきが増した。
ライラの呼吸は速く、ひどく浅い。それを意識すると、会場の空気が重たく感じられる。
シャノンはライラを連れてテラスへ出た。設えられた椅子に座らせ、そばに膝をついて声をかける。
「ライラ、もう大丈夫だから。深く息を吸って」
ライラにはそう呼びかけながらも、シャノンは自責の念にさいなまれていた。自分一人では、上手くライラを助け出すこともできないのに、なにが大丈夫なのか。信頼して任せてくれているアシュトン伯爵にも申し訳なかった。
何が目的かはわからないが、トマスがああして接触してくることをきちんと予想しておくべきだったのだ。何かしら方策を整えておくべきだった。ましてや、トマスはシャノンに対する嫌がらせを目的にしていたかもしれないのだ。




