Step 14. 本当に、優しいひと
チェルシーがトマスと一緒にいるところを目撃した夜から数日後。朝から重たい雲が空を覆い、強い雨が窓を叩いている。非番の日のみ許された朝寝から目覚めたシャノンは、アシュトン伯爵家へ宛てた手紙を書いていた。昼過ぎに訪問したいという旨をほぼ定型文で書き上げて、封をする。
軍の宿舎へ郵便の集配が来るまでには、もう少し時間がある。クローゼットから引っ張り出した着替えを鞄に詰め込み、壁につるしてある隊服を見やった。今日の練習には、これを着ていくのだ。
手紙を出した後は、落ち着かない気持ちで午前中を過ごす。溜まっていた手紙の返事を書き、細剣や短剣の手入れをしていると、あっという間に時間が過ぎた。宿舎の食堂へ行って軽食を取る。
毎朝同じ手順で着替えているというのに、今日は一つ一つ確かめるように隊服を身につけた。
アシュトン邸の玄関ホールでシャノンを出迎えたライラは、思いつめたような顔をしていた。隊服姿のシャノンを見ても怯える様子はない。ライラ自身、もう予想はできていたのだろう。いつもの部屋へ向かう道すがら、口を開いた。
「やっぱり、怖くないわ」
先を歩いているので、シャノンからはライラの表情が見えない。重く告げられたその言葉に、シャノンの胸は不穏にざわめいた。なぜこんなにも、ライラは悲しそうなのだろう。
部屋に着くと、ようやくライラはシャノンと向き合った。苦悩に陰った紫の瞳を隠すように、ライラがうつむく。
「実を言うと……紺の軍服のシャノンを見ても、思い出さなくなってきているの」
嬉しそうに言ってしかるべき内容なのに、ライラは苦しげに吐き出した。シャノンはなぜかわからず、言葉の続きを待つしかなかった。
「だから今日も……隊服だから怖くないのか、シャノンだから怖くないのか、もうわからなくなってしまったわ」
シャノンはとうとう、耐え切れずに問う。
「それの、何がいけないんだ」
ライラは顔を上げて、シャノンの顔を見た。ぎゅっと寄せられた眉根に、引き結ばれた口元。ライラは絞り出すように言った。
「噂のこと、知っていたんでしょう? このままでは、シャノン……私を押し付けられてしまう」
何を言われたのか、シャノンは束の間飲み込めなかった。ライラの言葉が頭に浸透していくうちに、態度の理由はわかったけれど、それで納得はできそうにない。
「押し付けられるだなんて、自分のことをそんな風に言うなよ」
どうにか答えたその声は、みっともなく掠れた。
ライラは力なく首を横に振る。
「傷物と結婚させられて喜ぶ人なんていないわ」
「……傷物?」
呆然と問い返したシャノンの声に応えるように、ライラはゆっくりと手を持ち上げると、左脇腹を守るように撫でた。
「誘拐されたとき、お父様たちがすぐに助けに来てくれた。上手くいかないことを悟ったアーキン派の実行犯の一人が、最後にナイフを振り回して……醜い傷痕よ」
窓を叩く雨の音が、強くなった気がした。雲が動いて部屋の中が暗く陰る。
「私と結婚することになるのは、出世のためとか、保身のためとか……アシュトンの名前が欲しくて、私自身のことは二の次の男性なのだとずっと思ってきたの。それなのに、こんな……あなたみたいに優しくてまっすぐな人には、疵一つない相手がふさわしいのに」
今までに見たことがないほど暗い瞳で、ライラは語った。シャノンを過剰なまでに買っているのはわかったが、事情を聞いてもなぜそれほどライラが自分を価値のないものとして扱うのかはわからない。
そして、見た目や体の傷で相手の価値を判断する人間であると断じるような言い分にも、不快な胸のざわめきを感じた。
何を言えばいいのか、考えてもうまくまとまらない。結局シャノンが言えたのは、自分が知っている事実だけだった。
「どんな噂があったって、君が望まなければ俺と結婚しなくちゃいけないなんて事態にはならない」
ライラと目線がかち合う。本当に? と問いかけるようなまなざしをまっすぐに見返して、続ける。
「俺はアシュトン中将の部下だ。閣下が認めなければ噂は噂にすぎないし、選ぶ権利は君にある」
ライラは泣きだしそうに顔を歪めた。
「どうして、こんなにも不誠実な行いを受け入れてしまうの?」
どこまでもシャノンを慮るライラに戸惑いながらも、シャノンは必死に言葉を紡いだ。自分のことを気にして苦しむライラを見ていたくなかった。
「俺にだって、多少なりとも打算があるからだ。君がさっき言ったようなのとは少し違うけど」
この先を口にするのには、少しだけ勇気がいる。シャノンは大きく息を吸った。
「一番の近道は君と結婚してアシュトンの名を得ることなんだろうな。でも、そうでなくても隊長に働きを認めてもらえれば、将来は安泰だ。俺のこの容姿で、体格で、力で……正攻法でやっていけるほど、軍は優しいところじゃない。それは俺が一番よくわかってるつもりだ。閣下に恩を売っておけば、と思っているのは事実だ。閣下が俺のことを買ってくれている現状を手放したくない」
シャノンのこの考えだって、みっともない保身だ。自分の弱さをさらけ出したくはなかった。前を向こうと努力している誰かの助けになりたいという、最初に語った思いだけの立派な人間だと思っていて欲しかった。誰よりも、今目の前にいるこの少女には。
(俺はもう、戻れないところまで来ているのかもしれない)
シャノンの胸に、苦い思いが広がった。
その思いに今は蓋をして、見ないふりをする。黙ってシャノンの言葉を聞いているライラに向けて、笑みを作った。
「だから、君が気に病むことは何一つないんだ。お互い利用しあっているんだと思ってしまえばいいだろ」
一度言葉を切ったシャノンだったが、思い直して続ける。
「……それでも俺は、君のことを、大切な……友達だと思ってるけど」
ライラは瞠目した。そして、やがてあきらめたように微笑む。
「本当に、優しいひと」
ライラのその声こそが何よりも優しく聞こえて、シャノンは今度こそ自然に笑んだ。
「すっかり話し込んじゃったな。せっかくこれを着て来たんだし、練習しておく?」
重たい空気を振り払うようにシャノンが振舞うと、ライラは嬉しそうに頷いて手を取った。
「いらっしゃい、ライラ」
「チェルシー、今日もお招きありがとう」
シャノンが非番の日に隊服で訪ねてきてから数日後、ライラはアークライト公爵家に招かれていた。昨日とある伯爵家で行われたお茶会に参加したのだが、それぞれ別のテーブルにいたため二人で話す機会がなかったのだ。
「シャノン様とは、お話できたの?」
柔らかな光に満ちたサンルームに落ち着くやいなや、チェルシーは待ちきれなかったのかいきなり本題に入った。
シャノンとのやり取りを、かいつまんでチェルシーに話す。思い返しながら話していると、ライラの脳裏にはシャノンの様々な表情が次々と浮かんだ。
まだ練習を始めたばかりの頃、「みたいじゃなくて、友達になろう」と言って笑ったシャノンの顔があまりにも晴れやかで、強く印象に残っている。
話し終えると、チェルシーは安心したように微笑んだ。
「シャノン様もそう言っているなら、噂はもう気にしないのが一番ね。私、かえって余計なことを言ってしまったかしら」
「そんな、チェルシーのおかげできちんと話せたのよ」
ライラの言葉に苦笑して、チェルシーは黙り込んでしまった。ライラから目線を逸らすように顔を背ける彼女の表情は陰っている。
「あのね、ライラ……」
迷いを乗せた声音で、チェルシーが何かを言いかけた。けれどすぐに口をつぐんでしまう。
「どうかしたの?」
赤みを帯びた茶色の瞳が、揺れている。いつもきっぱりとしたチェルシーの気弱な様子に、ライラは驚いた。
緊張の沈黙は、やがてチェルシー本人によって破られた。
「ライラは、シャノン様のお兄様をご存知?」
「え?」
唐突に移り変わった話題に、ライラは目を白黒させた。
きっと、さっき言いかけたことではない。ライラの直感はそう告げていたが、話を戻すことは叶いそうにないことは、ことさらに明るく話そうとしているチェルシーの態度から悟った。
「お兄様がいらっしゃることは、知っているけれど……お会いしたことはないわ」
「そうなのね。シャノン様とは、瞳の色以外はあまり似ていらっしゃらなかったわ。先日夜会でご挨拶したの」
チェルシーが話したがらないのなら、ライラは問いかける言葉を持たない。シャノンの兄の話を詳しく聞こうと口を開いた。
しかしそれは、サンルームへ現れたアークライト家の執事によって遮られる。
「お嬢様、あと半時ほどで旦那様が戻られます」
「え……今日は、早いお帰りなのね」
チェルシーが、目に見えてうろたえた。焦ったように立ち上がり、はっと気がついてライラの方を向く。
「ごめんなさい、ライラ。今日はもう……」
「いいえ、大丈夫よ。そろそろお暇するわね」
主人に挨拶もしないで逃げるように帰るのは気が引けるが、どうもチェルシーの慌てようから、何か事情がありそうだった。ライラはチェルシーに笑顔を見せ、帰り支度をする。
チェルシーの様子を案じ、奇妙な胸騒ぎを覚えながら、ライラはアークライト公爵家を後にした。




