Step 1. ダンスの練習ですか
ローランド王国、王都の東部には、貴族のタウンハウスが多く集まっている。
その中の一つであるアシュトン伯爵邸の門を、一台の馬車がくぐっていく。ほどなくして、透けるようなプラチナブロンドの小柄な青年が馬車から降り立った。
青年の名はシャノン・ハーシェル。クラーデン伯ハーシェル家の次男であるシャノンは、士官学校を卒業し軍人となって半年たったばかりの十八歳だ。
非番である今日は、所属する近衛隊の隊長を務める国軍中将・アシュトン伯爵に呼び出され、ここまでやってきた。
シャノンは御者が馬車からおろした大きめの鞄を受け取ると、アシュトン伯爵邸の重厚な扉についたベルを鳴らす。
シャノンが名乗ると、応対に出てきた執事は心得たように頷いた。
「ハーシェル様、ようこそおいでくださいました。どうぞこちらへ」
応接室に通されてすぐに、アシュトン伯爵が姿を見せた。シャノンは慌てて立ち上がる。その緊張した様子に、伯爵は表情を緩めた。
「急に呼び出してすまなかったね。楽にしなさい。今日は仕事の話ではないんだ、一応」
二人が向かい合わせに腰を下ろすと、執事が紅茶をサーブする。仕事でなければ何の話なのか見当もつかず、シャノンはますます混乱したが、立ちのぼる紅茶の香りに少し気が落ち着いた。アシュトン伯爵がカップを持ち上げるのを見て、シャノンもそれに倣う。
「一月後、今シーズン最初の王宮舞踏会があるだろう?」
「はい」
社交シーズンの始まりを告げる、大規模な夜会だ。王侯貴族が一堂に会するといっても過言ではなく、デビュタントのお披露目もある大切な場である。シャノンが所属する国軍は、その日は総動員で厳重警備にあたる予定になっている。
やはり仕事の話ではないか、という考えが顔に出たのか、伯爵はにやりとした。
「全く仕事が関係ない、というわけではなかったな。いやむしろ、君には上官命令だと言った方が話が早そうだ」
「命令、ですか」
「そう重くとらえないでくれ。冗談だよ」
そう言って笑みを収めたアシュトン伯爵は、かすかなため息を漏らす。シャノンをまっすぐに見据える彼の瞳が、真剣な光を帯びた。どうやらここからが本題らしい。
「私の娘が、今年デビューなんだ。そこで、君にエスコート役を頼みたくてね」
一息に告げられたその内容に、シャノンは虚を突かれた。思ってもみないことだったからだ。それに、シャノンも警備にあたるために、夜会には出ない予定だった。
「娘の晴れ舞台だ。本音を言えば私がエスコートしたいんだが……今年は隣国の王女がいらしているから、私が指揮を離れるのは、なるべく避けなくてはならない」
悔しげに眉根を寄せた彼は、重苦しく息をはいた。しかし、父親が駄目ならたいていはいとこなどにお鉢が回ってくるものではないだろうか。そう疑問に思ったシャノンは、素直に尋ねることにする。
「あの、なぜ私なのでしょうか」
「ああ、その、それは娘の事情なんだが……親戚筋も、あらかた試したが駄目だった。娘は、男が怖いんだ」
「……なんとなく話が見えてきました」
シャノンは、眉をひそめてしまうのを止められなかった。相手が尊敬している伯爵でなかったら、ためらわずに退席していただろう。シャノンの容姿が、控えめに言っても中性的、率直に言えば女性的ですらあることは、どんなに不本意でもどうしようもないことだ。
「気を悪くしないでほしい。勝手な言い分だとは思うが……失礼を承知でお願いしたい。まだ娘が君を怖がらないと決まったわけじゃないから、まずは紹介させてくれないか」
シャノンのコンプレックスを知っていて頼むということは、よほど困っているのだろう。伯爵には息子がいない。アシュトン伯爵家は比較的新しく爵位を得た家で、女系相続も認められている。娘が婿を取って男の子を産めば、その子を跡取りにすることができる。娘の社交は死活問題なのだ。
「……わかりました」
「ありがとう、助かるよ」
安心したように微笑んだ伯爵が、控えていた執事に合図する。彼は一礼して部屋を出ていった。
「失礼いたします」
その声とともに部屋にやってきたのは、アシュトン伯爵とよく似た栗色の髪をした、小柄な娘だった。娘は落ち着いた菫色のデイドレスを細い指先でつまみ上げ、礼をする。その優雅な所作に、きちんとした教育を受けてきたことが伺えた。
「初めまして、ライラと申します」
名乗った声音は細かった。反して、伏せていた顔は思い切りよく上がる。小さな唇をきゅっと引き結んだどこか挑むようなその表情に、緊張が滲んでいるようだった。強張っている紫の瞳を見つめ返して、シャノンは自然と微笑んでいた。
「初めまして、私はシャノン・ハーシェル。御父上の部下です」
「お話は、父から伺っています。……この度は、このようなことに付き合わせてしまって申し訳ありません」
「いいえ、お気になさらず」
「ライラ、どうだい? 大丈夫か?」
「ええ、今のところは……離れておりますから……」
その答えに、伯爵は安心したように息をついた。そして、シャノンに目配せをする。その意味と、自らの役割をシャノンは正しく理解して、ライラにゆっくりと歩み寄った。
「では、失礼して。……お手をどうぞ、ライラ嬢」
「……え、あの……」
ライラは、戸惑ったように目の前の青年と父親を交互に見やる。父親が頷くのを見て、彼女もまた理解したのだろう。早速、練習というわけだ。
おずおずと、ライラの手が重ねられる。その手は、かすかに震えていた。
「……大丈夫ですか?」
「は、はい……」
ライラはすっかりうつむいてしまっていた。返事も弱々しいものだったが、気丈にも手は離されない。
「少しだけ、頑張ってください。でも、無理はしないで」
そう励ましながら、シャノンは伯爵の隣までライラをエスコートした。彼女が腰を下ろしたとき、三人は同時に息をつく。
「閣下、事の進め方が強引ではないですか?」
平静を装ってはいたが、シャノンは内心とても緊張していた。自分のような容姿でも緊張していて安心してしまったことに罪悪感を覚えたし、女性に怯えられながらエスコートというのはなかなか心臓に悪いものだった。文句の一つも言いたくなるというものだ。
対するアシュトン親子の反応は、シャノンの予想とは大きく異なっていた。
「お、お父様、私……!」
「よかった……! よかったな、ライラ!」
二人は、手を取り合って喜んでいたのである。ライラに至っては、大きな目を潤ませてすらいた。緊張か恐怖か喜びか、はたまたその全てなのか、涙の原因は定かではないが。
「……さて、問題は、ダンスだ」
喜びを収め、伯爵は重々しく告げた。
確かに、ほんの短い距離のエスコートでやっとならば、男性とのダンスなどもってのほかだろう。
「ダンス自体はできるんだ。男が相手でなければ。そこで、シャノンにもう一つ頼みがある」
アシュトン伯爵の目をまっすぐに見返して、シャノンは思い至ったことを口にした。
「ダンスの練習ですか」
「察しがよくて助かる」
伯爵は安心したように微笑んだ。だがシャノンはまだ了承したわけではない。断るつもりもなかったが、懸念があった。
「ですが、近衛の仕事があります。そう頻繁には……あまり時間もありませんし」
眉を寄せて語る部下に、伯爵は笑みを深めた。ライラは二人の話をじっと黙って聞いている。彼女は真剣な表情で父を見ていた。
「その点については考えてある。この季節は雨の日が多い」
「……そうですね」
「雨の日は殿下方の外出も中止になることが多いだろう。そうすると、近衛は何人か訓練シフトに回る。その訓練の間だけ、抜けてきてほしいんだ。頼めないか?」
雨の日は、確かに王族の外出が取りやめになったり、別の日に予定が変更されたりすることが多い。特にシャノンは弱冠十二歳の第三王女付きの近衛だ。まだ本格的な公務もなく、そばに控える近衛も少ない。その中でも士官になったばかりのシャノンは、そもそも訓練の予定が組まれることが多かった。
しかし、近衛隊長も務める国軍中将の伯爵と言えども、私的な理由で部下を動かすことが許されるのだろうか。迷ったシャノンだったが、勇気を出して尋ねた。
「それは、いくら閣下といえど職権乱用なのではありませんか」
伯爵はわずかに眉を寄せた。
「懸念は最もだが、実は少し事情があってな」
その事情とやらを、今は話す気がないらしい。伯爵は重々しく次の言葉を告げた。
「これには特例が適用される」
特例、はシャノンにとって、特別な意味を持つ命令と同義だった。
「それを先に仰ってください」
これで、今日「あれ」を持ってこいと言われた意味もようやく分かった。シャノンは持ってきた鞄にちらりと視線を走らせる。
断るという選択肢はなかった。それに、これが特例任務であるならば、喜んで受け入れる。
(俺が、自分の容姿を誇っていられるために)
シャノンはずっと、自分の女性的な容貌をコンプレックスに感じていた。あえて軍人になる道を選んだのも、その反発のようなものだ。顔は変えられなくとも、体つきや、剣の腕、射撃の腕……強くなれば、理想の男になれると思っていた。
けれど現実は厳しかった。声変わりしてもなお高めの声。多少筋肉はついたが骨が細いのか、想像していたようながっしりとした体にはなれなかった。技巧を磨いても、周りに力で劣るため剣術の手合わせは押し負けてばかり。射撃の腕だけは誇れる域に達したが、それが気に食わない人間には容姿のことでずっとからかわれた。
そんな、シャノンにとってつらい士官学校での日々は、最終学年のはじめに大きく変わった。今、直属の上官となったアシュトン伯爵との出会いがきっかけだった。