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5.お守り

 コンコン、という軽やかなノックから間を置かずに、ドアが開く。


「おう、来たか……って、クッサ!」


 マルセルの満面の笑顔が、一瞬で歪んだ。それを見たアリスも、ついつい苦笑が漏れる。


「そんなに……臭いですか?」

「いや~。なかなか……強烈なんじゃないか?」

「そうですかねえ? 慣れるとそうでもないんですけど……」


 アリスは手にしたバケツを持ち上げる。――確かに少しツンと鼻をつく臭いはするが、まさかそんな反応をされるとは思わなかった。慣れというものは恐ろしい。


「これか。まさか柿の渋が防腐、防水に効くとは思わなかった」

「外干し用のバルコニーが、他より傷みやすくて困っていると聞いたので、試しに作ってみたんです。どこまで効用あるかはわからないですけど、領地ではこれを使ってたんですよ」


 領地では大人数で作る上に男手もあるから、もっと綺麗な物ができる。アリスがひとりで作ったものは、上手に漉すことができなかったのか、少しだけ果実の繊維が入り、ドロッとしている。だが、なにもしないよりは、塗った方が傷むのを遅らせられるだろう。

 実の青い渋柿は、潰して出てきた液体が、防水性、防腐性に優れている。アリスの領地は雪深い北の地にあったため、木の腐食が激しいこともあり、厩舎の外壁や外階段、柵などに柿渋を塗布していたのだ。だが、なんとか柿渋を抽出できたとはいえ、勝手に塗っていいとは思えず、こうしてマルセルを頼ったのである。


「本当に、乾いたらこの臭いは消えるのか?」

「はい。外だし今の季節は雨が降らなければ一週間くらいで、乾くと思います」

「さすがにその間は洗濯物に臭いがつきそうだしなぁ……。わかった。俺が言っておいてやる」

「ありがとうございます!」


 良かった。無駄にならずに済むようだ。アリスは胸をなで下ろした。

 今日は仕事の休憩中のため、長居はできない。挨拶をして立ち去ろうとすると、マルセルが呼び止めた。


「ちょっと、いいか」

「はい?」

「ラウル殿下の件なんだが……女性問題の噂があるのか?」

「えええ~! マルセルさんのところにも情報が入ってるんですか? それじゃ信ぴょう性あるってことなんですかね?」

「いやいやいや、そうじゃなくて」


 マルセルは慌てて否定する。


「どんな噂なのかを聞いてるんだ」

「あ、そうなんですね。なんでも、ラウル殿下は側近や侍女を撒いて消えてしまう時があるんだそうです。その影には、真面目で冷静な殿下を、そんな情熱的な行為に走らせる女性がいるって話なんですよ」

「え? あ~、そう、なんだ……」


 なんだかマルセルの小鼻がヒクつき、声も震えていた。

 なんだろう?と、マルセルの様子が気になったが、午後の仕事が始まってしまう。アリスは挨拶をすると、慌てて訓練所に戻った。

 アリスの姿が遠ざかると、我慢できなくなったマルセルは大声を出して笑い転げた。


「そうかぁ~。あんなに小さかったお前がなぁ、情熱的な恋をしてるのかぁ」

「……してませんよ」


 おかしそうに涙を浮かべて笑うマルセルに、不機嫌そうなラウルが近づく。

 まさか、度々王宮を抜け出すことが、こんな風に噂されているとは思わなかった。


「まさか、逢瀬の相手がこんなおっさんだとは、誰も思わないだろうな」

「――俺の評判を、どうしてくれるんですか」

「知らんよ。お前が勝手に来ているんだろう」

「……心配だからですよ。それに、窮屈な王宮で、感情を笑顔の仮面でうまく隠したつもりになって近づくいてくる人たちの相手をしていると、疲れるんです」


 ラウルにとって、マルセルは素をさらけ出せる数少ない相手だった。

 駆け引き、陰口、心無いおべっか――そこには、“本当”なんて、あるのだろうか。そんな中にいると、時折息が苦しく感じることがあるのだ。

 心配も、本当だ。

 マルセルが騎馬隊を引退したのは、落馬した際の骨折の治りが悪く、完治してからも元のようには動かなくなったからだ。

 日常生活に支障はないようだが、もう馬を自分の手足のように操ることはできない。マルセルは、まるで自分と一体になったかのように、馬を操る天才だった。それには、馬の腹に触れる足の、微妙な力加減が為せる技だった。それができなくなってしまったのだ。

 落馬の原因を作ったのは、ラウルだった。国境警備の視察に向かう途中、突然襲ってきた山賊からラウルを守ろうとしたが、山賊が吹いた矢に驚いた馬に振り落とされてしまった。

 マルセルは決してラウルを責めない。だが、馬に接するマルセルの表情に、愛しさと少しの寂しさがあるのをラウルは知っている。そんなマルセルが、最近はとても明るい。聞けば、訓練所に新しく配属になった女の子が、馬好きなのだそうだ。初めは「珍しい子だな」位に思っていたのだが、馬が見たいあまりに、厩舎に来る仕事を率先してやっていると聞き、俄然興味が沸いた。まさか、宿舎から抜け出すところを見逃してくれた女の子だとは、思わなかった。


「最近、ここに来るのはそれだけじゃないだろう」

「……バレバレでしたね」


 まるでラウルの心を見透かしたかのように、マルセルが言う。

 ラウルには、窮屈な仮面世界と、マルセルのところで過ごす少しの自由しかない。それなのに、アリスは令嬢でありながら蔦を使って家を飛び出し、時には馬の出産をも手伝う。そして、平然と木に登ろうとするし、渋柿なんてものが欲しいと言う。そして、こんな防腐剤を作り出してしまった。

 自分に較べたら、彼女はなんて自由なんだと思う。考えることも、行動も、羨ましいほどにとても自由だ。そして、なんて屈託のない顔で笑うのだろう、と。

 それはまるで、太陽のような明るい色の花をつけ、どこまでもふわふわと飛んで行って、どんな場所にも根を下ろす、たんぽぽのようだと思った。


「でも、あんな誤解は困りますね」

「それは自分でなんとかすることだな」

「勿論です」

「じゃあ、俺はこれをバルコニーに塗る手配でもするか。ほれ、お前もそろそろ戻れ。側近が探してるだろう。戻らないと、また女の噂が立つぞ」

「――ぎっくり腰だってアリスに言ったこと、根に持ってますか?」

「当たり前だ。俺はそんなやわじゃない」


 遠くで、ラウルを呼ぶ声がする。

 このままここにいては、見つかってしまうのも時間の問題だった。マルセルは陛下の良き友人でもあるのだから、ひとりで会っても問題ないのだが、これから見つかりやすくなってしまうのは嫌だった。適当な場所で合流するか……そうひとりごちると、ラウルは厩舎を離れた。



 * * *



「ああ、いたわ。やっと見つけた。アリス・フォンタニエ。あなたにお届け物よ」

「あ、ありがとうございます」


 休憩がもうすぐ終わるという時間になって訓練所の滑り込むと、アネットが小さな包みをアリスに渡した。

 誰からだろう?と見てみると、そこには両親ふたりの名前がある。

 早速開封すると、手紙と小箱が入っていた。

 手紙は、母ロクサーヌの筆跡だった。


『可愛い可愛いアリスへ

 王宮での生活は慣れた? お仕事は辛くないかしら? 最初の頃はお手紙をくれたのに、最近は届かないので、とても心配よ。元気でやっているかだけでも、教えてちょうだいね』


 そこまで読み、思わず苦笑する。

 最初のうちは仕事が終わると特にやることがなく、頻繁にまるで日記のように日々のことを両親に宛ててしたためていたものだった。だが最近はなんだかんだとやることがあって、ついつい手紙から遠ざかっていたのだ。

 便りがないのが元気な証拠――なんて高齢の両親が思うわけもなく、手紙にはアリスを案じる言葉が連なっている。

 柿渋も作り終わったし、今夜は久しぶりに手紙を書こう。そう反省し、手紙の続きに意識を戻す。すると、同封の小箱について書いてあった。


『あまりにアリスのことが心配で、友人の子爵夫人に相談をしたの。そうしたら、お守りを贈ったらいいと、助言してくれたのよ。同封したものは、今、独身のご令嬢の間で流行っているというアクセサリーよ。メッセージを彫って贈るのですって。必ず身に着けてね』


 お守りと言っても、仕事中に身に着けられる物なのだろうか?

 小箱を開けると、中には長いチェーンに通された大き目の金の指輪が入っていた。表面にはぐるりとメッセージが彫られている。


『私の愛があなたを守りますように』


 愛情深いロクサーヌらしい、あたたかなメッセージだ。

 アリスは心がほんわかと暖かくなるのを感じた。

 そんなアリスの様子が気になったのか、マリアが覗き込む。


「あら、素敵。これ、今流行っているのよ」

「そうなの? 指にするには大きいけれど……」

「サイズは男性用だもの。チェーンに通されてるでしょう? 首にかけるのよ。これで仕事中でも身に着けられるわ。男性用なのはね、独身の間、パートナー代わりとなって持ち主を守るという意味があるのよ」

「へぇ~。知らなかったわ」

「この間行った伯爵家のお茶会で、話題になっていたの。女性は皆欲しがっていたわ」


 マリアに手伝ってもらい、チェーンを首にかけたアリスは、お守りの指輪をそっと指で撫でた。


(まだ居ぬパートナーの代わりになって……か)


 アリスは、なんだか不思議な感じがした。

 恋とか愛とか、結婚とか。そういうことが話題になることはあった。

 貴族の一員であるから、社交界デビューの十六歳から大体数年かけて、相手を見つけるのだと頭ではわかっていた。でも、心ではわからないままだ。


(私に、本当のパートナーなんて現れるのかしら)


 恋をする自分が、まったく想像できない。

 自分には、この話題はまだ早い気がした。

 領地にいたままだったら、両親や兄、姉たちがあちこちのお茶会や夜会に連れ出そうとしただろう。けれど、それもなんだか自分らしくないような気がして、少し逃げ腰だった。そんな時に届いた合格通知。驚いたけれど、なにか新しいことが待っていると思った。


(待っているのかな? 恋も、待っているのかな……)


 首を傾げるアリスの耳に、休憩終わりの鐘が響く。

 ハッと顔を上げると、慌てて指輪をお仕着せの中に入れた。

 するり、と素肌に金の冷たさを感じ、なんだかくすぐったかった。でも、今は仕事に集中しなくては。アリスは汚れた服が詰め込まれたカゴを手にすると、洗濯室に向かった。昨日は雨だったこともあり、訓練服はいつもよりひどい泥汚れがこびりついている。まずは、これを綺麗に洗わなければ。


 


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