第八話 誠司とアリスのチャーハン
「セージくん!」
「セージさん!」
金髪の少女と銀髪の王女。
二人の美少女が、マンションの玄関で男へ詰め寄る。
「これはいったい、どういうこと!?」
「いったい、どういうことですか!?」
疑問という名の怒りをぶつけられ、それでも、誠司の胸には安堵があった。
玄関の扉は、しっかりと閉まっている。鍵もかけたのだから、間違いない。
このマンションは防音もしっかりしており、密閉されていれば――その分、夏場はかなり暑いのだが――ほとんど音は漏れない。
つまり、近所にこの惨状を知られることはないのだ。
ならば、相手にするのはこの二人だけ。どうとでも、やりようはある。
それゆえの安堵だった。
ほとんど犯罪者の思考――そうでなければ、ただの現実逃避――だったが、誠司が気づくことはない。
「ウゥーワンッ! ウゥーワンッ!」
人が帰ってきて嬉しそうに吠えるコタロウを抱き上げ、無言で靴を脱ぎリビングへと向かう。
玄関は三人が密集して狭かったが、少女二人では180センチはある大柄な誠司の動きを妨げることはできない。
容姿に重きを置かない誠司であれば、なおさら。
「セージさん!」
「セージくん!」
仕方なく、ミューラたちもその後を追う。
どたどたとした足音を聞きながら、誠司は第一関門を通過したことを確信していた。
とりあえず、向こうにペースを握られることは防いだ。
今の内に、カバーストーリーをでっち上げなければ。
今のミューラは、他人から見ると姿が変わっている。しかも、偶然の悪戯でそっくりになっているようだ。
(先輩に、隠し子が……。いや、駄目か。となると、似ているのは偶然で押し通す……?)
かなり、苦しい。
けれど、真実を話すわけにもいかない。誠司は、無理を通して道理を引っ込ます決意を固めた。
しかし、その方針は直後に撤回を余儀なくされる。
「って、アタシが銀髪の女の子に変わったんだけど!?」
「あの……セージさん……」
「ああ……。分かった。魔法の持続が、切れたんだな」
術者を知らない者からの認識を歪めて、まったく異なる外見を認識させる魔法。偶然にも、ミューラが選んだのは、押しかけてきた少女の姿。
それを前提に言い訳を考えていたのだが、その前提が崩れ去った。
しかも、現代の科学では言い訳のできない状況で。
シンデレラ並みにとは言わないが、もう少し猶予が欲しかった。
誠司は息を吐き、方向転換を試みる。
「彼女はミューラ・シルヴァラッド。異世界にあるシルヴァラッド森林王国の第三王女で、魔法実験の暴走により地球へ迷い込んでしまったため、保護している」
正直に話すしかない。
それは、いっそ潔いと表現しても良かったが……。
だからといって、信じてもらえるとは限らない。
「セージくん……だいじょぶ? 病院行く?」
「有朱……」
浦賀有朱。
兄の親友の娘――つまり他人なのだが、そう突き放すこともできないのが難しい――から本気で心配され、苦笑するしかなかった。
「…………」
「…………」
ダイニングテーブルで二人の美少女が無言で向き合っていた。
一人は、異世界からやって来た王女ミューラ・シルヴァラッド。
背中まで伸びるふわりとした銀髪。窓ガラスを通して入ってくる陽光を反射してきらきらと輝く様は、夜空に輝く星々を連想させる。
サファイアのように輝く大きな瞳も同じで、思わず引き込まれてしまう。
すっと通った鼻筋に、小さな輪郭の頭。
最上の素材に施された造型はやや幼い部分もあるが、非常に整っている。故国シルヴァラッド森林王国でも美姫と噂されていた彼女は、この地球でもやはり美しい。
土地や時代で好みは変わっても、絶対的な美の基準は変わらないようだ。
ただ、その美貌も、今は憂慮の色が濃かった。
その不安の源は、向き合うもう一人の少女、浦賀有朱。
身長は150cmほどと、ミューラよりもやや低い。また、ミューラと比べるまでもなく、体型は全体的に発展途上。
しかし、彼女の容姿において、それが瑕疵にはならない。むしろ、プラスに働いていた。
蜂蜜色の金髪をツインテールにして肩の下まで伸ばした髪型は、少女にのみ許された特権。顔立ちも、アングロサクソンの血が入っているのか、日本人離れしていた。
それと、子猫のように挑戦的な光が灯った瞳が、小悪魔的な魅力を演出する。
ロング丈のスタジャンにストライプのスカートを合わせ、ニーハイソックスを履いたファッションもアクティブでありながらガーリーで、ミューラが仮の姿に選んだのもうなずけた。
不機嫌そうに唇をとがらせ、デコレーションされた上にストラップがわんさと付けられたスマートフォンをいじっている姿も絵になる。
ベクトルは違うが、どちらも美少女。
その彼女たちが揃って無言でいると、不思議な迫力があった。
(セージさんはアリスさんと呼んでいましたが、セージさんとは、一体どんな関係なんでしょう……。うう。それにしても、可愛すぎます……。どうしましょう……)
幻覚で容姿をごまかすために参考にしたファッション雑誌。そこから、彼女を選んだのは偶然ではない。
小さくて可愛らしい。それでいて、凛とした格好良さがある。女性から見た女性の理想を体現したかのような少女だった。
そんな相手が家の前で待ち構えていた上に、誠司は親しげに有朱と――恐らく名前を――呼んでいる。
聞きたい。問い質したい。問い詰めたい。
だが、それを直接相手に行うのは、ミューラのプライドが許さなかった。それでは、誠司のことをなにもしらないと告白するのと同じ。みすみすアドバンテージを捨てるような真似をできるはずもない。
ゆえに、ミューラは沈黙を選ぶしかなかった。
そして、脅威を感じているのは有朱も同じだった。
(セージくんに女を連れ込む甲斐性なんてないはずだけど……。っていうか、まつげ長くない? 目もぱっちりしすぎじゃない? あれでノーメイクくさいし……反則じゃない?)
スマートフォンを操作しながらヘイゼルの瞳を忙しなく動かし、銀髪の美少女をこっそりと観察する。
容姿には自信のある――むしろ、自信しかない――少女だったが、それもやや揺らいでいた。
自他共に認める美少女である有朱ですら圧倒されてしまう気品。
コンビニに行くのもはばかられるようなスウェット姿にもかかわらずだ。
どれだけのポテンシャルを秘めているのか、想像もしたくない。
それ以上に、誠司と。あの誠司と楽しげに買い物から帰ってきた。その事実に、有朱は脅威を抱いていた。
自分が何年もかけた境地に、見知らぬ少女が立っている。
それは、有朱が内なる闘志を燃やすに余りある出来事。
ゆえに、有朱も沈黙を選ぶ他にない。
ぽっと出の女に誠司との関係を尋ねるなど、華やかな世界で仕事をする彼女のプライドが許さなかった。
「…………」
「…………」
「ワォン!」
コタロウが、遊んでと鳴き声を上げると、二人揃ってぴくりと反応する。
だが、それだけ。
どちらも、コタロウを見ても構おうとはしない。本心はともかく、状況が許さないのだ。
そこに足を踏み入れた誠司は、一瞬動きを止めた。止めざるを得ない。
生まれた頃には終結していた冷戦とは、こういうものだったのだろうか。誠司は新たな知見を得た心境だった。
しかし、残念なことに、その考察を進めることはできない。
昨日作り、なんとか守り通した栗きんとんと熱い緑茶を三人分お盆に載せ、誠司は冷戦状態の両者に割って入る。
と言っても、お茶とお茶請けをダイニングテーブルの上に置き、誠司も席に着いただけだが……。
「…………」
「…………」
二人とも、誠司の動きを目で追うが、無言。誰も構ってくれないのかと失望し、コタロウが窓際の指定席――カーテンの下――へと移動した。
この事態をどうにかできるのは、誠司だけ。
二人も、誠司の言葉を待っていた。
にもかかわらず、誠司は、このまま無言を貫き通せばうやむやになるのではないだろうかと思ってしまう。
それはとても魅力的なアイディア。だが、それは希望的な観測に過ぎた。ミューラは黙っていないだろうし、有朱が騒ぎ立てれば即座にアウト。
消極的な解決策は捨て、誠司は相互理解を深めることを選んだ。
「ミューラ、彼女は浦賀有朱。うちの兄の親友の娘さんで――」
「セージくんの恋人よ」
「――セージさん!?」
「もちろん、嘘だ」
「うう……。どちらを信用すれば良いのか……」
予想外の信用のなさに、誠司は天を仰ぎたくなる。
ある意味、自業自得だった。
「恋人がいるのに、他の女性を泊めるほど迂闊な人間じゃない」
「そう言われてみると、そうですね!」
誠司の言葉に、ミューラはあっさりと理解を示した。
そういう信頼のされ方もどうかと思うが、こじれるよりは良いかと誠司は思い直す
「そもそも、セージさんは恋人を作るような人じゃありませんし!」
「そーなのよねー。このアタシが、どれだけアピっても落ちないとか、あり得ないんですけど?」
酷い言われようだが、間違いではないので誠司は反論ひとつしようとしない。
実際そのつもりもないわけで、ここは沈黙こそが金だった。
「それで、有朱。彼女はミューラ・シルヴァラッド。異世界にあるシルヴァラッド森林王国の第三王女で、魔法実験の暴走により地球へ迷い込んでしまったため、保護している」
「セージくん……。酸素欠乏症にかかって……」
「そういう解釈と認識でも構わないが、俺からは、これ以外の説明はないぞ」
そう言われて、有朱は黙り込んだ。すっかり、小悪魔的な表情は鳴りを潜めている。
撮影や収録の現場でも滅多に見られない真剣な――あるいは深刻な――顔で有朱は考え込む。
まず、誠司は嘘を吐いていない。
長い――彼女にとっては――誠司との付き合いで、その辺りの機微は把握していた。嘘だったら、もっと、もっともらしい証拠を出してくるはず。
異世界から来たなんて適当なことしか言わないのは、それが真実だから。
それに、有朱はミューラの容姿が変わるところも、ばっちり目撃している。あれは、メイクやARでは説明が付かない。
そもそも、ミューラの綺麗さは、日本人離れどころか三次元離れしていた。そういう意味でも、異世界人という説明に説得力を感じる。
それでもなお、受け入れるのは困難だった。
「ねえ、セージくん……? マジで言ってるわけ? 異世界人で押し通すつもり! とか、そういうんじゃなくて?」
「押し通すつもりではあるが、真実でもある」
笑顔を強ばらせて聞く有朱へ、にべもない返答をする誠司。
それが逆に、信憑性を与える。
「ミューラ、余力はあるか?」
「大丈夫です!」
なにやら、誠司とミューラが以心伝心の様子を見せつける。
有朱は、それが微妙に。いや、大いに気にくわない。
だが、事態は彼女の感情を置き去りにして動く。
「ちょっ、なにする――」
ミューラが瞳を閉じて精神を集中。そのただならぬ雰囲気に、有朱は最後まで言葉を紡げない。
そんな有朱を置き去りにして、ミューラは体内の魔素を指輪から放出して魔法を唱える。
「《ライト》」
昼過ぎの、元から明るかったリビングに光球が生まれた。
それはもうひとつの太陽かのように周囲を明るく照らし出す。
驚いたコタロウが、光に向かって吠え立てる。
「……なにこれ?」
決して派手な魔法ではない。
周囲に光を放つこぶし大のボールが、天井近くに浮いているだけ。
だが、奇術や手品のように仕掛けが感じられない。
「消して良いぞ」
「はい。《ディスペル》!」
再び、指輪が煌めいた。
次の瞬間、光球が、完全に消え失せる。突然行われたマジックショーに、有朱はたっぷり三分ほど沈黙した。
「まあ、魔法が使えたからイコール異世界人ってわけじゃないが、証拠のひとつにはなっただろ」
「そうだけど……。え? マジなの?」
「はい、マジです! それから、セージさんとコタロウちゃんの同居人でもあります。今のところは、ですが」
ミューラの補足。
誠司にとっては、それは一年後に訪れるミューラの帰還を意味していた。
一方、有朱は、己への挑発を感じ取っていた。
この瞬間、有朱は異世界から来たのが本当かどうかという細かいことを考えるのは止めにした。
「セージさん!」
そこでさらに、小さく手を挙げてミューラが発言の許可を求めた。
「ん?」
「実際のところ、アリスさんとのご関係はいかなるものなのでしょう? ファッション雑誌? ですか。あの綺麗な方が集まった本に載るような女性と、お兄様の親友の娘さんという関係だけで、セージさんが親しく接するとは思えないのですが」
素朴な疑問。そして、真っ正面からのディスリスペクト。
まったく悪意がないだけに、性質が悪い。
だが、それを向けられた誠司は気にしていないどころか、ディスリスペクトに気づいてもいない。
「そーね。異世界から来たとか頭逝っちゃってる女に、アタシとセージくんの絆ってもんを教えてあげるわ。せっかくだからね!」
ケンカを売られたのであれば、買わなくてはならない。
それが、誠司から教えられた人生の教訓なのだから。
「別に、大した話じゃない」
誠司はつまらなそうに言ったが、とんでもない。有朱にとっては価値観がひっくり返るような。
いわば、パラダイムシフトにも等しい出来事だったのだ。
朝8時過ぎ。
愛犬を残し、誠司はいつものように家を出た。
勤務する税理士事務所まで徒歩15分ほどの道のりは既に新鮮さのかけらもなく、ただ日銭を稼ぐためのルーティンワークの一部になっている。
しかし、その朝は、普段と違っていた。
「……有朱」
声をかけたというよりは、意外な人物の出現に戸惑ったというほうが正解に近い。
マンションのエントランス。オートロックの扉の前に、見知った少女が所在なげに佇んでいた。
「…………」
当時はまだランドセルを背負っていた有朱が、誠司に気付き潤んだ瞳を上目遣いで向けてくる。
明らかに、普通――いつもの有朱ではなかった。
けれど、彼女はなにも言わない。いや、なにも言えないのか。ただ、今にも涙がこぼれそうなヘイゼルの瞳を誠司へと向けていた。
それに対する誠司の反応は、一足飛びだった。
「……すいません。三浦です。ええ、おはようございます。申し訳ありません。私用ができましたので、今日は有給を。はい、ありがとうございます。失礼します」
スマートフォンで事務所に連絡して有休を取ると――良く言えば家庭的な職場だからできたことだろう――有朱の手首を掴んでコタロウしかいない部屋へと戻っていった。
二人の間に、沈黙の帳が降りる。
それが破られたのは、二人が乗ったエレベーターが動き出してからだった。
「……なにも聞かないの?」
「学校に行きたくないんだろう?」
「……うん」
「なら、話したくなったら話せば良い」
優しさと無関心の中間ぐらいで、誠司は受け答えをする。
そのまま有朱を家に連れて行くと、有朱をリビングへと案内し、誠司は自室に入っていった。着替えと、有朱の父――兄の親友――に事情を説明するためだ。
薄々それが分かっていても、有朱は見捨てられたような気分になってしまう。
有朱がどんな気分でいるのか分からないコタロウが、行ってしまったご主人様が友達を連れて戻ってきてくれたと、スンスンすり寄ってくる。
「ふんっ。バカ犬」
その無邪気さに無性に腹が立って、鼻先を指で弾いた。
「ガウッ」
しかし、コタロウもやられっぱなしではない。即座に反撃して指に噛みつこうとする。
「……もう」
なにをやっているのかと、有朱はますます落ち込んだ。
カーペットに倒れ伏し、ツインテールにまとめた金髪をだらりと流す。
先ほどまでとは一変。
そんな有朱を慰めるかのように、コタロウが有朱の顔をぺろりぺろりと舐める。
「はぁ……。サイテー」
それは、今のこの状況か。それとも、自分自身についてか。
有朱自身にも分からず、されるがままになっていた。
「先輩――お父さんには事情を伏せて学校への連絡だけ頼んだ」
「……セージくんって、お節介だったんだ」
「相手による」
そう答えながら、誠司はカーペットに仰向けで横たわる有朱を見下ろす。
ヘイゼルの瞳からは光が失せ、流れるような金髪も艶がなくなっていた。よく見れば、ただでさえも白い肌が、今は青白い。
「明日……は、休みか。来週からは行けそうか?」
「…………」
有朱は答えない。
それこそが、答えでもあった。
いじめかなにかだろうか。
あれだけ可愛く、確か最近はモデルとして雑誌にも出ているらしい有朱。
ヒエラルキーのトップにつけるだけのポテンシャルはありそうだが、同じぐらい、やっかみを受ける可能性もあるように思えた。
「話す気にはならないようなので、俺が一方的に喋るが……」
そう前置きして、誠司は
「俺から提示できる解決方法は、反撃か警察への通報だな。どちらかというと、反撃のほうが大事にならないで済むだろう」
「反撃って」
「机か椅子を、いじめてる人間に叩き付けろ。それで終わりだ」
「そんなの! アタシのほうが悪者じゃない!」
思いがけずかけられた過激な言葉。それを聞くなり、有朱が起き上がる。その表情には、先ほどと違って生気が戻っていた。
驚いたコタロウが飛び退ったが、それは誠司が抱き上げてフォローする。
ただ、続く言葉は辛辣そのもの。
「いじめてる手合いなんて、大富豪でずっといられると無邪気に信じてるただのバカだ。そういうバカどもには、革命というルールがあることを教えてやる必要がある」
誠司としては小学生に分かりやすい比喩を使ったつもりだったが、今ひとつだったようだ。
「それで、叩いて憶えさせるなんて……」
「悪いことをしたら、応報を受ける。それは、コタロウのしつけでもやったことだ」
「動物じゃん」
「小学生なんて、動物と変わらない」
自分まで馬鹿にされたように感じ、有朱は鼻白む。
この路線では納得いかないようだと、誠司は失敗を悟った。もちろん、誰にでもこんなことは言えない。だが、有朱の強さなら、一番手っ取り早いと思ったのだ。
「そうか。じゃあ、学校に行くのを止めれば良い」
「できるはずないじゃん!?」
「そんなことはない。事実、今日はサボっている」
「それは、そうだけどさ……」
有朱が下を向いて、小さな声で答える。
どうやら、罪悪感を刺激してしまったらしい。
そんなつもりはなかったんだがなと、誠司はあごをさすった。
かと思ったら、唐突に話を始める。
「俺の同級生に米原くんというのがいたんだが、小学校から中学卒業まで一度も会ったことがなかった。でも、卒業式ではちゃんと名前が呼ばれていたぞ」
詳細はまったく分からないが、「義務教育だから、一回も登校しなくても卒業できるんだ」と、感心したことを思い出す。
もっとも、誠司がしらないところでなんらかのフォローはされていたのだろうが。
「子供にとっては、ある意味学校が世界のすべてだ。もっと小さな子供にとって、母親がすべてだったようにな」
しかし、実際はそうではない。
世界はもっと広い。
「学校なんて、別にどうだって良いのさ」
とても大人の発言とは思えないし、学校がどうでもいいなんてありえない。
にもかかわらず、有朱は、どこか惹かれるものを感じていた。
「まあ、普通なら学校行くのを止めても良いなんて言わないけど、有朱には手に職があるからな。将来のことを考えれば、現状、学校に行くほうがリスクが高い」
「でも、必ず成功するとは限らないじゃん」
「性差別と捉えられたくはないけど、有朱なら家庭に入るという選択肢もある。万が一、その業界で失敗したときには有効な選択肢だろう」
「セージくんがもらってくれるってこと? キモイ」
直截な言い方にも関わらず、誠司は表情ひとつ変えない。誠司が、正論に異を挟むことなどありえない。
「俺もキモイと思うし、それは無理だけど……。まあ、綺麗な顔で生まれたんだから、一般よりは難易度は低いはずだ」
ただ、それは生活の心配がなくなると言うだけで、幸せだと感じるには、それなりの苦労が必要だろうけど。
誠司は、そう続けた。
良く言えば客観的。悪く言えば他人事のように。
「なに、無理って……」
別に、誠司が好きなわけでもなんでもなかったが、だからこそ相手にもされていないとなると腹が立つ。こんな美少女に好かれてなにが不満なのか。
「それが、大人と子供の見識の違いだな」
「見識って……偉そうに」
誠司は、否定も肯定もしない。
偉いとは思ってはいないが、判断力は遥かに上だ。同時に、それを指摘しても受け入れられないだろうことも。
「アタシたちだって、もう大人だし。同クラには、大学生と付き合ってる子だっているんだからね。同い年の男子なんかより、全然落ち着いててカッコイイって」
「小学生と付き合う大学生が落ち着いているはずがない……というのが大人の意見だな」
「……ものすっごい悪口言われてるんですけど?」
「有朱が相手だから、率直に話している」
実際、有朱でなければ有休を取ることも、こうして相手をしてやることもなかっただろう。
それは、有朱が特別というよりは、彼女が同世代と比べても大人びているためだ。
話して通じる可能性がある。
なら、できるかぎりのことはしなければならない。親に言えなかったからとはいえ、こうして頼られたのだから。
「まあ、急いで決める必要もないな。気晴らしに、どこか行きたいところあるか?」
「…………」
有朱が無言で首を振る。
ツインテールが揺れる様を細い目で見つつ、誠司は「そうか」とうなずいた。
それ以上は深追いせず、自分の部屋に戻ってしまった。
なにかあったら遠慮せずに呼べとは言ったものの、一回断ったぐらいで放置するのはどうなのか。いや、出かける気はなかったが、なおざりなのも腹が立つ。
もうちょっと優しくしても良いのではないか。まったく、いじめられてるんなら、逆に殴れなんて本気で言っているとは思えない。
有朱の内部で、ふつふつと怒りの感情がわき上がってくる。
しかし、その怒りも続かなかった。
静かだ。
時計を見ると、もう一時間目が始まっている時間だった。それなのに、教室ではなく家でもない誠司の家にいる。
しかも、それを誰かに怒られることもない。
あんなに、行きたくないけど行かなくてはと思い込んでいた学校なのに、サボってしまえばこんなものなのか。
確かに、学校がすべてではないのかもしれない。
でも、誠司の行きたくないなら行くなっていうのは絶対に間違っている。いや、違う。逃げるのは気にくわないだけだ。
かといって、暴力で反撃というのも、相手と同じレベルに立つようで、やっぱり腹が立つ。
体育座りでひざを抱えながら、思考が拡散していく。
そんな有朱の脇腹を、コタロウが鼻先でつっついた。
「もう、イタズラしないの!」
足と体の間にコタロウを抱え込み、有朱はうつらうつらとし出す。
久々のゆったりとした時間だった。
「……むにゃ」
香ばしい匂いを感じ、有朱は顔を上げた。
いつの間にか、寝ていたらしい。肩には、毛布が掛けられていた。
それに気付き、有朱は強烈な羞恥心を感じる。
「チャーハン作ったんだが、食べるか?」
そこに誠司が変わらぬ様子で声をかけてきたものだから、思わず反発してしまう。
「チャーハン? ダサっ」
「そうか。要らないなら、捨てよう」
「ちょっ、なんで捨てるの!?」
「俺は作った。有朱は拒絶した。そうなると、食べても捨てても俺としては一緒だ。冷凍庫も一杯だしな」
有朱にはその価値観が欠片も理解できなかったが、誠司が本気だということは伝わった。
「食べる。食べます。食べさせてください!」
「そうか」
誠司の態度は、先ほどとまったく変わらない。そのままキッチンに戻ると、トレイに皿と水の入ったコップをふたつずつ乗せて戻ってきた。
それを追うように、有朱もよろよろと歩いてダイニングテーブルへと移動する。
さっきは無駄に反発してしまったが、とてもお腹が減っていた。最近は、なにを食べても美味しくなかったので、ダイエットだとごまかしてほとんど食べていなかったのだ。
それなのに、今はお腹が減っている。
「どうぞ」
「……いただきます」
白い皿に盛られた、黄金色のチャーハン。
先ほど感じた香ばしい匂いはより強くなり、空腹がより一層刺激される。
たまらずスプーンを突き入れるが、有朱の形の良い眉がハの字になった。
「具がない……」
「具を入れすぎると、べしゃっとして美味くならない」
ないわけではない。ただ、ネギとハムだけでは、有朱の感覚ではないも同然というだけだ。
「別に良いけど」
それでも背に腹は代えられず、有朱はチャーハンを乗せたスプーンを口に入れた。
パラリと、口の中で米が広がる。やや強い塩気が舌を刺激した。けれど、嫌な刺激ではない。こくがあり、もっと食べたくなる味だ。
味を感じたのが久々なんてことを意識もせず、有朱は水を飲んで口の中をリセットし、またスプーンを口に運ぶ。
今度は、先ほどよりは多少落ち着いて味わった。
ハムとネギそしてタマゴの存在は分かる。
けれど、それらは渾然一体となってチャーハンというひとつの料理に存在を変えていた。
それを結びつけたのは油だ。
普段は忌み嫌われる油分だが、それは美味しすぎて使いすぎてしまうからに過ぎない。引き込まれてしまうから、過剰に反発するのだ。
「ママのと、全然違う……」
「母親が作るのは、チャーハンじゃなくて焼き飯だからな」
「どう違うの?」
「心の問題だ。ただし、一度チャーハンを身につけると、二度と焼き飯は作れなくなる」
イミワカンナイと、有朱はスプーンでチャーハンをすくう。
パラリとした米が、ぱらぱらと皿へと舞い戻っていく。
「このチャーハンみたいにバラバラなのが、人間本来の形……なんて言わないでしょうね?」
「ふむ」
誠司はスプーンを置き、少し間を開けた。
「チャーハンで一番美味しいのは、米がぱらぱらになっている状態。人間で言えば、べたっとくっつかずに独立していることだな。要するに、人間は一人でも生きて行けるということだ」
なんとなく含蓄のありそうな台詞。
有朱は、思わず噴き出してしまった。
「なにそれ、アタシのパクリだし」
「パクリじゃない。収斂進化だな」
「収斂進化?」
「異なる種が、環境要因などにより似たような形状を持つこと……だな。サメは魚でイルカは哺乳類だが、どちらも形は似ている。そういうことだ」
つまらない言い訳をして、やはりつまらなさそうにチャーハンを食べる誠司。
有朱には、それが無性に面白かった。
「あはっ。真顔で言う。セージくん、大人なのに」
「それは個々人の問題で、年齢は関係ないな。大人全体への誹謗中傷は避けたほうが無難だろう」
「イミワカンナイ」
誠司の忠告をたった一言で切り捨る有朱。
子供らしい旺盛な食欲で食べきり、コップの水を飲み干すと有朱が口を開く。
「アタシ、声優もやる」
脈絡のない台詞に、誠司が眉根を寄せる。
だが、否定することはなかった。
「声優か。よく知らないけど、できそうなのか?」
「元々、しゃちょーに誘われてたんだよね。あんま興味なかったんだけど、オーディション受けてみる」
それは、彼女なりの決意表明だった。
「12人の魔法少女が歌で戦って、世界を救うアニメなんだって。アタシそっくりのナンジュって役」
「なるほど。それが、有朱なりのぶん殴り方か。悪くないな」
「そう思うでしょ?」
「思うが……。まずは、声優になれるかが問題だな」
「なんでそういうこと言うのー? あー。テンション下がる~。オーディション落ちたら、セージくんのせいだかんね」
「それは有朱のせいだ」
「ひどっ」
有朱が笑う。
屈託のない。それでいて、小悪魔めいた笑顔だった。
「他人のせいで成功と失敗を左右されるなんて、それは誰の人生なのか分からないな。天命を待つのは人事を尽くしてからでも充分間に合う」
言葉の意味は分からなかったが、真意は有朱に伝わった。
「……応援してるからがんばれってこと?」
「……一度言葉を発した以上、解釈は受け手の自由だ」
「照れてる。セージくん、照れてるんだー」
誠司は、まったく優しくなかった。
けれど、受け入れてくれた。
それに、厳しい態度は完全に子供扱いをしていないということでもないか。ある意味、対等だと認められていることになる。
それはとても、嬉しい。心躍る事実だった。
「というわけで、今は美少女クォーター声優あーんどモデルとして活躍中の有朱ちゃんにして、セージくんの恋人になったというわけ」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
話を聞き終えたミューラが、両手を突き出しストップをかけた。
「本筋のお話もセージさんらしくて素敵だとは思いましたが、ナンジュちゃんはアリスさんなんですか!?」
「え? そっち?」
「あの……。音楽祭の熱唱素敵でした」
もじもじと、誠司にも見せたことのないような表情で伏し目がちに告白するミューラ。
最初はある程度真面目に視聴していたものの女児向けアニメを見続けるのは厳しく、有朱が登場するシーンを見ている程度だった誠司には、意外な反応だった。
好評を博し――商業的にも――長寿シリーズになっているらしいのだから、ミューラが一般的な反応なのかもしれないが……。
「あー。あれね。ありがと。ところで、サイン書いたげるから、セージくんの家から出て行かない?」
「それとこれとは、話が別です」
ミューラは、にっこりと微笑んでお断りした。
京都人にも通じる上品さだ。
「異世界から来たこの身は、他に置き場がありませんから」
「それは大変よね……って、騙されないわよ。そういうことなら、別にセージくんの家に住まなくても良いじゃん」
「ふっふっふ。そういうわけにはいかないのです」
「なぜ、ミューラが誇らしげに言うのか」
「なぜなら、わたしはセージさんがいなくては生きていけない体になってしまったのです」
爆弾発言という言葉は、あくまでも比喩表現である。どんなに衝撃的な言葉でも、物理的な被害をもたらすことはできない。
しかし、たった一言で爆発にも似た惨状を引き起こすことは可能だ。
「セージくん……?」
ひしと誠司の腕を抱き寄せ、上目遣いで誠司の名を呼ぶ有朱。
からかっているわけでもふざけているわけでもない。
そこには、信頼と不安だけがあった。
「セージさん!」
それに対抗し、ミューラも誠司の手を両手でぎゅっと握る。
両手に花――とは、少なくとも誠司は認識しない。
かなり身長差があるものの、連行される宇宙人と同じ構図だなどと考えている。
「説明してくれるわよね?」
「セージさん、どんと説明してあげてください。どんと!」
「それは構わないが……。くっつく必要はないだろう」
「ヤダ」
「嫌です」
美少女たちに挟まれながらも、嬉しそうにも困ったようにも見えない誠司。
ただただ迷惑そうだった。
一刻も早い解放を願って、誠司は口を開く。
「単純に、『ミューラのために』作った料理でないと味が感じられず、異世界へ変えるための魔素――エネルギーが蓄積できないというだけだ」
誠司は、大岡裁きのような状況――元ネタはソロモン王だそうだが――で、簡潔に結論だけを伝える。
だが、あまりにも突飛だ。
有朱は驚き、疑い、そして考え込む。
その間、誠司は一冊の本を思い出していた。
エラリー・クイーンの『中途の家』。
同年代に活躍したアガサ・クリスティに比べると一般的な知名度は低い――大変残念で理不尽なことに――が、エラリー・クイーンは『アメリカの探偵小説そのもの』とも評された、ミステリの歴史において絶対に欠かせない二人だ。
『中途の家』は、いずれも傑作の名高い国名シリーズに続く、エラリー・クイーンの第十長編。
ニューヨークとフィラデルフィアの中間にあるあばら屋で、一人の男が殺された。
捜査が進み、被害者は、ニューヨークとフィラデルフィアにそれぞれ妻を持ち二重生活を送っていたことが判明した。
事件があったあばら屋は、ふたつの顔を入れ替えるHalfway House――途中の家だったのだ。
被害者は、いったいどちらの人格として殺されたのか?
ニューヨークが舞台ではないのでクイーン警視やヴェリー部長刑事が出てこないのはマイナスだが、国名シリーズの残り香が充分に感じられる傑作だ。
いや、ある意味では集大成とも言えるかも知れない。
ストーリーと推理の融合は『スペイン岬の謎』を彷彿とさせ、論理の鮮やかさは『オランダ靴の謎』を思い起こさせる。
裁判シーンも臨場感があったし、裁判員制度の“欠陥”も興味深い。
だが、やはり白眉は被害者が二重生活を送り、どちらの人格が殺されたのかが謎という点だろう。
この設定の時点で既に傑作だ。しかも、これを80年前に思いついたという時点で感心する他ない。
そして、このマンションも俯瞰的に見れば中途の家である資格を有している。
誠司が今殺されたなら、きっと問題になるだろう。
異世界から来た王女の保護者として、殺されたのか。
それとも、女子中学生モデル兼声優の関係者として殺害されたのか。
果たして、どちらだろうか――と。
「……分かったわ」
その、有朱にしては低い一言で、誠司は現実に引き戻された。
ようやく理解してくれたかと、ミューラが微笑む。
――だが、それはあまりに早計だった。
「セージくん」
誠司に視線を移動させ、有朱が真剣な口調で問いかける。
「アタシがあの娘を引き取るって言ったら、賛成する?」
「……全面的にではないが」
「セージさん!?」
裏切られたと、ミューラが悲鳴にも似た声をあげた。
もちろん、誠司も今すぐにどうこうというつもりはない。
ただ、やはり若い男女が同居というのは問題も多い。ミューラだって、今は良いかもしれないが、いずれ疎ましく思うことだろう。
誠司は、自分が共同生活にむいた正確だと思ったことはなかったし、その自己認識は間違いではないはずだ。
可能であれば、自分の手から離れるべき。いや、いつまでも一緒にいるべきではないと誠司は思っている。
しかし、それは無責任に手放すということを意味しない。
「だけど、言ったとおり食事の問題がある」
「そんなの簡単じゃない」
有朱が誠司の腕から手を離し、ツインテールの片方をぱさりとかきあげた。
「アタシが、『あの娘のため』に料理を作ってあげれば、それで解決よ」
「試す価値はある……か」
「ええええ!? ない。そんなのないですよ!」
ミューラの猛抗議。つられて、コタロウも吠えだした。
だが、有朱は我が意を得たりとばかりにキッチンへと移動する。誠司とミューラ――それにコタロウも――その後をついていく。
「ふんふん。ちゃんと残ってるわね」
勝手知ったると言わんばかりに、堂々とした態度で冷蔵庫を改めていく有朱。
ミューラは、それが面白くなくてぷくぅと頬を膨らませた。
「セージさん、あんなことを許して良いんですか? おーぼう、横暴ですよ!?」
「諦めた」
「もっと、最後の最後まであがきましょう!」
言いたいことは分かるが、王女様に言われるとまるで玉砕しようとしているかのよう。紙切れになっても構わないから、戦時国債の購入ぐらいで許して欲しいところだ。
誠司は当然のようにミューラの抗議を無視して、有朱の調理を見守る。
そもそも、お好み焼きを食べて帰ってきたばかりなのに、「お腹いっぱいなので無理です」などと言わない辺りでミューラに同情の余地はない。
「チャーハンか」
冷凍したご飯、冷蔵庫にあったハムとタマゴ。それから、買い置きのネギ。
調理台の上に並んでいる食材を見れば、まさに一目瞭然。
「シンプルなほうが、実力が分かるってもんでしょ」
誠司のつぶやきに、有朱が挑戦的な笑顔を浮かべて言った。
ミューラが、露骨に反応する。
「セージさん、なんか、自信満々ですよ!?」
「まあ、有朱は普通に料理ができるからな」
「どっちの味方なんですかぁ……」
もちろん、どちらでもない。
しかし、口にすれば火に油を注ぐだけ。油を注ぐのは、フライパンだけで良い。
「セージさん、なにか、変なこと考えてません?」
「変の定義による」
益体のない話をしている間に、有朱がエプロンを身につけ――誠司の物なので、かなり大きめだ――調理を開始する。
まず、冷凍のご飯を電子レンジで解凍。と言っても、完全には解凍しない。崩れる程度の半解凍を目指して、高めのワット数で3分設定した。
その間に、具の準備だ。
有朱の小さな手には少し大きめの包丁で、ネギとハムを刻んでいく。
手つきに迷いはなく、早くはないが的確で、普段から包丁を扱い慣れていることが分かる。
「最近、声優もいろいろな仕事があるのよ。料理下手キャラで売っていくほうが良いかもしれないけど、逆に上手ければ、それはそれで差別化できるから」
「分かりました。セージさんに食べてもらいたかったんですね?」
「話聞いてた!?」
死角から図星を突かれ、包丁を操る手を止め抗議した。
「しまった。今は指を切ってセージくんに傷口を舐めてもらうところだったのに……」
「そんな不衛生なことはしないから、怪我はするな」
「セージくん、やさしんだ」
「うーうーうー」
二人だけのやり取りが悔しくて、当てつけのようにコタロウを抱き上げたミューラがうなり声をあげる。
「わたしもいるんですけど?」
「……いるわね。今は」
「くっ。なんだかよく分からないけど、凄まじい自信ですぅ……」
適度に火花を散らしつつも、調理は進む。
解凍を終えたご飯をボウルに入れ、タマゴを割り入れる。
卵かけご飯の要領で万遍なく混ぜていき、白いところがなくなるようにする。だまができたら潰す必要もある。
丁寧な仕事が必要な作業だが、見た目に反して有朱は根気よくやり遂げた。
「よし」
満足そうにうなずき、有朱はフライパンをコンロに置き、冷蔵庫からマヨネーズを入れて火にかけた。
「セージさん、マヨネーズをどうするつもりなんでしょう?」
「ああ。油の代わりだな。マヨネーズを使うと、ご飯がぱらぱらになるんだ」
誠司自身もやる――というよりは、誠司が有朱に教えたレシピだ。
ただ、誠司なら、ご飯にタマゴを混ぜるのとフライパンの加熱は並行していただろう。
とはいえ、準備の手順は今ひとつだが、手際は悪くなかった。
マヨネーズが溶けたタイミングでご飯を入れ、強火で手早く炒める。家庭用のコンロなので、鍋振りなどはしない。フライパンはコンロにかけたまま、木へらでリズミカルに、ご飯を切るようにように炒めていく。
大きめのエプロンを身につけたままそうしていると、ミューラですら感心するほど魅力的に映る。
次第に、ご飯がぱらぱらになってきた。
続けて、ハムとネギをご飯に入れて、また手早く混ぜ合わせる。ほんの少し火が通れば良い。最後に塩こしょうと中華スープの素で味付け。
最後に、醤油を少しだけ垂らす。
「さあ、完成よ!」
あの日誠司が作ったチャーハンには及ばないまでも、有朱自身満足の出来。
皿に盛りつけ、自信満々に、ミューラへ突きつけた。
「ううぅ……」
しかし、結果は惨憺たるもの。
ミューラのサファイア色の瞳は潤んで垂れ下がり、口は吐き出すのをこらえるかのように半開きになっていた。
「嘘ついてるんじゃないの!?」
その疑念はもっともで、逆に、思いつかないほうがおかしい。
けれど、誤りでもあった。
ミューラにティッシュを渡して吐き出させたあと、誠司は別のスプーンを使って試食する。
「ふむ」
よくできていた。
若干べちゃっとしているが、充分に及第点。味付けに至っては文句なしだ。中学生ということを考えると、合格点だろう。
――誠司にとっては。
「美味いが……。たぶん、ミューラを俺から引き離したいとか、ミューラをとっとと元の世界に帰したいとか考えてたんじゃないのか?」
「そ、そんなことないしぃ?」
即座に否定するが、言葉は弱々しい。
「そうなると、セージさんはわたしと離れたくないとか、わたしを帰したくないと思っていたことに……?」
「ならない」
即座に否定した言葉は力強い。
「俺の場合は、そうだな。邪念がないのだろう」
「それって、この娘が好きってこと?」
「いや、ただの思いやり……だな」
「セージさん、そこはわたしのことが好きで良いと思います!」
「だが、嫌いではない」
「……そうやって、落としてから上げるんですからぁ」
目の前でいちゃいちゃされるのは気にくわないが、誠司が簡単になびくとは思えない。有朱は、事態を前向きに捉えることにした。
今回も、誠司に残りを食べてもらえば差し引きではプラスだ。
どうやら、簡単には引き離せないらしい。
なら、その前提で利益を最大化するにはどうすれば良いか。
「分かったわ。とりあえず、同居を認めてあげる」
「別に、アリスさんの許可は必要ないのではないでしょうか……」
もっともな意見だが、有朱はスルー。この辺り、損して得を取るような思考も含め、誠司から良くない影響を受けている。
「その代わり、様子を見に来るからね。変なことをしてたら、承知しないんだから!」
これで、誠司の家を頻繁に訪れる理由ができた。なんなら、合い鍵をもらえるぐらいまであるかもしれない。
有朱は心の中で、売り出し中の声優がしてはいけない笑顔を浮かべる。
邪念を感じつつも、妥協点としては悪くないかと、誠司は静かにうなずく。
これからもしばらくは、二人と一匹の共同生活は続いていきそうだった。
申し訳ありませんが、プロット作成などのため来週の更新はお休みさせていただきます。
第二部 姫様満喫は11月13日更新予定です。
それでは、今後ともよろしくお願いいたします。