第六話 栗きんとんとどら焼き
「甘いものが食べたいです」
意を決して、少女は言った。
「そうか」
男は、短くうなずいた。
少女――ミューラ・シルヴァラッドは、手足も含め全体的に細い体だが、胸だけは例外だった。
その双球をローテーブルに押しつけながら、サファイア色の目を上に向ける。だが、媚びるような視線ではない。その瞳には、奇妙な達成感があった。
その源は、銀髪の美少女の前にあるふたつの皿。大豆が一杯に載せられた皿と、空の皿が。そして、箸が一膳。使い方の練習をしてたのが、明白な状況。
ご褒美として甘い物を欲したわけではなかった。ただ、自らへのけじめとして、達成するまで言葉を控えていたのだろう。
ふわっとした銀髪の第三王女は、美しい相貌を男へ向けたまま動かない。
一方、それを向けられている男――三浦誠司の表情は変わっていなかった。この表情が初期設定だから……というよりは、変わるほうが異常だと言える。そのため、現在は平常運転中だった。
しかし、180cmほどもある大柄な体で仏頂面を浮かべていると、それなりに威圧感がある。
ダイニングテーブルで向き合いながら、誠司はしばし考え込む。
「甘いものか……」
甘いものが食べたい。
これは女性として当然の欲求であろう。普段の食事に満足しているからこその要望でもある。居候なのに厚かましいとも思わなかった。
その分食費はかさむが、その程度で問題が出るほど困窮はしていない。なにより、普段の三食以外で魔素を回復できるのは歓迎すべきことだ。
誠司自身も、甘い物が嫌いというわけではない。食べたくなることはあるから、理解はできる。
けれど、そういう時にはスーパーなりコンビニなりで既製品を購入していた。つまり、自分で作ったことなどない。
ミューラの要望を叶えてやりたいのは山々だが、技術的に可能かどうか。容易にうなずくことはできなかった。
「ふふふ。セージさん、お困りですね」
「そうだな。ミューラに会った、その瞬間からな」
「恋。その見知らぬ感情に戸惑っていたということですね!」
ミューラは、さらっと我田引水した。
「……ポジティブなのは、良いことだな」
ミューラは打たれ強いのか、脆いのか。どちらか、分からなくなる。
前向きと言うには、強引すぎると思わなくもないが、そこにこだわっても仕方がない。誠司は先を促した。
「セージさんのお悩みを解消する良い考えがあります」
「一応、聞いておこうか」
「一応は余計ですぅ」
へにゃっとした表情で抗議するミューラだったが、すぐに真顔に戻る。
それほどまでに、名案だった。ミューラにとっては。
「買ってきた物では、わたしが食べられない。かといって、作るのも難しい。それを一気に解決するには」
「するには?」
「買ってきた甘い物を、セージさんがあーんて――」
「断る」
「――わたしに食べさせてくれてもいいんですよ?」
「無理だ」
「どーして、わたしが話してる間に二回も断るんですか!?」
整った顔もお構いなしに頬を膨らませて、ブーイングの声を上げるミューラ。
それは、名門にもかかわらず降格し、しかも、何年も昇格できず二部リーグのぬるま湯に慣れてしまって。それでいて、名伯楽がいた時代の栄光が忘れられない。その上、今年は昇格プレーオフにすら進めなかったチームのサポーターよりも激しいブーイングだった。
けれど、誠司には届かない。
それを軽く受け流しつつ――というより、最初から相手にしてない――誠司はミューラの要望を検討する。
と言っても、結論は出ているようなものだ。拒絶するのは簡単だが、それを選ぶのはあまりに非人道的すぎる。
「……分かった。頑張って手作りしてみよう」
「やりました!」
ミューラが踊り、コタロウが回り、誠司はコタロウの様子に目を細める。
誰もが、幸せそうではある。
けれど、妥協点を見いだすのに――そして、ミューラをなだめるのに精一杯で――誠司は気づいていなかった。
手作りしたからといって、食べさせてはならないという法はないことを。
金曜日の夜、誠司は自宅近くのスーパーで一人悩んでいた。
傍らの買い物籠には、既にかなりの食材が入っている。スーツを着ていることもあり、一人暮らしのサラリーマンが週末分の買い物をしているのだと分かる。
ただ、人によっては怪しく思うかもしれない。
なにしろ、誠司は買い物カゴを持ったまま、スイーツコーナーをうろうろと何周もしていたのだから。
人目は気にしていない……というよりは、他人にどう思われようと構わないといった風情。
所詮は他人。そして、自分以外は、全員他人だ。
それよりも、ミューラのリクエストに如何応えるか。それが、問題だった。
誠司の目の前には、綺羅星の如く甘味が並んでいた。
ショートケーキ、モンブラン、チーズケーキ、チョコレート、ミルクレープといった各種のケーキ。
それ以外にも、シュークリームやエクレア。プリンやゼリーにプリン。杏仁豆腐もある。和菓子のコーナーに足を伸ばせば、饅頭に、大福、最中、おはぎ、どら焼きにカステラなどが陳列されていた。
食べるのであれば、選ぶだけで済む。
しかし、作ろうと思うと途方に暮れる。
ここに来たのは失敗だったなと、誠司は小さく首を振った。自らの技術力を考えると、完成品から選ぶのは間違っていた。
参考にならないでもないが、どちらかというと惑わされるだけだ。
誠司は、お菓子作りの材料が売っている一角へと移動する。
どこにあるかは分かっている。普段行かない場所にあるのだから、そこを目指せば良い。
この時間に製菓の材料を買おうとする人間などいないのだろう。誠司がそこにたどり着いたとき、他に人はいなかった。
人目は気にしないが、他人の存在は物理的な障害となる。これならゆっくり選べると、誠司は棚を見回た。
やはり、目につくのはホットケーキミックス。それだけ需要があるということなのだろう。
「ホットケーキも悪くはないが……」
なにか違うのではないかと誠司は思う。
ホットプレート――数年使っていないが、動くだろう――でホットケーキを焼き、バターとハチミツをたっぷりかけて提供する。
これだけで、充分に要望は満たせるはず。ミューラの喜ぶ顔が目に浮かぶ。まあ、大抵の物で喜ぶミューラではあるが……。
要するに、問題は誠司の側にあった。
「簡単すぎて、手抜きみたいだな」
ホットケーキミックスの箱を手に取り、裏面の説明に目を通す。
卵と牛乳。それに、ホットケーキミックスの粉を混ぜて焼くだけ。作ったことのない誠司だったが、失敗するビジョンは思い浮かばない。
苦労をしたほうが得られるものがあるなどという考え方に迎合するわけではないが、『ミューラのために、なんらかの手を加えた時に魔素が発生する』という前提があるのだ。
あまりに簡単すぎると意味がない。
しかし、いきなり難易度を上げるのも、それはそれで問題。
「とりあえず、確保しておこう」
簡単な分は、トッピングに凝れば良いだけの話か。
そう判断した誠司は、棚から手頃なサイズのホットケーキミックスを取り出して買い物籠に入れた。
誠司は、その足で野菜売り場へと移動する。正確には、青果売り場か。今は野菜ではなく、果物が目的。バナナや、季節ではないがイチゴ。ブルーベリーなども悪くないだろう。
そう当たりを付けながら進んでいた誠司の足が止まる。
視界の端に入ってきたサツマイモ。
秋といえばと目立つところに置かれていた秋の味覚。それを見て、誠司の記憶が刺激された。
甘い物を自分の手で作ったことはない。そう思っていた。
だが、それは、勘違いだった。大きなセットの一部だったために、思い至らなかったのだ。
この瞬間、ホットケーキという選択肢は、頭から消え去った。
足早に売り場を移動し、乾物のコーナーへ。ちゃんと、栗の甘露煮も売ってあった。
「時期的には早いけど、別に作っちゃいけないわけじゃないからな」
メニューは決まった。これなら、失敗はないだろう。
肩の荷が下りた気分で、誠司は家路を急いだ。
コタロウの散歩以外に出かける予定のない土曜日。
リビングからは、レコーダーで再生しているアニメ番組の音が聞こえてくる。
朝食の片付けを終えたあと、早速、誠司はキッチンに立って調理を開始した。
ミューラの要望を受けて誠司が選んだメニューは栗きんとん。
材料は、調味料を除けばサツマイモに栗の甘露煮。それに、クチナシと非常にシンプル。
栗きんとんはおせち料理のひとつだが、現在の形で登場するのは明治以降のようだ。
勝ち栗――古語で臼でつくことを搗つということから、勝つに通じ縁起物になった――で、黄金に見立てられ金運を呼び込むとされる黄金色の餡を作る。
おせち料理はとにかく、見立てと駄洒落の世界だ。それに加えて、華やかな栗きんとんはおせち料理には欠かせない。
ただ、買うと高い。二口三口で食べきれるような量で千円はする。しかも、やたらと甘ったるい。
そこで、三浦家では栗きんとんは自作していた。それを、誠司が受け継いでいる。
いや、正月の時期に遊びに来る知り合いが気に入ってしまい、準備を強いられていると表現したほうが適切かもしれない。
とにかく、誠司が作ったことがある唯一の甘味。それが、おせちの栗きんとんだった。
作り方は、それほど難しくはない。
まずは、下ごしらえ。
誠司は、買ってきたサツマイモをまな板の上に載せた。
そのまま、おもむろに包丁の刃を入れる。だが、堅く粘り気があり、一気に切り落とせない。けれど、誠司もそれは織り込み済み。
引っかかったところでさらに力を入れ、3cm程度の厚さで輪切りにしていく。
次に、サツマイモの皮をむき始めた。最初はピーラーでむこうとしていたが、皮が固く、デンプン質でべたつくので、今では包丁を使っている。
この段階で皮を残すと食感や色合いに問題が出るので、手抜きはできない。時間がかかっても良いので、慎重に、かつ厚めに、皮をむいていく。
この作業を、二本分。かなりの手間だ。
だが、ここさえ乗り切れば、峠を越えたも同然。
誠司は包丁の背に親指を当てながら、少しずつ確実に皮をむいていった。
「こんなものか……」
全方位から眺め、皮が残っていないことを確認。小さく、うなずく。一本につき五分以上かかってしまったが、仕方がない。
そして、あくを取るため水を入れたボウルへ移動させる。
手も庖丁もデンプン質でべたべたしているが、なんとかやり遂げた。丁寧に洗ったら、しばらくやることがない。
あく抜きが終わるまで時間――10分ほどだが――を潰すため、誠司はリビングへ移動する。
そこでは、一人と一匹が寛いでいた……が。
「…………」
いつもなら興味津々とキッチンを覗いてくるミューラは、テレビに釘付けになっていた。
とある事情から誠司が録りためていたアニメ――女子小学生や中学生が魔法少女になってアイドルをやる話らしい――を朝から見続けているのだ。
話が分かるのか疑問だったが、|黒髪の紗音という異世界の小説で慣れているのだろう。それに、すべてを理解しなければ楽しめないというわけでもないはず。
テレビなどない世界から来たミューラにとっては、映像を見ているだけでも充分楽しめるのかもしれなかった。
本来は誠司自身が見なければならないのだが、なんだかミューラが熱心に視聴していることで義務を果たしたような気分になっていた。
重荷を下ろしたよう清々しい気分で、誠司はタブレットの電源を入れ読書をすることにする。
そこに、構ってとコタロウが近寄ってくるが、生憎と手は塞がっていた。妥協案として、足で愛犬を転がし、足の裏でお腹を撫でてやる。
「ハゥゥッ! フゥゥゥン」
ぞんざいな扱いだが、コタロウはご満悦だ。
コタロウの感触とアニメをBGMに、誠司は本を選ぶ。
それほど時間があるわけでもないため、今日のは短編集。アシモフの『黒後家蜘蛛の会』だ。
アイザック・アシモフ。SF御三家として有名だが、SF自体ほとんど読んでいない誠司にとっては、ミステリ作家である。
誠司が手にしたことがあるアシモフ作品は、この『黒後家蜘蛛の会』だけなのだから。
『黒後家蜘蛛の会』は連作短編のシリーズで、一定のフォーマットに則って描かれている。
ニューヨークのレストランで、月一回、弁護士・暗号の専門家・作家・化学者・画家・数学教師といった面々が集まる。
この集まりが、黒後家蜘蛛の会(the Black Widowers)だ。
毎回、メンバーの一人がホストとなるのだが、そのホストが謎を持ち込んでくる。
それを多士済々の面々が、それぞれの専門知識を駆使して謎を解く――が、最後に真相を口にするのは給仕のヘンリーだ。
他のメンバーのように専門知識があるわけではない彼が、全員の話を聞き終えて真相を提示するところは水戸黄門の印籠にも似ている。
言ってみればパターン化されており、ヘンリー以外の解答は“捨て推理”なのだが、それもまた面白い。作者であるアシモフの博識さがこれでもかと見て取れる。
誠司が『黒後家蜘蛛の会』を知ったのは、『石塔の屋根飾り』という『黒後家蜘蛛の会』をオマージュした一編だ。
こちらも、本来の探偵役である犀川創平のキャラを損なわずに、執事――給仕ではない――の諏訪野にどう謎解きをさせるかという点に工夫があり――見事に成功している。
「……そろそろだな」
ちょうど一編を読み終えたところで、誠司はタブレットをローテーブルに置いた。
コタロウから足を離して立ち上がる。愛犬が恨めしそうに上目遣いで見てくるが、すぐに戻って来るので許して欲しいところだ。
実際、大した作業ではない。
あくを取ったサツマイモの水を切り、鍋に入れてさっとゆでる。
そうしたら、今度はひたひたの水で本格的に煮ていくだけ。この時、クチナシの実を半分に割って、ガーゼに包んだ物を一緒に入れてやる。
これで、あとは30分待つだけ。また、やることがなくなった。
リビングに戻ると、ちょうど最新話まで見終わったところなのか。紅潮した頬をしたミューラが、こちらを見上げていた。
感想を言いたそうにしているミューラの機先を制して、誠司は問いかける。
「そういえば、ミューラの国では、どんなデザートがあるんだ?」
「セージさん……」
驚きか、感動か。
露骨に話を逸らされたにもかかわらず、
「わたしのことをお聞ききになるなんて、珍しいですね。てっきり、関心がないのかと思っていました」
「実際、関心はあんまりないんだが……」
「どどどど、どういうことですかぁ!?」
「いや、嘘だ。今までは、他のことに気を取られていただけだ」
何事にも段階というものがある。
魔素が回復する条件を突き止めるので忙しかったが、今後は、お互いの世界について教え合いたいと考えていた。
「セージさん、無意味な嘘は止めません?」
「適度な嘘は、人間関係を円滑にする」
「わたしとセージさん、少しは仲良くなれましたか……?」
「貴い犠牲だった……」
「なんでしょう。微妙に納得いきません……」
納得どころか怒っても良いところなのだが、ミューラは思いつきもしない。
スウェットの上下でコタロウを抱き寄せながら、誠司の疑問に答える。
「この前食べた、肉まんがあるじゃないですか」
「ああ」
「あの皮の中にジャムを詰めた物とか、お酒に漬けた果実が入った堅いパンのようなお菓子とか、あとクリームを添えたビスケットもありました!」
名前は出さずに、特徴で伝えるミューラ。
そういう配慮ができるのに、普段は頭が良いように見えないのはなぜなのか。いや、魔法を研究する施設で名誉顧問をやっていたのだから、頭が悪いはずがないのだが……。
「なるほど。果物とか砂糖で甘さを確保したり、焼き菓子だったりが多いのか」
それなら、栗きんとんは珍しいだろう。
しかし、人間は食べ慣れた物が一番美味しいのも確か。どうなるかは、予断を許さない。
けれど、誠司は楽観的だった。
「でも、ミューラなら大丈夫か」
「え? なんか信頼されてます?」
「ある意味では、そうかな」
「えへへー。なんか、照れますね!」
そう。過去――というほど大した物ではないが――の実績が、誠司を楽観的にさせていた。
ミューラには、なんでも美味しく食べる素質がある。
もちろん条件が整った上での話であるが、誠司は、そう信じていた。
「今回も、期待していますよ!」
「ほどほどにな」
そう言って、誠司はまた読書に戻る。今度は、コタロウはミューラが独占しているので構ってやる必要はない。少し寂しい。
そして、30分後。
キッチンに戻った誠司は、鍋の中に箸を入れてサツマイモの状態を確認する。
「問題ないな」
すっと箸が通るどころか、ほとんど抵抗を感じない。下手をすると、そのまま崩れてしまいそうだ。
誠司は、火を止めるとクチナシを取り出し、鍋からお湯をほとんど捨てた。残ったサツマイモは、触れるだけで崩れるほど柔らかい。ポテトマッシャーはないので、木べらで潰していく。厚めに皮をむいているので、裏ごししなくても大丈夫だ。
辛うじて形を保っていた輪切りのサツマイモが簡単に姿を変え、ひとつになっていく。
実に、鮮やかな黄金色。クチナシは使わなくてもできるのだが、やはり、見た目は重要だ。
ここで一旦作業の手を止め、木べらでサツマイモの餡をすくう。天使の取り分ならぬ、コタロウの取り分だ。いや、どちらにしろ天使なのは変わらないか。
コタロウ用に充分な量を確保したら、次はシロップ作りだ。
水100CCと、同量の甘露煮のシロップ。それから、砂糖を大さじ5杯――75グラム!――にみりん大さじ2杯。最後に塩少々を加えてよく混ぜた。
味見をするまでもなく甘い。かなり粘り気があり、砂糖が完全には溶けきらずざらざらしている。
堕落とは、たぶん、こういう形をしているのだろう。
そんなことを考えながら、シロップを少しずつ鍋へと加えていく。シロップがかかったサツマイモ餡を弱火にかけ、木べらで練りながら混ぜていくと、ポタージュのようになっていった。
むせかえるような……とまではいかないが、濃厚な甘い匂いにさらされながら、作業を続ける。
ここまできたら完成は近い。
ねっとりとしてきたら栗の甘露煮を入れ、温まる程度に火を入れる。だいたい2~3分ほどだろうか。
最後に、木べらで餡をすくい濃度を確認して火を落とした。
あとは――
「セージさん、完成ですか?」
「アンアンッ!」
そこに、甘い匂いを嗅ぎつけたのか。一人と一匹がキッチンへと詰め寄ってくる。気づけば、アニメの再生は終わっていた。
「あとは、熱が取れてから冷蔵庫で冷やして完成だ。ちょうど、3時のおやつになるな」
「さ、さんじ……? あとごじかんも……?」
「キュゥゥン……」
神の無慈悲な宣告に、一人と一匹はその場に崩れ落ちた。
「おやつの時間になりました!」
「キャウウンッ!」
「良かったな」
五時間後。
昼食中もそわそわと落ち着つかなかったミューラは――それでも健啖ぶりを発揮していたが――ついに、その時を迎えた。
ダイニングテーブルに陣取った異世界の王女様は、きらきらと輝くサファイア色の瞳で、漆塗りの器に盛られた栗きんとんを見つめている。
いや、拝んでいると表現したほうが適切かもしれない。まるで、長い旅の果てに手にした宝物であるかのようだ。
「それでは、いただきます」
練習したばかりの箸を構え、視線と意識を漆塗りの器へと集中させる。ミューラの欲望は、爆発寸前だ。
「どうぞ」
誠司の応えと同時に、ミューラは箸を動かした。
黄金色の餡と栗をすくうように取る。練習をしただけあって、淀みない手つき。だが、少し、いや、かなり欲張りすぎた。口に運ぶ前に落ちそうになる。それでもなんとかこらえたが、彼女の小さな口には量が多すぎた。
だが、負けられない。
精一杯口を開いて、なんとかすべてを迎え入れる。
「んんう~~」
量が多すぎて噛むことができない。口の動きだけで、器用に味わうミューラ。
じんわりと餡が溶けていく。
甘い甘い甘い。
甘さが口を脳を体を支配する。ねっとりとした食感に体がくねくねと曲がる。どうしようもない快楽に全身が染まる。
少し余裕が出てきた。もきゅもきゅと口を動かし、より大胆に味わっていく。
やはり甘い。幸せの味だ。
「あまぁ~~い! ですっ!」
なんとか嚥下したミューラは、しかし、甘さに支配されたままだった。甘い。それしか言えない。
ただでさえも甘いサツマイモの甘みを茹でて引き出し、そこに甘いシロップを絡め、栗まで入っているのだ。
甘くないわけがない。美味しくないわけがない。
魔素もぐんぐん回復する。なにより、体が喜んでいた。
気づけば、皿は空になっている。
「おかわりください!」
「食べ過ぎるなよ?」
「文句は、美味しすぎる栗きんとんさんに言って下さい」
「理不尽な」
食べられている上に責任転嫁までされるとは。前世で、どんな悪行を積んでいたというのか。
それでも、食べてくれるのは嬉しいものだ。
だから、誠司も口では注意しつつも、割合喜んで追加を装ったのだが……。
「セージさん!」
「大食い選手権か」
物事には、自ずと限度というものがある。
「甘い。甘いのは確かなんですけど、いつまでも食べられる甘さで。見た目も綺麗ですし、本当に、罪作りですよね。お茶も、甘くないお茶なんてどうかと思ったんですが、合間にいただくと口がさっぱりとして、いくらでも食べられちゃいますぅ」
早口で主張するミューラ。
明らかに、リミッターが外れていた。コタロウも、なぜか今のミューラには近づこうとしない。
「ミューラのために作ったんだから、食べるのは構わないんだがな」
そんなコタロウに、セージは予め取り分けておいたサツマイモをご飯用の皿に入れて分け与えた。ミューラのおかわりは、とりあえず後回しだ。
「ゥワンッ! ゥワンッ!」
漁夫の利を得た形になるコタロウは、歓喜の声を上げる。
犬全般がどうかは分からないが、コタロウは野菜も当たり前のように食べる。キャベツの芯など、骨のようにむしゃぶりつくぐらい好物だ。
もちろん、サツマイモも大好物で、尻尾を振りながら皿に顔を突っ込んでいる。
「かわいい……」
「うん」
しばし、ほっっこりとする二人。
しかし、それで問題が消えて無くなるわけではなかった。
「数日分のつもりで作ったのに、こんなに消費されても困る」
「だって……。美味しいんですもん」
頬を膨らませて抗議をするが、ミューラは目を背けている。
罪悪感はあるらしい。多少。
「アレンジも、考えていたんだが」
それを食べずに、そのまま食べきってしまって良いのか。
言外に、誠司が問いかけた。
「分かりました。こうしましょう」
それを受けて、ミューラが唐突に王女の威厳を復活させる。
ぴしりと背筋を伸ばし、表情は神々しいまでに真剣で、瞳には力強い意思が宿っていた。
まるで、女王からの託宣のようだ。
「それが美味しかったら、今日はここまでということで」
――見た目だけならば。
「……誰も、損はしないな。これ以上」
「素晴らしいですね!」
勝ち負けで言えば、明白な負けである。
けれども、これ以上争っても仕方がないと、誠司はキッチンへと移動した。
そして、一緒に買ってきていたホットケーキミックスを開封し、タマゴと牛乳と。それに、みりんと蜂蜜で手早く生地を作る。
今回は、みりんが重要な役割を果たしてくれる。
それから、生地を寝かすこと10分。
「こんなに時間がかかるなんて聞いてないですよぅ」
「そういえば、言ってなかったな」
誠司はミューラの抗議を軽く受け流し、生地をお玉ですくった。
テフロン加工なので、油は必要ない。
そして、熱したフライパンへ生地を注ぐ。
ただ、ホットケーキにしてはかなり小さめだ。
実際、それは、ホットケーキなどではなかった。
本来は冷ましてから食べるものだろうが、暖かい物も趣がある。なにより、お腹を空かせた――はずもないのだが――王女がこれ以上待てそうにない。
焼き上がった生地に栗きんとんを乗せ、別の生地で挟む。
「どら焼きだ」
やはり漆塗りの器に盛られた円盤状のそれを、ミューラがしげしげと見つめる。だが、それも長いことではない。
「いただきます」
もはや疑いもなにもせずに素手で掴み、躊躇なく口に運ぶ。
「んん、う~~」
それ自体甘みのある生地が、どっかりと栗きんとんを支えていた。
暖かな生地で包み込まれることで、栗きんとんの魅力がより一層引き出されている。
そんな中で、こりっと歯ごたえのある栗の存在がアクセントになっていた。まるで、散歩の途中で思いがけず美しい光景に出会ったかのような嬉しさ。
「どら焼き? ですか。こうやって挟んで食べると、また趣が違いますね」
「具体的には?」
「美味しいです!」
「……それは良かった」
とりあえず、これ以上の消費は避けられた。
誠司は、大きく安堵する。
「でも、これで終わりは寂しいです……」
「いや、一応、残ってるんだからな?」
「そうだ! セージさん、食べさせて下さい!」
ミューラの要求に、誠司は反射的に鋭い視線を向けてしまった。なにを言っているんだと、あきれているかもしれない。
しかし、ミューラも引かない。
「そうすれば、魔素ももっと回復しますし、さらに美味しくなりますよ?」
「そう決まってはいないだろう」
「だって、ただのお野菜でもセージさんから食べさせてもらうと味を感じるんですよ? もう、確定じゃないですか」
「だがそれは、俺が作った物を、俺が食べさせたときに効果があるか。あるとして、どの程度か。その辺は確定していない」
「なら……」
ミューラは意を決して、食べかけの栗きんとんどら焼きを誠司に手渡した。
「今、実験しましょう。実験ですよ」
そう言われると、弱い。
釈然としないものを感じながらも、誠司はどら焼きを差し出した。恭しくではあるが、躊躇はない。下手にためらったら弱みを握られるのではないか。そんな予感があった。
二人の距離は、手を伸ばせば触れられるほどに近い。
すぐに、どら焼きが小さく艶やかで綺麗な唇に触れる。
その求めに応じ。上品なまでに慎ましやかに、唇が開いた。あたかも、秘密の花園への扉が開かれるかのよう。
なんとも奇妙な感覚に、誠司はますます無表情になった。
「う~ん。おいしいれふ……」
「……で、どうなんだ?」
「美味しいって言ってるじゃないですか」
「違う」
そうじゃないと、ただでさえも細い目を鋭くしてミューラを見つめる。
その瞳を受けて、さすがにごまかしきれないと悟ったのか。ミューラも、誠司を見つめて言う。
「魔素も、ばっちり回復していますよ?」
「自分で食べたときよりも?」
ミューラの動きが、ぴたりと止まる。
分かりやすいほどに、分かりやすい反応。
しかし、まだバレてはいないはずと、慌てて取り繕った。
「もちろんもちろんです」
「具体的には?」
「う~ん」
ミューラが腕を組み、大きく突き出た双球を潰しながら考え込む。
そのまま目をつぶり、唸ることしばし。
「一回だけじゃ、分かんないです」
写真嫌いの誠司でさえ、記念に一枚残しておきたいと思う笑顔でミューラは言った。
速やかに、実験は中止される。
こうして、真相は闇の中へ消えてしまった。