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第五話 ミックスサンドとホットドッグ

 ふわりとした美しい銀髪を背中まで伸ばした少女が、ソファに体育座りをして左右に体を揺らしていた。

 サファイアのように輝く大きな瞳も、ローテーブルの上と壁に掛けられた時計との間を何度も往復している。

 時刻はまだ十一時半。教えられた昼休みの時間までは、まだ三十分ほどあった。


「うう……。時間がゆっくりですぅ。かといって《ヘイスト》も意味がないし……」


 落ち着きがないと誹られかねないそわそわとした動きだったが、彼女に限っては可愛らしさが先に立つ。

 それは、非常に整っているにもかかわらずやや幼い容貌や、はつらつとした生命力を感じさせる仕草に起因している。


 異世界から地球へとやって来たシルヴァラッド森林王国第三王女ミューラ・シルヴァラッドは、ひとまず、やや抜けたところはあるが、それゆえに完璧なお姫様だと言えた。


 たとえ、地味なグレーのスウェットを部屋着にしていても、だ。


「だめですよぅ。これはわたしのなんですからね」


 非常にラフな格好でその時を待ち続けるミューラは、ローテーブルの上に並べたランチボックスへと鼻先を伸ばすポメラニアンを押しやった。


 だが、それで諦めるコタロウではない。


 美味いもんだろう。なら食べさせろよ。食べさせろよなぁと、不退転の覚悟でランチボックスの中身を狙う。

 ふさふさした毛並みが可愛い三浦家の愛犬といえども、獣は獣。そこに美味しいものがあれば、食いつかずにはいられない。


 しかし、地球へ来て日が浅いとは言え、ミューラも伊達にコタロウと二人きりで過ごしてはいなかった。


「めっ、ですよ」


 スウェットを着た王女が、毛が付くのも構わずポメラニアンを背後から抱きかかえ、カーペットの上に転がした。


 露わになる、白く、やや柔らかなお腹。元々人懐っこく、誠司に転がされ慣れているコタロウは、容易く無防備な姿を晒してしまうのだ。


「ほらほら、ここが、ここが良いんでしょう?」

「フゥゥゥン……」

「ふふふふふ。コタロウちゃん、体は正直ですねぇ」


 これ幸いと、悪い顔とだらしない顔の中間ぐらいになって、ミューラが一心不乱に撫で続ける。手のひら全体を使って、円を描くように。あるいは、くすぐるように十指を使って。


 これには食欲全開だったコタロウも勝てない。なすがままに、それでいて気持ちの良いところに手が当たるようわがままに身を委ねる。


「セージさんがわたしのために作ってくれたんですからね。セージさんが、ですよ?」


 余程嬉しいのか。セージ――今はいない家主である三浦誠司の名前を強調し、コタロウに反省を促す。


「ウーワワワンッ」


 しかし、それは逆効果だった。

 今はいない飼い主の名前を出されて、コタロウが興奮し、ミューラの手から脱する。それだけに留まらず、誠司が帰ってきたのかと、玄関へと走り出した。


「あわわわ。ごめんなさい。違いますから!」


 慌てて、ミューラがその後を追った。誠司が帰ってくるまで、あと六時間以上ある。変に期待を持たせてしまい、異世界の王女は罪悪感を抱いていた。


「後でおやつをあげますからね」

「アンアンッ!」

「あああっっ。また、逆効果!?」


 ようやく、コタロウ――というより、犬は――名詞にしか反応しないことを学習したミューラが失敗に頭を抱える。


 その成果が行動に反映されているとは、残念ながら言えなかった。





「……おはよう」


 その日の朝、誠司はキッチンにいた。


 いつもと変わらない、作業の邪魔にならない程度に伸びた黒髪。目は細く、滅多に表情を変えることもない。身長は180cmほどと、大柄だ。今も、腰を折り曲げて作業をしている。ただし、圧迫感はあまりない。

 それは、愛犬の散歩程度しか運動をしていないため、かなり細身だからだろう。腕や足も長く、手足も大きめ。


 そんな誠司に、とろんとした寝ぼけ眼を向け、銀髪の王女――ミューラはぺこりと頭を下げる。朝には翻訳魔法の持続時間が切れてしまうので言葉が分からない……だけではない。ただの反射的な応答だ。そのまま、寝ぼけたまま洗面所へと移動していくが、これも反射に近い。


「……これも、実験か」


 フライパンで炒めていたソーセージをひとつ菜箸でつまみ上げながら、誠司はつぶやいた。

 昨夜、醜態を見せた彼だったが、表面的にはいつも通りに見える。しかし、「ミューラを愛しているがゆえに魔素(マナ)が発生した」と指摘され平常心ではいられなかったのは事実。


 なんとしても、それは払拭しなければならない。せめて、愛ではなく親切心ゆえに程度に下方修正したいところ。


「味見だ」


 どうせ言葉など通じないのだから、了解を取る必要もない。そしてまた、断られるとも思っていない。


 そんなぞんざいな態度で、洗面所から戻ってきたミューラにソーセージを突き出した。


「んん~~」


 まだ完全には目覚めていないのだろう。

 それでも、雛鳥のような従順さと積極性で、ソーセージをくわえる。


 化粧をする必要もない、艶やかな唇。

 最初は遠慮がちに先端が飲み込まれ、やがて大胆に頬ばり半分ほどかじり取った。


 ぱりっとした歯触りに続く肉汁。調味料はまだなにもかかっていないが、それ自体についている味で充分に楽しめる。


 その様子を見て、誠司はきちんと味を感じているだけでなく、魔素(マナ)もそれなりに回復しているようだと確信する。

 チェックシートの結果から導かれた経験則でしかない。だが、良く言えば、表情豊か。悪く言えば分かり易すぎるミューラだからこそ分かってしまうのだ。


 そんな風に思われているなどとは想像もせず、ミューラは残り半分のソーセージも飲み込んだ。


 その足下で、コタロウがずるいずるいと飛び跳ねるが、こればかりはどうしようもない。


「ついでだ」


 洗っていたプチトマトのへたを持ち、同じように唇に近づける。こちらは朝食の付け合わせにするつもりだった。


「んぅ~」


 先ほどに比べて、積極性に欠けている。

 それでも、無造作に押しつけると、丸い実を一口で飲み込んだ。

 

 やはり、一応はフランパンで調理したソーセージに比べると、魔素(マナ)の回復量もわずかのようだ。別に野菜嫌いだからリアクションが薄いというわけではない……はずだ。たぶん、きっと、恐らくは。


 真相は闇の中だが、洗って食べさせただけで変化があるということは、やはり、『ミューラのために、なんらかの手を加えた時に魔素(マナ)が発生する』というのは間違いないようだった。


 しかし、そこに『愛』が介在しているかは分からない。得度しているわけではないのだから完全に虚心ではいられないにせよ、そこに『愛』があるなど、どうやって計測するというのか。


 いや、そもそもこの世界に『愛』など存在するのだろうか。

 毎年毎年、愛は地球を救うというが、まったく救えていないではないか。これは、地球に愛が存在しないか、愛ではなにも救えないという証拠になるのではないか? 


「《☆◆★●▽》」


 誠司の煩悶を余所に、ミューラがいつもの呪文を唱える。

 踊るような動作とともに光が指輪――導機へと集まり、綺麗に弾けた。


「おはようございます、セージさん。コタロウちゃんも」

「わぉん」

「おはよう。ところで、ミューラ」

「なんですか、セージさん?」


 つまみ食いをしたのが良かったのか。食欲をある程度満たし魔素(マナ)を得たミューラは、すっかりいつも通り。


 誠司がいきなり部屋にこもった直後は焦燥を見せていたものの、それ以降、ミューラは終始にこにことしていた。

 本当に楽しそうだ。縁のない異世界にいるとは思えない。


「日をまたいで魔素(マナ)を残しておくことって、できないのか?」

「え? でも、魔石にチャージしておかないといけませんし……」

「それは分かってるが、翻訳魔法の分ぐらいは残せないのか? 毎朝、なにか食べるまで言葉が通じないのは不便だろう」


 その笑顔が、液体窒素をかけられたかのように一瞬で凍り付いた。


「あはははははは……」

「できるんだな?」

「でも、こういうつまみ食いって、ドキドキして美味しいですよね?」

「できるんだな?」

「あはははははは……着替えてきます!」


 ミューラの寝室となっている和室へ、一目散に駆け込むミューラ。

 そんな彼女に視線を向けることなく、誠司は作業を再開した。


 ボウルの中で水に入れて冷ましていたゆで卵の殻をむく。今回はそのまま食べるわけではないので、多少失敗しても気にしない。

 スピード重視で卵を二個むいたら、エッグスライサーで縦横二回切る。包丁でみじん切りにしたり、フォークで潰す方法もあるが、こっちのほうが楽だし均等に切れる。


 とはいえ、エッグスライサーがなければ誠司もフォークで潰していただろう。

 亡き母親が使っていた物が残されていただけなのだ。これも、一種の形見と言えるのだろうか。


 それにしても、エッグスライサーですぱっと切るのは面白い。秋せつらや浪蘭幻十の気分だ。


 そんなことを考えつつ、味付け。


 ボウルに入れた卵に塩こしょうと、小さじ一杯分の砂糖。それから、マヨネーズを加えていく。ただし、マヨネーズは一般的なレシピの半分程度。

 卵ひとつにつき大さじ一杯のマヨネーズは、正直、量が多すぎて引く。それに、マヨネーズは少なめのほうが、卵自体の味も感じられる……気がする。


 それに、魔素(マナ)に変換することでカロリーがどうなるのかは分からないが、ミューラのためにも控えめにしておくに越したことはないだろう。


「なんだか、量が多くありませんか? パーティですか?」


 そこに、誠司のシャツ――すっかり、パジャマ代わりになってしまった――から、昨日届いたスウェットへと着替えたミューラが現れる。

 仮にも王女殿下がスウェットとはいかがなものかと思わなくもなかったが、彼女が着れば、それなりに見れる。誰に見せるわけでもないのだから、問題はないだろう。


「今日は、弁当を作っておこうと思ってな」

「お弁当……」


 対面式キッチンの向こうで、ミューラの動きが固まる。

 なにかまずかっただろうかと誠司が手を止めたが……それは、杞憂だった。


「お弁当!」


 ようやく理解に及んだのか、声と一緒に大きく飛び跳ねる。それとともに、彼女の規格外の双球も大きく弾んだ。


「お弁当というと、あのお弁当ですか!?」

「その問いに答えるには、情報が少なすぎる」

「労働者の皆さんが、お昼ご飯として食するというお弁当ですよね!」

「そうなるな」

「子供たちが、勉強の合間に食べるために持たせてもらうお弁当でもありますよね!」

「その通りだ」


 興奮気味なミューラに対し、誠司はいつも通り冷静。

 それどころか、労働も勉強もしていないミューラにとって、この弁当はいかなる位置づけとなるのか。誠司は、そんなことを考えていた。


「分かりました。今日は、サンドイッチのお弁当ですね?」

「それだけじゃない。ホットドッグも作る予定だ」

「ホットドッグ……?」


 ミューラが聞き慣れぬ料理名をつぶやき、こてんと首をかしげる。

 どんな料理なのか、想像し、言葉の意味を考え……その場で飛び上がった。


「えええっっ! コタロウちゃんをどうするつもりなんですか!?」

「どうもしない」

「でも、ホットドッグで食べ物ってことは……」

「昔は、そういう噂があったらしいな」

「なんて……こと……」


 がくりと、フローリングの床に崩れ落ちるミューラ。妾腹とは言え第三王女である彼女にとって、それは途方もないショックだった。


「まあ、俗説だが」

「ということは、嘘なんですね……?」

「ああ」

「それも、嘘なんですね……?」

「この件に関しては、嘘じゃない」

「誠意は認めますけど、できれば嘘自体をつかないで下さい。できればと言うか、絶対!」


 しかし、誠司はその点に関して完全にスルーする。

 答えてしまえば、それこそ嘘になってしまうからだ。


「真相は分からないが、ソーセージがダックスフントに似てるからという説もあるそうだ」

「ダックスフント?」


 頭上に疑問符を浮かべるミューラに対し、誠司は手と火を止め、リビングでタブレットを手に取った。音声入力で分かりやすい動画を検索し、再生した状態でミューラに手渡す。


「まあまあまあ」


 それを一目見たミューラの知能が、一時的に低下した。


「足短いですね。本当に、足短いワンちゃんですね!」


 なにが楽しいのか。あるいは嬉しいのか。液晶画面に顔を限界まで近づけて、無表情な誠司と画面の中で早足で歩くダックスフントを交互に見る。

 自分まで可愛い者扱いをされているかのようで、誠司はますます表情を失った。


 とはいえ、それで怒るほど子供ではない。


「コタロウちゃん、お仲間ですよ。でも、あんまり似てないですね!」


 タブレット片手にコタロウと戯れるミューラを残し、誠司はキッチンに戻った。弁当の用意はもちろん、朝食の準備もまだ終わっていない。


 二人が遊んでくれているのは、作業の面を考えれば非常に助かる。


「大丈夫ですよ、コタロウちゃん。確かに動きは可愛いですが、ふさもふっとした毛並みはコタロウちゃんの勝ちです。撫でて気持ちいいのは、コタロウちゃんですよ!」


 小さな子供にアニメを見せている間に親が家事をする。昔、そんな話を聞いたことを思い出していた。





 昼食時、誠司は常に一人だ。


 自分の時間を邪魔されないために。具体的には、読書のために。誠司の職場は、数名しかいない税理士事務所なので、当初は誘われることもあった。

 しかし、最初が肝心と謝絶しつつけた結果、誘いもなくなる。今は、実に居心地の良い職場だった。 


 どこで時間を過ごすかはまちまちだが、今日は職場近くにある公園のベンチにいた。


 ベンチの片隅にランチボックスを置き、片手にはタブレット端末。本を読みながら食べるのも、慣れたものだ。


 ランチボックスにはタマゴ、ハム、トマトのサンドイッチがふたつずつ。それとは別に、ホットドッグの

包み。

 特に迷うことなく、誠司はハムサンドを手に取った。


 これでもかと、ハムを重ねた分厚いハムサンドだ。ハムの部分だけで、3cmはあるだろう。


 トーストしてバターを塗っているため、パンに水気はほとんど移っていない。さくっとした歯触りのパンを前歯でかじると、その先にハムがある。どこまで行ってもハムだ。薄い層をいくつも貫き、そこでようやく咬み千切ることができた。


 肉肉肉。


 レタスや味付けのマヨネーズなど些事に過ぎない。

 ひたすら、ハムを味わえる。


 しかし……。


「少し、やり過ぎたか」


 どこかで、「日本のハムサンドはハムが薄すぎる」という批判を目にし、せっかくだから。これでは、パンを食べているのか、ハムそのものを食べているのか分からない。

 調和など、どこにも存在していない。あきらかにやり過ぎだった。


 ミューラがかなりの肉食だと分かっていたため、ついつい盛りすぎてしまったのだ。


 こういう「ミューラのために」という配慮を欠かさないので、他ならぬ彼女から「愛」を認定されているのだと誠司は気づかない。


 それはともかく、サンドイッチをかじりながらタブレットを操作し、昼食のお供を呼び出す。


 セシル・スコット・フォレスターの「ホーンブロワー」シリーズ。スタートレックシリーズなどにも影響を与えたとされる、傑作海洋小説だ。

 同時に、平民出身の主人公ホレイショ・ホーンブロワーが海軍元帥まで成り上がりるバイオグラフィーでもある。


 サンドイッチなら同じ作者の「駆逐艦キーリング」だが、残念ながら、まだ自分で電子化はしていなかった。


 今回選んだ一巻は、昼休みにも読みやすい短編集形式だ。相変わらず、ホイストのルールはよく分からない。恐らく、プレイすれば理解できるのだろうが、誠司には無理な話だった。


 シリーズを再読している誠司からすると、この時のホーンブロワーは若いなという印象を受ける。

 だが、それがまた面白い。日本での知名度は余り高くないが、間違いなく傑作だ。


 とはいえ、不満が無いわけではない。


 まだまだ先の話なのだが、シリーズにおけるある重要人物が死んでしまう。それは仕方がないとしても、本当にあっさりと、死ぬ。死ぬシーンの描写もなく、報告を聞くだけなのだ。

 それはそれで死の重みを感じさせるのだが、誠司はしばらく呆然としてしまった。


 そこからなんとか立ち直ると、次は、実は生きているのではないかという希望にすがりたくなる。もちろん、そんなことはないのだが。


 作者もフォローの必要性を感じたのか、新たに記されたホーンブロワーが士官候補生になるところから描かれたシリーズでは、そのキャラもかなりクローズアップされることになった。


 ところで、新約の日本語版は、時系列順に並べ替えられている。


 そうなると、どういうことになるのか。


 初期から活躍していた重要で愛着のあるキャラクターが、たったの一行で死ぬことになるのだ。すべての人間が幸せになる方法はない。

 それをまざまざと思い知らされることになるのだった。


 とはいえ、誠司も模範的な読者というわけではない。なにしろ、海軍提督となったホーンブロワーの活躍を読んでいないのだ。


 誠司の奇妙な癖に、シリーズ物の最終巻を読めないというものがある。もちろん、すべてではない。自分でも、なぜそのシリーズの最終巻に手を出せないのか分からない。

 恐らく、好きすぎて終わる。いや、終わらせるのが嫌なのだ。最終巻を読むというのは読者の能動的な行動に他ならなず、読まなければ永遠に未完で……現実に帰らず済むのだから。


 誠司は、次にトマトサンドに手を出した。


 密かに、誠司の好物だ。


 特に、トマトの種の部分がマヨネーズと混ざってぐずぐずになっているところが好きだ。こればかりは、パンが水気を含んでいても許せた。

 はたしなくも、啜ってしまうような形になったが、なんとか零さずに食べきる。


 やはり、繰り返しになるが、トマトの中身とマヨネーズが混ざった液体の部分が最高に美味しかった。


 一方、ホーンブロワーの作中で出てくる食事は酷い。


 藻の浮いた水、虫が食った……というよりは、テーブルに打ち付けコクゾウムシを追い出してから食べる堅いパン。わずかな娯楽は、配給されるラム酒ぐらいのもの。

 そんな描写がされたあと、艦長であるホーンブロワーにだけは、わずかに残った塩漬けにした豚のローストが提供される。


 どう考えても現代日本の食事のほうが美味しいに決まっているのに、それがまた食欲をそそるのだ。


 しかし、現代の日本で、ホーンブロワーと同じ状況になることはないだろう。また、体験したいとも思わない。


 ゆえに、その海の食事は燦然と輝くのだ。


(そういえば……)


 輝くと言えば、ミューラはどうしているだろう。ちょうど、ミューラも食べている頃だろうか。

 いや、彼女のことだから、とっくに食べ終えているかもしれない。


 その想像に、誠司は微笑を浮かべる。


 自身も気づいてはいなかったが、ミューラが喜んでいるだろうことを、誠司は疑っていなかった。





 ついに、その時がやって来た。


 正午。ランチタイムの始まりだ。


「んふふふふ~ん」


 待ちに待ったこの時を、ミューラは鼻歌で迎えた。


 ピンクの可愛いランチボックスに、アルミホイルでキャンディのように包装されたホットドッグ。それに、水筒には誠司が淹れた紅茶が入っている。


 まずは、水筒から、まだ湯気が出ている紅茶をカップに注ぐ。


 それを一口飲んで落ち着けてから、ランチボックスの蓋を開いた。


「わわわっ。サンドイッチ、サンドイッチですよ、コタロウちゃん。綺麗ですね~」


 ラップでひとつずつくるんだサンドイッチが、合計で三種六個並んでいる。それを見て、ミューラは興奮気味に両手を挙げた。

 祝っているのか、降参なのか。その動きだけでは判然としない。


「まずは……タマゴさんからにしましょう」


 ミューラは、白と黄の色合いが美しいタマゴサンドを手に取った。あっという間にラップをはぎ取り、手づかみのまま口に運ぶ。


「う~ん! 美味しいですぅ!」


 なんだか語彙力が低下しているような気がするが、ミューラは気にしない。気にしてなどいられない。


 濃厚なタマゴの味。それを綺麗にまとめるマヨネーズ。ざくざくとした食感のパンにそれが合わさり、得も言われぬ調和を生む。

 形を残しているタマゴの歯触りも、まるでゆで卵を食べているかのようで、お得な気分になった。


 ミューラの口は小さく、食べ方も上品。


 それは間違いないが、勢いは凄まじい。


 瞬く間にサンドイッチは小さくなり、消え去ってしまった。


「あれ? もう、ないですよ」


 誠司がいれば「胃の中だ」と、つまらなさそうに指摘しただろう。だが、冷静なツッコミ役は存在しない。

 そのため、ミューラは不思議そうに小首を傾げる。横で、コタロウも一緒に首を傾げる。


「まあ、いいです。わたしには、まだサンドイッチが残っています」


 次はハムサンドだ。


「お肉、お肉、おっにっくー」


 分厚いハムサンド。持ってみると、ずしりと重たい。


 食べ応えを想像して、ミューラは自然と相好を崩す。


「お肉。お肉ですねぇ……」


 彼女の小さな口では噛みきるのもひと苦労。だが、それに見合う価値はあった。


 パンの存在など忘れてしまいそうになる、圧倒的なハムの塊。幾層にも重なっているのだが、ミューラにはちょうど食べやすい。


 幸せそうに、分厚いハムサンドを食べる銀髪の王女。ただし、着ているのはグレーのスウェット。


 なにがなんだかよく分からない光景だが、本人は実に幸せそうだった。


「さて、次は……」


 順番で考えればトマトサンドになる。だが、もっと気になる存在があった。


 暖かな紅茶で口内をリセットしつつ、キャンディの包まれたホットドッグに手を伸ばす。ひみつめいたこの先に、なにがあるのか。


「見せてもらいましょうか。噂のホットドッグの味というものを」


 アルミホイルをむくと、細長いパンと、それに挟まれたソーセージの姿がまろび出る。


 捧げ持つようにして上から下から右から左から観察するが、特に変わったところはない。


「パンとソーセージと……キャベツですか?」


 食材としては普通だ。


 なんだかがっかりしつつ、それでも、誠司への信頼感からぱくりと一口。


「なっ」


 刺激的な味と香りが、口いっぱいに広がった。


 誠司に言わせれば、キャベツとソーセージをカレー粉で炒めただけ。

 しかし、ミューラにとっては初めての味。


「なんですか。なんですか、これ」


 初めての味わいに、ミューラは混乱した。


 凄まじいインパクトだった。

 辛いのに、美味しい。これは、ミューラにとって、ある種のパラダイムシフトだった。


 いや、正確には、美味しいかどうか、まだミューラは確信に至っていない。だが、手も口も止まらなかった。コタロウが体を押しつけねだってきても、それは同じだ。


「なんだか、凄かったですぅ……」


 一瞬で食べ終えたミューラは、官能的な息を吐き、ほうと体から力を抜く。


 セージには、いつも驚かされる。

 凄いと、ミューラは素直に感心した。王宮料理人よりも、上ではないか。


 まあ、あの無愛想な誠司では、やっていけるかどうか分からないが……。


「別に、わたしにはセージさんの優しさが分かってるから構わないんですけどね」


 誠司のことを理解しているのは自分だけだと、ミューラは笑みを深めた。


 しかし、すぐにまた溜め息が漏れる。


「セージ……さん……」


 リビングから、ガラス越しに外を見る。

 その瞳は、先ほどと一変。憂いを帯びていた。


「セージさんも、会社でご飯を食べているのでしょうか」


 不思議だと、ミューラは思う。


 離れていても、同じ物を同じ時間に食べる。


 それは、とても素敵なことではないか。


 ミューラは、空になったランチボックスをぎゅっと胸に抱いた。





「お弁当美味しかったですよ!」


 帰宅直後、誠司はミューラから熱烈な歓迎を受けた。 

 玄関へ走って誠司を出迎えたミューラは、抱きつかんばかりだ。


 しかし、誠司は冷静そのもの。


「それは良かった」


 ――そのつもりだったが、そう言われて悪い気はしなかったことを、誠司は気づいていない。


「もう、張り合いがないですね!」

「それは、作った方が言うべきセリフではないだろうか」

「今日も愛情たっぷりでした」

「……その件なんだが」


 靴を脱ぎ、エコバッグを持ち直しながら誠司は言った。


「俺の想いが魔素(マナ)を発生させているのではなく、食べるミューラの精神的な充足によって発生した可能性はないだろうか」

「ありません」


 ミューラらしからぬ、きっぱりとした否定だった。


「もしそれが条件だったら、わたしが砂のように感じることはあり得ないってことになりますよ? きっと、この世界のお料理はなにを食べても美味しいですもん」

「そうか……」


 六の目が出続けるサイコロを見つめるような視線で、誠司はミューラを前髪越しに見つめる。


 あるいは、「ミューラが愛されていると感じている人」が介在した場合のみという可能性もあるかと思ったが、ミューラが現れる前に作っていた豚の角煮がそれを否定する。


 理論的に考えると、ミューラの愛情仮説を否定する要素がない。


 釈然としない。

 釈然としないが、反論もできない。


 だから、誠司は今日も台所に立つ。

 自分のために。そして、ミューラのために。


「ゥーワンッ! ワンッ!」

「分かった分かった。ちゃんと行くから」


 先に、愛犬の散歩を片付けてから。

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