第四話 オムライスと野菜スティック(後)
お待たせいたしました、後編です。
「なかなか楽しそうだな」
コタロウの散歩から戻った誠司が見たのは、ドレスに着替えた――夕食前だからか――ミューラがダイニングテーブルで書き物をしている姿。
ただし、それをもって真面目に作業をしていたと判断するのは早計だった。
「はう!?」
シャープペンシルを握っていたミューラが、反射的に倒れ込んだ。余りの勢いに、たわわに実った双球と形の良い鼻が潰れる。
授業中の“内職”が見つかった生徒のような反応。自白しているようなものだ。
そこまでしておきながら、ミューラは目的を達することはできなかった。
「痛いれふ……」
「……なかなか、個性的だ」
声をかけた誠司の手には、コタロウの散歩へ行く前に渡したプリントが一枚。ただし、彼が見ているのはプリントした表側ではなく――ましてや、鼻を押さえて涙目になっているミューラでもなく――裏面。
真っ白なはずだったそこには、絵が描かれていた。
ただ、それが具体的になんなのかは誠司にも分からない。
「それから、歴史を感じる」
なんだろうか。なんと表現すれば良いのか。十中八九、絵で間違いない。そのはずだが、誠司は、それを的確に示す言葉を持たなかった。
イラストと表現するには平面的。
子供の落書きと言うには芸術的。
ただでさえも細い目をさらに細め、誠司は描かれた物体をじっと見つめる。洞窟壁画に描かれた意匠を読み取ろうとする考古学者のように。
「コタロウ……か?」
「なんでそんなに自信なさげなんですか!?」
正解だったらしい。それはそれで不安になる。
足は六本もあるし、尻尾は放射状。その上、どれだけ目をこらしても口から火を噴いているようにしか見えないのに、それがコタロウだと言われているのだ。
二人が見ている世界は、本当に同じなのだろうか?
ミステリのトリックに利用できそうだなと、誠司は思う。まあ、そんな大げさな話ではなく、極めて単純に技術的な問題が発生しているだけなのだろうが。
「可愛いじゃないですか。もう、セージさんには見る目がないんですから!」
頬を膨らませ――それでも、美貌はまったく損なわれていない――訂正してくださいと言わんばかりのミューラ。怖くはない。むしろ彼女の愛らしさが増しているだけ。
とはいえ、傷つけてしまったのは確か。なにか言わなければならないだろう。
誠司は、脳内で辞書を検索する。
「逆に前衛的だな」
「言葉の意味は分からないですが、ほめられていないのは分かります。というか、逆にって!?」
「むしろ、精一杯のほめ言葉なんだが」
「その気遣いがツライですぅ……」
再び、ミューラがテーブルに突っ伏した。
――と、見えたのは一瞬。
作用と反作用の見本のようにがばりと起き上がり、ミューラが反論を始める。
「そうだ。たぶん、セージさんの美的感覚がおかしいんですよ。だって、『姫さまは絵がお上手ですね』ってリッリもほめてくれましたもん」
「それはただの気遣いだろう」
「ストレートッ!」
そう言い残すと、ミューラはまたテーブルに突っ伏した。今度は誠司から顔を背けて。もしかしたら、泣いているのかもしれない。
誠司としては、「立場上、そう言わざるを得なかったんだろう」と口にしなかっただけ、かなり配慮しているつもりだったのだが……。
「しかし、俺の美的感覚を否定するとなると……。あっちの世界では、ミューラは不美人なのか?」
「女の子に対して、そんなこと聞きます……って!?」
反射的に立ち上がり、デリカシーのなさに抗議――しようとして、言葉の意味に気がつく。正確には、さりげなさ過ぎて気づくのに遅れたというべきか。
ミューラは可愛くて美人だ。
誠司は、そう言っていることになる。
なんとも遠回しな賛辞。だが、それも誠司らしいではないか。
照れ屋な彼の、精一杯の言葉だ。
ミューラは、王女らしく鷹揚に理解を示した。とはいえ、ミューラも冷静ではいられない。
「というか、勝手に見ないでください!」
ぷんぷんと、分かりやすいほど分かりやすく怒って、ミューラは誠司から書類を奪い返した。
その激しい感情の浮き沈みにも、誠司は動じない。
散歩から戻ってきて、コタロウの足まで洗い終えているのに気づかないほうが悪い。
そもそも、宿題を放置しているではないか。
いくつか反論は思い浮かぶが、ミューラの主張通り許諾を得なかったのは事実である。
その点に関してだけは謝罪しようかと思った刹那、ミューラが叫ぶ。
「もう、セージさんのえっち!」
誠司は、その場で固まってしまった。
下手をすると一回りは年下の少女から罵倒されたから……ではない。謂われのない言いがかりに、ショックを受けることなどあり得ない。自身の正しさは、誠司が一番理解している。
固まったのは、語源を考えれば異世界の王女が知るはずのない単語が飛び出してきたから。
翻訳魔法の仕業なのだろうが、こうなると、仕組みや原理が非常に気になってくる。
フリーズから復帰した誠司がミューラに問い質そうとしたその瞬間。
くぅうと、可愛らしい音が鳴った。
それにつられて、コタロウも鳴いた。
二日連続二度目。聞き覚えのある音に、誠司は何度か目をしばだたかせて言う。
「興奮してお腹が空いたかな?」
「その気遣いがツライですぅ……」
「リッリという人の気持ちが、よく分かった。言う方も、結構辛いもんだな。誰だか知らないけど」
「うう……。リッリは、お付きのメイドで、わたしの姉のような人ですぅ。それはそれとして、もう、お嫁に行けません……」
シルヴァラッド森林王国第三王女の危機だ。
誠司はなにも言わずに、キッチンへ入っていった。コタロウは、いつものように入り口で閉め出される。
「……さて」
今回も、あまり時間はかけられない状況。
けれど、これを見越していたわけではないが、今日の献立もその状況にふさわしいものだった。
まずボウルを取り出し、氷と水を入れる。
あとはひたすら材料を切っていくだけ。用意したのは、ニンジン。それに、大根と水菜。今日の実験料理その一は、野菜スティックだ。
野菜スティックといえばキュウリが代表格だが、それを知りつつ誠司は買わなかった。
嫌いだからだ。大嫌いだ。憎んでいると言っても過言ではない。
匂いをかいだだけで吐き気がする。恐らく、それぐらい邪悪な存在に違いない。余りにも嫌うものだから、誠司が小学生の時に兄から、こうからかわれたことがある。
「明日から、世界中にキュウリしか食べ物がなくなったらどうする?」
それに対して、誠司は惑いなく答えた。
「そんな世界はすぐに滅びるから、食べない」
――と。
後に、キュウリにはほとんど栄養がないと知り、自らの選択の正しさを再確認した誠司だった。
それはともかく、まずニンジンを横半分に切って、上の部分をピーラーで薄目に皮をむく。それが終わったら、二等分にし、それをまた二等分に――という手順を繰り返して、放射状に切り分けていく。
その後は、ボウルの氷水に入れるだけ。
大根も同じく、生食に適した葉に近いほうだけを使用。皮をむいたら、繊維に沿って縦に切っていく。
なんでもない作業。
しかし、それをミューラは対面式キッチンの向こうで頬杖をつきながら見ていた。大きな体を折りたたんで野菜を切り分けていく誠司の姿に、ミューラは自然と笑顔を浮かべる。
(セージさん、かわいいです!)
その内心の声が本人に届いていたら、恐らく誠司は死にたくなったことだろう。だが、幸いにもミューラの感想は彼女の中でだけ消化された。
誠司も、ミューラの存在には気づいていたが、いつもにこにこしている王女が相手だけに、表情から思っていることを読み取ることはできない。
ゆえに、希死念慮を発することなく、作業を続ける。
水菜を切って同じく氷水に入れたあとは、ディップ作り。
といっても、難しいことはなにもない。マヨネーズにチューブのわさびとめんつゆを混ぜたもの。それから、みそとマヨネーズを混ぜるだけるだけのものの二種類を用意するだけ。
どちらもやや和風よりなのは、少しずつ和風食材に慣れてもらおうという魂胆も含んでいる。その上、保険と実験も兼ねて市販のサワークリームのディップも用意している念の入れよう。
ただミューラからすると不思議な工程に見えたのだろう。目分量で迷いなく混ぜていく様を、目を白黒させ見つめていた。
「火を使うから、そろそろテーブルに戻るんだ」
「え~。これからが本番なんじゃないんですか?」
「頼んでいた数値の記入は終わったのかな?」
「すぐにやります!」
根は真面目なのだろう。誠司に言われて、ミューラは踊るようなステップで自分の席へと舞い戻った。まさか、半眼でにらむ誠司が怖かったとは思わない。
それを見届けた誠司も、作業に戻る。
先に、紙パックに入った市販のコーンポタージュ――たまに買うのだが、なぜブッダに乳がゆを提供した娘の名前を冠しているのか分からない――を鍋に空け、弱火で温めておく。
最後に、メインのオムライス。誠司は、昨日作ったまま放置してある角煮と大根の煮物を食べなくてはならないため、作るのはミューラの分だけだ。
チキンライス用の鶏肉は、スーパーで親子丼用に小さく切り分けられていたものを購入済み。これで一手間省ける。そこに、塩こしょうで下味を付けた。
続けて、タマネギ半分を荒くみじん切りに。フィクションではタマネギを切ると十中八九涙が出るが、誠司にその経験はない。種類が違うのか、大げさなだけなのか。未だに、結論は出せていなかった。
さらに、ニンニク一欠片も細かく切る。これが、誠司が母親から受け継いだレシピだ。
これで下ごしらえは完了。大抵の料理は、包丁の仕事が労力の八割程度を占める。ここから先は、誠司にとっては楽な作業だ。
あまり多いと出来上がりも油っぽくなってしまうので注意しながらフライパンにバターとサラダ油を同量入れ、同時にニンニクも投下。
ニンニクの香りが出てきたら、下味を付けた鶏肉、タマネギの順番に入れ炒め合わせる。
夏が終わりつつあるとはいえ、熱気に汗がにじむ。
それでもミューラのため、誠司は焦がさないように食材を炒めていった。焦がすと、単純に不味くなる。それは、許せないことだった。
「こんなものか」
火が通ったら、ご飯ではなく、先にケチャップを50ccほどとその1割弱のソース。それから、隠し味程度に醤油も加える。
「ご飯を入れる前にケチャップを入れて水分を飛ばしておくと、チキンライスがべたつかないのよ」
誠司は、そう言っていた母親の顔を思い出す。結局、誠司がオムライスを作って母親に食べさせることはなかったのだが……。
そう回想しつつも、誠司の手は止まらない。
充分にソースと具が混ぜ合わさったところで、炊飯器から熱いご飯を茶碗一杯分ほどフライパンへ入れる。散歩に出る前にスイッチを入れたため、炊きたてだ。
あとで扱いに困るため、ご飯の量には気をつける。
そこに白ワインを少量加えたら、切るようにしっかり混ぜていく。白いご飯が、少しずつくすんだ朱色に変わっていく様が面白い。
豪快に鍋を振りたくなるところだが、あまりいじらないほうがいい。自制しながら、木べらでフライパンにご飯を押しつけるように炒める。
これで、こんがりとしたチキンライスが完成だ。
それを別の皿に取り、ここで、小休止。
気合いを入れる意味もあるが、フライパンがひとつしかないのでしっかり洗わなくては先に進めない。料理漫画なら、失格の烙印を押されるかもしれないが……家庭料理なのだから、気負いすぎる必要もないだろう。
フライパンを洗ってもすぐには再開せず、ポタージュの火を止め、氷水から野菜スティックを取り出して簡単に盛りつけておく。
「やるか」
自分一人なら失敗しても構わないのだが、他人に出すとなると――ミューラはそれほど気にしないと分かっていても――少しだけ緊張する。
先ほどと同じように、バターとサラダ油をフライパンで熱し、その間に卵二個をしっかりと混ぜておく。
手をフライパンにかざし、温度を確認。
大丈夫だと判断した誠司は、卵を一気に投入した。
じゅっと音が鳴り、縁の部分から火が通っていく。黄色い卵の表面に、白い気泡が湧く。誠司は菜箸で軽くかき混ぜると、一分もせずに火を止めてしまった。半熟状態。これでいい。
フライパンの底に広がった半熟の卵。
その中心に皿へ空けていたチキンライスを乗せると、火から下ろしたままのフライパンを傾けて整形していく。半熟にまで火が通ったら、コンロで調理を続ける必要などないのだ。
「ほっ、ほっ、ほっ」
慎重に持ち替えた木べらを操作し、チキンライスを卵でくるんでいく。フライパンの縁を使うと、上手くいきやすい。そう言っていた、母の言葉を信じて。
そう。完全にくるむ必要はない。上と横が卵で包まれたら、フライパンに皿をかぶせる。
「よっ」
そして、勢いよくひっくり返した。
慎重にやりたいのが人情だが、失敗を誘発するだけ。思いきりが大切なのだ。
「うっ」
とはいえ、思い切りよくやったからと言って、失敗しないとは限らないのだが……。
「……まあ、大丈夫か」
卵が一部破れてしまっているが、真ん中の横側。
幸いにしてソースをかけてしまえば見えない。セーフだ。
ラップを使って形を整え、最後に市販のトマトソースをかけて完成。
「ミューラ、お待たせ」
そのできたてのオムライスをダイニングテーブルへと運ぶ。
「うわっ。綺麗ですね。なんですか、これ。オムレツ?」
「オムレツで炒めた米を包んだ物だな」
「お米ですかぁ」
オムライスの皿を掲げて、ミューラがしげしげと見つめる。
「真紅の森のエルフさんたちが栽培しているという話だけは聞いたことがあります」
「……いるのか、エルフ」
キッチンに戻ってコーンポタージュを注ぎ、自分の分の角煮を電子レンジで温めながら誠司は答えた。
存在していても不思議はない。否、異世界自体が不思議なのだから、エルフの存在だけを否定する意味はないと言うべきか。
異世界にも米があるという事実よりも、そちらに興奮をせざるを得なかった。
「ということは、こちらにもエルフさんがいるんですね?」
「いや、いないいない。そっちで言う『黒髪の紗音』という小説と同じで架空の、想像上の存在だ。ああ、いや。そっちにいるということは、だったというべきか……」
「セージさんの世界は、逆にわたしたちの世界を小説にしてるんですね」
もちろん、ミューラの世界を知ってのことではない。
だが、意思の疎通ができる人間が生きる世界である以上、こちらの想像力が及ぶ部分はあるのだろう。これは恐らく、始祖トールキンの偉大さを示す証拠になるのではないか。
J.R.R.トールキン。
偉大なる作家にして、言語学者。いくつもの架空言語を創造した大家は、イングランドのために神話を創造した。
それが、『ホビットの冒険』から始まり『指輪物語』、『シルマリルの物語』に至る中つ国を舞台にした作品群である。
中つ国の物語が、果たして本当になったのかは誠司には分からない。
しかし、その後のファンタジーに余りにも大きな影響を与え、デファクトスタンダードとなったのは確かなこと。
エルフひとつとってもそうだ。
トールキン以前のエルフといえば、イタズラ好きの妖精。現代からすると、フェアリーと呼んだほうがしっくりくるような存在。しかも、どちらかというと不吉の象徴だ。
それが、トールキン以後は美しく長命で賢く強大な人間を越えた種族というイメージの大転換が発生した。多くの作品で光と闇のエルフに別れているのも、トールキンの影響に違いない。
誠司も『指輪物語』を読んでレンバス――エルフの薄焼き菓子――を食べてみたいと思ったものだ。
「そうなると、エルフさんのイメージに食い違いがあるかもしれないですね」
「確かに、その可能性はあるな」
食卓を挟んで誠司がうなずくと、ミューラが指折り数えてエルフの特徴をあげていく。
「非常に長命で」
エルフだ。
「男女ともに、とっても綺麗で」
エルフだ。
「いくつかの氏族に別れていて」
エルフだ。
「森に棲み」
エルフだ。
「誇り高く、名誉を重んじ」
エルフだ。
「弓を巧みに操り、細身の剣で武装し」
エルフだ。
「有事の際には、暴力で問題解決を図り」
エルフ……?
「彼らの歴史書には、族滅という言葉が頻繁に出てくると聞きます」
武士だ。
それは、紛うことなく武士だった。
思わず、野菜スティックを乗せていた皿を取り落としそうになる。
「武士か。しかも族滅って、鎌倉武士か」
源義経を貶める讒言をした大悪人――というイメージを持つ梶原景時ですら粛正され、一族滅亡してしまうのが鎌倉幕府である。
一瞬で、トールキンのエルフ像が崩れ去った。粉々になった。
そして、エルフと東夷に共通点が意外とあったことに、誠司はショックを受ける。箇条書きで並べただけだと理性が抵抗するが、感情は認めてしまっていた。
「……セージさん、なんでそんなに哀しそうなんです?」
「大人にはいろいろあるんだ。いろいろな」
「ぶー。そういうの、ズルイですぅ」
「ズルイのも大人だ。そして、黙っていても大人にはなる。将来、子供に対して同じ対応をすれば良い」
「負の連鎖じゃないですかー」
楽しいはずの食卓が、どんよりとした雰囲気に包まれてしまった。
「……食べるか」
「はい!」
ミューラが無邪気に笑う。コタロウも、早く寄越せとジャンプする。
こうして、三浦家の夕食が始まった。
「ふふふふふ~ん」
上機嫌で、ミューラがスプーンを握る。
目指すは、オムライスである。
目にも鮮やかな黄金に包まれた、未知の食材。赤いソースがまた、食欲をかき立てる。肉まんの時のように、想像もしない衝撃を与えてくれるのだろうか。
期待に胸を膨らませながら、ミューラは真ん中の部分にスプーンを突き立てた。
卵の生地を突き破ると、やや粘り気のある米にぶち当たり、他の具材にも触れた感触がある。炒めた米だけではないようだ。
(セージさんのことですから、わたしを驚かせようと黙っていたんですね。可愛い人なんですから)
もちろん、情報量を多くしても伝わらないので省略しただけなのだが、ミューラには伝わっていない。
誠司の企みに乗ってあげましょうと笑顔を深くし、それ以上に、もう我慢できないと大きく一口。
小さな口いっぱいに頬ばったミューラは、何度目かになる驚きにサファイア色の瞳を大きく見開いた。
「ほいひーれふ」
「飲み込んでから喋ったほうがいいな。しかし、俺に伝えたいのではなく、なんらかの感情の発露であれば、零さない限り好きにして良い」
妙に理解のあるところを見せた誠司だったが、それは、ミューラが記入した書類に目を通していたから。大根スティックをわさびマヨネーズのディップでかじりながら、内容を改めている。
一方、ミューラもミューラで、後半部分は聞いていなかった。
当然と言うべきか、味わうのに忙しかったからだ。
チキンライスとは初めての邂逅だったが、一瞬で虜になってしまった。
「あつふわとろうまです!」
酸っぱいようで、それだけではない。深みのある複雑な味わい。ぱらぱらの食感。粗みじんタマネギの歯ごたえと甘み。嬉しいサプライズだった柔らかでジューシーな鶏肉。
それらを優しく包み込む半熟の卵は熱々で、ともすればくどくなりがちなチキンライスを見事に中和している。
なにより、半熟でトロトロで、それだけで幸せだ。
魔素がどんどんチャージされていく。体が喜んでいる。
「おいしーです! セージさん、美味しいです!」
「それは良かった」
書類から目を上げて、真顔で答える誠司。
彼は冷静にその書類をミューラへと突き返し、さらに冷静に言う。
「じゃあ、野菜やスープも食べて、こいつに追記してくれ」
しかし、ミューラは答えない。
オムライスをさらに頬ばり、喋れませんと誠司の要求を拒否した。
「野菜も食べないと駄目だぞ」
「んぐっ! そうじゃないです!」
予想外の方向から攻撃を受けたと言わんばかりのミューラが、慌ててスープを飲んで嚥下した。少し、涙目になっている。
「セージさん、わたしは、ほめられて伸びるタイプなんですって言ったら、どうします?」
「叱られても伸びるようになったら、完璧だな」
「わぁい。抜け目ないですね!」
観念したミューラが、ニンジンを手にしてみそとマヨネーズのディップにつけようとし――
「まずは、そのまま食べてくれ」
――誠司にストップをかけられた。
「実験ですか?」
「ああ」
誠司の求めに応じて――というよりは、抵抗しても無駄だと悟り――ニンジンの先をぽきっとかじった。
「むぐむぐ」
驚きも、それに応じた喜びもない。ニンジンは、ニンジンだ。
ただ、故郷で食べたものと同じ野菜とは思えないほど甘い。
「美味しいとは思いますけど……魔素は、そこまで回復しませんね。むぐもぐ。あっ、こっちのソースにつけたほうが美味しいですね。回復量もちょっと多いみたいです」
「やっぱりか」
テーブルの下で存在を主張するコタロウに根負けし、野菜スティックのニンジンを少しだけ与えてやりながら、誠司は満足そうにうなずいた。
それがうらやましかったわけではないだろうが、ミューラは不満そうに頬を膨らます。
「分かってるのなら、実験の必要はないのでは?」
「確かめるのが実験だ」
「分かってますよぅ。だから、わたしはここにいるんですし」
理不尽を感じる部分はある。
しかし、こう見えて――本当に、こう見えて――導機魔法の研究者であるミューラには、誠司がなにを確かめたいのか理解できてしまうのだ。
「こっちの黄色いスープも、甘くて美味しいですけど……。朝のオニオンスープに比べたら、魔素はあんまり回復しないですねぇ」
そう言って、律儀に書類へ書き込んでいくミューラ。
嫌なことはさっさと終わらせたいと言わんばかりに、一気に埋めてしまった。
その書類を受け取りながら、誠司は味の染みた豚バラの角煮を口にし、ご飯を口内に追加していく。
もう少し詳しく調べてみないと結論は出せないが、味と魔素の回復量にはっきりとした相関関係は見いだせなかった。
味の評価よりもむしろ、凝った料理のほうが回復量は上。
これは、『食物に魔素発生するのは、誠司がなんらかの手を加えた』という仮の結論とも合致する。
そうなると、今度は手間暇と回復量の関係を調べたくなってくる。誠司以外の誰かの場合も知りたいが、これはリスクが大きいか。
「しかし、回復量の数値が曖昧だな」
味の染みこんだ豚バラと白米のシンフォニーを嚥下した誠司が、やや不満げにつぶやいた。
それは、要求した仕様が勝手に変わっていたのが原因だ。
要求した魔石への貯蔵量の基準ではなく、翻訳魔法一回分や三分の一回分など基準が書き換えられていた。
「セージさんの要求レベルが高すぎるんです。せめて、『鳴鏡』があれば、もう少し簡単で詳細に分かったんですけど」
「めいきょう?」
「はい。位階把握の世界法則により個々人のパラメータを表示させる特殊なマジックアイテム……魔法の道具です」
「……さすが異世界」
それで済ませて良いのか疑問もあるが、他にどうすることもできない。異世界の法則には、誠司も無力だった。
「ですけど、神々の加護があってこそですから。異世界では働かないかもしれないですね」
「か、神か……」
屈託なく笑うミューラ。
一方の誠司は、箸を取り落とさずにするので精一杯。エルフの件からこの方、カルチャーギャップに見舞われ続けて限界が近い。
「ところで、セージさんセージさん」
「ん?」
「それ、少しくださいな」
「きびだんごか……」
「え? それ、どんな食べ物です?」
「今度な」
犬猿雉にきび団子をねだられる桃太郎の気分だ……と言ったつもりの誠司だったが、ミューラの食欲はそれを越えていた。
まあ、量はあるので構わないと、誠司は角煮の皿をミューラの近くへ滑らせた。
「いただきまーす」
皿から起用にスプーンで角煮――一番大きな物――をすくって、幸せそうに口へ運ぶ。
――だが。
「……えぅ」
「まさか……」
「…………」
こくこくと涙目でうなずき、飲み下すべきか、吐き出すべきか迷うミューラ。そんな彼女にティッシュを差し出しながら誠司は必死に頭を働かせていた。
違いはなんだ。
違いは、ミューラが来る前に作ったか否か。いや、それはおかしい。肉まんだってコーラだってコーンポタージュだって、もっと前に作られている。
なにより、パスタにしたときにはきちんと回復している。
ミューラのために、パスタを作ったときには……。
「まさか。そうか。そういうことなのか?」
まるで本格ミステリの探偵のようなことをつぶやく誠司。愛読はしていても、同じようなセリフを口にする日が来ようとは思ってもみなかった。
「どういうことなんです?」
「まあ、確証があるわけじゃない――」
「前置きはいいですから」
珍しく、はっきりとした口調で、ミューラが先を促した。
「俺がなんらかの手を加えて魔素が発生するんじゃなく、『ミューラのために、なんらかの手を加えた』時に魔素が発生するんじゃないかと思ったんだ」
「なるほど……」
ありえますねと、食事の手を止めてミューラも同意する。
「魔素は、現実を改変するためのパワーソースです」
「……それで?」
「神々の肉体が砕けた欠片などとも言われていますが、人の意思に反応することも分かっています」
「つまり、俺の意思の力で魔素が発生したんじゃないかって言いたいのか?」
ミューラの言わんとするところを理解し、誠司はすぐに矛盾点に気づく。
「いやでも、神々の肉体の欠片だったら、こっちに存在するはずがないだろ」
「いえ。実のところ、それ以前から存在していたはずだという学派もあります。もはや確かめようもないですが……」
それならば、地球に存在していてもおかしくないが、ミューラの観測結果との矛盾は残る。
「発生と言うよりは、感知できないほど微細な魔素が元々存在していて、それがセージさんの意思を核として集まったというほうが正確でしょうか」
一見、筋は通っている……ように思えた。
けれど、そんなあり得ない――とまでは言わないが、証明しようのない力の存在をまことしやかに語られても納得できるはずがない。
しかし、ミューラは、誠司の抵抗をあっさりと無視する。
「そうです。人が持つ最も強い感情に反応したのであれば、ありえます」
「……恨みか?」
「違いますぅ! もう、なんでそうなるんですかっ!」
両手を握って抗議するオーバーアクションに、ミューラの胸も一緒に揺れた。
それでも、ミューラはめげずに居住まいを正し、咳払いをして真剣な表情を浮かべる。
そうしていると王女の威厳が感じられたが、誠司はそれに感心するよりも耳を疑う羽目になった。
「それは愛です」
「愛?」
「だって、そうじゃないですか」
自信満々……というよりは、それが当たり前。水が高きから低きに流れるのと同じことだと、ミューラは断言した。
なぜなら、誠司はミューラを愛しているのだから。少なくとも、ミューラの中では、そうなっている。
むしろ、最初のパスタやスープでも魔素が回復したと言うことは、やっぱり一目惚れだったんですねと自信満々だ。
一方の誠司は、ありえないだがしかしと、肯定と否定の間で揺れていた。
むしろ、否定できずにエラーを吐いていたという方が正しいか。そう。魔素が回復しているのは、紛れもない事実なのだ。
「そんな、まさか……」
表情は変わらない。
変わらないが、誠司の顔が真っ赤に染まっていた。こんな状況でなければ、発熱を疑っていただろう。
「…………」
「ちょっ、無言で立ち上がってどうしたんですか。ご飯の途中ですよ!」
驚きの声をあげるミューラ。
そこにからかう調子や揶揄は存在しない。ただ、突然のことに心配する気持ちだけがあった。
しかし、誠司は止まらない。
むしろ、純粋に心配させたことにこそショックを受け、ふらふらと自室へ引きこもってしまう。
「セージさん。セージさぁーんっ!」
しかし、応えはない。
いや、正確には、ミューラの呼びかけには応えない。
「ゥワンッ! ゥワンッ!」
いつも誠司が食べてからご飯をもらっているコタロウが、ドアに全身をぶつけるような勢いで抗議を始め――
「…………」
――それでも、たっぷり五分はしてから、ようやく姿を現した。
「どうしたんだ? 俺の部屋に集まって」
「いえ。あの、セージさん。それはさすがに無理があるかと……」
その後、誠司は完全にいつも通りだったが……。
決して、ミューラと目を合わせようとはしなかった。