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夏風邪は……

セージさんが風邪を引くネタを考えていたら、作者まで風邪を引いてしまったため遅れました。

「え?」


 スマートフォンの着信画面を見て、浦賀有朱は思わず動きを止めた。

 撮影を終えて帰宅しようと改札を通って駅のホームへ向かうところだったため、いきなり立ち止まった美少女を周囲が訝しがるが、有朱は気付きもしない。


 液晶画面を凝視したまま動けずにいた。


『セージくん』


 そう記された相手の名に、有朱のヘイゼルの瞳が揺れる。


 早く出なくては。


 そう思うが、いきなり着信が来るのは初めて――電話をする場合でも、たいていメールで確認してから――で、動揺が隠せない。


(もしかして、これからコクられるんじゃ!?)


 ありえない。

 しかし、この電話自体もありえないのだ。その内容が、さらにありえないものではないと、誰が言い切れるのか。


「……よしっ」


 意を決し、指で画面をスライドさせ電話に出る。


「せ、セージくん?」

「アリスちゃんですか? セージさんが、セージさんが!」

「は? ミューラ?」

「セージさんが、死んじゃいますぅ!」

「分かったわ。今すぐ、家に行くから」


 一方的に言い放つと、やはり一方的に電話を切って有朱は顔を上げた。そこに落胆の色はない。あるのは、決意だけ。


 正確に事態を把握できたとは言えないが、だいたいの事情は予測できた。


 あえて言おう。これは、チャンスだ。


 ツインテールにした金髪をなびかせ、有朱は電車に飛び乗った。





「アリスちゃん!」

「……アタシの思った通りね」

「すまない……な、止める間もなくてな」

「ウワンッ! ウワンッ!」


 スーパーで買い物をしてから誠司の家へ駆け込んだ有朱は、予想通りの光景を目にし、まずは安堵した。


 泣き出さないのが不思議なほど、心配そうで不安げなミューラ。

 銀髪のお姫さまがそんな表情を浮かべていると、まるで魔王軍が攻めてきたのではないかという錯覚すら憶える。


 いつものように吠え立てるコタロウも、誠司やミューラがいつもと違うことを察しているのだろう。子犬になって甲高い声に戻ったが、どことなく弱々しい。


 そして、問題の誠司だったが、もちろん死にそうでもないし、死んでもいない。


 ただ、いつも通りではないのも確かだった。


「大丈夫なの?」

「ああ。ただの風邪だろう」


 その自己申告通り、誠司の声はかすれていた。

 喉や鼻に違和感があるようで、喋る度に気にしている。


 もう昼過ぎ。それどころか夕方近いというのにパジャマのまま。それもよれよれで、飾らないが身ぎれいにしている誠司にしてはあり得ない格好。

 

 表情からもいつもの険が消え、表情も緩んでいる。儚げとまではいかないが、いつもに比べると柔和で優しげだ。180cmと大柄な体格による威圧感もほとんどない。


 熱のせいか、瞳は潤み頬も赤く、呼吸も少し荒ようだ。


 そんな誠司は――


(やばっ。ちょっと、萌える……)


 ――のだった。


 しかし、女子中学生にしては大人びた少女は、そんな感情はおくびにも出さない。


「セージくん、風邪?」

「ああ。そうみたいだな。今日が休みで良かった」

「良くないですよぅ」

「そーよ。アタシには、学校なんて行かなくてもいいなんて言ったのに。仕事より、体の心配をしなさいよね」

「そうですよ! もう、こんな状態なのに、コタロウちゃんの散歩にいくとか、わたしのご飯を作るって聞かないんですから!」

「ウワンッ! ウワンッ!」

「……悪かった」


 二人と一匹に責め立てられ、誠司は白旗を揚げた。

 ただし、とりあえず謝っておいたといった口調だ。こんな露骨なごまかしは、いつもの誠司ならしない。やるにしても、もっと巧妙だ。


 やはり、本調子ではないらしい。


「とりあえず、ミューラとセージくんのご飯は、アタシがなんとかするから」


 先にスーパーで買い込んできた食材や飲み物などをミューラに押しつけながら、有朱が胸を張って断言する。

 元より、そのつもりで来たのだ。なにがあっても、完遂するつもりだった。


「それから、コタロウの散歩もアタシが行くから」

「いや、それは……」

「行くの! ミューラはちゃんとセージくんを寝かせとくように!」

「あ、はい!」

「分かったよ」


 抵抗しても無駄……というよりは、抵抗する気力もないのだろう。怠そうに両手を挙げると、自分の部屋へと戻っていく。

 それを受けて、ミューラも受け取った食材をしまうため台所へ移動した……が。


「と、ちょっと待った」

「はい? なんですか、アリスちゃん」


 しかし、有朱がストップをかけた。


「ミューラじゃなくて、セージくんよ!」

「どうかしたのか?」


 自室の扉を開けたところで、誠司が不思議そうに問いかける。なぜ言われているのか、分からないという表情だ。


「セージくんは、自分の部屋で寝ちゃダメ」

「……どこで寝ろって言うんだ」

「セージくんの部屋だと、結局、寝ないで本を読むでしょ?」

「そんなことはしない……ぞ」

「ウソね」

「ウソですね」


 二対の瞳に見つめられ、誠司は言葉を失った。

 自分でも説得力がないと感じたのだろう。誠司は、あっさりと白旗を揚げる。


「分かった。布団を持ってリビングに行くから。それでいいだろう?」

「あ、わたしがやりますよ」

「いや……。ああ……。俺の部屋に、ミューラは無理じゃないか?」


 少し考えてから、誠司は言った。


 誠司の部屋の主人は、人間ではなく本だ。足の踏み場は最低限しかない。そんな場所にミューラを投下すれば、惨劇しか生まない。


「キャゥン! キャゥン!」


 そして、先ほど発せられた『散歩』という魅惑のワードにより、小さなコタロウは有朱の足にしがみついていた。誰が連れて行ってくれるのか分かっている辺り、さすがとしか言いようがない。


「セージくん、怪我しないでね?」

「そこまで、具合が悪いわけじゃない」


 そう言いつつも、喉に負担がかかったからか、誠司は軽く咳き込む。

 心配そうな表情を浮かべる有朱を手で制し、誠司は真剣な表情を浮かべて言う。


「それよりも、コタロウのこと、頼んだぞ」

「任せといて! これからは、アタシも散歩に行けるようにならないとだもんね!」

「いや、そういう予定はないが……」


 もちろん、有朱はそんな反論など聞かない。

 手早くリード――コタロウが小さくなったため、買い換えた――を取り付けると、とんぼ返りしていった。





「アリスちゃんが来てくれて、本当に良かったです」

「まあ、そう……だな……」


 助かるのは確かだが、余計な手間をかけさせたことは不本意だ。


 それが誠司の本音なのだが、布団の中の誠司は最後まで言えなかった。めんどうで喋らなくなることは多々あるが、今回は、それよりも酷い。しゃべる気力もないのだ。


 なんとなく落ち着かなくて寝返りを打ち、やはり違和感があったのか、元の姿勢に戻る。


 誠司が布団一式を持って移動すると、リビングのテーブルは脇に追いやられていた。

 そこに布団を敷いて寝ているのだが、部屋が広すぎてなんだか落ち着かない。天井が違うのも、その一因だろうか。


 それから、枕元にミューラがいるのも。


「本当に、びっくりしたんですからね」

「心配させたのは悪い……が」


 リビングに敷いたカーペットに正座をし、青い瞳でじっと誠司を見下ろしていた。

 心配そうでありながら、怒っているような。複雑な表情を浮かべるミューラに、誠司は拗ねたように反論する。


「でも、びっくりしすぎだろ」


 大したことではない。


 ただ単に声や喉の調子が少しおかしくて、頭が回らなかっただけだ。

 その結果、調理中にちょっと手が滑って、包丁を落としてしまった。それだけで、特に怪我もしていないというのに、ミューラがパニックを起こして有朱に電話をした。


 これが、今回の顛末だった。


「だって、セージさんがあんな失敗するなんて、ありえないじゃないですか」


 そう言って、ミューラが手元に準備していた濡れタオルで汗を拭う。

 誠司自身は気づいていなかったが、額や首筋には汗が浮かんでいた。呼吸も浅く早く、まるで全力疾走をした後のよう。


 自覚はなくとも気持ちがいいのか、誠司はなすがままになっていた。


「気分はどうですか、セージさん」

「寒いから、布団を脱ぎたい」

「矛盾してますよぅ」

「まあ、風邪だからな……」


 本音ではあるが、言っても仕方がないことは分かっている。

 軽い鼻づまりも感じて、確かに体調が悪いことが自覚できた。


 誠司がまぶたと口を閉じると、ミューラも話しかけるのをやめる。


 眠たいわけではないが、安らかな心地になってきた。他人が側にいるのに、気にならない。最初の居心地の悪さなど、どこかへ消えてしまった。


 さわさわと髪に触れられている。


 普段ならはねのけているところだが、今はそんな気分にはなれない。


 風邪など、いつ以来だろうか。

 思い返してみても、はっきりしない。少なくとも、コタロウと二人きりになってからは初めてだ。


 そもそも、この程度の風邪なら、無理をしてでも動いたことだろう。


 それが、ミューラに看病されている。


 嬉しいような、むずがゆいような。複雑な心境。


 ただ、他人に心配されるのも、悪くはなかった。


 たまには、だが。


 そのまま夢うつつでいると、不意にミューラの手が離れる。


 目は開けなかったが、玄関のほうへ走っていく気配を感じた。有朱とコタロウが帰ってきたのだろうか。


「セージくんは?」

「眠ったみたいです」 

「じゃあ、今のうちにご飯を作りましょっか」

「はい」


 そんな声がしてからしばらくすると、ミューラと入れ替わりに小さな足音が聞こえてきた。


「コタロウ、おかえり」

「クゥゥン」


 ゆるゆると目を開くと、小さな――しかし、異世界から帰ってきたときよりはかなり大きくなった――コタロウがいた。

 甘えるような声を出して鼻先を誠司の顔に押しつけると、まるで番でもするみたいに、誠司の枕元にうずくまる。


「ありがとうな……」


 本当に、生きていてくれて良かった。


 心から。心の底からそう思う。


「フゥゥゥン」


 なにを言われているのか理解できるはずはないが、誠司の優しげな声に反応して鼻を鳴らす。

 誠司はそんなコタロウを布団から撫でてやった。


 至福の時間。


 誠司はそのまま眠りに落ちた。





「さあ、ミューラ。気合い入れていくわよ!」


 コタロウの足と自分の手をしっかりと洗った有朱が、キッチンに移動してぎゅっとエプロンの紐を結んだ。

 その言葉通り、まるでコルセットを身につけるかのようにきつく縛っている。否応なく、気合いが伝わってきた。


「はい! でも、セージさんが寝ているので、静かにやりましょう」

「……う。ミューラに正論で諭されるなんて」


 しかし、その通りだ。

 有朱は深呼吸して、クールダウンを試みる。


(落ち着きなさい、アタシ。ここで失敗するわけにはいかないんだからね)


 恩返しとアピールのチャンス。

 それも滅多にない。


 誠司に、風邪を引いても安心だ。いや、ゆっくり休めたから風邪を引いて良かった。それくらい、思わせなければならない。

 失敗は絶対に許されないミッションだ。


「それはともかく、今日のメインはにゅうめんよ」

「ニュー麺? うどんとそばを組み合わせた、まったく新しい麺ですか?」

「違うからね」


 『踊る人形』の暗号すら翻訳してしまうのに、なぜ、こんな聞き間違いが発生するのか。

 誠司がいたら思い悩みそうだが、残念ながら今は寝ている……はずだ。


 もちろん、有朱がそんなことに拘泥するはずもなく、説明を続ける。


「あったかいそうめんのことを、にゅうめんって言うのよ」

「おそうめんですか、食べたことないです」

「そういえば、ミューラが来たのって夏休み明けだったわね」


 初見の料理を手伝わせるのは、どうなのか。有朱は、口元に手を当て考え込む……が、結論はすぐに出た。


「まあ、いいわ。そんなに難しくもないし」


 そもそも、ミューラに任せるつもりもない。


「まずは、リンゴを切るわよ」

「なんでですか!?」


 思わず、大声が出た。


「しー」

「う、ううう……」


 キッチンからリビングで眠る誠司を見るが、目を醒ました様子はない。


「静かにね」

「はい、静かに」


 普段なら、「わたしのせいですか!?」と主張したところだろうが、ミューラは自重した。誠司のために。


「にゅうめんがメインとは言ったけど、デザートをつけないとは言ってないわよ」

「アリスちゃんが、セージさんみたいなことを……」

「そう? 別に真似したわけじゃないんだけど」

「それ、喜ぶところですか?」

「それもそうね」


 酷い扱いだった。


「でも、デザートなら、食べるのはあとからですよね。なぜ先に?」

「冷蔵庫で冷やしたいからね」

「なんでですか?」

「冷ましたほうが美味しいからよ」

「なるほど~」


 踊るようなソプラノ――ただし、ピアノ(・・・)――で、ミューラが納得の声をあげた。


「まあ、基本はリンゴを切るだけだから」


 皮をむく必要もない。これなら、ミューラにもできるだろう。


「では、《ホワイト・プレート》」


 包丁とリンゴを受け取る前に、ミューラは防御魔法を唱えた。これで、包丁の刃程度ならかすり傷ひとつつかなくなる。

 大袈裟だが、そうしてもらえると有朱としても安心だ。


「はい。リンゴが転がらないようちゃんと手で押さえて。あと、包丁は振りかぶらない」

「いきます」


 硬い表情でリンゴに包丁をめり込ます。

 そこで一度動きを止め、呼吸も止め、ミューラは力を込める。


「やあっ」


 ダンッと軽い音がして、刃がまな板に到達した。


 包丁を引き抜くと、真っ二つになったリンゴがまな板の上を転がる。


「やりました!」


 控えめな喝采をあげるミューラ。

 しかし、有朱の反応はそっけない。


「誰でもできるからね、これ」

「そこは、ほめてくださいよぅ」


 有朱は答えず、無言でリンゴを切り分けていく。

 ミューラに比べて無駄がなく、手際もいい。種の部分も取ってしまい、あっという間にリンゴは八等分されてしまった。


「くっ。料理は愛情です。わたしは、セージさんに、それを学びました」

「そのセージくんは、未熟だった?」

「ぐぬぬ」


 助けを求めて周囲を見回すが、誰もいない。

 いつもなら、料理の時はキッチンの入り口に陣取るコタロウさえも。よほど誠司が心配なのだろうか。


 少し、ずるい。


「コタロウちゃんに、負けていられませんね」


 気合いを入れ直し、リンゴをさらに切り分けていく。

 やや歪ではあるが、ミューラの精一杯だ。


「やるじゃない」

「これが、わたしの実力です」


 ふふんとミューラが胸を張る。それだけで終わらず、双球が揺れるのは、まあ、仕方がない。少なくとも、意図はしていない。

 それが分かっているから、有朱も見て見ぬ振りをした。奪えるものであれば、積極的に動いただろうが。


「あとは、これを電子レンジにかけるわよ」

「万能ですねえ、電子レンジ」


 ここからは、難しい作業はない。


 水・砂糖・レモン汁と一緒にリンゴを何度か電子レンジにかけ、かき混ぜるだけ。あら熱が取れたら、冷蔵庫で冷やす。


 それを待つ間に、今度は合わせ出汁の準備だ。


「よしよし、ちゃんとあるわね」

「む~。なんで、アリスちゃんが昆布とかかつお節の場所を知っているんですか」

「そりゃ、将来の為よ」

「そんな未来、あたしが変えてみせます」


 悪に立ち向かうヒーローのような宣言。

 実際、ミューラとしては、強大な敵と戦っている気分である。


 もちろん、有朱は取り合わない。


「水は、これくらい……かな」


 スマートフォンでレシピを確認しつつ、鍋に水を張る。

 そして、しっかりと昆布の重さを量り、キッチンペーパーで汚れを拭き取ってから、切れ目を入れた。


「ふう……」

「セージさんは、いつも適当にちゃちゃっと入れてますけど?」

「それで失敗したら、どうするのよ」

「それはそうですけど……」


 微妙に納得がいかないというミューラは無視し、有朱は計量を終えた昆布を鍋に入れる。そして、スマートフォンでタイマーをセットした。

 音声はオフにしているので、誠司を起こすことはない。


「ねえ、アリスちゃん。たったこれだけの昆布で、ちゃんとお出汁が取れるのでしょうか?」

「え? 取れるでしょ。レシピ通りだし」

「そうですか。なんだか、少なすぎる気がするんですけど……」


 ミューラに言われ、有朱はじっと鍋をのぞき込む。


 普段はめんつゆを使っているため、自分で出汁を取るなど調理実習ぐらいでしかしたことがない。だから、自信があるわけではないが、こんなものではなかったか。


「ぬぬぬ……」


 しかし、言われてみるとミューラの指摘通りかもしれない。もうちょっと昆布を足したほうが……。


「いや、駄目よ。レシピを信じるのよ」

「アリスちゃんがそういうなら、お任せしますけど……」

「この間に、具を切るわよ」


 振り向くな。前を見ろ。捨てたカードに未練を持つな。


 その精神で、有朱は作業を進める。


 有朱が今回、具として用意したのは、鶏肉、ワケギ、シイタケ。それにショウガだ。


「じゃあ、わたしが鶏肉を……」

「えー?」

「なぜ不満そうなのか、全然分かんないんですけど!」

「だって、大きく切りそうじゃない」

「当然ですよ。そのほうが、食べ応えがあって美味しいじゃないですか」

「セージくんは風邪なんだから、ダメでしょ」

「ううう……。セージさぁん、早く良くなってくださいぃ……」


 それは、心の底からの願いだった。


「というわけで、ミューラはショウガをすり下ろしてね」

「なんか地味なんですけど……」

「ショウガは風邪に効くのよ」

「やります」


 有朱は、皮をむいてやってから、下ろし金とともにショウガをミューラに委ねた。


「防御魔法があるから、爪を一緒にすり下ろす心配はないですね」

「……そう。それは良かった」


 もはや、問うまい。


 有朱は無心になって鶏肉を切り分け、シイタケの石突きを取って細切りにし、ワケギも細かく切る。

 それらを小さめなボウルなどに入れたところで、スマートフォンのアラームが鳴った。いや、正確には振動しているだけだが。


 手を拭いてからそれを止めると、昆布を浮かべておいた鍋を二人で見つめる。


「本当に、出汁って取れるものなのね」

「昆布さん、生き返ってます」


 入れたときはからからに乾いていた昆布は本来の姿を取り戻し、水にはうっすらと色が付いていた。


「大丈夫のような気がしてきました」

「レシピは正しいわね」


 確信を得た有朱とミューラは、その鍋に火をかけ、ふつふつと泡が出てきたところで昆布を取り出す。このとき、沸騰させてはならない。レシピに書いてあった。


 続けて、やはり、規定量のかつお節を投下。

 沸騰させず、弱火で1~2分ほどで、すぐに引き上げた。


「かつお節は、一瞬ですねぇ」

「一瞬。だけど閃光のように出汁が出るのよ」

「なるほどぉ」


 これで、合わせ出汁は問題ない。残る工程は、味付けして具材を煮るだけ。


 参考にしているレシピ通りにしょうゆ・みりん・塩で味を付け、鶏肉やシイタケを煮てにゅうめんのスープが完成する。


「あとは、そうめんを茹でるだけだけど……」

「ちょっと、セージさんの様子を見てきますね」


 返事も聞かず、エプロンをしたままのミューラがリビングへと移動する。

 彼女はそこで、思いも寄らぬ物を発見することとなった。





 ミューラと有朱がキッチンでの作業を始め、少し経過した頃。


「……今、何時だ」


 誠司は、唐突に目を醒ました。


 リビングの掛け時計を見ると、ほんの15分ほどしか経過していなかった。コタロウは、まだ寝ている。もちろん、12時間15分、あるいは24時間15分経過しているというトリックを使われているわけでもない。


 こんなに短い睡眠時間とは思えないほど、すっきりとした目覚め。


 布団の中で上半身だけ起き上がり、ミューラが置いていったタオルで顔を拭う。かなり汗をかいていたようだ。それだけで、かなり心地よい。


「ふう……」


 体調は、悪くなかった。

 もっとも、横になっている限りにおいては、だが。恐らく、下手に動くと体調不良を自覚させられることになるだろう。


 誠司はおとなしくもう一度寝ようとしたが、妙に目が冴えている。簡単には眠れそうになかった。


 そうなると、ひとつの欲望も鎌首をもたげてくる。


「……読むか」


 自分の部屋ではなく、リビングで休むことは約束した。

 しかし、本を読まないとは言っていない。


 誠司は、枕の下に手を伸ばす。

 布団を運ぶときに適当な一冊を紛れ込ませ、枕の下に隠しておいたのだ。


 もう、病気だ。それも、これに関しては不治の。


 枕の下で手を彷徨わせると――枕を持ち上げればいいという思考は、今の誠司には出てこない――指先に本の感触があった。


 持ってきたときも思ったが、かなり薄い。なにかの短編集だろう。これなら、読むのに時間がかかることもないはず。


 それはなんの免罪符にもなりはしないし、実際には短編集ではなく上下巻の上巻だけだった。


 それも、いかがわしい表紙の。 


「ドグラ・マグラとは、予想外だ……」


 夢野久作の手による推理小説にして、幻想小説。

 小栗虫太郎の黒死館殺人事件、中井英夫の虚無への供物とあわせて、三大奇書と呼ばれる。


 中国の三大奇書――三国志演義、水滸伝、西遊記――の『奇』は優れた作品という意味だが、こちらの『奇』はそのまま奇妙という意味で使われている。


 奇書というのは実際その通りで、はっきり言って、ドグラ・マグラの要約は不可能だ。

 感想を他の人間に話すことも非常に困難だろう。それはネタバレになるからではなく、読まなければこの狂気を共有できないからだ。


 そう。狂気だ。


胎児よ

胎児よ

なぜ躍る

母親の心がわかって

おそろしいのか


 …………ブウウ──────ンンン──────ンンンン………………


 ドグラ・マグラは、この詩から始まる。


 そして、主人公の名前すら定かではない。いや、一応あるのだが、主人公は記憶喪失で、それが正しいものかは読者にも分からないのだ。


 帯には、「本書を読破した者は精神に異常を来たす」とまで書かれているが、その文句に恥じない導入だ。


 誠司は読書に集中し――あるいは、風邪のためそれ以外に気を回す余裕がなく――ページをめくり、微笑む。


『……お兄さま。お兄さま。お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま』


 初めて読んだときは、この一文に度肝を抜かれたものだ。


 そして、二度目となる今は、ひどく心惹かれる。


 キッチンで作業をしている二人の声が聞こえるが、そのかすかな音がドグラ・マグラとシンクロしているかのようだ。


 妖しく、曖昧模糊として、足場が、世界が崩れる音が聞こえてくる。


 記憶喪失の主人公は、法医学の教授若林鏡太郎から母と妻を殺した『呉一郎』であると言われる。しかし、記憶喪失のため、当然ながらその記憶はない。


 そこで、治療を受けつつ記憶を思い出そうとするのだが、記憶喪失であるということは、この治療を過去に何度も受けていたかもしれない。

 何度も、何度も同じことを繰り返しているのかもしれないという疑惑が芽生える。


 記憶喪失という設定ひとつで、確かな物がなにひとつなくなってしまったのだ。


 さらに、人の心の奥底には祖先の心理が眠っており、適切な暗示を与えることで、それを呼び覚ますことができるなどと言い出す。

 この方法で、意図的に犯罪を起こさせることができるとも。


 本気で言っているのか、作品内だけで通じる設定なのかまったく分からないブッ飛んだ学説が真実のように語られ、読者は混乱の縁に立たされる。


 誠司の手は確実にページを手繰っていたが、意識が朦朧とし始めていた。


 チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ


 ここにいる自分は誰なのか。本当に自分は自分なのか。


 よく分からなくなってきた。


 本を持っていた手がぱたりと布団に落ち、誠司の意識も闇に飲まれていく。そんな状態でも、誠司にはひとつ気になることがあった。


 この読む者の精神に異常をきたすというドグラ・マグラ。


 ラストは、どうなったんだったか。


 確か精神病の実験が続き、最後に主人公が手にしたのは……


胎児よ

胎児よ

なぜ躍る

母親の心がわかって

おそろしいのか


 …………ブウウ──────ンンン──────ンンンン………………


 …………

 …………

 …………





「…………さん」


「セ……さん」


「セージさん!」


 遠くから声がした。

 ぱちりとまぶたが開くのを誠司は自覚する。


 それでいて、まだ夢の中にいるような気分だった。

 

「ご飯できましたけど、食べられそうですか?」


 なにしろ、とても綺麗なお姫様がこっちを見つめているのだから。


「セージさん、大丈夫ですか?」

「俺は、寝て……」


 どこまでが現実で、どこからが夢だったのか。


 分からない。分からない。その区別に意味があるのか分からない。


 だが、ミューラに救われたのは 


「ああ、セージさん。なにを読んでるんですか!」

「これは、ドグラ・マグラという……」

「え、えっちな本ですか?」

「違う。いや、一概にそう言い切れないが、違う」


 日本ミステリィ界に黒々と輝くアンチミステリィの大作にして、夢野久作という一人の作家が完成させた人生そのものと言っても過言ではない傑作なのだ。


 嗚呼。だがしかし、誠司の思いはミューラには届かない。


 訳知り顔でうなずいた異世界のお姫様は、すべて許しますと言わんばかりに微笑んだ。


 そして、慈母のごとき瞳で、同時に、有朱に聞こえないよう声を潜めて言う。


「いえ、セージさんも男の人ですもんね。むしろ、安心しました」

「しないでくれ……」

「でも、リビングですし、風邪を引いてるんですから」


 誤解されている。完全に、誤解されている。


「アリスちゃんには秘密にしておきますから……ね?」

「説明を、聞いてくれ……」


 しかし、ミューラは皆まで言うなと、微笑んで反論の言葉を封じる。

 そして、極々自然な動作で誠司からドグラ・マグラを取り上げると、それを持って静かに誠司の部屋へ移動した。


 有朱に気づかれないうちに、隠してくれるつもりらしい。


 ミューラの――斜め上な――優しさが身にしみた。


 誠司は海よりも深く後悔し、反省の弁を口にする。


「……治ったら下巻も読もう」


 今すぐではない辺り、充分に反省が見て取れた。あくまでも誠司比、ではあるが。




 

「大丈夫? 食べられそう?」

「ああ……。ありがとう」


 大丈夫だと微笑みながら、誠司はダイニングテーブルについた。足下には、心配そうなコタロウが付き添っている。それを見て、誠司の笑みはますます濃くなる。


 優しげで儚げで。今にも消えてしまいそうな、尊い笑顔。


「こう、風邪のセージさんは、ガードが下がってやばいですね」

「そう思って攻めていくと、カウンターもらうから気をつけなさいよ」


 いったい、なんの話をしているのか。誠司には、まったく理解できなかった。


 触らぬ神に祟りなし。


 体調が悪いときに、蒸し返すものではない。特に、ドグラ・マグラの表紙を見られた後は。


 誠司が食卓に視線を向けると、湯気を立てる器が目に入った。


 オーソドックスにおかゆでも用意してくれたのかと思いきや、にゅうめん。おかゆがあまり好きではない――食べた気がしないので――誠司にとっては嬉しいチョイスだ。


「それはともかく。セージくん、食べて食べて」

「わたしがショウガをすり下ろしたんですよ!」

「ああ……。いただきます」


 二人に促され、誠司は器を手に取った。


 添えられたおろし生姜を混ぜ、まず、スープを一口。

 喉の違和感が刺激され、誠司は少しだけ顔をしかめる。


 しかし、それは味の評価とは別の話。


 違和感はすぐ気にならなくなり、暖かさと滋味が食道や胃を通して全身に広がっていった。


 まさに、体に染みる味。ショウガの風味もいい。ミューラがすり下ろしたらしいが、風邪に効きそうだ。


「美味い……気がする」

「後半、要らなくないですかぁ?」

「味覚が正常ではないと思われるため、正確な判断は下せない」

「セージくんが美味しいと思ってくれたなら、それでいいのに」


 そういうものかと、誠司は言葉を探す。


「風邪が良くなりそうな味だ」

「…………」

「…………」


 なにが良かったのか。あるいは、いけなかったのか。


 誠司の率直な言葉に有朱とミューラは顔を見合わせ、唐突に両手でハイタッチをする。つられて、コタロウも後ろ足で立ち上がってミューラの足をかく。


「やりましたよ、アリスちゃん」

「やったわね、ミューラ」

「ゥワンッ! ゥワンッ!」

「あああ。コタロウちゃんには、あとでおそうめんをあげますから」


 若者のセンスには、ついていけない。


 自分にまでハイタッチを求められてはかなわないと、誠司は箸を操り麺を口に運んだ。


 柔らかく喉ごしのいい麺が、ほとんど抵抗なくするりと入っていく。いつも食べているそうめんとは、段違いだ。


(これ、かなり高いやつなんじゃないか?)


 鶏肉も、煮てへたったりはしていない。

 配慮して小さく切り分けてあるにも関わらず、弾力があり、噛めば噛むほど味わい深くなっていく。


 シイタケも同じく、肉厚で、噛むとじゅわっとうま味があふれ出てくる。


 自分なら、こんなにいい食材を選ぶことはなかっただろう。

 一方、有朱やミューラのためなら、この程度の出費を惜しむことはなかったに違いない。


(なるほど。一人だとこうはいかないな……)


 積極的に他者を必要とした経験のない誠司だったが、この効能は認めざるを得なかった。


 同時に、有朱への感謝の念が湧いてくる。


 費用を返そうとしても受け取らないだろうから、なにかお礼を考えなければならない。


 一人で。


 ミューラはもちろん、有朱本人にも相談はできない。希望を聞けば、とんでもないことを言われそうだから。


「セージくん、おかわりは?」


 そんなことを考えていると、いつの間にか食べ終えていた。

 それに気づいた有朱が聞いてくるが、誠司は首を横に振った。


「いや、食べたいけど止めておこう。無理は良くないだろうからな」


 そう言いつつも、未練があったのか。残っていたスープをすべて飲み干す。汗もかいたし、塩分補給も兼ねてだ。


 誠司を見つめながら、有朱が嬉しそうに微笑む。


「そうね。デザートも用意してあるし」

「では、わたしが誠司さんの分までいただきます」

「……後は任せた」


 とは言ったが、その後、四回もおかわりをするとは思わなかった。


 平然と平らげたミューラを見ていると、感心やあきれを通り越して元気がわいてくるから不思議だ。たぶん、錯覚だろうが。

 少なくとも、セージがいなくとも有朱がなんとかしてくれるだろうという安心感はある。


「……じゃあ、デザートを持ってくるわね」


 感心やあきれを通り越して脅威すら感じた有朱が運んできたのは、アイスクリームを添えたリンゴのコンポートだった。

 皮付きで処理したため、ほんのりピンク色になったリンゴとバニラアイスの白が美しいハーモニーを奏でている。


「美味しそうなだけじゃなく、綺麗ですねぇ……」


 ミューラの感想に、誠司はうなずいて同意を示した。


「まあ、スイーツに関してはね?」


 なにが、「ね」なのか具体的には不明だったが、言いたいことは分かる。


「いただきます」


 そして、実際に、言うだけのことはあった。


 リンゴは柔らかく、それでいてシャリシャリとした食感が残っている。熱を入れることで甘みが増し、冷えていても充分に甘みが感じられた。

 なにより、アイスクリームの冷たさが心地よい。それは、とりもなおさず体温が高いという意味でもあるのだが、気持ちいいことには変わりない。


「ああ。美味いと言うよりは、気持ちいいな」

「やった! アタシがセージくんを気持ちよくしてる」


 それは聞かなかったことにする。

 デザートに夢中で本当に聞いていなかったミューラを刺激する必要はどこにもない。


「ああっ。にゅうめんの後に食べると、甘さが際だっていいですね!」


 それもそうだと、誠司はまたしてもうなずいた。


「リンゴは風邪に効くって言うしね」


 そこまで考えていたのかと、誠司は素直に感心した。


 読書で精神の、二人の手料理で肉体の栄養を補給した。

 あとは、薬を飲んでしっかりと睡眠を取れば……。


「明日には、俺も料理や散歩に行けそう――」 

「ダメよ」

「ダメです」

「ゥワンッ!」


 二人と一匹に否定され、さすがの誠司も自らの意見を通すことはできなかった。いや、コタロウは偶然だ。自分にもそうめんを寄越せと主張しているだけだ。そのはずだ。


「これは、ほっとけないわね」

「ですです」


 目と目で通じ合う少女たち。

 猛烈に逃げたくなったが、肉体が精神に追いつかない。


 誠司が硬直している間に、結論が出てしまった。


「というわけで、今日はアタシもセージくんと一緒に寝るから。ミューラの部屋でじゃないわよ? セージくんの隣に布団を敷いて、いつでも看病できるようにね」

「なら、わたしはセージさんと同じ布団に!」


 面倒なので視線でミューラに「駄目だ」と伝え、翻意を促す。


「風邪がうつるぞ」

「……セージくん、うつるようなこと、アタシにするつもりなんだ」

「ど、どういうことですかぁ!?」


 目を細め、両手を重ねて恥ずかしそうに体をよじる有朱。そのしおらしい姿は、さすが表現者。

 一方、王女様は演技する余裕などなく、本気で動揺していた。


 なにを言ってもやぶ蛇になりそうで、誠司は一人天を仰ぐ。


「……熱が上がりそうだ」


 やはり、病気は一人に限る。


 そう認識を――またしても――改めた誠司だったが。


 二人の看病が良かったのか、月曜の朝にはすっかり体調が元に戻っていた。それは歓迎すべきことにも関わらず、素直に受け入れることは難しい。


 結局、有給休暇を使用するつもりだった誠司は、とても複雑な心境で出勤することとなった。

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