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本来、出会うことのない存在

GWにギリギリ間に合った……よね?

「セージさん、お母様に会って欲しいんです」

「……随分と、唐突な話だな」


 ゴールデンウィークも終わりに近づいていたある日、リビングで子犬になったコタロウと過ごしていた誠司に、ミューラが真剣……というよりは、深刻な表情で言った。


 いつになくシリアスなトーンに、誠司はコタロウを撫でていた手を止めてしまう。


「クゥンンン」


 無防備に白い腹をさらけ出していたコタロウが、なんだなんだとくるりと体を回転させ立ち上がり、そんな誠司とミューラをつぶらな瞳で眺めている。


 我に返った誠司が、コタロウを再びフローリングに転がした。小さなコタロウは、喜んで為すがままになり、誠司の手を待ち受ける。


 期待を受けた誠司は、まるでそうすることで精神の均衡を保とうとするかのように、コタロウを撫でながら口を開く。


「俺があっちへ行くのか? それとも、向こうがこっちへ?」

「……はへ?」


 少し思い詰めたような、誠司の問い。

 しかし、ミューラには通じなかったようだ。なにを言われたのか分からないと、気が抜けたように幼いが整った容貌が崩れる。


 そして、ようやく理解に至ると、サファイア色の瞳を大きく見開き、白皙の美貌を首元まで真っ赤にして首を横に振った。


「いやいやいやいやいやいや」


 言葉とともに首を振るスピードは上がり、ミューラは力の限り否定する。輝くような銀髪が、盛大に揺れた。コタロウがその髪にじゃれつこうとするが、残念ながら転がったまま手を動かしても届くことはない。


「例の、ほら、あれです。テレビ電話の呪文で、お母様に会っていただきたいと言いますか。お母様がセージさんやアリスちゃんに会いたがっていると言いますか」

「……そういうことか」


 ミューラの説明を聞き、誠司は得心がいったと小さくうなずく。もちろん、その間もコタロウのお腹を撫でる手は止めていない。もちろん、無意識だ。


「それに、お母様やお父様と実際に会ってご挨拶をするとなるとですね、それなりの準備が必要ではないですか? 具体的には、既成事実とか」


 それは、単に戦略的勝利を確定させてから戦争を始めようとしているだけではないだろうか。

 誠司はそう思ったのだが、具体的なコメントは避けた。なにも、わざわざ藪をつついて蛇を出す必要もない。


 いつの間にか、母親だけでなく父親――つまり、一国の王――と会わせようとしていることだし。


「それはともかく、実は時々お母様とお話しして詰めていましたので、できれば会ってご挨拶だけでもと思うのですが。精々、5分ぐらいしかつなげられないですけど」

「まあ、そうだな」


 年頃の、しかも王女様を預かっているのだ。きちんと挨拶をするべきだろう。いや、義務だ。


 しかし、問題がひとつ。


「有朱の予定が合うかどうかだな」


 女子中学生にして、モデル兼声優として活躍している有朱。普段は学業のある彼女にとって、ゴールデンウィークは繁忙期にあたっていた。


「ゴールデンウィークは、セージくんとデートの予定だったのに!」


 と、有朱は一人愕然としていた。


 誠司はあえてコメントしなかったが、まだ小さなコタロウを置いていくわけにはいかないので、有朱の希望が叶えられる可能性はない。

 そもそも、摩耗した大人(社会人)である誠司にとって人の多いゴールデンウィークに出かけるという選択肢自体存在しない。そんなことをするなら、家で本を読むのが誠司のスタイルだ。


「では、電話して確認してみましょう」

「かけるのは、俺だけどな」


 ミューラに促され、誠司はコタロウを撫でる手を止めた。

 その異変に、小さなコタロウは体をむくりと起き上がらせて訝しげに誠司を見つめる。そこには、快い愛撫を止められた不満。そして、もしかしてこれっておやつをもらえるんじゃないの? という期待が含まれていた。


 しかし、当然と言うべきか、誠司の手はコタロウでもおやつのジャーキーでもなく、ダイニングテーブルに放置されていたスマートフォンに伸びる。

 期待を裏切られたコタロウは、そんな板なんかどうでもいいだろうと言わんばかりに、誠司の膝へと前肢を伸ばした。

 まるで猫の爪研ぎのようにがりがりするが、残念ながら誠司にその思いは届かない。


「ミューラ」

「はいはい。コタロウちゃん、こっちですよー」


 小さな愛犬をミューラに任せ、誠司はスマートフォンで電話……ではなく、メールを作成して有朱へ送った。

 いつなら電話して大丈夫かという、短い上に事務的この上ないメール。


 返事は、即座にかかってきた電話として返ってきた。


「ゥワン! ゥワン! ゥワン!」


 デフォルトから変更していない着信音に反応するコタロウに眉をひそめつつ、誠司は少し離れて有朱からの電話に出る。


「有朱、すまな――」

「セージくん、付き合ってください」

「なるほど。どんな話をしても大丈夫そうだな」


 一回り近くも年下の少女が真っ向から告白しても、誠司の鉄面皮は崩れない。口調にも一切乱れはなかった。

 これには、受け入れられるとは思っていなかった有朱も落胆する。


「えー。つまんない……」

「それよりも、ミューラからのお願いだ。例のテレビ電話の呪文で向こうとつなぐから、ミューラの母親と挨拶をして欲しいそうだ」

「ん~? 挨拶だけ?」

「そうみたいだな。まあ、話せる手段があるのに挨拶もしていないのは、お互い問題があるからな」

「それ、アタシいる必要ある?」

「向こうが有朱にも会いたいみたいだし……友達代表だろ」

「じゃあ、そういうことなら」


 代表はともかく、友達と言われて悪い気はしなかったのだろう。電話越しでも機嫌がいいことが伝わってくる。


「有朱は、何時がいい? 基本的に、そっちに合わせるが……」

「明日!」


 有朱の即答に、誠司は表情は変えなかったが、驚く。正直なところ、指定されるにしても、もう少し先だと思っていた。

 明日は、ゴールデンウィークの最終日。日曜日だが、スケジュールが空いていたらしい。あるいは、この日は休んで欲しいという事務所の配慮なのか。


「ママから、セージくんに冷凍の鰹のたたきを持っていってねって言われてたし。一緒にご飯食べよ」

「…………」


 ミューラが来て以来、有朱もたびたび遊びに来るようになったので、向こうも気を遣っているのだろう。知らない仲ではないのだが、だからこそないがしろにできない部分もある。


 それに、仕事ばかりだったゴールデンウィークのようだ。

 せめて友達とご飯を食べたいという希望ぐらい叶えてあげたい。


「分かった。ちょっと待ってくれ。ミューラ!」


 誠司はスマートフォンを耳から離し、ミューラに呼びかけた。


「はいはい。セージさんのミューラですよ!」

「ゥワン! ゥワン!」

「有朱は、明日がいいって言ってるんだがどうだ?」

「まるっきりスルー。いつも通り過ぎます」

「で、どうなんだ?」

「オッケーですよ。明日のお昼頃ではどうでしょう?」


 ミューラが明るい笑顔で快諾する。

 ありがたい話ではあるが、準備万端整っていたということなのか。


 そこはかとなく悪い予感を感じつつ、誠司は有朱へ予定を伝える。


「というわけだ、有朱。明日の昼頃で問題ないか?」

「朝からでもいいわよ」

「別にいいが、早く来てもやることなんかないぞ」

「セージくんがいれば、他になんにもいらないもん」

「いるのは俺だけじゃないが」


 とにかく、予定は決まった。

 誠司のゴールデンウィークは、最終日にして多少忙しいことになりそうだった。





「異世界の王女様の次は、王妃様か……。いや、側室みたいだし、王妃ではないのか?」


 その日の夜。

 ミューラの母親との会談を翌日に控えた誠司は、自室に引っ込んでいた。


 しかし、ベッドには入っていない。


 なんとなく落ち着かず、部屋に所狭しと詰まれた本の山を物色していた。


 目当ては、珍しくミステリィではなくファンタジー。


 数は少ないが、多少はたしなんでいるジャンルだ。 


「エルリックは……なにか違うな」


 玉座に座る白子の皇子が描かれた『メルニボネの皇子』というタイトルの文庫本を手にしながら、誠司は一人つぶやいた。


 この『メルニボネの皇子』はエルリック・サーガの第一巻だが、もちろん、『なにか違う』のはエルリックが悪いわけではない。

 悪いわけではないが、悲劇性の強いストーリーはミューラの母親と会うに当たって読む本ではないだろう。


 エルリック・サーガ。

 日本のファンタジー観に強い影響を与えた、マイケル・ムアコックによるエターナル・チャンピオンシリーズの一編。

 実際、『指輪物語』が映画化してヒットする以前は、エルリック・サーガばかり評価されているので指輪にも目を向けるべきという言説もあったほどだ。


 大国メルニボネの皇子エルリックは、その卓越した魔術の才とは裏腹に、『白子』と呼ばれる虚弱な体質で、ストームブリンガーがないと日常生活も覚束無い。

 しかし、ストームブリンガーは、一度抜いたなら必ず血を吸わずにはいられない魂を持つ魔剣で、エルリックを助けると同時に、大切な人を奪ってしまう。


 後にインテリジェンス・ソードなどとも呼ばれる存在に昇華し、ファンタジーの歴史にしっかりとした足跡を残している。


 エルリック・サーガは悲劇性が強く、キャラクターもかなりの頻度で死んでしまう。

 ただそれが本質ではなく、法と混沌の対立や英雄の介添人という魅力的な設定。それに、複数のシリーズのキャラクターが一堂に会する場面など、読んでいて声が出るほど面白い。


 また、初読時は気付かなかったが、ストームブリンガーがエルリックを好きすぎるところも面白い。かなり穿った見方ではあるのだが。


「今度は、ファファード&グレイマウザーか」


 古い本ばかり発掘されるなと、誠司はわずかに口の端を上げる。傍目には無表情だが、彼としては苦笑しているレベルだ。


 『ファファード&グレイマウザー』はフリッツ・ライバーによる連作短編で、巨躯の蛮族ファファードと小柄な盗賊グレイマウザーを主人公とし、いわゆるバディ物と言っていいだろう。


 キャラクターも、一筋縄ではいかないストーリーもいい。悲劇的な要素も含まれるのだが、決してそちらだけに傾いたりもしない。


 今読むとクラシカルだが、それを越える魅力がある。


 まさに、剣と魔法の物語だ。


 今日は、これにするか……と思いつつ、かなり引っかき回したので片付けてからではないと明日が危ない。

 ベッドに文庫本を置いた誠司は、後片付け……というよりは再構築のため本の山へと戻る。


 しかし、世の片付けがそうであるように、誠司もまた整理の闇に引きずり込まれてしまった。


「ザンスか……。何巻まで読んだかな」


 懐かしそうに表紙や裏表紙――ネタバレ満載な――を眺める誠司の手は、早速止まっていた。


 ピアズ・アンソニイの『魔法の王国ザンス』。


 一人ひとつ魔法を持つ国、ザンス。

 25歳になっても魔法を使えなかったビンクは、ザンスから追放されてしまい……その後、彼の魔法を知る。その魔法は、昨今のファンタジーにも引けを取らない発想だ。


 そこから物語は数十巻に渡って続き、主人公もどんどん代替わりしていく。あるいは、主人公は、ザンスという舞台そのものと言えるかもしれない。


「ドラゴンランスも、続きが出ていたんだっけ?」


 次に手にしたのも文庫本で、六冊でひとつのシリーズを構築するはずが半分しか揃っていなかった。

 知らなければどうということもなかったが、見てしまったからには放置はできない。


「こっちは……戦記じゃない。伝説か。ああ、こっちもちゃんと揃っていない……」


 ドラゴンランスシリーズは、マーガレット・ワイスとトレイシー・ヒックマンによる長編ファンタジー小説だ。

 本格的なヒロイックファンタジーなのだが、テーブルトークRPGのシナリオをベースにしているところが異色だろうか。


 かなり古いシリーズで、誠司が中学の頃に学校の図書館で出会い、いろいろなところを回って集めた思い出深い本だった。


 タニス、スターム、ゴールドムーン、フリント、タッスルホッフ、キャラモン。そして、レイストリン。登場人物の名前を並べるだけで、あのワクワクした日々を思い出せる。


 ハードカバーで新訳も出たのだが、判型と置き場所で見送っているうちに絶版になってしまったのは痛恨事だ。


「……寝るか」


 気付けば、とっくに日付が変わっていた。

 明日は、昼前に有朱が来て、昼食を摂ってからミューラの母親との会談に臨む予定となっている。寝坊はできない……というほどではないが、だからといって寝不足で挨拶をするわけにもいかない。


 結局、本を散らかしただけで終わってしまった。

 探して懐かしむだけでも充分だったが、消化不良な気分は否めない。


 未練がましく、ファファード&グレイマウザーを枕元に置き、誠司は無理矢理目をつぶった。





・目には青葉 山ほととぎす 初鰹(山口素堂)

・まな板に 小判一枚 初鰹(宝井其角)

・鎌倉を 生きて出でけむ 初鰹(松尾芭蕉)


 初物を食べれば75日寿命が延びるということわざのあった江戸時代。

 季節の風物詩であった初鰹は、食べればただの初物の10倍、750日寿命が延びると言われ江戸で珍重された。


 昔は無駄な風習だなと思っていた誠司だったが、経済を回すためには消費イベントは重要だよなと、肯定的だ。

 それに、娯楽が少ないだろう庶民には、こういうある種のお祭りも必要だったのではないか。


 金髪と銀髪の美少女に囲まれたランチという、他者から見れば羨まれること間違いなしのイベントに遭遇した誠司は、そんなことを考える。


「セージさん、今日はお刺身が二種類ですか?」

「アタシが持ってきたのは、こっちのたたきになってるヤツね」

「たたき……。ああ、皮に焦げ目が付いているほうですね」


 二人の美少女が注目するダイニングテーブルの上には、解凍を終えてスライスした鰹のたたきと初鰹の刺身が並んでいた。


 鰹の旬は、ふたつある。

 この新緑の時期に黒潮に乗って北上してくる初鰹と、秋に南下してきたところを漁獲した戻り鰹だ。


 冷凍のたたきは、恐らく脂がのった戻り鰹。

 ならばと、誠司は生の鰹も買って、両者の食べ比べをしようと考えたのだ。


 たたきは、シンプルにすり下ろしのニンニクで食べる。醤油とマヨネーズも悪くはないが、脂がのっているのでくどくなりそうだと見送った。


 一方、初鰹の刺身には薬味をこれでもかと乗せている。

 苦みの少ない新玉ねぎ。小口切りにしたネギ。カイワレダイコン。ミョウガ。大葉。

 赤い身と薬味の緑が、実に眩い。桜の季節が終わった後の、生き生きとした春を体現しているかのようだ。


 これを、おろし生姜とポン酢でさっぱりといただく。


「それから、副菜で鶏の手羽元と大根の煮物も」

「セージさん、分かってますね」

「なんなの、その上から目線?」

「ゥワンッ! ゥワンッ! ゥワンッ!」

「コタロウも、あとで茹でた鰹をやるから、少し待ってな」


 足下を走り回るコタロウに言い聞かせ、誠司たちたちはダイニングテーブルに陣取った。

 ミューラは、当然のように誠司の隣。有朱は、誠司の対面に座る。


「ミューラ。セージくんの顔を見られるから、こっちのほうがお得じゃない?」

「わたしは、普段からセージさんの顔を見ているので、この場はアリスちゃんにお譲りします」

「くっ、なんか王族っぽいムーブして……」

「…………」


 誠司は沈黙を守り、ランチが始まる。


「いただきます!」


 一番手は、いつものようにミューラだ。

 少し迷ってから、有朱が持ってきた戻り鰹のたたきに箸を伸ばす。


 1cmほどとやや厚めに切られた刺身を、下ろしニンニクが溶かされたポン酢――誠司の自家製――につけて一口。


 まず感じたのは、濃厚な脂。それでいてしつこさはなく、舌の上で蕩けていく。これが本当に魚なのかと疑ってしまうほどの強烈な味わい。ニンニクの風味もよく合っていた。


 美味い。


 それ以上は、なにも言えない。


 ミューラが。あのミューラが、ご飯を食べることも忘れてうっとりと飲み込んだ。


「セージさん、アリスちゃん。これ、すごいですよ。地球風に言うと、マジヤバイです」


 大げさなと思いつつ、微笑ましい気分で誠司と有朱は同じく戻り鰹のたたきに箸を伸ばす。

 だが、二人とも侮っていた。


「うわっ、これ美味しい」

「確かに。これは衝撃的だな」


 有朱も歓声を上げ、誠司ですら素直に感心する美味さだ。

 この鰹のたたきだけで、他になにも要らない。永遠に、これだけ食べ続けられるのではないか。そう錯覚してしまうほど。


 誠司は、有朱の家にお礼を贈らなければならないと即座に決心する。


「トロより美味しいかも」

「ああ。こうなると、初鰹のほうは余計だったかもな」

「そんなことはありませんよ。出された以上、美味しくいただく。これがわたしのポリシーです」


 銀髪の王女は整った……というよりは尊い美貌に慈悲深い笑顔を浮かべ、たっぷりの薬味と一緒に皿に取る。

 単に、美味しい物は最後に残すタイプのミューラが、珍しく自重した結果だ。誠司も有朱も分かっていたが、指摘しないだけの慈悲があった。


「では、750日も寿命が延びるという呪術の味を堪能させてもらいましょう」


 冗談なのか、それとも誤解しているのか。

 それを確かめる暇もなく、ミューラは上品に口へと運んだ。


 たたきとは異なり薄めにスライスされた初鰹。

 確かに、脂や満足感という意味では戻り鰹に劣るが……それは、初鰹の本質ではない。


 脂はのっていないが、味わいはとてもさわやかだ。


 薬味は生臭さを消すためだけではない。様々な薬味が重なって絡まり合って、風味を生みとてもさわやかな料理に押し上げる。

 これは、戻り鰹にはできない芸当だろう。


 舌よりも心で味わう。これが、初鰹の本質だ。


「ああ、セージさん、これ、これにはお酒。人類にはお酒が必要ですよ」

「ない」

「ええええ。ひどい……。全人類的な損失ですよ? セージさん。白ワインが飲みたいです……」

「白ワインよりは日本酒のほうが合いそうな気もするな」

「それって、お米から作るエルフワインのことですよね? あああ。無情、無情です。これほど残酷なことがあるでしょうか」


 主語を極限まで大きくし、反語表現まで用いて嘆くミューラ。

 しかし、この場では誰の共感も得られなかった。


「えー。普通にそのまま食べても、めちゃくちゃ美味しくない? ニンニクたっぷりなのが、ちょっと気になるけど」

「美味さの前には、些細なことだ」

「そうですよ。それに、セージさんは匂いなんて気にしません」


 誠司はそれに答えず、コタロウにおやつをあげるために席を立った。

 それを今か今かと待っていたコタロウは、焦りすぎて逆にスピードが出ず。それでも必死に誠司の後を追う。


 予め茹でておいた、初鰹。

 それを軽くほぐしてから餌皿に入れ、コタロウに提供する。


「よし」


 許可を与えた瞬間、鼻先から突っ込むようにして小さいコタロウが鰹を貪り始めた。最初に戻ってきたときよりは、かなり成長している。

 寿命が延びるのは迷信だとしても、そうなって欲しいという気持ちは本物だ。


 しばし、誠司は一心不乱に鰹を飽きることなく食べ続けるコタロウを見守る。


「それにしても、冷凍はすごいですね。本来同時に存在しないはずの春と秋の鰹さんが、一緒に食べられちゃうんですから」

「それだけ喜んでもらえると、アタシも持ってきた甲斐があるわね」


 ミューラと有朱が、そんな話をしながら誠司の顔をじっと見つめているとも知らず。


「美味しかったか」


 すべて食べ終え皿まで舐めるコタロウの頭を軽く撫でると、誠司はダイニングテーブルに戻る。

 そこでは、ミューラがなおも旺盛な食欲を発揮していた。


「あっ、この手羽元と大根の煮物、ちょっと酸っぱくて食欲が湧きますね」

「ミューラが食欲が湧かないときとかあるの?」

「ありますよ。これから、お母様とお話しするときとか」

「……その割には、随分と箸が進んだみたいだが」


 気付けば、戻り鰹のたたきも初鰹の刺身もかなりなくなっていた。全滅一歩手前と言ってもいいほどに。


「こう、自らを奮い立たせているのです」

「結局、食べるわけね」

「残されるよりはいいけどな……」


 食事のあとは、今日のメインイベント。いや、もしかすると、ゴールデンウィークの。あるいは、今月最大のイベントになるかもしれない。

 誠司としては、今年最大にならないことを祈るのみだった。





「目一杯引き延ばしても、たった5分ですからね。皆さん、油断せずに行きましょう」

「そう言うミューラが、がっちがちなんだけど。アタシが初めて収録現場に行った時みたい」

「有朱は強いな」


 親友――そう表現していいだろう――が緊張する様を、自らの経験と重ねてからかう有朱。そこにプロフェッショナルを感じ、誠司は素直に感心してしまった。


「それ、なんの慰めにもならないんですけどぉ?」

「場数を踏めば大丈夫よ。アタシが言うんだから、間違いないわ」

「もっと、慰めになっていませんよ!」


 鰹尽くしの昼食を終え、後片付けも終わった後。


 つまり、これ以上の引き延ばしができなくなった頃、リビングに姿見が用意された。

 誠司の母親が使っていた物で、しばらく埃をかぶっていた鏡。


 それがまさか、異世界との通信に使われるとは。


 リビングのソファに腰掛け、鏡を真っ正面から見ながら誠司はそんな感慨にふける。


「というか、セージくん。コタロウを抱きながら座ってると、マフィアの幹部みたい」

「それは猫だろ」

「イメージ的に」


 イメージなら仕方がない。


 おやつを食べて眠たいのか、誠司に抱かれているコタロウは大きく口を開いてあくびをした。

 普段なら、有朱にだけは若干攻撃的なコタロウも、満足しているためかスルーしている。これも、金持ち喧嘩せずのひとつの形かもしれない。


「はいはい。まったりしてますけど、そろそろつなげますよ」


 ソファに座ってリラックスしている誠司とミューラとは異なり、ミューラはその辺を歩き回って落ち着きがない。コタロウが万全だったら、その後をぴょこぴょこついて回っているところだ。


「こっちは問題ない」

「アタシもよ」


 誠司は、セミフォーマルとは言えないが、グレーのチェックのジャケットにパンツというエレガントカジュアル程度は名乗れそうな格好。

 有朱も、デニムジャケットにボーダーのシャツ。それにフレアスカートと春らしい服装をしている。モデルもやっている彼女が着ると、実に決まって見えた。


「では、いきます」


 ミューラが右手を振り上げ、舞うように動かしていくと、指輪に光が灯る。魔法を使うところに立ち会うのは初めてではないが、ファンタジックな光景に有朱がきらきらと目を輝かす。


「《ミラー・トゥ・ミラー》」


 魔法が完成し、大きな姿見に靄がかかる。


 それが晴れると、鏡の向こうに鎧が大写しになった。


「え? 鎧なんで?」


 狼狽し、有朱が思わずと行った調子でつぶやく。

 誠司も、態度にこそ出さなかったが、似たようなものだった。違いは精々、異世界には、こんな風習があるのか……と感心しかけたことだけ。


「初めまして、私はナターリア。あなた方のお世話になっているミューラの母です」


 フルフェイスの兜から聞こえる声は、くぐもってはいるが、意外なほど若かった。

 突然のことに圧倒され、誠司も有朱も二の句が継げない。


 いつも通りなのは、声がする鏡を興味深そうに見ているコタロウ。


 それから、頭痛をこらえるように綺麗な額を押さえているミューラだけだった。


「……お母様、なんで鎧なんです?」

「インパクトがあったほうが、私のことを憶えてもらえると思って」

「いえ、そういうのいいんで。ほんと、勘弁してもらえますか?」


 苦虫をかみつぶしても、ここまではならないのではないか。

 それほどまでに苦々しい表情でミューラが言うと、鏡の向こうの鎧の女性が、「うふふ」と笑うと兜を取った。


 兜を侍女に手渡し、髪を広げるように頭を一振りすると、ミューラの母――ナターリアが鏡の向こうからこちらを見つめる。


 煌びやかな銀髪。

 サファイア色の瞳。

 生命の躍動感に溢れた美貌。


 そこには、もう一人ミューラがいた。


 思わずそう思ってしまうほど、ナターリアとミューラはそっくりだった。


 しかし、まったくのうり二つというわけではない。


 銀髪は肩先当たりでばっさりと切られ、所作も若々しさに加えて落ち着きと余裕が感じられた。

 ミューラに、一段階磨きをかけるとこうなる。


 ミューラの母ナターリアは、そんな女性だった。


「ミューラがレベルアップしたら、お母さんになるんだぁ」

「なぜレベルアップなんです? 成長したらでいいじゃないですか」

「ただ漫然と過ごしても、綺麗にはならないからよ」

「ううう……。だから、お母様と会わせたくなかったんですよぅ」


 比べられたりと、複雑な心境があるのだろう。立ったままのミューラが、その場で身もだえする。


 そんな娘の気持ちも知らず、ナターリアは有朱にサファイア色の瞳を注ぐと、声をかけた。


「あなたが、ミューラが言っていた一番のお友達の娘ね?」

「はい。一番かどうかは分からないですけど、有朱。浦賀有朱です」

「そう。アリスちゃんね。うちの娘と仲良くしてくれてありがとう。この娘、ちゃんとした友達なんか初めてだから距離感がおかしかったりするかもしれないけど、愛想を尽かさないでくれると嬉しいわ」

「おかあさまぁーーーー」


 ミューラの絶叫。

 それに、誠司に抱かれていたコタロウが、びっくりして周囲を見回す。


 しかし、ミューラはそれを気にしている場合ではない。


「なんで、そうやって余計なことを仰るんですくわぁ!」

「落ち着きなさい。語尾が変になってるわよ」

「ええと、はい。ミューラとは、仲良くやってます。心配要らないです」


 有朱が、いつもよりもやや堅い口調で。しかし、はっきりと言い切った。

 それを聞き、ナターリアは安心したように優しくうなずいた。


 そこから漂う母性は、確かにミューラの母親であると感じさせる。


「それから、セージさんでしたね」

「三浦誠司です。ミューラ……お嬢さんにはお世話になっています」


 普段世話をしているのは誠司だが、社交辞令でもなんでもない。

 ミューラには、コタロウの命を救ってくれた恩がある。

 それを思えば、なにをしても返しきれない。


「そんな。それは、こちらの台詞ですわ。うちのバカ娘が生きていられたのは、あなたとの得がたい出会いがあったからこそ」


 しかし、それで終われないのが母親というもの。

 ナターリアは、ミューラと同じサファイア色の瞳を誠司に向け、語りかける。


「それで、ぶっちゃけ、うちの娘どう思っているんです?」

「おかあさまぁーーーー」


 再びの絶叫。

 この《ミラー・トゥ・ミラー》という魔法には言語を翻訳する機能もあるようだが、どうやら、それの誤作動というわけでもないようだ。


「親が娘の恋愛に口を出すべきじゃないとは思っているんですよ? でも、娘から話を聞いていると、こう煮え切らない気持ちになってしまってね?」

「即座にお付き合いや婚姻に至る気持ちではありませんが、大事には思っています」


 誠司は、ナターリアの目を見てはっきりと言い切った。


「セージさん……」

「セージくん……」


 こうも直球な答えが飛び出すとは、完全に予想外だったのだろう。

 ミューラと有朱がサファイアとヘイゼルの瞳を丸くして誠司を見つめる。


「だから、安心してください」

「嫌だわ。分かってしまったのかしら?」

「さあ? 推測はできますが」


 そう、推測はできる。

 ミューラはやはり、向こうでは微妙な立場なようだと。


 転移呪文の実験のあとは、政略結婚の予定だったというミューラ。


 しかし、異世界へ行き来ができるとなれば、それも話が変わってくる。国外に出せば様々な情報や技術が流出し、かといって、国内に留め置くにしても誰に嫁がせるべきかという問題が残る。


 親としては遠く離れた場所で幸せになってくれたほうがいい。


 こんな状況だとしたら、ナターリアがそう思うのも止むを得ないのではないか。


 ほとんど邪推に近いが、ナターリアの態度と話の持って行き方から誠司はそう感じた。


「はい! もう時間! もう終わりです!」


 推測――あるいは邪推――を確かめる時間はなかったが。


「それでは、またお目にかかるのを楽しみにしていますよ。今度はじっくりと」


 その言葉を最後に、異界との扉になっていた鏡が、元の機能を取り戻した。

 鏡面には、やや呆然としている有朱。なにか考え込むような誠司。突然声がしなくなってきょろきょろするコタロウ。


 そして、妹に嫌われた姉のようにうずくまるミューラの姿が映っていた。


「うう……。お母様が変にはしゃいで……恥ずかしい」

「そうよね。うちのママも天然で……」

「分かってくれますか、アリスちゃん!?」

「分かるわよ、ミューラ!」

「ゥワンッッ! ゥワンッッ!」


 手を取り合って慰め合う仲睦まじい様子を横目で見ながら、誠司は先ほどの会談を回想する。


「会いたがってたよな、明らかに」


 もちろん、直接的な招待を受けたわけではない。だが、「それでは、またお目にかかるのを楽しみにしていますよ。今度はじっくりと」という台詞は、明らかに誘いだった。


 なにしろ、今回のように5分程度の会見では、じっくりととはいかないのだ。


 こちらから行くのか。向こうから来るのか。


 まだ。どちらかは分からない。けれど、それが避けられない流れに乗ってしまった。


 誠司には、そんな気がしてならなかった。

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