ミューラ・シルヴァラッドの帰還(後)
お待たせしました、後編です。
今回、『ボヘミアの醜聞』のネタバレがあります。未読の方はご注意ください。
シャーロック・ホームズ。
言わずとしれた、世界で最も有名な名探偵。その推理譚は、世界で聖書の次に読まれているとも言われている。
実際に読んだことがなくとも、少なくとも名前ぐらい誰もが知っているはずだ。インバネスコートに鹿撃ち帽という特徴的なファッションとともに。
知名度で言えば始祖ポーが生み出した世界初の名探偵オーギュスト・デュパンを遙かに超える、名探偵の代名詞ともいえる存在。
それが、シャーロック・ホームズだ。
「セージさん、それなんですか?」
「おはよう、ミューラ」
「おはよーございます」
ちょうど起きてきていたらしい。ミューラが、誠司の手元を覗き込んでいた。その存在に気付くと同時に、甘い香りが誠司の鼻孔をくすぐる。
ミューラがすぐに離れてくれたのは、誠司にとって僥倖だった。だが、ミューラが目覚めの挨拶とともに大きく伸びをすると、ただでさえも自己主張の激しい双球が、より一層強調される。一難去ってまた一難とは、このことだろう。
誠司はそちらを見ないように意識しつつ、かまってかまってと足にしがみついてくるコタロウをいなしながら応える。
「たぶん、父親が録画してたドラマのブルーレイだな」
「お父様の……」
故人ということで、ほとんど話題に上らない誠司の両親。
食いついて良いものか、ミューラがためらいを見せた。
そんなミューラに気付いてか、誠司は肩をすくめて言う。
「お父様なんて、人間ではなかったけどな」
誠司にわだかまりはないが、それでも父親への評価は辛い。
育ててもらった恩はあるが、生涯飲む打つを止められなかった人でもあった。
好き嫌いは別にして、反面教師としては優秀だったというのが、偽らざる気持ちだ。
「ただ、好きな俳優……というか、好きだった刑事ドラマに出ていた俳優が吹き替えで出ていて見てたらしい。ディスクに書き出すほど好きだったとは知らなかったけどな」
「吹き替え……アリスちゃんがやってる声優さんですか?」
「そういうことだ。興味あるか?」
「見たいです!」
19世紀ヴィクトリア朝のロンドンを舞台にしたミステリィ。
ミューラに理解できるか不安もあったが、誠司は前向きに考えることにした。
すべては理解できなくとも、楽しめるポイントはあるはずだ。
無理なら途中で止めてもいいのだから、変に気を回す必要はない。
「なら、見てみるか」
「そうしましょう、そうしましょう」
ドラマに興味があるというよりは、誠司と一緒になにかできるのが嬉しいとミューラは微笑んだ。窓から降り注ぐ陽光が、より一層ミューラを輝かす。
「そうだな。昼飯でも食いながらにするか」
「お昼ご飯はなんですか?」
「肉かな」
「お肉! お昼から!」
「だけど、その前に朝食だ。顔を洗ってこい」
「了解しました!」
ミューラが洗面所へと駆けていくと、その後をコタロウがちょこまかとついていった。
騒がしい。
けれど、悪くはない日常の風景だった。
「お肉! 塊!」
キッチンに、異世界の王女が発したIQの低い叫びが響く。
朝食の後片付けを終え、一通り家事をこなした誠司は、休む間もなく昼食の準備に取りかかろうとしていた。実際にその立場になってみると、母親の忙しさがよく分かる。
しかし、今回ばかりは仕方がない。
ローストビーフは時間がかかるものなのだから。
「ほらほら、コタロウちゃん。大きいですよ。きっと、美味しいですよ!」
「コタロウにはやれないから、あんまり煽らないように」
いつものように――そう、いつもだ――コタロウを胸に抱き、対面式キッチンの向こうから覗き込んでいるミューラ。
彼女の視線は、肉の塊に釘付けだった。
その牛もも肉の塊は常温に戻し、ニンニクが擦り込まれている。そこへ、誠司は塩こしょうを振った。ステーキと同じで、焼く寸前に塩こしょうをしないと旨味が流れてしまう。
なので、既にフライパンは熱せられオリーブオイルが敷かれていた。
「油に気をつけてな」
「はい!」
「ゥワンッ!」
ミューラとコタロウの元気のいい返答を聞きながら、誠司は牛もも肉の塊をフライパンに投下した。
途端にジュッと肉が焼ける音がし、軽く油が舞う。
誠司は動じず、トングなどないので菜箸を操って重たい肉の塊を支えながら、一面ずつ中火で焼き色を付けていく。
焼き時間は、だいたい2~3分ずつといったところだろうか。
端以外の縦横四面を焼き終えると、弱火にして蓋をし、さらに5分前後を目安に火を入れていく。
「お肉を焼く匂いって、どうしてこんなに香しいんでしょうね?」
「匂うか? 換気扇は動かしているはずだが」
「違いますよ、誠司さん。心が香しく感じるんです」
「答え出てるじゃないか」
時折、肉の塊をひっくり返しながら、空き時間を使ってソースのためにタマネギをみじん切りにしていく。
そうこうすると肉も焼き上がったので――
「もう、食べられますね!」
「いや、寝かせるんだ」
「しょぼーんです」
――寂しそうなミューラとコタロウを余所に、二重にしたアルミホイルを用意し、それで一回りほど小さくなったもも肉の塊を包んだ。
このまま30分ほど寝かせると、肉がしっとりとし、昼食にちょうどいい時間になる。
「一度食卓に座ったなら、わたしは常にベストコンディションですよ?」
「どうせなら、美味しく食べたいだろう?」
「焦らし上手ですね、セージさん!」
汚名を着せられた気がしたが、誠司は気にせず作業を進める。
肉を焼いたフライパンは洗わず、ソースのためにみじん切りにしたタマネギを投入して飴色になるまで炒める。
根気の要る作業だが、誠司の得意とするところだ。
それに、今は退屈な時間を取り払ってくれる相手もいる。
「ところで、セージさん的に、そのシャーロック・ホームズってどうなんですか?」
「どう、か……」
実にざっくりとした質問だが、回答が困難を極めた理由はそれだけでもない。
幼少期の読書体験もあり、誠司はホームズよりもアルセーヌ・ルパン派だった。これはどちらが優れているという問題ではなく、最初にどちらに触れたかという順番が作用した話でしかない。
ただ、そこに判官びいきというか、より人気のあるホームズよりもルパンが好きな自分に誇らしさを抱いていたという心理も否定はできない。
有名でみんなが読んでるホームズじゃなく、ルパンものを読んでる俺カッコイイといったところか。ある種、はしかのようなものだ。
要するに、誠司にとってのシャーロック・ホームズは、食わず嫌いの対象だった。
それが変わったきっかけが、この海外ドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』。
なんの気なしに見たドラマだったが、第一話だった『ボヘミアの醜聞』からはまってしまった。
まるでヴィクトリア朝のロンドンに迷い込んでしまったかのような美しい背景。
鹿撃帽にインバネスコートといったホームズのパブリックイメージを廃したスタッフの美学。
なにより、筋書きそのものの面白さ。
食わず嫌いから一変。
「なんだ、ホームズ面白いじゃん」
と、なったのだ。実に単純だが、面白さ以上に雄弁な物はない。
そしてもうひとつが、意外なことに『ドラキュラ紀元』だ。シャーロック・ホームズの兄マイクロフト・ホームズは主人公ボウルガードの上司として出てくるが、シャーロックの出番はない。
ドラキュラには勝てず、収容所に入れられてしまったのだ。
冷静に考えれば、当然の結果である。なにしろ、『ドラキュラ紀元』はヘルシング教授が敗北した世界なのだから。
しかし、誠司にはショックだった。あのシャーロック・ホームズがドラキュラに、いや、ルパン以外の誰かに負ける。考えもしないことだった。
そして気付いたのだ。
「俺は、ホームズが好きだったんだな……」
と。
失われて初めて気付いた感情。それを誠司は初めて知った。
だから、ミューラの問いに一言で応えるのは難しい。
強いて言えば……。
「複雑な関係だな」
と、言う他なかった。
「えー? さっぱり、分かりません!」
「好きだけど、単純に好きとは言えないところがある」
ミューラに答えながら、誠司は醤油、お酢、コチジャンなどの調味料を加えてソースを完成させた。これは別の皿に取って、食べる前に温める予定だ。
「なるほど。つまり、わたしとセージさんの関係と同じということですね」
「図々しいな」
「図々しい!?」
ミューラを一言で切り捨てると、誠司はスープも作り始める。
といっても、あまり手間をかけるつもりはない。コンソメキューブをベースに、具は一口大に切ったネギだけのシンプルなスープだ。
ネギを切れば、あとは煮るだけで終わり。
「じゃあ、じゃあですよ。セージさん」
「タフだな、ミューラ」
なおも諦めないミューラに、ネギを切りながら誠司が感心する。
「セージさんは、わたしのこと好きですか?」
「嫌いな人間と暮らすほど、器は大きくないな」
「ほら、ほら! 単純に好きって言えないじゃないですか。同じじゃないですか!」
「そういうところは、頭の回転が早いな」
コンソメのキューブを入れた鍋に切ったネギを入れながら、誠司は劣勢であることを認めざるを得なかった。
間違っても嫌いなどとは言えず、かといって、ミューラの目論見を外すために好きなどとはもっと言えない。
これ以上の抵抗は面倒くさいことになりそうだと、負けを認めることにする。
「ストレートに好きって言ったらミューラが喜ぶわけだし、最初から俺の負けは決まっていたな」
「ふふん。別に、わたしを喜ばせても構わないんですよ?」
「それは料理でやるとにしよう」
スープができあがる頃には、ローストビーフの熟成も完了。まな板の上で開封すると、綺麗に焼き色の付いた肉の塊が姿を現した。
「ふわわっ」
「ゥワンッ! ゥワンッ!」
「厚め、厚めでお願いします」
「厚いと美味しくないぞ。その分、数が増えると考えればいい」
「ではそれで!」
朝三暮四の生きた見本になったミューラだったが、誠司は決して表情に出さない。話が進まなくなるし、今は切ることに集中したい。
薄く。
なるべく薄くなるよう、ローストビーフに包丁を入れていく。
「うわっ、中はピンク色ですね」
「ちゃんと火は入っているから安心していいぞ。ただ、コタロウには食べさせられないけどな」
味も付いているし、子犬のコタロウには重たすぎる。まだ、市販のドッグフードをふやかして与えているぐらいなのだ。お裾分けをあげられるようになるのは、もう少し時間が必要だ。
「ううう。もうちょっと、もうちょっと大きくなるまでの辛抱ですからね」
「キュウウゥンンッ……」
まあ、なにかおやつをあげよう。
誠司は甘い判断を下しつつ、無言でローストビーフを切り分けた。
「……よし」
「もう、食べていいですか?」
「丼にするから、もう少し待ってくれ」
「どんぶり!?」
「ああ」
やや大振りの丼――ご飯物よりは麺類が似合いそうな――に千切ったレタスを敷いてから、ご飯をよそった。
そこに、先に作ったオニオンソースを電子レンジで温め、ご飯にまぶしていく。
「それだけで、ご飯三杯はいけますね」
「俺が米農家だったら、大喜びだろうな」
「セージさんが農家に転職しても、わたしは付いていきますよ!」
「その発想はなかった」
その上に、切り分けたローストビーフをこれでもかと載せ、ソースかけた。
「完成ですね? 完成ですよね?」
「もうちょっとだ」
待ちきれないミューラがコタロウを抱いたままジャンプするが、誠司は冷静さを崩さない。
彩りの意味も込めてカイワレ大根と、真ん中に卵黄をトッピング。余った卵白は、スープに入れて活用する。
「これで、ローストビーフ丼の完成だ」
偶然、イギリス名物を応用した昼食となった。もしかすると、妖精の導きかもしれない。
「それじゃ、食べましょう! 見ましょう!」
「ああ。でも、少し落ち着け」
「目の前で実演販売されて盛り上がっているこの気持ちを、セージさんは分かっていませんよ!」
「販売はしてないけどな」
原価は3割程度と言われているので、実際に販売するとなると1000円は越えてしまいそうだ。そんなことを考えながら、ローストビーフ丼とスープをテレビが近いコタツへと運ぶ。
ミューラから解放されたコタロウは、もらえないことを理解しているのか、コタツの中にもぐりこんでしまった。
「ふんふんふん~。楽しみですねぇ」
「どっちが?」
「どっちもですよ!」
そろそろ出番がなくなりそうなコタツ。そこに潜り込んだコタロウが足にじゃれつくのを適当にあしらいながら、誠司はブルーレイレコーダを操作した。
映し出されるのは、イギリス、グラナダTVが制作した連続ドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』。
第一話は原作の短編第一作でもある『ボヘミアの醜聞』。
ホームズが唯一「あの女性 (the woman)」と呼ぶアイリーン・アドラーが登場する、人気の高い作品だ(ただし、吹き替えではエレーナ・アドラーとなっている)。
テレビからは、誠司にとって耳慣れたテーマ曲が流れる。
「なんだか、いい曲ですね」
「ああ。俺も好きだ」
ヴァイオリンソロのテーマ曲は、ヴァイオリンが趣味のホームズに合わせて作られたのだろうが、番組を。否、ホームズそのものを象徴する曲のようにすら思える。
誠司は、短いテーマ曲を目をつぶって聞いていた。
だから、好きだと言われてドキッとしたミューラのことなど、気付きはしない。
「えっと、じゃあ、いただきますね!」
「ああ。どうぞ」
冷めないうちに……というほど温度が重要な料理ではないが、放置していい理由にもならない。
テレビには、家捜しをする男たちが映っている。
これもドラマで追加されたシーンで、後々意味が分かるのだが、初見なら熱心に見る必要もないだろう。
「まずは、お肉だけで」
ミューラが、ローストビーフを一枚口に運ぶ。可愛らしい小さな口が開き、赤い唇の向こうにローストビーフが飲み込まれた。
「ふぐっ、これは……」
厚みがないので食べ応えもないかと思いきや、淡泊な赤身の肉と濃厚なオニオンソースは予想以上にマッチしていた。
いつまでも噛みしめていたい、しっとりした赤身肉。目を閉じ、味覚に集中してじっくりと味わう。
しかし、世は無常。儚くも、消えてしまった。
「消えたわけじゃない。飲み込んだだけだぞ」
「先手を打たないでくださいよぅ」
「ミューラとは、言葉じゃなくて表情で会話ができるな」
「わたし自身を見てください」
「結論は変わらないと思うが」
そう言って誠司もローストビーフを食べよう……としたところで、シーンが切り替わりワトスンが登場する。こうなると、食べている場合ではない。自然と、視線がテレビへ吸い込まれていく。
原作ではワトスンが久々にベーカー街221Bを訪れるという設定だったが、ドラマ版では同居が続いている設定になっていた。
そのため、再会したワトスンを観察してホームズが推理を披露したシーンは削られているが、それは第二話の『踊る人形』に譲ったのだろう。
それに、ホームズの推理を味わうのであれば、依頼の手紙と依頼人であるボヘミア王を相手にしたシーンで充分堪能できる。
ボヘミア王をきりきり舞いさせる弁舌は、シャーロック・ホームズの真骨頂。思わず、にやにやしてしまう。
「なんか、ホームズさんって気難しい人ですねぇ」
ミューラはそう論評するが、どんな話なのか分からないという拒否反応はなさそうだ。向こうの小説で慣れていたお陰もあり、現代社会にも比較的簡単に受容したのだ。
ヴィクトリア朝のロンドンにも、違和感はないらしい。
「なんだか、セージさんに似ていません?」
「それは光栄だが、止めてくれ。畏れ多いにもほどがある」
誠司は小さく首を振り、今度こそローストビーフ丼に箸を付けた。
ローストビーフ自体は、安売りの時に何度か作ったことはあるが、丼にしたのは初めてだった。少しだけ緊張したが、肉は柔らかく臭みもない。実に、しっとりとした味わいだ。
ソースも、辛さと酸っぱさにタマネギの甘さが絡んで奥深い。
ミューラではないが、これだけでご飯が食べられそうだ。
「お肉なので当然ですけど、ご飯と一緒に食べると美味しいですね。ちょっと辛味があるソースが後を引きます」
「……そうか」
褒められたのだが、誠司の反応は鈍い。別に、そんな工夫をしなくてもミューラならいくらでも食べられそうだと思ってしまったからだ。
しかし、ミューラは誠司の感想には気付かない。
ミューラは、画面に意識を取られながら、しかし、一粒たりとも零すことなく素早く正確にローストビーフ丼を平らげていく。
それでいて、きちんと内容は把握しているようだった。
「ホームズさん、ずばずば凄いこと言ってますけど、もうちょっと、こう、王様に配慮してあげてもいいんじゃありません?」
「なるほど。貴重な王族視点の感想だ」
「まあ、冒頭の泥棒がこの王様の仕業だと分かったので、ちょっと擁護が難しいですけど。しかも、過去の過ちを反省するのならともかく、浮気の証拠写真を盗み出してくれとかどうなんです?」
「厳密には、浮気というわけじゃないんだがな」
過去、アイリーン(エレーナ)・アドラーと恋仲になったものの、身分の差で阻まれてしまったボヘミア王。
スカンディナヴィアの王女と結婚が決まり、真の目的までは不明だが、アイリーン(エレーナ)・アドラーが二人で取った写真を発表当日に送りつけると脅迫してきた。
非合法な手段に訴えたが、写真の隠し場所が分からない。
そのため、最後の手段としてボヘミア王はホームズに写真の奪回を依頼するのだ。
こうして事実関係だけ並べると、ミューラの発言も完全に言いがかりではない。
「しかも、マスクも変でしたし……」
「あのマスクは、確かに擁護できないな」
マスクをするにしても、バットマンのロビンみたいなマスクではなく、他に選択肢があったのではないか。すぐに外してくれて良かった。
ボヘミア王の変装は微妙過ぎたが、ホームズの変装はまったく違う。
依頼を受けたホームズは、馬丁に変装してアイリーン(エレーナ)・アドラーの調査に乗り出す。
「お肉でご飯を巻いて食べると、より一層幸せな気分になりますね!」
しかし、その変装が見事すぎてミューラは気付かない。冒頭と同じように後から意味が分かるシーンだろうと判断し、食べるほうに集中するようだ。
ようやくネギのコンソメスープにも手を出し、口をさっぱりさせたところで残り半分ほどになったローストビーフ丼を攻略していく。
「それに、お肉も赤身だけでなく、ちょっとだけ脂身があるのがいいです。砂漠のオアシスですね」
「ミューラの肉への情熱はすごいな」
「えへへ。それほどでも、ありますけど!」
「でも、もう少し観察力も養ったほうが良いな。ほら、あの小汚いおじさんは、変装したホームズだぞ」
「え?」
やっぱり、まったく気付いていなかったらしい。
これは、吹き替えが見事だというのもあるだろう。
誠司の父親が好きだった刑事ドラマで、いぶし銀のキャラクターを演じていただけある。その演技力には、ミューラの肉への情熱共々、脱帽ものだ。
こうして馬丁に化けたホームズは情報を集めるのだが、あろうことか、アイリーン(エレーナ)・アドラーの結婚式で立会人になってしまう。
「ん~? ん~? 結婚? エレーナさん、本当に他の男と結婚しちゃうんですか? 詐欺的なあれですか?」
「そこは、なんとも言えないな」
誠司の主観では弁護士の夫を本当に愛していると判断しているが、いろいろな解釈ができるところだろう。
「最後まで見れば分かりますかね? それはともかく、タマゴをつけると味わいがマイルドになって、これまたいいですね。ご飯にも、ちょっとタマゴが混ざっていい感じです」
そう言って、200gは優に超えていたローストビーフをすべて食べきり、ご飯の一粒も残さず完食した。
これから、クライマックスに入るのだから、ちょうどいいタイミングだろう。さすがミューラだと、誠司は感心した。
馬丁として情報を集めたホームズは、最後の仕上げのため、ワトスンに協力を依頼する。
内容は聞かず、法律違反でも構わないとホームズの請け負うワトスンはいい。後から、正当な理由ならと付け加えるところも。
実際、サクラを雇って喧嘩を装いワトスンの偽診断でアイリーン(エレーナ)・アドラーの家にまんまと侵入し、さらに火事を装って写真の在処を探す手段は違法行為すれすれだ。
今となっては古典的に過ぎるが、当時の読者は膝を打ったに違いない。
「なるほどー。火事の時は大事な物を運びだそうとしますもんね。そうやって、隠し場所を見つけるとは。やるじゃないですか、ホームズさん」
ミューラも楽しんでいるようだ。
それにしても、やっぱり、ジェレミー・ブレッドのホームズは最高だと誠司はしみじみと思う。
上品な紳士を思わせる立ち振る舞い。
それでいてユーモアがあり、エキセントリック。
なにか閃いたときに見せる、人差し指を唇に当てる仕草はまさにチャーミング。
ホームズがここにいる!
と、叫びたくなるほど、シャーロック・ホームズだった。
吹き替えが見事なのも、その一因だろう。
返す返すも、原作すべてを映像化する前にこの世を去ったのが惜しまれる。晩年は病気で色々あったらしいが、それでもファンとしては見たかった。
しかし、彼は映像の中で生きてもいる。
それはきっと、素晴らしいことなのだ。
こうして無事解決したかと思いきや、このままでは終わらない。
「不眠症の治療には成功がなによりだ」などと凱歌を上げてベーカー街に戻ったホームズの背後を青年が通り、「おやすみなさい、シャーロック・ホームズさん」と声をかけ通り過ぎていく。
原典では青年なのだが、さすがにドラマでは声まで変えられなかった。
「え? どういうことです? 今の、エレーナさんですよね?」
そう。アイリーン(エレーナ)・アドラーはホームズの正体を見破ったのだ。
翌朝、ボヘミア王を伴い彼女の家を訪問するがもぬけの殻。せっかく見つけた写真の隠し場所には、手紙が残されていた。
手紙には、ホームズに目を付けられては逃げるしかないと、夫とともに姿を消すこと。
もはやボヘミア王と撮った写真を悪用するつもりはないが、お守りとして取っておきたいことが記されていた。
そして、アイリーン(エレーナ)だけが写った写真も残されていた。
ボヘミア王は、彼女が悪用するつもりがないのと約束するのであれば写真は灰になったも同然とホームズに謝意を表す。
それを裏付けるかのように、アイリーン(エレーナ)が夫とともに船上から海へ写真を捨てるシーンが挿入されていた。
これは、原作にはなかった描写だ。
「エレーナさん、さっぱりとした女性でしたね」
「そうか? 最初に脅迫を仕掛けたのはあっちだぞ?」
「それは仕方がないですよ。身分差があるなんて最初から分かってたのに、そんな理由で振られたんですから。多少は恨みがましく思っても仕方がありません」
「だとしても、ホームズとこれ以上対抗できないから舞台から下りただけじゃないか?」
「違いますよ。新しい恋を見つけたから、過去を捨てたんです」
「そういうものか」
「そういうものです」
男性の恋は、新しいファイルに保存。女性の恋は上書き保存……などと言われるが、それは一面の真実であるようだ。
ホームズのことを恐ろしい。逃げるしかないと言いつつ、見事に勝ちを拾ったエレーナ(アイリーン)・アドラー。
まさに、彼女は人生の勝利者だった。
ある意味で、ホームズの敗北となった『ボヘミアの醜聞』だが、第一作が『アルセーヌ・ルパンの逮捕(ルパン逮捕される)』だったルパンものとの符合を感じずにはいられない。
後発であるルパンのほうがホームズを意識したというのもありそうだし、単純に成功するよりもひねった結末のほうが読者の心に残りやすいというのもあるだろう。
一方、依頼人でありながら、振ったはずが振られた形になったボヘミア王には哀愁すら漂う……というのは、穿った見方だろうか。
「なんというかこう、王様が自意識過剰だっただけの話でしたね。申し訳ない気持ちでいっぱいです」
「別にミューラのせいじゃないし、最初は実際に脅迫されていたわけだが……。そう思うんなら、もうちょっと暖かい反応をしてあげたほうがいいんじゃないか?」
哀愁を感じてしまった誠司は、ボヘミア王に同情せざるを得ない。
しかし、続くミューラの感想を聞くと、そんな思いは雲散霧消してしまう。
「でも、あれですよね。ホームズさん、エレーナさんのこと好きですよね」
ローストビーフ丼を食べ終えたミューラが、得意そうな顔でうなずきながら断言する。
「……それはどうかな」
しかし、誠司はうなずかない。
正直、誠司はアイリーン・アドラーとホームズを恋愛もしくは結婚に結びつける見方には否定的だった。
ホームズが唯一「あの女性」と呼ぶアイリーン・アドラー。
もちろんもちろん、ワトスンが事件を再構成した文章だということは百も承知だ。彼女が結婚した弁護士が実在しないかもしれないという可能性までは否定しない。
この事件の後、アイリーン・アドラーがハドソン夫人になるという仮説も説得力だけならある。
それどころか、もっと突飛な説も誠司は否定しない。
ホームズとモリアーティ教授は同一人物だとか、帰還以前以後のホームズが実は別人だとか、ワトスンが複数回結婚しているのではないかというシャーロキアンの説だって、一考の価値ありだと思っている。
しかし、ホームズとアイリーン・アドラーのそれはさすがに『原典』を無視しすぎではないか。
そんな牽強付会が許されるのであれば、『原典』がいらなくなる。
女性嫌いのホームズが見事に出し抜かれ、その思い出としてボヘミア王に写真を求めた。
ホームズとしては、実に複雑な心境だろう。だから、彼女を「あの女性 (the woman)」と呼んだ。呼ばざるを得なかった。
それでいい。
いや、それがいいと誠司は思うのだ。
「セージさんって、意外とロマンチストだったんですね」
「……そうか?」
「なんでしょう? 恋愛には至らないけど、信頼で結ばれた男女っていうのも素敵ですよね」
「そうかもしれないな」
誠司は、意外にもあっさりとうなずいた。誠司が素直な反応をする時、本当にそう思っている場合と、それ以上話を広げたり続けたりしたくない場合とがある。
ロマンチストなどと言われて照れたのだろう。今回は、後者だった。
コタツの中からコタロウを取りだし、ごまかそうとしたが……。
「眠ってたか」
「眠ってますね」
コタツの中で大人しくしていたので半ば予想していたが、コタロウはすやすやと眠っていた。
夢の中でなにか食べでもしているのか。誠司の手に乗っかったまま、口をくちゃくちゃと動かしている。
「フゥゥゥン」
かと思うと、浮遊感を感じたせいかもしれない。今度は、走るかのように足を動かし始めた。
思いがけない可愛らしい様子に、ミューラはもちろん。誠司も思わず顔をほころばす。
「ところで、セージさん」
「ん?」
「このままでは、動けませんね?」
そう確認するように言って、ミューラは誠司の隣に無理矢理入り込んだ。狭いコタツの一角で、二人の体が触れ合う。コタロウを起こしてしまうので――ミューラが言った通り――誠司は動けない。
けれど、ミューラはなにをするでもなくにこにこするだけ。
「続き見ましょうか」
「……そうだな」
誠司はうなずき、両手が埋まっているため、ミューラがリモコンを操作する。
二話目は、『踊る人形』。突然送られてきた手紙に記された、人形が踊っているかのような暗号にまつわる一編だ。
それをぴったりとくっつきながら観賞する。
まさに、ミューラの作戦通りの流れ。
しかし、好事魔多し。
「セージさん、なんか人形が踊っているみたいな絵が手紙に書かれてるってことでしたよね?」
「そうだが?」
ホームズが、手紙から黒板に暗号と思われる踊る人形の絵を書き写す。ワトスンは子供の落書きではないかと断じるがもちろん違う。まあ、ワトスンの見解は、概ね違うのだが。
「私、普通に文字として読めるんですけど……」
「……翻訳魔法、凄いな」
「うう……。凄くないですよ、興ざめですよぅ」
「フゥゥゥン」
ミューラの嘆きと同時に、コタロウが目覚める。
「ああああああ。わたしの完璧な作戦が」
「わりと見切り発車だったような気がするけどな」
言いながら、誠司がコタロウを床に下ろしミューラと距離を取る。
残念ながら、ミューラの計画は潰えてしまった。
読み返すと、グラナダ・ホームズはいいぞとしか言ってませんね(笑)。
でも、本当にいいんで、未見の方は是非見ていただきたいと思います。
話は変わりますが、完結した後、本作品に素敵なレビューをいただきました。
後日談を書く上で、大きなモチベーションになりました。
この場を借りて、改めてお礼申し上げます。
なお、次の番外編はGW頃にはなんとかしたいなと思っていますが、
予定は未定ということで広い気持ちでお待ちいただければ幸いです。




