表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/31

第七話 Princess Arrived

「セージさん!!」


 まんじりともせず、誠司の帰りを待っていたミューラ。玄関の扉が開くよりも早く、鍵が差し込まれたタイミングで駆け出した。パジャマのままだが、気にしてなどいられない。


 ミューラが玄関にたどり着くと、玄関にはいつもの無表情に暗い陰を落とした誠司が入ってくるところだった。大事そうに、コタロウが入っているペットキャリーを持っている。


 閉じようとしているドアの隙間から見える外は、暗い。その光景が、ミューラの不安を否応なく増幅させる。


 結局、誠司はミューラの「コタロウを治せるかもしれない」という言葉には首肯せず、動物病院へと連れて行った。いつもの掛かり付けとは違うが、調べたところ24時間やっている動物病院があったため、車で向かったのだ。


 仕方がないとはいえ、ミューラは留守番。


 いてもたってもいられず、誠司へと詰め寄っていく。


「コタロウちゃんは!?」

「ああ……」


 なのに、誠司は、すぐには答えない。ペットキャリーを片手にリビングへと移動し、コタツの側に毛布を敷く。


「心臓発作だったそうだ」


 そうしながら、ミューラとは目を合わせずに言った。


 元々、獣医からは心臓が弱いとは言われていた。そもそも、ポメラニアンという犬種自体に、弱いながらもそういう傾向があるそうだ。


 震えていたのも、寒いのではなく発作の影響だったらしい。

 となると、バレンタインの少し前に風邪だと思っていたのも、軽い発作だった可能性がある。あの時点で病院に……と後悔するが、そう単純な話でもなかったらしい。


「心臓が……」


 呆然とつぶやくミューラの声を聞きながら、誠司はコタロウをペットキャリーから外へ出す。

 腕の中のコタロウはおとなしく、いつものやんちゃさの面影はない。呼吸も、浅く荒い。心配で、誠司は胸をかきむしりたくなる。


 しかし、誠司が騒いだところでどうにもならない。


 努めて冷静に、深夜の動物病院で獣医から伝えられた話を、ミューラにも説明する。


「薬は、もらってきた」

「じゃあ――」

「それが効けば持ち直す。けど、そうでなければ覚悟をするようにと言われた」


 淡々とした誠司の言葉。

 あまりにも普通で、ミューラは理解するまで時間がかかってしまった。


「そんな……」


 けれど、まったく難しい話ではない。


 薬が効かなかったら、コタロウは死ぬ。


 そのシンプルな二者択一に、誤解の余地はなかった。


「大丈夫ですよね!? だって、昼間はあんなに元気で……」

「……分からない」


 気休めにでも、大丈夫とは言わない。あるいは、言えないのが三浦誠司という人間だった。


 こればかりは、本当に分からないのだ。


「セージさん……」


 ぴっちりと目を閉じ、毛布の上で眠るコタロウ。その姿を目に焼き付けるように凝視したミューラは、意を決して誠司の瞳をのぞき込むように見つめる。


「わたしが、魔法でコタロウちゃんを助けます」

「それはだめだ」


 コタロウから視線を外さずに、誠司は首を振った。


「どうしてですか!?」

「別に脅かすつもりじゃないが、ミューラのお母さんは、向こうの世界にあるはずの魔法でも治せない大怪我の可能性がある」


 そんな状態の母親から、娘を取り上げることなんてできない。


 誠司は、正も負も。どちらの感情も感じさせない顔と声音で言った。


「それはそうですけど……」


 ミューラだって、母親のことは心配だ。


 だからといって、コタロウを見捨てることもできない。今も、苦しそうな荒い呼吸で、立ち上がることはおろか起き上がることもできずにいるのに。


「それとも、コタロウになにかの魔法を使って、それでもすぐに帰れるような余力はあるのか?」

「それは……たぶん、全部なくなるかと……」

「それじゃ駄目だ」


 誠司は言下に否定する。それはまるで、自分に言い聞かせるようでもあった。


「別に、まだ駄目だと決まったわけじゃない。まずは、様子を見よう」

「……はい」


 不承不承ではあるが、ミューラはうなずいた。

 この数ヶ月一緒に暮らしていても、やはりコタロウの飼い主は誠司で、しかも正論で来られては抗しようがなかった。


 それに、薬が効いて回復する可能性だってある。いや、きっと、絶対に元気になる。

 

 しかし、現実は残酷で。


 コタロウの病状は悪化こそすれ、回復することはなかった。





「コタロー、ほら、いつもみたいに噛みついてみなさいよ」

「…………」

「ねえ、ほら。ほら」


 制服を着た有朱が、コタロウの目の前で手を振る。


 しかし、反応はない。


 変わらず、眠ったように横たわるだけ。


 いつもは誠司がブラッシングをしてふわふわだった毛並みも、艶を失い手触りが悪くなっている。

 それどころか、生気も失われていた。


 なんだか、乾いている。まるで、剥製のようだ。


 カウントダウンが始まっている。


 そんな考えが思い浮かび、有朱はあわてて首を振った。ツインテールにした金髪が舞い、隣にいる誠司に当たる。だが、二人とも気にしていない。


 尻尾は垂れ下がったまま毛布の上に流れ、口からだらしなく舌を垂らして荒い呼吸を繰り返すだけ。


 そんなコタロウ以上に、気にかかる存在はないのだから。


 コタロウが発作を起こしてから、三日。ようやくお見舞いに来ることができた有朱は、心臓を冷たい手で握られたような感覚を味わっていた。


 死。


 永遠の別れに接した経験がほとんどない有朱でさえも、それを連想せずにはいられなかった。


「セージくん……」

「コタロウも、喜んでるよ」


 優しく背中を撫でながら、誠司は言った。いつになく優しく……どこか諦念の混じった声音で。


 コタロウが発作を起こしてから、誠司はほとんど寝ていなかった。


 昼間は出勤し、帰ってからはコタロウのご飯や身の回りの世話をし、夜遅く……いや、早朝までつきっきり。床ずれを起こさないよう何時間かおきに寝る向きを変えるその姿には、献身よりも悲壮さを感じさせた。


 職場で仮眠を取っているとは言っているが、目の下のくまがその発言を裏切っている。


 それなのに、こんなことを言う。


「ミューラがいてくれて良かったよ」


 それは確かに、一面の真実ではあった。

 ミューラが家でコタロウを看てくれるからこそ、仕事に穴を開けずに済んでいる。


「そんなことはない……です……」


 誠司と有朱。それにコタロウを見守るよう、一歩離れた位置にいたミューラ。

 しかし、ミューラに誇らしさはない。ただ、忸怩たる思いだけが募る。


 救う手段があるのに、実行できない歯がゆさ。

 そのことに、少しだけほっとしている自分への失望。

 どうして、無理矢理にでもやらせないのかという、誠司への身勝手な落胆。


 そんな悩みを抱えるミューラに、有朱は距離を感じてしまう。自分はなにもできないという劣等感と言い換えることができるだろう。

 衝動のまま、自分も看病したいという台詞を発しそうになり、すんでのところで飲み込んだ。


 それは単なるわがままで、自分のためにしかならない。


 それを自覚できた有朱は、あるいは、この中で最も“大人”だったかもしれない。


「そろそろ、ご飯にしようか。簡単なものだけど、有朱も食べていくといい」


 最後に優しくコタロウに触れてから、誠司は立ち上がった。


 キッチンへ向かうが……実は、もうほとんどできあがっている。


 今日のメニューは、カレーライス。


 誠司が帰宅しコタロウの様子を見たあとに、タマネギ、ジャガイモ、ニンジンを切って、炒めず茹でてしまう。このとき、ボルシチのために買っていた月桂樹の残りを、手で揉みほぐしてから入れておく。


 ほぼ皮をむいて切るだけなので、10分ほどしかかからない。


 茹でている間に、他の家事を片づけたりコタロウに付き添って、30分弱ほどで火を止め月桂樹を取り出す。あとは、市販のカレールーを溶かして煮込むだけ。

 良く言えば、時短。ありのままに表現すれば手抜きだが、カレーは偉大だ。多少の手抜きは補ってくれる。


 こうして仮完成したカレーだが、ミューラにとって、肝心の肉が入っていない。


 それは、これから加えられるのだ。


 ギャラリーのいないキッチンで、誠司は冷蔵庫から鶏のささみとカレー用の豚肉を取り出した。それに、ふたつボウルを用意して、それぞれに氷水も準備した。


 まず、ささみの筋を取り、鍋で茹でる。それと並行し、フライパンを温め始めると、今度はニンニクをスライスしていった。

 そして、ささみの火加減を確認しつつ、フライパンでニンニクとカット済みの豚肉を炒め始める。


 ニンニクの香ばしい香りが立ちこめ、換気扇へと吸い込まれていく。


 ささみと豚肉。双方の面倒を見ていた誠司が、同時に火を止めた。フライパンのほうは、ニンニクと一緒に豚肉をカレーの鍋へ。

 このカレーを温めれば、こちらは完成。


 ささみも鍋から取り出し氷水で締めるが、誠司は煮汁もお玉ですくって別の皿へ入れた。

 これは、コタロウの分だ。というよりは、この煮汁を作るためにささみを茹でたようなもの。


 もちろん、ささみのリサイクルはするが。


 カレーが焦げないよう注意しながらキャベツを一口大に切って、先ほどささみを茹でた鍋で茹でる。


 その間に、氷水で締めたささみを手でちぎって器にわけ、キャベツに火が通ったら、もうひとつのボウルの氷水で締めて、器に盛りつけた。


 あとは、鍋料理のためにストックしていた手作りのポン酢を回し掛けて、ささみとキャベツのポン酢かけが完成。これまた簡単だが、箸休めにはいいだろう。


 その頃には、ささみの煮汁も冷めている。


 軽く手を洗ってから、動物病院でもらってきたドライタイプのドッグフードを、餌皿の底が見えなくなる程度に入れ、錠剤の薬を潜ませる。

 あとは、冷ましたささみの煮汁を足してふやかしてやった。

 食欲も落ちており、噛むのも億劫なようで、こうしないと食べられないのだ。


「コタロウ、食べてくれよ……」


 カレーの火を消してから、餌皿を持ってコタツの側に移動した誠司は、祈るような気持ちでコタロウを起き上がらせた。もう支えがないと立てないコタロウにめまいを起こしそうになりながら、口を餌皿へと向ける。


 ヨタヨタと二歩だけ移動したコタロウが、舌を餌皿へ伸ばした。


 それを、ミューラと有朱も固唾を飲んで見守る。


 緩慢で、元気だった頃のコタロウを知っていたら、じれったいほどわずかな動き。それでもなんとか口を動かしてくれた。


「偉いぞ、コタロウ」


 悲しさと安心が入り交じり。しかし、それを押し隠してコタロウを支え続ける誠司。


 一緒に食べたようで薬もなくなり、誠司は力が抜けるほどの安堵を憶えた。

 まだ、食べてくれる。食べるということは、生きるということ。


 それもできなくなったら……と、想像が悪い方向へ行きかけたタイミングで、手に掛かる重さが増した。


「食べ終わったか」


 横になりたくて、力を抜いたのだろう。コタロウが体重をこちらに預けていた。


 そのコタロウを、宝物でも扱うような手つきで毛布に寝かせると、誠司は黙って見守っていたミューラと有朱に声をかける。


「さ、次は俺たちの番だな。カレーだからセルフサービスだ。自分で食べたい分だけよそってくれ」

「はい! ミューラ・シルヴァラッド、行きます!」

「アリス・ウラガも行くわよ!」


 弾かれたようにキッチンへと移動する二人を見送り、誠司は洗面所へ移動した。

 石鹸で手を洗う誠司だったが、決して鏡を見ることはなかった。


 代わりに、冬の冷たい水で顔を乱暴に洗うと、適当にタオルで拭う。


「よし」


 珍しく意味もなく気合いを入れると、キッチンへと戻ってカレーをよそった。そして、副菜の器も持ってコタロウの横に座る。

 コタロウから食卓へと視線を移すと、大盛りと超大盛りのカレーに出迎えられた。


「簡単で悪いけど――」

「そんなことないですよ」

「そうよ。これで謝ってたら、うちのママなんて一生五体倒地で過ごさなくちゃいけなくなるし」


 真実とジョークの際どいラインを攻める有朱の言葉に、誠司は軽く笑いを浮かべた。

 久々に、緊張がほぐれた。

 同時に、自分が緊張していたことを思い知り、苦笑も浮かぶ。


 それでも、笑いは力になる。


「ありがとうな、有朱」

「えへへ。別に、単なる事実だし」

「良かったです」


 いつもなら有朱ばっかりと頬を膨らましていただろうミューラだったが、安心したようにそっと微笑んだ。

 誠司の雰囲気が柔らかくなって良かったと、ミューラはほっと胸をなで下ろす。


「それでは、いただきます!」


 安心したところで、ミューラがスプーンを握った。

 文字通り山となっているカレーにスプーンを突き入れ、やはりスプーンに山盛りにすると大きく口を開いて迎え入れた。


 月桂樹とニンニクが加わり、旨味と香りが増したカレールー。中辛の、ちょうどいい辛さ。

 ややどろっとしたルーが堅めに炊かれたご飯と混ざり合い、口の中で香りが爆発した――次の瞬間、あっさりと飲み込んでいた。飲み込んでしまっていた。


「んんん~~。カレー、いいですねぇ」


 ミューラは、横目でコタロウの様子を確認しつつ、二口目に入る。


 今度は、やや煮くずれたジャガイモを中心に咀嚼。誠司によると、カレーにジャガイモ不要論者がいるそうだが、とんでもない。

 このねっとりとした味が分からないだなんて。可哀想だと思ってしまう。


 ややもすれば甘過ぎなニンジンも、カレーの一員になると印象が変わる。辛く香ばしい中に、この甘み。にくい脇役だ。


 しかし、それも主役の存在あってこそ。


「さて、お肉は……」


 今日のカレーは豚肉だ。

 煮込むのではなく直前に炒めて加えられた豚肉は、ジューシーそのもの。噛めば肉汁があふれ、熱々の固まりが舌の上で踊る。

 そこにご飯を追加し、一気に咀嚼して飲み込んだ。


「……ねえ、セージさん」

「なんだ?」

「わたしには、夢があるんです」


 唐突な話題に、誠司は眉根を寄せる。


 女の子の夢と言えば、古典的だが、お嫁さんか。

 それとも、アイドルかサッカー選手か。お姫様だとしたら、生まれながらに叶えていることになる。魔法少女もそうだ。


 だがもちろん、ミューラの夢は、そのどれとも違う。


「一度でいいから食べてみたいんです、牛・豚・鶏が全部そろったカレーを」

「えー? それどうなのー?」


 若いが、ミューラほど食肉への執着のない有朱がげんなりとして言う。

 なんとなくカレーを食べ進める気になれなくて、コタロウが眠っていることを確認してから、有朱はささみとキャベツのポン酢かけに箸をつけた。


 茹でてポン酢をかけただけなのに、キャベツがさっぱりとしていて美味しい。カレーの濃厚な味に慣れた舌がさわやかに洗われた気分になる。

 ささみは少しぱさついているが、これに関してはコタロウのお下がりなので文句は言えない。


 こんな時でも、誠司の配慮は行き届いている。


「なるほど……。悪くないかもしれない」

「え? セージくん、マジで?」

「ああ……」


 正気なの? と聞いてくる有朱へ、コタロウの様子を確認しながら誠司は答える。


「肉を多くすれば、ミューラもちゃんと噛んで食べるだろうからな」

「うわぁ……。納得」


 気づけば、ミューラの皿は空になっていた。米粒ひとつ残っていない。

 さっき見たときは、まだ山盛りになっていた。そのはずなのにだ。


 しかし、偉業を成し遂げた異世界の王女は――


「はい?」


 ――と、なにを言われたのか分からないと、けろりとしていた。


「なんでもないわよ……」

「そうですか。おかわり行ってきますね!」


 本当は、誠司か有朱についでもらいたかったのだが、セルフサービスなので仕方がない。


 キッチンで炊飯器のふたを開き、ご飯をよそいながらミューラは物思いに耽る。


 今日のカレーも美味しかった。


 美味しすぎた。


 そんな状況にも関わらず、誠司はきっちりと食事の用意をしている。それは義務感や几帳面さの現れだったが、まるで逃避のようでもあった。


 そして、こんな時でも、誠司の料理は美味しい。


 どうにかしたい。どうにかしてあげたい。


 ミューラは、心の底から思う。


 けれど、ミューラにも思い切って一線を越えられない事情があった。


 実は、治せるとは言ったものの、かなり特殊な解決法なのだ。やり遂げる自信はある――そうでなければ言っていない――が、誠司の反応が気がかり。


 それでも、いや、だからこそ。


 その時のために備えなくては。


「絶対に、悲しい結末になんかしません」


 あと少しで、魔石も上限まで充填される。

 今できるのは、やるべきなのは、そのときに備えてしっかりと食べること。


 アスリートがトレーニングの一環として食事をするのと同じように、ミューラはカレーを超大盛りにした。





 しかし、ミューラの決意をあざ笑うかのように、病状は悪化の一途をたどる。


「セージさん、もう寝てください」

「ミューラこそ、昼間は一人で見てもらわないといけないんだから眠ってくれ」


 二人は、夜も遅くまで起きて、コタロウの側にいた。


 ミューラは答えず――言葉にしたら説得されそうだったから――誠司の横に座る。誠司も、なにも言わなかった。


 毛布の上に、コタロウが横たわっている。


 もはや尻尾を上げる余裕も余力もなく、ただ体を震わせ、荒い息を吐いている。目はもはや焦点があっておらず、涎も垂れ流しているような状態。


 小さな体が、さらに小さく見えた。いや、実際に小さくなっている。やせたというよりも、やつれたというよりも、縮んだと表現するほうが正確だ。

 実際、コタロウを抱き上げる度に軽くなっており、以前は摘めるほどだった腹の肉はなくなり肋骨の手触りしかない。


 ただ、それを確認する機会は減っている。


 有朱が見舞いに来た二日後、コタロウはついに誠司の手を借りても立ち上がれなくなった。それに伴い、食事もほとんど取れなくなる。


 衰弱は、目を覆わんばかり。元気な姿を知っている。いや、それが当たり前だったからこそ、苦しむコタロウの姿は身を切られるように辛い。もちろん、一番辛いのはコタロウだと分かっているが、辛い。


 今は、動物病院でもらってきたスポイトで、水やペット用のミルクを与えてしのいでいた。


 ただ、それも長くは続かないだろう。


 誠司はそれを自覚していたし、ミューラも薄々感じていた。口にしたら実際にそうなってしまいそうで、なにも言えずにいるだけだ。


 静かに、そして、真剣にスポイトでコタロウの舌に水滴を湿らせる誠司。最初は舌を口の中に入れていたコタロウも、今はその力も失っている。


 思い出す、思い出してしまう。


 リビングにいると、構ってと主張してきたコタロウを。

 撫でてやると嬉しそうにして、あっさりとお腹を見せたコタロウを。

 料理を作っていると、おこぼれに期待して、だけど行儀良くキッチンの入り口で待っていたコタロウを。

 食べ物をあげると、本気で食らいついてきたコタロウを。

 散歩に行くとき、飛び跳ねるようにして走り出していたコタロウを。

 リビングの窓際で、仰向けになって眠っていたコタロウを。


 そんなコタロウが、今にも失われてしまう。


 いつまでも黙って見ているわけにはいかなかった。


 意を決し、ミューラは誠司の手をつかんだ。水分補給を中断させることになるが、これくらいしないと誠司は振り向いてくれない。


 けれど、その予想は外れた。


「……セージさん」

「…………」


 ミューラがなにを言うのか。これからなにを言われるのか。


「セージさん……」

「…………」


 分かっていて、誠司は沈黙を選んでいる。否、耳を塞いでいるのと同じだった。


「セージさん!?」


 ミューラ怒っていた……とまではいかなかったが、明らかに苛立っていた。


「どうして、なにも言ってくれないんですか!!」


 近所のことも、時間のことも忘れてミューラは叫んだ。叫ばずにいられなかった。


「言ってください! 命令でも、お願いでも、独り言でもいいです。コタロウちゃんを治してって」


 だが、その叫びは細く小さくなっていく。


「そうすれば、わたしは……」


 泣きそうな。いや、泣くのをこらえているような声と、表情。

 しかし、次の瞬間。はっと、なにかに気づいたようにミューラがつぶやく。


「セージさん、お母様のことなら――」

「……今、治してもらっても、また同じことを繰り返すだけだろう」


 それもあるが、それだけじゃない。


 ようやく返ってきた誠司の言葉は、小さく平坦だった。


「同じことって……」

「同じことだよ」


 誠司の脳裏に、病院のベッドに横たわる父と母の姿がよみがえる。


 最後には意識が混濁し、譫言を口にするだけだった母。

 同じく心臓の発作で、入院はしたがすぐに逝ってしまった父。


 医者に呼び出され、もう長くはないと宣告され、よく分からない書類にサインをした。

 そのあとは、ただ手を握っていることしかできなかった。


 天命。寿命。


 そんな言葉で片づけたくはなかったが、生きている以上死は避けられない。それを今避けたところで、数年以内には必ず別れはやってくる。


 また、コタロウが苦しむことになる。

 また、こんな思いをしなくてはならない。


「そんなのは、嫌だ……」


 それは、ミューラが初めて触れた、むき出しになった誠司の想い。

 今にも崩れてしまいそうな、弱々しい誠司。


 息がつまる。胸が痛くなる。


 それ以上に、愛おしさが募る。


 この人の力になりたい。


 支えてあげたい。


「単純に治すんじゃなければいいんですよね?」

「……少なくとも、一概に否定することはないだろう」

「そして、わたしは帰るべきだと」

「そうだ」


 最初の問いには戸惑いながら。次の確認には、はっきりと。コタロウから目を離すことはなかったが、誠司は答えた。


 ミューラは、帰るべきなのだ。


「なら、セージさん。わたしを信じてください」


 誠司の肩を掴み、サファイア色の瞳で目を合わせる。

 真剣で、引き込まれてしまいそうな瞳。


 誠司も思わず、息を飲む。


「わたしが、全部ハッピーエンドにします」


 なにをバカなことを。

 そんな都合のいいことが、あるはずない。

 それができたら、こんなに苦しんではいない。


 頭の中で、罵声がいくつも浮かんでは消えていく。


 それなのに。


 どういうことなのだろう。実際に紡がれたのは、思いもしなかった言葉。


「頼って……いいのか……?」

「もちろんです」


 自分がなにを言っているのか分からないと、不思議そうな顔をする誠司。それが、今にも泣き出しそうな表情に変わっていく。


 ただでさえも看病は大変で、心労はかさむ。さらに、両親のことも思い起こさざるを得なかった。気丈に振る舞っていても、限界は近づいていたのだ。


「セージさん」


 ミューラは、そんな誠司を抱きしめていた。


 胸が、熱いもので濡れる。構わない。いや、うれしい。


 ミューラは、さらに力を込めて抱きしめた。


 愛おしさが、次から次にあふれてくる。

 初めて会ったときのこと、その日の夜。買い物に出かけたこと、有朱と出会ったこと、散歩をしたこと、雪と戯れたこと、アニメを見たこと。


 そして、一緒にご飯を食べたこと。


 どれも掛け替えのない。絶対に忘れたくない思い出だ。


「だから、セージさん……」


 その思い出を守るため。悲しい思い出にしないため。


「さよならです」


 ミューラは別れを選択した。


 泣かないために微笑んで、ミューラはコタロウを抱き上げる。

 誠司は、靄がかかった視界で、それをじっと見つめていた。


「《トランス・トラベル》」


 一瞬で、別れの言葉を口にする暇もなく、ミューラの姿は消え去った。


 コタロウも、一緒に。


 なんの痕跡も残っていない。


「来たときは、あんなに派手だったのにな……」


 一人きりの家に、誠司の声が冷たく響き、消えていく。


 取り残された誠司は、虚ろな表情でずっと無人の空間を見つめていた。


 そのまま気を失うように眠るまで、ずっと、ずっと……。





 誰もいない、日曜日の朝。


 誠司は缶ビールを片手に、本を読んでいた。


 ミューラとコタロウがいなくなってから、何日経ったのか。誠司は憶えていなかった。正確には、数えようともしていなかった。


 誰もいない。

 一人になった。


 それ以上でも、以下でもない。


 今日も、事務所が休みだから家にいるだけ。それ以上でも、以下でもなかった。


 誠司は、痛いほどに冷えたビールを、あおってからページをめくった。


『フィッツジェラルドをめざした男』


 主人公スチュワート・ホーグ(ホーギー)は、デビュー作が大きな話題になってハリウッド女優と結婚。しかし二作目で失敗し、今はゴーストライターとなっている。

 そのホーギーの依頼人は、彼と同じように華々しいデビューを飾ったキャメロン・シェフィールド・ノイエス。


 まだ充分に冷たいビールを飲みながら、誠司は読み進めていく。


 一躍時代の寵児となったノイエスだったが、書けなくなってしまい、今は酒とコカインに溺れる日々を過ごしていた。

 依頼の内容は、そんな彼の伝記を書くこと。


 似たような境遇であることから、意気投合する二人。


 しかし、伝記を書くということは相手の内面に踏み込むことになる。ノイエスが語る虚像から、本質を見抜いていくホーギー。


 けれど、その仕事を進めていくうちに脅迫を受け、ついには死者が……というのがあらすじだ。


 本格ミステリィと断言するには、アメリカンドラマのテイストが強すぎる。

 ハードボイルドと呼ぶには、殺伐さが足りない。

 

 では、なぜこれを選んだのか。


 それは、ホーギーの相棒がルル――バセット・ハウンドだからだ。


 ホーギーをパパ、別れた妻メリリーをママだと思っており、二人が離れて暮らしているのを寂しく思っている。

 メリリーがテレビに出ると興奮するのが微笑ましい。

 鯖の缶詰が好物で、だが、それを食べた後は口が臭くなってしまう。そんなところも、なんだか愛おしい。


 二本三本とビールを消費しながら、誠司の意識は、この後の巻に飛ぶ。


 何巻だったか、ホーギーとメリリーとの間に子供が産まれた後のことだ。子供ばかり構う二人に世を儚んで、なんとルルが入水自殺をしようとするのだ。

 あれは、すごい展開だった。

 なにしろ、自殺を止めたのは良かったが、なんとその池の底から死体が見つかるのだ。こんな事件の導入は初めてだった。


 楽しかった。


 その感想が、この本に対してなのか。それとも、他のなにかについてなのか。


 それに気づかぬまま、誠司の意識はゆっくりと闇に落ちていった。





「セー…………」

「…………」

「セージ……」

「…………」

「セージくん!」


 いつの間にか、ヘイゼルの瞳で見つめられていた。

 どうやら、本を読みながら眠ってしまっていたらしい。普段の誠司なら、ありえないことだ。


「おはよう」


 気づいたら、有朱はマンションの合い鍵を持っていた。やはり、普段の誠司なら、ありえないことだ。

 返してもらう気にもならず、そのままにしている。


「おはようって、もう、夕方じゃん」

「こんにちはのほうが良かったかな」


 覇気のない、誠司の言葉。

 ソファにだらしなく腰掛ける誠司に覆い被さるようにして、有朱は口を開く。


「セージくん、寂しい?」

「寂しいのは、好きだ」

「じゃあ、ミューラがいるのは嫌だった?」

「…………」


 誠司は答えない。

 それこそが、答えだった。


「ふ~ん。やっぱりね」


 意味ありげに、有朱が笑う。思った通りだと、言わんばかりだ。


「そこで、この有朱ちゃんだと思うんだけど」

「……どういう意味だ?」

「ミューラとコタロウの二人を知ってるのは、世界にアタシとセージくんだけなんだよ?」


 傷を舐め合うには、ぴったりじゃない?


 小悪魔と呼ぶには悲壮感がありすぎる微笑を浮かべて、有朱は誠司に密着した。ヘイゼルの瞳は不安に揺れ、唇は小さくわなないている。

 こんなに心細そうな有朱は、助けを求めてきたあのとき以来だ。


「ああ……。そうか……」


 寂しがっているのは、自分だけではない。傷ついているのは、有朱も一緒だった。


「まあ、そうかもしれないな……」

「……そんなこと言っちゃっていいの?」


 誠司の胸に顔を埋めていた有朱が、がばっと顔を上げる。


「やっちゃうけど? 失恋した女の子につけ込む、クズ男みたいに。クズ男みたいに」

「有朱」

「うわっ、やっぱごめん――」

「俺は、有朱をそんな風には思わないよ」


 優しい、今までに見たことがないほど透明な誠司の微笑み。

 それを正面から見せられ、有朱は陥落(おち)た。


「セージくん……」


 弱気だろうと、気の迷いだろうと関係ない。

 これはもう、許可を得たも同然。いや、誘われているのだ。据え膳なのだ。


 内心のドキドキを声優の演技力で押し隠し、有朱は唇を誠司へと近づけ――た、その時。


 突然、虹色の光が乱舞した。


 幸いにして、ほんの数十秒で閃光は収まった。光だけで、音もなかった。


 しかし、光の塊が残っていた。


 二人とも、キスの直前で固まり、黙って見つめることしかできない。


 その正体を確かめる、いや、推測する暇もなく、次の変化が訪れる。


 閃光は、発生しなかった。

 代わりに、光の形が変わっていく。


 大きく縦に伸び、紡錘形に。

 次いで、生地をこねるかのように横へ斜めへ縦へ広がり――


「……まさか」


 ――光が人の形に収束していく。


 最後に光が弾けると、ローテーブルの脇に銀髪の美少女が立っていた。


 それだけで非現実的だが、身に纏う青を基調としてスカートが大きく膨らんだドレスが拍車をかける。

 コスプレのように浮いた印象はなく、彼女によく馴染んでいた。こんな状況だが、感心するほどに似合っている。


 また、身長に比べて大きな胸の谷間には、透明な宝石がはめ込まれたペンダントが埋まっていた。他にも、複雑な紋章が刻まれた指輪に、ブレスレットやイヤリングなどの宝飾品で飾られている。


 こんなありふれたマンションの一室ではなく、夢の国にいるのが相応しい。常識離れしすぎて、そんなことを思ってしまう。


 それは、彼女自身の容姿も一因だ。


 背中まで伸びる、ふわりとした美しい銀髪。サファイアのように輝く大きな瞳が、微睡みから目覚めるようにゆっくりと開いていく。

 身長は、誠司よりも20cm。いや、どうかすると30cmは低い。その身長通り、顔つきはやや幼かった。だが同時に、非常に整ってもいた。


 手足は細く、足は長い。全体的にすらりとしているが、胸だけはその例外だった。


 まさに、ファンタジー世界のお姫様といった雰囲気の少女。


 誠司も、有朱も知っている。彼女のことを知っている。


 ミューラ・シルヴァラッド。あのときと同じようにやってきた、異世界の王女。


「あああああ! セージさん! アリスちゃん! わたしがいない間に、なにやってるんですか! うらやまけしからんですよ!」

 

 あのときと違うのは、言葉がきちんと通じていること。

 足下に、大きなバッグが置かれていること。


 そして、もうひとつ。


 一匹の子犬を胸に抱いていること。


「コタロウなの……か?」


 あり得ないと知りつつも、誠司は口にせざるを得なかった。


 憶えている。

 子犬の頃のコタロウを。


 生まれたての頃は、両手の上に乗るほど小さく、やんちゃで、一人になると吠えていた。


「はい、コタロウちゃんですよ」

「え? だって、えええ? えええええ!?」


 わけが分からないのは、有朱も同じ。

 絶好機を潰されたのに、怒りもせず。また、ミューラとの再会を喜ぶ余裕もなく、コタロウだという子犬を凝視している。


 誠司にのしかかりながら。


「その辺の子犬を連れてきたんじゃないの?」

「失礼な。正真正銘コタロウちゃんですよ」


 ぷんすかと否定すると、ミューラはコタロウを床におろした。


「ゥワンッ! ゥワンッ!」


 その途端、尻尾を限界まで左右に振り、ソファへと駆けだした。そのままの勢いでソファに飛び乗ると、誠司の手を、一心不乱にペロペロと舐める。


「コタロウ……」


 そして、一端ソファから降りると、誠司と有朱の足下をぐるぐると回り始めた。まさに、狂喜乱舞とはこのことだ。


「だって、導器魔法には病気を治す魔法はありませんから」

「だから、若返らせたワケ?」


 柔軟な――常識に縛られない思考を発揮し、有朱が足下の小コタロウと自信満々なミューラの顔を交互に見る。


「はい。人間には無理なんですけど、お犬さんとか猫ちゃんとかそれくらいならなんとか」


 あちらに転移した直後、魔石を可及的速やかに用意させてコタロウを若返らせたらしい。

 そして、心臓の異変も元の通りというわけだ。


「でも、お母様に捕まっちゃって大変でした」

「ああ……いや……。お母さんは大丈夫だったのか?」

業魔(レヴュラ)の呪いを受けて大変でしたが、簡単に死ぬような人ではありませんので!」


 誠司も有朱も。底抜けに明るいミューラの言葉に、安堵をして気が抜ける。


「セージさんは、同じことの繰り返しは嫌だって言ってましたが、10年ですよ、10年。その間に、どうにかなりますって」


 全力で問題を先送りにしているが、誠司は呆然として気付きもしない。いや、それよりもやるべきことがある。

 誠司は有朱を抱き上げて脇にどけると、ソファから立ち上がった。


「ミューラ」

「セージさん」


 名を呼び合い、誠司はミューラの下へと移動すると――


「おかえり」


 ――感謝と、喜びと。その他、数え切れないぐらいの想いを込めて、誠司はミューラを抱きしめた。


「はわわわわ」


 この歓迎は期待はしても、予想はしていなかったのだろう。あわあわと両手を振り乱す。だが、このチャンスを逃すほどミューラも甘くはない。

 すぐに混乱から立ち直り、ぎゅっとたわわな双球を押しつけるように


「うううう……。コタロウ、かみつき攻撃よ!」

「ウワンッ!」


 返事はいいが、小さなコタロウはその場でジャンプをするだけ。どうやら、有朱が突き出した指へ目がけて飛び跳ねる遊びだと思っているようだ。


「ありがとう」

「えへへへへ。報われました!」


 そのまま、誠司は耳元でささやく。


「それで……。こっちには、どれくらいいられるんだ?」


 準備もなにもなかった前回とは違う。今回は、帰還用の魔石を持って転移しているはずだ。残念ながら――そう、残念だ――長くは滞在できないはず。


 それなのに、ミューラの表情はぴしりと固まってしまった。


「あ……。ええと……」


 サファイア色の瞳を四方八方に泳がせ、これ以上ないほどに言葉を濁す。


 それで誠司は事情を察する。

 うっかりか。それとも、故意にか。魔石を持たずに、転移をしたらしい。


「だって――」


 何事か言い訳をしようとした、そのとき。


 くぅと、お腹が鳴った。


 恥ずかしそうにお腹を押さえるミューラ。笑いをこらえるのに必死な有朱。


「クウゥゥンン」


 そして、よく分かっていない子犬のコタロウ。


「ミューラ、なにが食べたい?」

「ご飯! お米! お米を食べさせてください!」


 戻ってきたお姫様に料理を振る舞うため、誠司はキッチンへと向かう。

 普段は感情を見せない顔には、確かに笑顔が浮かんでいた。

プリンセス・アライヴこれにて完結です。

ご愛読ありがとうございました。


当初想定していた着地点に、きちんと到着できました。

これも、読んで下さった皆様のお陰です。本当にありがとうございます。


なお、使い損ねたネタがいくつか(レンタルして映画を見るとか、遠くへお出かけするとか)がありますので、

不定期に後日談を投稿する予定です。


その際には、またよろしくお願いいたします。


繰り返しになってしまいますが、完結までお付き合いいただき、本当に本当にありがとうございました!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ