第五話 三つのチョコレート(当日編)
前回は、前後編の予告ができず申し訳ありませんでした。
バレンタインデー編後編です。
ミューラと有朱がまごころを込め、誠司が一人読書を堪能した日曜日は、滞りなく過ぎ去った。
バレンタインへ向けた準備を感じさせるのは、予想よりも上手くいったため余ってしまったチョコレートと、冷蔵庫で厳重に管理されてる完成品のチョコレートだけ。
特に後者は、箱に入れられ、三浦家の冷蔵庫の一角を占拠している……だけではない。その上、「セージさんはさわっちゃだめ!」と、たどたどしい日本語の張り紙まで付けられている。
もうひとつ、時間の経過を感じさせたのは、コタロウが回復したことだろう。やはり風邪だったのか、昨日からだいぶ持ち直していた。
病み上がりではあるが、朝の散歩に出られるほどに回復をしている。
……というよりは、今まさに、その朝の散歩の真っ最中だ。
まだ夜が明け切っていない早朝。
誠司がコタロウを抱き上げたままマンションのエントランスを抜けると、早く地面に下ろせと言わんばかりに腕の中で暴れる。
身をくねり、足をばたつかせるその姿は、なんとなく釣り上げた魚を連想させた。
落としたら大事なので、誠司は頃合いを見計らってしゃがんで地面に下ろす。
その瞬間、弾かれたようにコタロウが走り出した。まるで、風のようだ。リードを落とさないように付いていくのが精一杯。
飼い主のことをまったく考えていない、自分本位な動き。
しかし、誠司はそれを叱るでもなく、諾々とそれに従った。
病み上がりのコタロウの元気な姿が見れてほっとしたというのもあるし、概ねいつも通りの動きでもあったからだ。
そして、それに付き合う誠司には喜びがあった。
もちろん、時間的なことを言えば散歩に行かないほうが余裕はできる。朝は出勤前で、一時間ほど早く起きねばならない。夜も、必ず定時で帰るようにしている。
だが、そんな苦労はまったく気にならない。飼い主の義務だから。あるいは、毎日の習慣になっているからというのもあるが、それは一面的な物の見方だろう。
単純に、外に出てはしゃいでいるコタロウを見るのが好きだった。
尻尾を上げて、植え込みに顔を突っ込むコタロウ。
たまにこちらを見上げて、走りたいという合図を出すコタロウ。
そんな仕草がユーモラスで、そして見た目もいいからか、人が多い時間帯に散歩をすると絶対に一度は擦れ違い様に「かわいいー」と言われるコタロウ。
内心で、当然だなとうなずく誠司。
他の犬を見つけると瞬時にテンションが上がって走り出し、その割に、犬よりも人間へ構ってと甘えるコタロウ。
すべて日常の、けれど、かけがえのない光景だ。
だから、ついつい30分以上も散歩をして回ることになる。寒くても、コタロウが望む以上、切り上げることはない。
いや、これでも、昔より短くなっているのだ。以前なら、一時間近く散歩をしていた。寄る年波には勝てないということか。
しかし、今日に限っては、散歩が短くて良かったと言えるかもしれない。
「あっ、セージくん!」
誠司の視線の先には、金髪の美少女――有朱がいた。
こちらに気付いて顔を上げると同時に、もたれかかっていた壁から離れ駆け寄ってくる。
喜んで飛び上がるコタロウをなだめながら、誠司はあの日を思い出していた。いじめに思い悩み、助けを求めてきたあの日を。
しかし、今は対照的に有朱の瞳は輝き、白い息を吐きながら近づいてくる表情には希望と期待が満ちあふれている。
ただ、そこに仄かな緊張も見え隠れしていた。
「有朱……。どうかしたのか?」
「どうかって、決まってるじゃない」
不満気に頬を膨らませ、誠司の鈍感さをなじる。それでさすがの誠司も、今日がバレンタイン当日であることを思いだした……が。
来るにしても夜だと思っていたため、意外そうに有朱を見つめるのは変わらない。
そんな誠司に、有朱は「相変わらずなんだから」と嬉しそうに微笑み、しゃがんでコタロウの頭を撫でる。構って欲しそうにしていたのを、彼女も感じていたのだろう。
少女と小型犬がスキンシップを取る姿を、誠司はしばし見つめる。
有朱が身につけているのはだぼっとした紺色のセーター。胸元のリボンは短め。靴下は、くしゅっとさせてたるませている。この寒さにもかかわらず、スカートも短い。そのすらっとした足を惜しげもなく晒していた。
いかにも、今時の女子中学生といった出で立ち。余計なアイテムが無い分、素材の良さが際立つ。
「でも、今まで朝から来たことなんかなかっただろ」
「だって、セージくんの出勤時間に合わせてたら遅刻だし。その前にセージくんの家に行ったら、怒られそうだったし」
「なるほど。その通りだな」
その展開は、誠司自身容易く予想できた。
ならば……と、誠司はコタロウを抱き上げながら考える。
「それなのに、今年に限って朝早くから来たのは、どういう理由だ?」
「だって今年は、放課後まで待ってたら、一番に渡せないでしょ?」
「……ミューラが早起きして、既に渡している可能性もあったんじゃないか?」
「それはないわね。うん、それはない」
実際、なかった。
である以上、誠司も認めざるを得ない。
「確かに、ミューラからはチョコをもらってはいないな」
「ふふふふふ。アタシの目に狂いはなかったわね!」
嬉しそうにヘイゼルの瞳を輝かせ、有朱は背負っていたスクールバックからチョコレートを取り出した。
アルファベットがプリントされた、大人しめの包装紙。だが、それに巻き付けてあるリボンには、クリップでハートマークが留められている。
「今年も、本命だからね!」
まったく気後れは見せず、完全に自然体でチョコレートが入った箱を誠司へと差し出す。断られるはずがないと、自信に満ちあふれている。演技でも、演技でなくても見惚れるような所作。
ヘイゼルの瞳で見つめられながら、誠司はそれを受け取った。
「ありがとう。だが、気持ちは受け取れない」
「はやっ」
しかし、有朱の自信はあっさりと打ち砕かれた。
「毎年のことだろう」
「今年こそ、いけるかなって思ったんだけど」
「その自信の根拠が知りたい……。いや、言わなくていい」
一回りも年齢が違う……というのはさておき。相手は、どんなに大人びていても、モデルや声優として働いていても、中学生は中学生だ。
相手から熱烈に求められても、大人がそれを受け入れるわけにはいかない。
こんなやり取りをあと何年か繰り返せば、そのうち、関心も失うだろう。誠司はそう考えているし、実際に口にもしている。
ただ、最近は、もしかして甘い考えなのではないかと疑念がつきまとってもいるのだが。
「ふふふ~ん」
そして、そんな思考を見透かしたかのようにいたずらっぽく微笑む有朱。小悪魔という存在が本当にいるのならば、きっとこんな容姿をしているのだろう。
「目的は達したから、がっこー行ってくるわね」
「まだ早くないか? 上がっていっても構わないぞ」
「え!? 家に誰もいないから、上がっていけって?」
「まあ、人道的配慮だな。あと、誰がいなくても、コタロウがいる」
冬空に有朱を放り出すわけにはいかない。それだけだと、ただでさえも細い目を細めて言った。なお、ミューラに関して触れなかったのは、いつもならまだ寝ているからである。
「ん~。かなりそそられるお誘いだけど……。がっこーで勉強しておかないとね」
「そうか」
本当の理由は他にあるのかも知れないが、勉強を理由にされてはこれ以上はなにも言えない。
「なら、気をつけてな」
「うん。セージくんも、チョコの感想を後で聞かせてね! 授業中でもいいよ!」
「良くない」
「えへへ」
その可愛らしさで男を翻弄する、いつもの態度とは違う。年齢相応のはにかんだ笑顔を浮かべる有朱。
それを目の当たりにし、誠司は、一瞬、動きが止まった。
しかし、すぐに再起動を果たし、事務的な言葉を伝えようとする。
「そういえば、有朱」
「え? なに? やっぱりアタシと付き合いたいの?」
「世間体が悪すぎる」
そろそろスーツを着た勤め人の姿も見かける時間帯になっている。そんな中で制服を着た美少女に言われたい台詞ではなかった。
もちろん、二人きりなら歓迎するという意味ではない。
「いや、今週末のどちらか、時間が取れるようなら来て欲しい――」
「行く!」
「――と、ミューラが言ってたんだが」
「えー? ミューラが?」
なんの用事だろうかと、有朱は首を傾げる。だが、内容はどうあれ、チャンスを逃すような少女ではない。
すぐにスケジュールを思い出し、希望を伝える。
「日曜のほうが、いいかな」
「分かった。細かい話が決まったら、また連絡する」
一応ミューラに確認をしてからとしたのは、誠司らしい慎重さの表れだろう。
現時点は、ミューラが話をしたいということ。それに、少しふさぎ気味だったこと。そして、『わたしが、元の世界に帰る。その話になると思います』という言葉。
それら合わせて考えると、帰るまで、さらに時間がかかる。
そんな話になるのではないかと、誠司は理解していた。
「楽しみにしてるから!」
最後に輝くような笑顔を浮かべ、弾むような足取りで学校へと向かう有朱。
自分が失った物。もう、手に入らない物。それを当たり前に披露する有朱を、眩しい物のように誠司は見つめていた。
だが、それも長いことではない。
「ゥワンッ! ゥワンッ!」
その後ろ姿を見守っていると、コタロウが後足だけで立って、誠司の足を前足の爪で掻くようにする。
「ああ、悪い悪い」
抗議の声を上げた――文字通りの意味で――コタロウの頭を撫でてから、誠司は自宅へと戻っていった。
「おはよーございます、セージさん」
「ああ、おはよう」
帰宅後、有朱からの贈り物を冷蔵庫にしまった誠司は、いつものようにキッチンに立っていた。
前日からある程度仕込みをしているとはいえ、朝食と昼食を一緒に準備しなければならないので忙しい。
それでも、ぼんやりと起きてきたミューラと挨拶を交わし、洗面所へ誘導するのは忘れない。
しばらくして、洗面所で眠気を振り払ったミューラが戻ってきて、鼻をひくひくとさせる。
「ところで、セージさん。なんだか甘い匂いがするんですけど」
「ああ。チョコレートが残っているみたいだったからな」
せっかくなので、チョコを使ってフレンチトーストを作っていた。
鍋に牛乳とチョコレートを入れて、チョコレートを完全に溶かす。あら熱が取れてからタマゴを加え、あとはフレンチトーストを作るのと同じ手順。
チョコレート入りの原液に厚めの食パンをたっぷりと浸し、バターでじっくり焼き上がる。
粉砂糖をかけて、くし切りにしたグレープフルーツを添えたら完成だ。
「なるほどー。美味しそうですね!」
皿に乗せたチョコレートフレンチトーストを持ってダイニングテーブルへと移動する誠司を追って、にこにことしながらミューラも移動する――が。
「にょわわわわーーー」
その途中で、突然、奇声を上げて飛び上がった。
余りと言えば余りの行動に、誠司だけでなくコタロウまで目を丸くする。
「ウゥゥゥウワッフ!! ウォンッウォンッ!」
それどころか、コタロウは警戒して吼えた。
しかし、ミューラは気にしていない。
「ちよこれいとおぉぉ!?」
それは、ほとんど野生動物の雄叫びだった。少なくとも、王女が出すべき声ではない。冷蔵庫の扉を開いたまま、その場に崩れ落ちた。
「チョコがどうかしたのか?」
「え? だって、うう、えええ……なんて……こと……」
無視もできず誠司が問い質すが、答えにならない。
「分かったから、ひとつずつ言ってみようか」
恐らく、事象が重なりすぎて混乱しているのだろう。思考の秩序を回復させるため、物事を整理してやる。
デカルトも二階堂蘭子も言っている。困難は分割せよ、と。
「早起きして、セージさんにチョコを渡すつもりだったのに……」
「寝過ごした……のではなく、いつもの時間に起きてしまったと」
こくこくと首を縦に振り、涙目になりながら肯定する。
それは残念なことだが、今の今まで忘れていたのはどうなのか。
――とは、言わない。というよりも、この落ち込みようを見ると、言えない。
「ううううーー。しかも、これですよ、これ!」
冷蔵庫の扉を開けっ放しにして台所に崩れ落ちたまま、ミューラが上を指さす。もちろん、自分がナンバーワンだと主張しているわけではない。
その指先にあったのは、有朱が誠司に贈ったチョコレートだった。
「ああ。散歩の帰りに、有朱と会ってな。その時に受け取ったんだ」
「うう……。そんな……。アリスちゃん、油断も隙もありませんよ」
「油断して寝坊をし、隙を見せまくっただけなのではないだろうか……」
「その上、このままだとセージさんから先にチョコレートをもらうことになるじゃないですか!」
誠司の正論は聞き流し――あるいは、本当に聞こえていないのかもしれないが――ミューラはすっくと立ち上がった。
そして、冷蔵庫から自分のチョコレートを取り出すと、誠司の目の前に移動する。
「セージさん!」
「あ、ああ」
「日頃の感謝とか、愛情とか、いろいろな物を詰め込みました!」
腰を折り曲げた格好で目をつぶって、チョコレートの包みを差し出すミューラ。
ハートマークがプリントされたピンクの派手な包装紙。そこへさらにリボンがかけられているが、ややたるんでしまっている。
包装紙自体も、折り目が曲がっていたり、微妙に歪んでいた。
お世辞にも綺麗とは言いがたいが、それが逆に心を暖かくさせる。
「ああ……。ありがとう」
少しだけためらってから、誠司はミューラのチョコレートを両手で受け取った。
こんな時に、どんな顔をすべきなのか分からない。だから、いつもと変わらぬ無表情で。
「ふう……。いろいろと予定とは違いますが、やり遂げました」
「じゃあ、食事するか」
フルマラソンを走りきったかのような達成感のある笑みを浮かべるミューラへ、誠司は事務的に告げる。余韻もなにもないが、朝の時間は黄金よりも貴重だ。
「はい! いやぁ、危なかったです。セージさんにチョコを渡す前に、わたしがチョコを受け取ってしまうところでした」
ミューラのチョコをダイニングテーブルに置き、コーヒーメーカーから黒い液体をカップに注いでいた誠司は苦笑する。
そのつもりはまったくなかったのだが、確かに誠司からミューラへのバレンタインチョコになっていた。
難しいものだと思いつつ、淹れ立てのコーヒーを持った誠司が自分の席につ……こうとして、二種類のチョコレートが存在していることに今さらながら気付く。
それらを見比べ、誠司は冷蔵庫にしまっていた有朱のチョコレートも取り出してチョコレートを三つに増やした。
そして、自分の席に置いていたチョコレートフレンチトーストをミューラへと移動させた。
「……まさか、わたしのチョコが、セージさんをそこまで感動させていただなんて」
「ミューラは、サバイバビリティが高そうだな」
訂正するのも面倒だったので、誠司はなにも言わなかった。
せっかくだから、ミューラと有朱のチョコレートを朝食にしようと思っただけだ。他意はない。
「まあ、こっちは気にせず暖かいうちに食べるといい」
「セージさんが気になりますが……いただきますぅ」
食欲に負けたわけではない。
ただ、暖かい物は暖かいうちに食べるのが作法。いや、礼儀だ。
つまり、敬意を表しているだけなので、誰が悪いわけでもない。正当な行いだ。問題ない。なにも問題はない。
そう自らに言い聞かせながら、ミューラは器用にナイフとフォークを操って、一口大――と言うにはやや大きめ――に切り分けて、チョコレートフレンチトーストを口に運んだ。
その途端、口の中に得も言われぬ香りが広がった。
チョコレート、ミルク、バター。それに、砂糖。
甘く濃厚で、幸せな味だ。こんがりとしていながら、ふっくら。焦げ目も香ばしい。チョコレートの苦みも、いいアクセントになっている。
「チョコレートって、こんなに美味しい物だったんですね……」
うっとりとしながら、ミューラが頬に手を当てた。
残ったチョコレートで味見をしてはいたが、やはり、誠司の手による一品は格別。
大切に、ゆっくりと、まさに噛みしめるようにトーストを咀嚼する。その度に、心が満たされていく。寝坊をしてしまった、有朱に先を越されてしまった。
それがなんだというのだろう。
ああ……。甘くて、美味しくて幸せだ。すべて世は事も無し。
次に、ミューラはグレープフルーツをフォークに刺して口に運んだ。
正直、酸っぱいので余り好んではいないのだが、無駄に誠司が付け合わせするはずもない。
「うんんっ。お口がさっぱりしますねっ!」
口の中が甘いため、酸っぱさがむしろ心地好い。この組み合わせなら、いくらでも食べられそうだ。
二皿? さらに倍でも問題ない。
おまけに、覚醒作用でもあったのか。頭がクリアになり、わずかに残っていた眠気とも吹き飛んだ。
同時に、ミューラへ天啓が降ってくる。
唐突に理解した。誠司とは、チョコレートとは。
「あっ、でもそうですよね。うんうん。そういうことですか」
なにに気付いたというのか。ミューラが、あっさりと機嫌を直した。
「どういうことだか分からないが、まあ、納得したのならそれでいい」
「ダメですよぅ。ちゃんと聞いてください!」
「話したいのなら、止めはしない」
いつも通りの対応。
しかし、今回に限っては悪手だった。
「バレンタインデーは、女性から愛を伝える日ということですが、最近は、いろいろな形態があるそうですね?」
「ああ。主に、間口を広げて需要を拡大する意図があるのだろうな」
誠司の冷淡な解釈。
しかし、ミューラはそれをまるっと聞き流す。というより、誠司に相づち以上のなにかは求めていないのだろう。
「そうなると、男性から女性へチョコレートを贈っても問題ないのではないでしょうか? いえ、ありません」
理屈としては、今のところ破綻はない。出発点がまずおかしいという意見もあるだろうが、それを言ったらこの話自体が成り立たなくなるので脇に置く。
反語で強調するほどの話だろうかと思いつつも、誠司は黙って続きを待った。
「つまり、セージさんは、わたしにだけ。このミューラ・シルヴァラッドだけに愛を伝えたかった。そういうことになりますよね!?」
「……確かに、そういう解釈も、できなくはないな」
やはり、理屈としては破綻していない。
始点と終点が間違っているという点を除けば。
「わたしが悪かったんです。素直じゃないセージさんが相手なんですから、その辺はわたしが、このミューラ・シルヴァラッドがくみ取ってあげないといけなかったんですよね」
うんうんとうなずきながら、チョコフレンチトーストをまた一切れ頬ばる。
とてつもなく満足気で、幸せそうだった。
もしかすると、誠司の一番の理解者は自分だとでも思っているのかもしれない。
一方の誠司は、苦い顔だ。ブラックコーヒーを胃に流し込みながら、どうやって否定すべきか考える。
しかし、事実――チョコレートが余っていたので――という説明は、既にしている。重ねて言ったところで、ミューラには通用するまい。
かといって、「そうだ。ミューラにだけ、気持ちを伝えたかったんだ」と言った日には既成事実化してしまう。
つまるところ軽率な行動だったわけで、どうしようもない。
「……俺も、チョコを食べるかな」
有朱とミューラ。
二人からもらったチョコレートを朝食代わりにすべく、誠司は包みに手を伸ばす。まずは、もらった順番に有朱のチョコレートから。
しかし、その寸前で誠司の手が止まった。
出遅れた上に、有朱を先にしたらミューラが不機嫌になるかもしれないと思ったからなのだが、ミューラはなにも言わない。
それどころか、なぜか少し嬉しそうだった。
疑問を感じて、思わずミューラの綺麗なサファイア色の瞳を見つめてしまう。
「……なんですか?」
「いや、別に」
「あっ? 順番ですか? 問題ないですよ! 料理漫画だと、後から食べた方が勝つじゃないですか!」
「勝ち負けをつけなくちゃいけなかったのか?」
「わたしの中でだけ分かれば、それでいいんです」
どーぞどーぞと、ミューラが先を勧める。
それに乗っかったわけではないが、誠司は英字がプリントされたチョコレートの包みに手をかける。
クリップで留められたハートを外し、包装紙を破けないように解いていくと、箱が姿を現すが、ただの箱ではなかった。
箱の表面には透明なフィルムが貼られ、中身が見えるようになっている。
「むむむ。やりますね、アリスちゃん」
「見栄えがするな」
箱の中には、綺麗に並べられたハート型のチョコ。そのひとつひとつにアルファベットが、やはり、チョコレートで描かれている。
Love Forever。
順番に読むと、そう描かれていることが分かった。
中学生らしい純粋でストレートな気持ちが伝わってくる。応えるわけにはいかないが、決して煩わしく思ってなどはいない。
思わず、笑みがこぼれてしまった。若さとは素晴らしいものだと、素直に思う。
「なんだか、嬉しそうですねぇ……」
「嫌いではないからな」
「それ、チョコがですよね。変な含みはないですよね?」
「解釈は任せる」
「それが気になってるから、聞いてるんじゃないですかぁ」
何事も、簡単に答えが出てくるわけじゃない。世界は、そんなにシンプルではないのだ。
ミューラの抗議を聞き流し、誠司は「L」と書かれたチョコレートをつまんで口に運んだ。
「良くできているじゃないか」
湯煎自体に失敗したり、その途中で水などが入ってしまうと駄目になってしまうらしいが、そんな事はなかった。
甘さの中に苦みがあり、それがまた甘さを引き立てる。口の中で簡単に溶けていき、甘さが一杯に広がっていく。
ただ、少し甘ったるい。
別に苦みのあるチョコが好きというわけではないが、ミューラのように甘ければそれでいいというわけではない。
しかし、ここにあるのはチョコレートだけではない。
誠司は熱々のブラックコーヒーを一口啜った。
「ふう……」
思わず、溜息が出てしまった。
原産地が近いから……というのは別に関係ないだろうが、チョコレートとコーヒーの組み合わせはお互いを引き立て合う。
甘いチョコレートと苦いコーヒー。そのギャップに乗せられ、ついつい二個三個と手が伸びる。
もしかすると、有朱はこうなることを見越していたのかもしれない。伊達に何年もバレンタインデーを経験していないということだろう。
しかし、こちらだけ食べるわけにはいかない。半分ほど手を付けたところで、誠司はもうひとつのチョコレートへと視線を向けた。
「さあ、次はわたしのチョコですね!」
二皿目のチョコレートフレンチトーストに手を付けようとしていたミューラが、その雰囲気を感じて瞳を輝かす。
ミューラのチョコレートは、有朱のそれとは対照的だ。
クールでそつのない有朱とは正反対な、女の子らしい、ハートの包装紙。そこへかけられたリボンにも、悪戦苦闘の跡が見えた。
いかにも不器用なところが、逆に、愛情を感じさせる。
それも丁寧に剥がした誠司は、中身を取り出した。箱の表面には、折り紙が切り貼りされており、これまたカラフルで賑やかだ。
「ミューラ、頑張ったんだな」
「えへへ。この程度、苦労のうちには入りません!」
それでも、褒められて嬉しかったのだろう。
尻尾があったらぶんぶん振っているところだ。代わりに、足下でコタロウが尻尾を振っているのは、おこぼれが欲しいからだろう。
残念ながら、犬にチョコレートは御法度だ。諦めてもらうしかない。
「まあ、箱なんておまけです。開けたらびっくりしますよ」
自信満々に振る舞うミューラに若干の不安を感じつつ、誠司は蓋を開けた。
そして、息を飲む。
「これは、驚いた……」
驚いた。
本当に、驚いた。
有朱と同じようにハート型のチョコレートには、文字が書いてあったのだが……。
「ふむ。まったく読めない」
「えええ……。笑えない冗談ですよ。ちゃんと書いてあるじゃないですか! 文学的に! わたしの気持ちが!」
倒置法で強調するミューラを、誠司は前髪の向こうから細い瞳で見つめる。
そこには非難も共感もない。ただ理性の灯だけが宿っていた。
「ああ。確かに書いてあるな。恐らく向こうの言葉で、だが」
「おぅふ……」
銀髪の王女は、椅子から崩れ落ちた。本日二度目だ。コタロウが駆け寄り、ぴちゃぴちゃと頬を舐めるが、それへの反応はない。
そうだ。確かに、言語翻訳の魔法は停止していなかった。そして、秘密だと有朱にも見せなかった。
その結果が、これだ。
「や、やり直しを要求します!」
「クリスマスと違って、イブとかないんだがな」
「まだ、まだです。バレンタインは、まだ半日以上残っています!」
不屈のミューラが立ち上がり、まだ諦める時間ではないと拳を振り上げて主張する。
しかし、現実は残酷だった。
「残りのチョコなら、今、ミューラの糧になったばかりだが」
「なんて……こと……」
既に一皿平らげたチョコレートフレンチトーストを、恨めしげに見つめる。
美味しかった。
美味しかったけど、こんなに残酷なことはない。
「分かりました」
この惨劇に立ち向かうため、ミューラは決意を固めた。
「ならもう、あれです。行動で示せばいいんですよね?」
完全に目が据わっている。
自暴自棄になった人間の恐ろしさが、ひしひしと伝わってきた。
「ミスをカバーする熱意は認める」
「ううう。少しはうろたえてくださいよぅ。これじゃ、わたしが道化師みたいじゃないですか」
「そうでもない」
少なくとも熱意は伝わったと、誠司はミューラをなだめた。
けれど、ミューラは床に崩れ落ちたまま動こうとしない。
誠司は、なおも「うう……」と唸るミューラへ、根本的な質問を投げかける。
「ちなみに、なんて書いてあるんだ?」
「うう……。秘密です」
誠司に伝えるために書いたのに、秘密とは矛盾していた。
「そうか」
しかし、誠司は深追いをしなかった。受けなかったジョークを解説させるような所行を、誠司は好まない。それに、作っていたときはテンションが高かったので書いてしまったが、今になって冷静になると……ということもあるだろう。
特に、若いうちには。
「じゃあ、食べてもいいか?」
「……うう。どうぞ召し上がってください。いっそ、ひと思いに!」
介錯をするつもりはなかったが、自然な動作で口に入れる。
有朱と一緒に作ったのだから、味が極端に違うということはないはず。
それなのに、なんとなく個性が感じられるような気がする。
ミューラのチョコレートのほうが、有朱よりも柔らかく、甘いように感じられた。
それは錯覚かもしれないが、どちらにしろ、初挑戦とは思えない出来だ。
「うん。良くできてるじゃないか」
「ううう……」
「お世辞でも、気を遣ったわけでもないぞ?」
やや形が歪んでいるのはご愛敬。綺麗なチョコレートが食べたければ、市販品でいい。だから、これでいい。
「セージさんは、そんなことをしないって知ってますけど」
「しないというか、できないというか、するつもりもないというか」
「正直すぎますぅ」
だが、ミューラの機嫌は直ったようだ。
安心した誠司は、コーヒーを飲み干す。
しかし、それは早計だった。
「ところで、実力行使の約束がまだ履行されていませんが」
「約束した憶えはないし、行動で示すであって実力行使ではなかったはずだが」
そこには、天と地ほどの差があるはずだ。
「天と地の間で生きているのが、わたしたち人ですから」
「意味があるようでない言葉だな」
ばっさりと切り捨てると、誠司はもうひとつチョコレートを口に運んだ。
甘い。
甘いが、悪くない。決して、悪くない。
「まあ、文字は読めなかったが、言いたいことは伝わったような気がする」
「もう、仕方がないですね。セージさんは、本当に」
その一言で、ミューラはようやく立ち上がった。どうやら、復活したようだ。
「そういえば」
ミューラが椅子に座り直したタイミングで、誠司が口を開く。
「今度の日曜日に、有朱がうちに来るそうだ」
それを聞き、残るチョコレートフレンチトーストを口に運び――
「……あ」
――飲み込こもうとしていた、ミューラが固まった。
手にしていたナイフを落としそうになり、慌てて掴む。
明らかに不審な行動。
「どうかしたか?」
「いえ、あの……なんと言いますか……」
「言えないことなら、言わなくてもいいが」
誠司が気遣って言うが、なおもミューラから戸惑いは消えない。
「なんというか、その……」
言えないわけではない。言いたくないけれど、言わなくてはならない。
そんな雰囲気を醸し出しながら、ミューラはゆっくりと口を開く。
「こう、あれなんですよ。このペースで回復を続けたら……」
「たら?」
「なんだか、近々、帰れてしまいそうな気がするような。そうでもないような……? そんな感じなので、きちんとお伝えしたいな……というですね」
つまり、そういった話をしようと思っていたらしい。
誠司の理解とは、正反対の言葉。
「……近々というのは、どれくらいの期間の話だ? 年単位……じゃないな。何ヶ月ぐらい? そもそも、こっちに来たのは事故だったんだろう? 帰る手段に危険はないのか?」
誠司は、コーヒーカップを持ち上げながら聞いた。
声も表情もいつも通り。変わらない。表面上は、なにも変わらない。
ただ、いつもの誠司なら、決してこんなに質問を重ねることはなかっただろう。
「ええと……。今の状態なら、遅くても今週末には……」
「……そうか」
ぽつりと返事をしながら、誠司はコーヒーカップを傾けた。
だが、なにも起こらない。
それも当然のことだった。
コーヒーはとっくに飲み干していて、カップは空だったのだから。




