第五話 三つのチョコレート(準備編)
「セージくーん」
玄関を開けた途端、勢いよく飛び込んでくる有朱。
ツインテールにした細く柔らかな髪が、文字通り尻尾のように跳ね揺れる。
スクールバックを背負った金髪の少女が、その目鼻立ちのくっきりとした顔を180cmはあるだろう長身の青年に押しつける。まるで、匂いでも付けようとしているかのようだ。
「セージくん、セージくん、セージくん」
そうしても有朱の興奮は冷めやらず……むしろ、ヒートアップする。腕を腰に回し、全力でぎゅっと抱きしめる。親愛の表現にしては、いささか過激な。ほとんど愛の告白にも等しい行為。
「……せめて、ドアを閉めさせてくれ」
けれど、それを受けている誠司には、困ったような表情すら浮かんでいない。かといって、喜んでいるわけでもなく、迷惑がっているわけでもない。
ただただ、いつも通りの無表情。
なんとか、開きっぱなしになっている玄関の扉を閉めようと体の位置を入れ替えることだけに注力していた。
少しでもハグを継続したくてわざと開けっ放しにしている有朱との戦いだ。
しかし、相手が女子中学生とはいえ、全力を出されると振り払うのに苦労する。
「あんっ。セージくん、変なところがこすれてぇ……」
「俺を社会的に破滅させたいんじゃなければ、一刻でも早く離れてくれ」
「え? 二時間以内はオッケーなの?」
思わず顔を上げ、ヘイゼルの瞳を輝かす有朱。
学校の授業で、一刻イコール今の二時間とでも聞きかじったのだろう。そういう意味ではないと、誠司は細い瞳で有朱を見下ろした。
「不定時法だと、一刻の長さは一定じゃないんだぞ」
「まあ、アタシも露出狂じゃないからドアを閉めるのは別にいいんだけど……」
やって来るべき一人と一匹が出てこないので、さすがに不審に思ったようだ。語尾を濁しながら、有朱は部屋の奥を覗き込む。
特に、ミューラならより強い力で引きはがそうとするはずなのにおかしい。
ミューラが玄関に来たら悪ふざけは止めるつもりだったのに、それがなかったのでついついエスカレートしてしまったというのもある。
だから、アタシは悪くない。
そんな自己弁護をしていると、誠司を抱きしめる力が緩んでしまった。
「それは重畳だ」
その好機を逃さず、誠司はドアストッパーを跳ね上げて扉を閉めることに成功した。
「……セージさんから、離れてください」
タイミングを見計らっていたかのように、マンションの奥の部屋からミューラが姿を現す。
「セージさんを解放してください」
うつむき加減で、声もいつもよりも低い。ぞっとするほど……というわけではないが、朗らかないつものミューラと比べると、思わずぎょっとしてしまう。
心なしか、いつもは輝くような銀髪からは艶が失われているように見えた。
誠司に体を預けながら、ヘイゼルの瞳で顔を見上げて有朱が尋ねる。
「もしかして、食欲がないとか?」
「いや、そこは普通なんだがな」
世間一般における普通ではなくミューラにとっての普通なので、量はかなり多い……ということを、誠司と有朱は理解している。
その基準で考えれば、普通かやや少ない程度であれば、むしろ健康的とすら言えた。
一応、誠司には理由に心当たりはあったが、それを確かめることはできずにいた。
「となると、ちょっと原因が分かんないわね」
「それはさすがに、諦めが早すぎるだろう」
「もう、離れてくださいよぅ!」
いろんなものに耐えかね、思わず大声を出してしまうミューラ。
それで前髪が左右にばらけ、いつものサファイア色の瞳がまろび出る。肌はいつものように白いが、決して血色が悪いわけでもない。
いつものミューラになったと、有朱は内心で安堵する。
「ミューラは、本当にアタシをセージくんから引き離したいわけ?」
「俺の意見はどうなるんだ?」
「もちろんです。だから、離れてください」
「無視か……」
「だからミューラはダメなのよ」
「は? え?」
なんでわたしが怒られてるんでしょう? わたしは悪くないですよね? と、廊下の真ん中でミューラが右往左往する。
そんな異世界の王女へ、有朱は諭すようにして言う。
「アタシがセージくんに抱きついている間、セージくんの背中はどうなっているの?」
「はっ」
蒙が啓けたと言わんばかりに、ミューラがサファイア色の瞳を見開く。
そう、なぜ気付かなかったのだろう。誠司の背中は、無防備だ。しかも、身動きが取れない状態。
異世界の王女は今、パラダイムシフトを身を以て体感していた。
「アリスちゃん、今だけ師匠……って呼んでも良いですか?」
「今だけと言わず、ずっとでもいいわよ?」
「いえ、それは遠慮します」
それはそれ、これはこれ。そこはドライに返事をして、ミューラは誠司へ駆け寄った。
「というわけで、セージさん。お邪魔しますね?」
「駄目に決まっているだろう」
いい加減付き合いきれないと、誠司は力を込めて有朱を振り払った。というよりは、有朱が抵抗をやめたというほうが実態に近いか。
どちらにしろ、ようやく有朱は誠司から離れた。
誠司に惜しむ気持ちはない。正直、ほっとしていた。
「ちぇー。つまんないのー」
「あの……わたしが一方的に損をしているだけの展開なんですけど……? 補償とか、どこかで受けられませんか……?」
ミューラの訴えは、もしかすると正当なものだったかもしれないが、受け入れられることはなかった。タイミングが悪かったとしか言いようがない。
「あらら。コタロウまで、元気ない。風邪?」
そこに、少しふらつきながらコタロウが現れたのだ。しかし、尻尾は垂れ下がり、いかにも具合が悪そうだ。
「昨日までは、元気だったんだけどな」
よろよろとした、見るからにいつもと異なるコタロウの背中を撫でながら、誠司が心配そうに答える。定期的に通っている病院も行ったばかりなので、今は様子を見ているところだ。
「まあ、食欲はあるみたいだから大丈夫だと思う」
「そうねー。食いしんぼうのコタロウが食べられなかったら大事だし」
「そこで、わたしを見るのは、どうしてなんでしょうか?」
「自覚がないから見られてるんじゃない?」
小悪魔のような笑顔を浮かべ、有朱が家に上がる。
「さ、セージくんは出てった出てった」
「分かったから、せめてコートは着させてくれ」
以前にも同じことがあったなと思いながら、誠司は外出の準備を整える。
「ハンバーグの時も、同じようなことをやりましたね」
「そーね。でも、今日はアタシとしてもセージくんには出て行って欲しいかな」
思い出していたのは、誠司だけではなかったようだ。
今日は、目前に迫ったバレンタインデーに備え、女子二人がチョコレートを手作りする日。男である誠司に、居場所はない。
だから、出て行くのに異論はなかった。心配なのは、コタロウの様子ぐらいのもの。それも、二人がいれば問題はないだろう。
それは確かに妥当な判断だった。けれども、完全に理性的な判断とは言えない。
なぜなら、誠司は家から追い出されることに異論が無いどころか望んでいたから。
「じゃあ行くけど……。まあ、俺が言うのもなんだが頑張ってくれ」
「はい! お任せください」
「当日を楽しみにしててね」
「ああ。夕飯の材料買って戻るから、有朱も食べて行くといい」
そう言って家を出た誠司は、コートのポケットに一冊の文庫本を忍ばせていた。
『毒入りチョコレート事件』
1929年にイギリスのアントニー・バークリーが発表した、多重解決もののルーツにして今なお代表作であり続ける傑作だ。
多重解決ものは、ひとつの事件に対していくつもの解決が披露されるのが醍醐味で、下らないものもあれば、思わず唸らされるようなものもあり、幕の内弁当のような豪華さがある。
それは、以前読んだアシモフの『黒後家蜘蛛の会』と同じ。
とはいえ、作品の素晴らしさが自らの行いを肯定するものではない。それは誠司も分かっている。誰かに言われるまでもなく、よく分かっている。
もしこの本を持ち出したところを見つかったなら、非難を受ける……だけならまだいい。それどころか、十中八九ミューラや有朱を哀しませる結果となることだろう。
だから、見つからないよう外に出る必要があったのだ。
どうして、そこまでして読まなければならないのか。波風を立てないよう、我慢すればいいのではないか。
実に理性的で、大人な意見だ。正論だ。反論の余地がない。
けれど、読みたかったのだ。チョコレートと聞いたら、この『毒入りチョコレート事件』を。
その覚悟に比例するかのように、誠司の行動は迅速だった。前回のように書店へ立ち寄ることなく、一直線にショッピングセンター内のコーヒーショップへ入店。
ホットコーヒーを注文すると、窓際の席を確保し、まず一口。
暖かく、苦みがあり、芳醇な液体が全身へ浸透していく。
カフェインの効能により、意識が覚醒し、軽い興奮状態に陥った……気がする。
「さて」
高揚した気分のまま、誠司はページをめくった。
多重解決ものであっても、事件はひとつ。『毒入りチョコレート事件』はそのタイトル通り、毒入りのチョコレートによって引き起こされた毒殺事件をテーマにしている。
被害者は、ベンディックス夫妻。夫はなんとか一命を取り留めたが、ベンディックス夫人は帰らぬ人になっている。
事態を複雑化させているのは、新製品という触れ込みのチョコレートに、本来の受取人がいたことだろう。
そう、実際にこのチョコレートを贈られたのは、ベンディックス夫妻ではなかった。本来の受け取り主は、ユーステス・ペンファーザー卿。
ペンファーザー卿は突然贈られた試食用のチョコレートを無礼千万と破棄しようとしたが、偶然居合わせたベンディックスが妻へのプレゼントにとそれを欲した。
結果、ユーステス卿へと贈られた新製品のチョコレートは、ベンディックスの手に渡り――悲劇は起こったのだ。
こういった経緯から、犯人の目的はいくつかに絞られる。
ユーステス卿を狙ったもの。
こうなることを見越して、ベンディックス夫妻の両方もしくは、片一方のみを狙ったもの。
無差別な犯行。あるいは、意図せぬ事故ということも考えられる。
この難事件に警察も音を上げ、外部に事件の解決を依頼する。それが、アントニー・バークリーのシリーズ探偵シェリンガムが主宰する「犯罪研究会」。
所属する六人が七通りの推理を披露し、警察の推論も含めて合計で八通りもの推理が飛び出すおもちゃ箱のような作品だ。
ここまでが、導入部。その先は、「犯罪研究会」の面々が独自に調査を行い、一週間ごとに推理を披露する……という流れだ。
誠司が、もう一口、まだ温かいコーヒーを飲む。
カップにはまだ残っているが、これが暖かいうちに口にした最後のコーヒーになることだろう。
それを惜しいとは思わず、誠司は読み進めていった。
「さて、流れは掴めたわね? 次は、実践よ!」
「はい!」
またしても、動画で手順を確認した二人は、早速キッチンへと移動した。
コタロウは、いつものように入り口ではなく、コタツの近くでうずくまっている。心配だが、それなら早く片付けるのが一番だ。
「ところで、アリスちゃん。ひとつ提案があるんですが」
「なによ」
材料となるチョコレートやボウルをいくつか。それに、ゴムベラなどを並べながら、有朱は聞き返した。なぜ、これから作業をするという段階になってという気持ちもあるが、無視はできない。見落としがあったら大変だ。
「ただのコイン型チョコレートでは、面白くないと思うんです」
「そうは言ってもねぇ。生チョコとかトリュフとかケーキも考えたけど、無理でしょ?」
理想を言えば、もっと凝った物を作りたいし、贈りたい。しかし、今回はミューラとの共作。それを考えれば、ハードルは低いほうがいい。というよりは、低くしなければならない。
だから、有朱としては渡し方でカバーするつもりだったのだが……。
「そこは理解しています。高望みはしません。ええ、しませんとも」
やや無念さをにじませながら、ミューラが腕を振り上げ主張する。
「ですが、型抜きの型の形を変えることはできるのではないでしょうか? こう、いろいろな形を作るとか、愛が伝わる形にするとか」
「えー? 確かに、ハートとかはあるけど、重たくない」
「重たいというのがどういう意味か分かりませんが、セージさんには、分かりやすいぐらい分かりやすくしないと伝わらないと思います!」
「……それもそうね」
有朱は、その意見を採用することにした。
朴念仁……というよりは、分かっていて避けている誠司にがつんと迫るのは、実に結果が楽しみな趣向だ。
「じゃあ、まずはチョコを刻んでいくわよ」
「はい! そうと決まれば、行きますよ!」
「包丁を振りかぶるの、ほんとやめなさいって」
横から包丁を握るミューラの手を優しく包み込み、有朱が肩の力を抜かせる。このままでは、明らかに大惨事だ。
「アタシと同じようにね。セージくんのためよ」
ミューラの目を見ながら、有朱が真剣な口調で言う。
「はい。セージさんのために」
誠司のため。その一言でガラリと態度を変えたミューラが、有朱の手元を注視した。
まな板の上には、オーブンシートが敷かれ、その上にミルクチョコレートが載せられている。
有朱は包丁をしっかりと握り、左手をその背に当てて、真上から体重をかけた。それを何度か繰り返し、5ミリほどの大きにチョコレートが刻まれていく。
「アタシは真っ直ぐに刻んだけど、やりやすければ斜めになってもいいから」
「そうですよね。どうせ溶かすんですもんね」
「でも、大きさがまばらだと均一に溶けないからね」
「はい!」
とてもいい返事をして、ミューラは包丁を握った。目の前には、ミューラの分のまな板とチョコレート。
「呪文は使いませんよ、呪文は」
まるで自分に言い聞かせるかのようにしながら、チョコレートに包丁の刃を当てる。
続けて、左手で体重をかけ――ようとしたところで、体を後ろに引いた。まるで、一仕事終えたかのように。
「ふう……」
「ひと思いにやりなさい。ただし、包丁は振り上げずにね」
「はい!」
再び、とてもいい返事をして、ミューラは包丁をチョコレートに当てた。
「えいっっ」
そして、今度こそ左手で体重をかけ、チョコレートを刻んだ。
「やった! 切れましたよ!」
「はいはい。どんどん刻むわよ、どんどん」
「ふふふふふ。この程度、このミューラ・シルヴァラッドにかかれば児戯に等しいですよ」
上手くいったことに気を良くしたのか、リズム良くミューラがチョコレートを刻んでいく。手つきも、大きさも、問題はなさそうだ。
その様子を横目に見ながら、有朱は湯煎用のお湯も用意する。なかなか、忙しい。
「こんなもんでいいでしょ」
「やり遂げました……」
「まだ、なんにもできてないわよ」
オーブンシートから刻んだミルクチョコレートを二人分、ステンレスのボウルに入れる。そして、それをお湯の入った別のボウルに重ねた。お湯の量は、チョコレートが入ったボウルの底が付く程度。
このまま少し待ち、周囲のチョコレートがじんわりと溶けてきたら、ゴムベラで上下をひっくり返しながら、ゆっくりと溶かしていく。
「あー。甘いいい香りですねぇ。でも、これ、普通に溶かして固めるんじゃダメなんですか?」
「ダメじゃないわよ。味と見た目が悪くなってもいいんならね」
「それ、ダメじゃないですかぁ」
「じゃあ、変わってもらうわよ」
有朱はゴムベラをミューラに手渡し、混ぜる役目を交代する。
「お任せください」
「あ、お湯が入ったらやり直しだから」
「うううう。これ、導器魔法じゃどうしようもないですねぇ」
重圧に負けて魔法に頼ろうとするが、いい呪文がなかったらしい。有朱の手つきを真似、恐る恐る、上下をひっくり返すように混ぜていくミューラ。
「それにしても、チョコって美味しい物なんですか?」
「え? 今そこ……って。そうか。食べたことないのね」
「はい。こちらの風習ということで頑張っていますが、実は」
有朱が手作りチョコレートをミューラに渡したことはないし、誠司が作ったとも思えない。もし誠司が作っていたら、なんというか、いろいろと台無しだ。なので、その可能性は考えないことにする。
「人気のあるお菓子だし、少なくとも、セージくんがチョコ嫌いってことはないわよ」
「それは安心しました」
ゴムベラでゆっくりとチョコレートを混ぜながら、にへらっとミューラが笑う。
同性で、しかも美少女である有朱から見ても、ずるいと思わされる笑顔だった。
「ん~。これくらいでいいかな?」
温度計でチョコレートの温度を確認した有朱が、今度は冷水の入ったボウルへチョコレートのボウルを移す。お湯ではなく冷水で静かに冷まし、チョコレートの温度を下げたら、再び湯煎して温度を少しだけ上げる。
「動画でもやってましたけど、難しい作業ですよねぇ」
「テンパリングって言うらしいけど、こっちがテンパりそーよね」
そう言いながら、有朱は溶けたチョコレートをスプーンの反対側に載せてみる。しばらくすると、綺麗に固まった。艶も出ている。
「成功ね」
「やりましたね!」
「でも、完成じゃないわよ?」
今度は、そのチョコレートをオーブンシートに流し入れ、もう一枚のオーブンシートで挟んで伸ばす。あとは、冷蔵庫へ入れて10分ほど待つ。
チョコレートが固まるまでの間に、ブラックチョコレートを湯煎しておく。
「もう一枚別のチョコを作るんですか?」
「これで、文字を書くのよ」
「へー」
よく分かっていない返事をするミューラ。有朱の言うことを聞いていれば間違いないと、思考を放棄した結果だった。
そうこうしているうちに、最初のチョコレートが固まった。上にかぶせていたオーブンシートを慎重にめくっていくと、薄い板状になったチョコレートが姿を現す。
「すごい。チョコレートになってますね!」
「なんかこう、板チョコを溶かして、この形にするって、無駄な手間という感じがするけどね」
「そこは、セージさんのためですから」
「じゃあ、型抜きはミューラに任すわ」
「……これくらいできますよぅ!」
ハートを象った型を渡されたミューラは、大胆にもシートの上のチョコレート。その中心に型を押し込んだ。
やや柔らかめの粘土といった手応え。
「あっ、綺麗にできたんじゃないですか?」
型からハート型になったチョコレートを抜きながら、ミューラが喝采を上げる。
「これは予想外だわ」
「予想外って、どういうことですかぁ」
型抜き程度なら、ミューラにも可能だったようだ。調子よく、ハート型のチョコレートを生産していく。そちらはミューラに任せ、有朱は絞り袋の準備をする。
といっても、特に難しいことはない。
オーブンシートをコップに入れて円錐状にし、何度か折って中身が出ないようにする。そうしたら、先端の部分を細く切るだけだ。
「あ、クリスマスにも使ったやつですね」
「そーよ。これを使って、チョコに文字を書くのよ」
「……チョコ、小さすぎません?」
「一枚に一文字ずつに決まってるでしょ!」
「なるほどぅ」
絞り袋へ別に湯煎したチョコレートを詰めていく有朱を眺めながら、ミューラは考える。
どんなメッセージにするべきか。
これは思案のしどころ。
「そうだ、アリスちゃん。どうせなら、メッセージはお互い秘密にしません?」
「なるほど……。いいわよ。じゃあ、ミューラからやる?」
「もちろんです」
安請け合いしたミューラだったが、勝算はあった。
この地球へ来る前。故郷で愛読していた『黒髪の紗音』という小説があった。その24巻に、哀しくて切ない愛の告白があった。その台詞をメッセージにしようとミューラは決断する。
たぶん、誠司には意味が分からないだろう。
それを解説することで、会話が生まれる。そして、真意も伝わるはず。
二段重ねの完璧な作戦だった。
そうと決めたら、行動も早い。
「むむむむむ」
眉根にしわを寄せながら、ミューラが少しずつチョコレートを絞り出していく。
そんな風に顔をしかめたら、秀麗な相貌が台無し……とはならない。それだけ真剣で、想いを込めているように見えた。
そして、それは事実でもあった。
バレンタインデーは、乙女が気持ちを伝えるとっておきの日。
ならば、手抜きはできない。
「わたしならできます。セージさんを驚かせてみせます!」
微妙に方向性が違っている上に、根拠のない自信でしかなかったが、ミューラは揺らがない。
そして、これは少し先の未来の話になるのだが。
ミューラが作ったチョコレートを目にした誠司は、実際に、驚くことになる。
「やっぱり、シェリンガムの推理が一番しっくりくるな……」
すっかり冷めたコーヒーを啜りながら、誠司は一息ついた。
再読しても、やはり、途中の捨て推理が一番説得力がある……というか、好みの推理だった。それはつまり、ある意味読者も予想した結末ということなのだろう。
それに、シェリンガムのいかにも名探偵然としたキャラクターが言うだけに説得力もある。
そして、それが覆される快楽。これは、何物にも代えがたい。
作中では、これが恐らく真相と思われる推理が最後に披露され――そこで唐突に終わってしまう。狐につままれたかのような感覚がある。
すっきりしない……というわけではない。余韻がなく、ぶった切られたような。いわば、読む側の覚悟の問題か。
作中で真相が固定されていないため、海外ではクリスチアナ・ブランド。日本では芦辺拓が異なる解決を披露している。特に、後者は著者のシリーズ探偵が複数登場し、本家『毒入りチョコレート事件』と同じ趣向になっているのが面白い。
アントニー・バークリーがわざとこういった隙を作ったのかどうかは分からないが、どうやら純粋なパズラーに行き詰まりを感じていたのではないかと思われる。
つまり、『毒入りチョコレート事件』は、本格ミステリィの皮を被ったアンチミステリィでもあるのだ。あるいは、バークリーはこの時点で「後期クイーン的問題」の存在を感じ取っていたのかもしれない。
「後期クイーン的問題」とは、作中で探偵が提示した真相がメタレベルでないと保証できないこと。
そして、探偵が神の如き振る舞いによって事件を解決することによって、逆に事件を誘発してしまう問題の是非。大きく分けて、このふたつが議論の中心となる。
細かいことは気にするな! と言ってしまいたいところであるがミステリィの根幹を揺るがす問題であることには違いない。
なにしろ、誠司が愛して止まないエラリー・クイーンが罹患し、いろいろと迷走した問題なのだから。
それはそれとして、『毒入りチョコレート事件』は良くできている。
読み返して分かったが、途中で披露される“捨て推理”も、ただの賑やかしでは終わらない。読者へ、こういう可能性もあるんだと提示する役目を負っているのだ。
だから、途中で披露される偽の解決といえども気は抜けない。特に、会員の推理作家が提示した「実は、犯人は私自身だったのです」という“真相”は、マニアならひとしきり笑った後、身につまされること請け合いだ。
こうした構成の妙は、先に発表した短編がベースになっているからかもしれない。シェリンガムの推理が素晴らしいのは当然で、その短編の時の解決がまさにそれだったからだ。
その完成した作品を解体し、こうした長編に構成し直したのは、どういう意図があったのだろうか。もしかしたら、もっと自由なものだと言いたかったのかもしれない。
神の如き智謀で真相を特定しなくてもいい。
探偵も人間だ。失敗したっていい。そうだ。「長編には向かない探偵」と自称するメルカトル鮎だって、最後の事件では大変なことになっている。
ミステリィの可能性は無限だ。ひとつの型に拘泥することはない。
『毒入りチョコレート事件』が発表されてから90年近く。本格ミステリィは数多く出版され続けている。品を変え形を変え、京極夏彦が言った通り「浜の真砂は尽きるとも世に本格の種は尽きまじ」だ。
最後の解説まで読み切った誠司は、ぱたりと本を閉じる。
「要は、ミステリィの可能性を信じた……ということかな」
パズラーだけがすべてではない。ミステリィの裾野は広く、読者は寛大であると信じた。その結果が、今の興隆につながっている。
綺麗に言えば、そういうことになるのだろう。
そして、その言葉は誠司自身にも降りかかってくる。
数日後には贈られることになるだろう、ふたつのチョコレート。今、ミューラと有朱が作っている――もうすぐ、作業も終わりだろうか――手作の品。
それが美味しくできあがる可能性。
それを信じ、しっかりと感謝の念を伝える。
誠司以外の誰にもできないことだろう。
「最初で最後になるからな……」
頭に「たぶん」も、最後に「だろう」も付けず誠司は小さくつぶやいた。そこにはいかなる情動も感じられず、ただ事実を指摘しただけという響きがあった。
仮になんらかの感情がこもっていたとしても、すっかりと冷め切ったコーヒーと一緒に飲み込まれてしまい、外からはうかがい知れぬものになってしまった。




