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第四話 憂鬱な王女のための

「はあ……」


 土曜日の昼下がり。

 コタツに入った銀髪の美少女が、物憂げにため息を吐いた。


 異世界に存在するシルヴァラッド森林王国の第三王女、ミューラ・シルヴァラッド。転移魔法の大成功(・・・)により――彼女にとっての――異世界である地球へやって来た少女。


 しかし、転移した直後にすら、こんなに憂鬱そうな表情を浮かべたことはなかった。


 天真爛漫で、純真無垢。異郷にあっても笑顔を失わず、前向きに生きてきたミューラ。


 それが今や、宝玉のようなサファイア色の瞳はメランコリックに潤み、細く白い指は意味もなく美しい銀髪をもてあそんでいた。

 幼いが整った相貌には、まるで恋に悩み疲れたかのような陰をまとっている。


 そのアンニュイな姿は、それはそれで魅力的だった。


「はあ……」


 またしても深くため息を吐き、電源の入っていないテレビ画面を見つめた。いや、実際に見ているのは、もっと他の物なのだろう。


 それが一体なんなのか。そこまでは、誠司にも分からなかった。


 なにしろ、ここ数日、こんな具合に物思いにふけっているのだ。

 最初は心配して声をかけたが上の空で、あまり構って欲しくないようなので今では放置に近い状況になっていた。


 ミューラ自身か、時間が解決する問題だろう。


 誠司としては、気がかりではあるが、そこまで深刻には捉えていなかった。


 理由は極めて単純で、ミューラの食事量が然程変化していないからだ。さすがにいつもと同じというわけではないが、恐らく一般的な範囲に収まっているはず。

 要するに、いつも大盛りなところが普通盛りになったという程度の変化。


 これを異変と解釈するのは、少し無理があるだろう。


 それに、三浦家には誠司よりも有能なセラピストが存在する。


「クゥゥンン」


 暇そうにしていた三浦家の愛犬コタロウが、コタツに入っているミューラの脇腹を鼻先で突く。


「…………」


 すると、返事はしなかったが、手はミューラの銀髪からコタロウのふわふわの体へと移動した。そして、さわさわと触れるか触れないかの微妙な手つきで背中を撫でる。


「フウゥゥン」


 それに満足したのか。コタロウはその場に寝っ転がり、ミューラに向かって白いお腹を晒した。服従のポーズなのか、単純に自分の気持ちが良いところを撫でさせようとしているのか。

 どちらかは分からないが、とろんと目を細めているところからすると、ミューラの奉仕に合格点は与えているのだろう。ミューラも、逆らうことなく、今度は少し強めにお腹を撫でている。


 その光景を黙って見つめていた誠司は、大丈夫だろうと、軽くうなずいた。


 女性には、女性特有の悩みがあるものだ。


 誠司に話にくいようであれば、有朱もいる。無理に聞き出そうとして、こじらすことはない。


 そう判断した誠司は、安心して読書に集中することにした。別に本を読みたいから思考放棄したとかそういうことではない。決して。


 180cmはある長身をリビングのソファに沈め、タブレットを操作してお目当ての本を呼び出す。


 それは、『レンズマン』という古いスペースオペラのシリーズだった。


 古いというのは、比喩でもなんでもない。一巻が上梓されたのは1937年。今から80年も前の作品だ。


 作者であるE・E・スミス――博士号を持っていることからドク・スミスとも呼ばれる――は、偉大なスペースオペラの父だ。この『レンズマン』シリーズとそれに先立つ『スカイラーク』シリーズがなければ、スペースオペラというジャンルが存在していたか疑問符が付く。


 誠司は、『スカイラーク』シリーズは読んだことはなかったのだが、なぜか『レンズマン』シリーズは読んでいた。この前、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を手にしたときのように、深い理由はないのだろう。


 単純に、電子書籍のストアで目に付いたから買っただけ。電子書籍は、空間を圧迫しないのがいい。財政の圧迫については考えないことにする。


 それに、『レンズマン』シリーズ自体――記念碑的作品であるとはいえ――基本的に娯楽作品であり、手にするのに然したる動機は必要ない。


 人類が銀河系の様々な星々に進出している、遙かな未来。


 それに伴い、犯罪も宇宙規模へと広がっている。


 宇宙海賊などに対抗するため組織されたのが、銀河パトロール隊。


 銀河評議会に並ぶ権力を持つ組織の中核を担うのが、レンズマンだ。宇宙という広大な領域で活動するため、レンズマンには大きな権限を与えられている。


 それだけに、レンズマンに任命されるのは非常に狭き門だ。


 宇宙中から選抜された100万人の若者たち。

 そこから、レンズマンとして任命されるのはわずか数十人。


 主人公キムボール・キニスンは、さらにその中でも主席としてレンズを与えられたエリート中のエリートだ。


 手の甲に輝くリングに収められた“レンズ”は、レンズマン一人一人に合わせて作られた専用品で、装着者の精神力を飛躍的に高めるパワーを持つ。

 そして、本人以外は取り外すことはできず、奪われレンズマン以外が身につけたなら数秒で死亡してしまう。


 要するに、レンズマンの無謬と絶対を担保するアイテムだ。


 そのレンズを作ったのは、この銀河で最も高い知性を持つ善なるアリシア人。


 他にも、有翼のドラゴンのようなヴェランシア人。ドラム缶状の肉体で触手を持ち、高度な空間把握能力を有するリゲル人。冷血生物のパレイン人などといった、魅力的で時に理解しがたい異星人たちもレンズマンとして活躍する。


 ストーリーの骨子は単純な勧善懲悪だが、多彩な宇宙人との遭遇や主人公キムの見事な潜入工作。そして、インフレする兵器、次々と出てくる新たな敵など見所はたくさんある。


 なにより、ミステリィと違って頭を使う必要がないのがいい。これこそ、誠司が『レンズマン』シリーズの再読を決めた理由だった。


 税理士事務所に務める誠司は、一年で最も忙しい時期を過ごしている。ただ資料をまとめ、計算し、提出すればいい……というわけではない。


 締め切りと戦いながら、顧客ともやり合わねばならないのだ。


 例えば、この日までに通帳の写しを用意してくださいと依頼しても、平気で遅れる。少しぐらいなら大丈夫だと思った。


 なるほど。そちらにも、いろいろ事情があるのだろう。


 だが、遅れても大丈夫かどうか判断するのは、こちらだ。というか、遅れても大丈夫ならわざわざ日付を指定しない。


 他にも、提出してもらった資料に不足がある。作業を進めている途中で、「実は……」と話を覆す。


 繁忙期だけに、そういったトラブルが積み重なり、結果、誠司の精神を疲弊させるのだった。


 そんなときには、なにも考えず、ストレス解消のためだけに本を読みたくなる。


 そこで思い浮かんだのが、『レンズマン』だった。


 80年も前の作品だ。ドク・スミスには第一次世界大戦の従軍経験もある。そんな時代の作家が書いた作品も、主人公側が圧倒的に強い。悪役が可哀想になるほど強い。


 戦艦の主砲から始まり、兵器の威力がインフレしていくのもいい。太陽まで兵器化してしまうところまでいくと、スケールの大きさに思考が停止してワクワクしかない。


 それでいて、テレパシーが重要な武器になるところも新鮮だ。


 なにより、キムが潜入捜査がやたらと得意なところも面白い。


 十種類近く偽名を使い分け、シオナイトという最低最悪の麻薬を根絶させた……だけではない。銀河パトロール隊と敵対する悪の組織の本拠へ乗り込み、テレパシーを駆使してその独裁者にまで登り詰めてしまうのだ。


 これには、誠司も意表を突かれた。


 それと同時に、この辺りまでくると、「まあ、キムだしこれくらいはやるよね」という奇妙な信頼感もある。


 このレンズマンシリーズだが、外伝シリーズも存在する。


 第三巻『第二段階レンズマン』と第四巻『レンズの子ら』の間には20年の空白があり、外伝作品が生まれる余地が多分にあるのだ。

 本国でも、キムの盟友であり彼の子供たちの師となるヴェランシア人のウォーゼルやリゲル人のトレゴンシーが主役の外伝がドク・スミス以外の手で描かれている。


 そして、日本にも、『サムライ・レンズマン』という外伝作品が存在する。


 タイトルだけだと際物臭がするし、主人公シン・クザクは多大な権力を持つ独立レンズマンだが、ことあるごとに切腹しようとする“いかにも”なサムライ風キャラクターだ。


 しかし、そのステロタイプなキャラ付けが、レンズマン世界には合っていた。


 基本的にはシン・クザクが主人公として活躍するが、正伝の主人公であるキムにも出番はある。そして、シン・クザクのお株を奪わない程度に、活躍してくれるのだ。


 この辺り、ツボを押さえていて読んでいて嬉しくなってしまう。


「……どうかしたか?」

「いえ、なんだかセージさんが妙に嬉しそうだなと思いまして」

「そうか」


 どうやら、顔に出ていたらしい。だからどうということもないのだが、なんとなく気恥ずかしい。


 誠司は自分でも分かるほど仏頂面を浮かべ――つまり、いつも通りの顔で――再び読書に戻ろうとする。


 だが、ミューラがずいと体を近づけてそれを邪魔した。


 珍しい。


 滅多にない行動に、誠司は驚きを隠せない。


「……なにがあった?」


 疑問を一段引き上げて、誠司はミューラの顔を覗き込んだ。


 そこには、拗ねたような。それでいて、どうしてこんなことをしているのか分からないと戸惑う少女の姿があった。

 王女の気品も気高さも、今はどこかへ忘れてしまったようだ。それでもきちんと可愛らしいのだから、やはり、素材が違う。


「なんか……なんでしょう?」

「寂しくなったとか?」


 ホームシックになったことなどない誠司ではあるが、察するところがあったようだ。

 なぜ今にしてという思いはあるが、そもそも、今までホームシックらしきものにかかっていなかったのが、おかしいのかもしれない。


 誠司は、気遣わしげにミューラを見つめる。


「寂しいのは……あると思います」


 その視線に押され、ミューラは誠司から目を逸らしながらつぶやく。


 いつもの快活で、悩みのなさそうなミューラとは違う。儚げで、触れたら壊れてしまいそう。立体物にあまり関心のない誠司ですら、内心で感嘆の声をあげてしまうほど。


 ただ、ミューラが感じている寂しさの原因は、誠司の想像とは異なっていた。

 

「でもそれだけではないと言うか……。なんというか……言えません」

「そうか」


 誠司は、あっさりと首肯した。


 それは、「それなら、言えるようになったらいつでも言ってくれ」という意味での「そうか」だったが、どうひいき目に見ても無関心以外のなにものでもない。


「セージさんは、セージさんなんですからっ……」


 しかし、ミューラには真意が伝わっていたようだ。


「仕方がない人ですね」

 

 と、薄く微笑む。むしろ、そんな誠司を理解できるのは自分だけだと嬉しそうでもある。

 未だ完全復活とは言えなかったが、物憂げな雰囲気は影を潜めていた。同時に、ミューラの心も軽くなり……。


 くぅとお腹が鳴った。


「…………」

「…………」


 沈黙が、マンションのリビングを支配する。


「ワウゥン」


 なにが起こったのかと、コタロウが不思議そうに首を傾げた。さすがに、人間の感情の機微までは理解できない。

 理解できたとしても、家族に空腹だと知られてなにが悪いのかと共感には至らないだろう。腹が空いたのなら、食べればいいのだ。なにを憚ることがあるだろうか。


「これは、セージさん。違う。違いますからね? 違うんですから」

「俺は、なにも言ってはいないが……」


 食欲があるのは元気な証拠。これは、人間も動物も同じだ。

 だから、なんの問題もないはず。


 というか、慣れた。今さらだ。


「別に恥ずかしがることではないだろう。夕飯まで時間があるけど、なにか――」

「いえ、そういう気遣いは要りませんから。嬉しいですけど、要りませんから!」

「遠慮する必要はないんだがな」


 ミューラのことは、よく分かっている。


 作業の邪魔にならない程度に伸びた前髪の向こうから、そんな理解に満ちた優しい視線を向けられ、ミューラはその場にうずくまった。


 嬉しいけれど、今、そんな優しさを発揮しないで欲しい。


 正直、辛い。


「いっそ、殺してください……ッッ」

「それはいろいろと面倒なので受け入れられないな」


 恥ずかしそうに身もだえするミューラと、泰然自若とした態度を崩さない誠司。

 二人の温度差は、冬の屋外とコタツの中よりも酷かった。


 ダウンを喫したチャレンジャーのように、うずくまったまま動こうとしないミューラ。


 いくら反応がないからといって、さすがにこのまま放置して読書に戻ることはできなかった。大変遺憾なところではあるが、仕方がない。


 そんな思いは表に出さず、誠司はおもむろに口を開く。


「まあ、今すぐなにか食べたいわけじゃないというのは理解した」

「…………」

「その代わり、夕飯は、ミューラが好きそうな物を作ることにしよう」

「本当ですか!?」


 がばっと起き上がり、誠司へ顔をずいと近づけるミューラ。


「あ、いえ。これは、そのなんというかですね……」


 その手のひらの返しっぷりが、自分でもあり得ないと思ったのだろう。白いうなじまで真っ赤に染めて、なんとか言い訳をひねり出そうとするミューラ。


 誠司は、それを静かに見つめる。


「あの……。ええと……」

「…………」

「なんでもないです。はい」


 しかし、なにも思い浮かばなかったようだ。すごすごと、コタツへと退却していく。


「うう。コタロウちゃん……」


 そして、コタロウに救いを求めた。


 迷惑そうにしながらも、為すがままに撫でられるコタロウ。人間換算すれば、この場で一番年上――誠司とミューラ。そして、有朱の年齢を合算しても敵わない――らしい大らかさだ。


 誠司は、なにも言わず読書を再開した。肉やタマゴを常温に戻すのも、炊飯器のスイッチを入れるのもまだ後でいい。


 それまでに、あと一冊は読めるはずだから。





「べ、別にわたしが好きそうなメニューが気になっているわけじゃないんですからね!?」

「そこは、普通に気になってもいいところじゃないだろうか」


 夕方の散歩を終え、夕食の準備中の誠司が「どちらでも構わないが」と温度の低い返答をした。


 だが、意外なことに、誠司は気合いが入っていた。今は普通に見えるが、以前からミューラの屈託は気になっていたところだ。

 これで万事解決できるとは思っていないが、そのきっかけにしたいと考えていた。


 せっかく、こうして興味津々で覗きに来てくれているのだから。


「む~。セージさんは、乙女心が分かっていません。そんなだから、アリスちゃんにも怒られて呆れられるんですよーだ」

「だが、もし分かった上で、取っている態度だったとしたら?」

「それ……単に、最悪なだけ……では?」

「まったくその通りだ」


 もちろん、誠司に乙女心など分かるはずがない。完全に専門外。レンズがあればテレパシーで分かり合えたかもしれないが、アリシア人がそんなことでレンズを与えてくれるはずもない。

 それに、キムの先祖に行った仕打ちを考えると、人の心自体理解していないのではないかという疑惑もある。


 ……と、読んだばかりの『レンズマン』に思考が流れてしまうほど、誠司は乙女心に関心がなかった。


「まったく。セージさんは、わたしに鶏肉を与えておけばいいと思っていませんか?」


 誠司が取り出した鶏のもも肉。それに気付いたミューラは、乙女心方面の追及を放棄した。それどころではなくなったというのもあるし、それ以上に、追及しても成果が上がるとは思えなかった。


「違うのか?」

「そうやって真っ正面から聞かれると、答えに窮するところではありますが!」


 合っているじゃないか――とは、口にせず、誠司はももの一枚肉の厚みがある部分に切れ目を入れ、酒と塩で下味を付ける。

 この作業を、今回調理する三枚すべてに行っていった。


 その手元をいつものように対面式キッチンの向こうから眺めつつ、ミューラは頭を素早く回転させる。


 一体、なにを作ろうとしているのか。


 誠司は、既に一品――豚汁――を作り終えている。


 ダイコン、ニンジン、タマネギ。それに、ゴボウとネギがたっぷり入った冬のごちそう。しかし、これをわざわざ「ミューラが好きそうな物」と表現はしないだろう。


「いえ、もちろんそっちも好きなんですけど」

「……なんの話だ?」

「こ、こっちの話ですぅ」


 つまり、これから作るメインの料理が本命。


 誠司が、どの程度自分のことを分かっているのか。ミューラは確かめてやるつもりだった。


 そんな邪念に気付くことなく、誠司は淡々と準備を進めていく。


 キッチンペーパーで鶏肉の余計な水分を拭き取って、揚げ物用の鍋にサラダ油を注ごう――とし、ごま油の瓶に持ち替える。贅沢だが、たまにはいいだろう。


 そして、これだけでミューラは正体に気付く。


「なるほど。トンカツを鶏肉にした……チキンカツですね」

「まあ、外れではない」


 ごま油を入れた揚げ物用の鍋に火を入れながら、誠司は遠回しに認めた。この工程で否定するのも困難だ。

 本来であれば小麦粉とタマゴを使うところ、下手に残さないように天ぷら粉を使ってあげる予定だが、作ろうとしているのはチキンカツで間違いなかった。


 ただ、それが完成形とは言っていないだけ。


「そっちまでは跳ねないだろうけど、気をつけるように」

「はい!」


 いい返事だと口の端だけで笑い、誠司はパン粉をまぶした鶏もも肉を揚げ物用の鍋へとするりと入れる。温度は、160度ぐらいか。箸を入れると、気泡が泡立つ。


「ウォッウォッ!」


 驚いたのか、キッチンの入り口で監視していたコタロウが揚げ物の音に合わせて吼える。


 しかし、アピールをしても、今日のメニューにコタロウが食べられそうな物はない。いつものドッグフードで妥協してもらうしかなかった。


「揚げ物の音って、期待感を煽ってきますよね。美味しくなるから、覚悟しとけよ! って言ってるみたいです」

「そこまで期待されたら、食材も本望だろうな」


 頃合いを見計らって強火にしながら、誠司はチキンカツの様子を確認する。ここで失敗したら、すべてが台無し。

 ごま油の香りがキッチンに充満し、ふと対面式キッチンの向こうを見れば、ミューラが目を閉じて音と匂いでも調理を体感していた。


「……こんなものか」


 菜箸で取り上げ、揚げ色を確認。綺麗な、きつね色だった。少しだけ、コタロウの毛の色にも似ている。


「このまま食べたいって顔をしてるな」

「そ、そんなことはないですにゃ?」


 動揺して、語尾がおかしくなってしまった。ミューラは、恥ずかしそうに視線を明後日に向ける。

 口笛を吹いてごまかそうとしているが、上手く吹けていないし、ごまかせてもいない。そもそも、誠司は気にしてもいない。


「でも、なんで二人なのに三枚揚げたのか疑問に思っているはずだ。そして、もしかしたら一枚は味見用ではないかとも」

「セージさん、わたしの心を読んだんですか?」

「初歩的なことだよ、ミューラ」


 などと言うと、「初歩的なことだよ、ワトスン」とは正典では一度も使われていない! と、抗議を受けそうだが、面倒くさいシャーロキアンはこの場に一人もいなかった。幸運なことだ。


「しかし、余りの一枚は、明日の弁当に使うから。味見はできない」

「なるほど。チキンカツサンドですか~~」


 至福のランチタイムを想像し、ミューラは相好を崩す。しかし、それはすぐに憂色に染まった。すぐには食べられないという落胆にではなくだ。


 なにが憂鬱の種なのか。ここまで来ると誠司も気にならざるを得ない……が、聞き出すには、まだ武器が足りない。


 揚げ終えたチキンカツを休ませながら、誠司はタマネギを一個手にし、包丁とまな板を用意する。


「もう一品ですか?」

「いや、そういうわけではない」


 そのタマネギを薄くスライス。それから、エノキやシイタケがあったので、それも入れることにした。いい出汁が出ることだろう。

 エノキは石突きを切って房を分ける。シイタケも、同じく石突きの部分を取って切り分ける。


 次に、予め準備していただし汁を親子丼用の小鍋に注ぎ、しょうゆ・みりん・砂糖で味を付けたら火にかける。

 沸騰したらタマネギなどを入れ煮えるのを待つが、その間にもやることがある。


 誠司は、まずチキンカツを食べやすい大きさに切っていった。さくっと、あるいは、ざくっとした音がキッチンに響き渡る。


「ん~。音だけで美味しそうというか、もう、美味しいって分かりますぅ」

「さて、そのまま食べた方が美味しかったと言われないようにしないとな」

「信じています、セージさん」


 ミューラの期待は、裏切れない。


 だが、やることは変わらない。正しい手順を確実にやるだけだ。


 タマネギは、既に割り下の中で火が通っていた。


 常温に戻しておいた卵を溶きほぐしたら、切り分けたチキンカツを小鍋に並べ、もう一度沸騰するまで待つ。

 カツの端から少しずつ衣が出汁を吸い、少しだけ崩れていくのが分かる。それから、ミューラがじっとこちらを凝視しているのも。


 もう、いいだろう。


 再度煮立ったら、溶き卵をチキンカツの周りに流し込んだ。しかし、すべては入れない。

 タマゴが固まるまで待って、残りも投入。このタイミングで火も消してしまう。あとは、余熱で充分だ。彩りとして三つ葉を散らしたら、丼にご飯をついで、滑らせるようにしてその上に乗せる。


 同じ手順で、もう一杯作れば調理は完了。


「完成だ」


 こちらをじっと凝視していたミューラに声をかけ、食卓へと運んでもらう。

 キッチンに残った誠司は、豚汁を椀に盛り、冷蔵庫から常備菜を出してその後を追った。


「というわけで、これが『ミューラが好きそうな物』だ」

「こんなの……こんなの……」


 席に着き、湯気を立てる丼を見ながら、うめくようにミューラは言った。否、叫んだ。


「美味しいに、決まってるじゃないですか!」

「それは、食べて確かめるべきだな」

「そうします。いただきます!」


 もう我慢できないと、ミューラは箸を掴んでチキンカツを頬張った。


 ごま油で揚げたチキンカツの衣は、出汁にも負けていない。半熟卵を身に纏ったチキンカツは甘く、それでもサクサクで、中はしっとり。そして、鶏肉特有の脂が口の中に溢れる。


 親子でそろってミューラを魅了した。


「んんん~~~」


 一人でカツ丼を作ったときに誠司が考えていた通り、揚げたてのカツは、そのまま食べるのが美味い。オーソドックスにソースでも、塩でも。からしでアクセントを付けるのもいいだろう。


 しかし、甘辛の出汁で煮て、卵でとじたカツには、ただのカツにはない美味さがある。


 かりっとしたカツ――フライ特有の食感と、ジュワッと柔らかくなった衣を同時に味わえるのはこの形式だけ。


 そしてなにより、ずんと響く重量感と満足感がある。素材としては親子丼も同じなのだが、衣の油が出汁に染みこむ分だけ、よりこってりとした味わいが楽しめる。


「ふぁあ……。しみじみ、美味しいですぅ」

「空腹には、ちょっと重たいかと思ったんだが」

「いえいえ、ちょうどいい……って、別にわたしはハラペコってわけじゃなかったんですからね!」

「そういう設定だったな」

「設定じゃないですぅ」


 ミューラの抗議には答えず、柔らかな――非常に珍しい――微笑を浮かべ、誠司もチキンカツ丼に手をつける。


 揚がり具合は上々。気になっていたタマゴの半熟具合も申し分ない。かなり、ミューラ好みになっているはずだ。

 タマネギは邪魔にならず、エノキやシイタケといったキノコ類は異なる食感を与えてくれる。足しておいて正解だった。


 口直しで、豚汁も一口。


 暖かなスープを口に含めば、みそと出汁の香りに包まれる。隠し味程度だが、ショウガの風味もまたいい。ほっとする味だ。

 タマネギは箸で掴めないほどトロトロで、ダイコンも口の中でほろほろと崩れていく。豚バラの脂も、程良い旨味をもたらしてくれた。

 だが、豚肉はほどほどでいい。ミューラにはたっぷり、自分には少なめにして正解だった。そう誠司は静かに自らの決断を称える。


 正直、普通のみそ汁でもいいかなとも思ったが、ミューラのことを考えるとそうもいかない。肉食王女に喜んで野菜を食べさせるには、こういった工夫が必要だ。

 作り置きの常備菜である大豆と野菜の煮物に箸を伸ばしながら、誠司は自らの選択が正しいことを確信する。


 なぜなら、この野菜のおかずには手を付けず、チキンカツ丼――あるいは、親子カツ丼――を一心不乱に攻略するミューラがそこにいたから。


「はふっ、はふっ。あああ……。ご飯が、この甘辛な出汁の染みこんだご飯が。それでいてべちゃっとしていないご飯が最高ですね!」

「落ち着け。米農家を喜ばすつもりか」

「喜ばされているのは、いつもわたしのほうですが!?」

「それは確かにそうだ」


 実にもっともな話だと、誠司はうなずいた。相変わらず、正論には弱い誠司だった。


「もう、好きに食べればいい。いつも言っている気がするが」

「お構いなく!」


 そう言ってまた、ミューラは卵でとじられたチキンカツとご飯を順番に食べるだけの存在に成り果てた。


 一国の王女……というよりは、女の子としてどうなのかと思わなくもないが、誠司はほっと安心する。ミューラは、元気にご飯を食べてくれたほうがいい。


「まあ、元気になって良かったよ」


 気付けば、本音を吐露していた。

 しかし、言われたほうはたまったものではない。


「……え?」


 意外なことを言われたと、ミューラの動きが止まった。


「いろいろあるんだろうけど、悩みがあるなら聞くからな。まあ、話せるようになってからでいいから」

「え? あの? はい? というか、そのなんでこのタイミングで?」


 なんで今、こんなに優しくされたのか。それが分からないミューラは目を丸くする。

 しかも、相手は誠司だ。誠司が優しい。なんで? うずくまっておこぼれを待つコタロウを見ても、答えは浮かばなかった。


 ミューラが日本の刑事ドラマに精通していたら、「これ、取り調べだったんですか!? チキンだけどカツ丼なのはそういうことだったんですか!?」と大騒ぎだっただろうが、そんな機微は分からない。


 結果、ただひたすら混乱することになった。


 けれど、言いたいことを言った誠司は、それに答えず食事を再開する。やはり、熱いうちに食べなくてはもったいない。


 ミューラも、とりあえず、どうしようもないと食事に集中する……つもりだったが、どうしても、チラチラと誠司を視線で追ってしまう。


「ご、ごちそうさまでした」

「お粗末様」


 そのまま、会話もなく食事は終了する。


「セージさん……」


 ミューラが呼びかけるが、少し遅かった。


「ん? 今、デザートを持ってくるから」


 デザートは、先週も作った杏仁豆腐。

 杏仁霜(きょうにんそう)を使い切るため、定期的に作るようにしているのだ。


 ほどなくして、ガラスの器を持った誠司が戻って来る。


「いつもの杏仁豆腐だけどな」

「……いただきます」


 食べている場合ではないのではないか。


 そんな疑念が頭をよぎるが、誘惑には勝てなかった。スプーンですくって口に運べば、ミルクのような優しい甘みが広がっていく。


「あのセージさん……」


 その甘さにほだされたわけではないだろうが、スプーンを持ったまま、ミューラがおずおずと口を開く。


「…………」


 誠司はなにも言わず、急かすこともなく。黙って続きを待った。


「来週……いえ、再来週にアリスちゃんも一緒にお話をさせてください」

「俺は構わないが……」


 珍しく、誠司が言い淀む。


 良いか悪いかは分からないが、あまり明るい話題ではない。その雰囲気を感じ取ったからだろう。


「わたしが、元の世界に帰る。その話になると思います」


 ミューラが意を決して口にしたにもかかわらず、誠司の表情は変わらない。


 だが、息を飲んだ気配は伝わってきた。


 ミューラには、それが無性に嬉しく感じられる。不謹慎だとは分かっていても、感情を抑えることはできなかったのだ。

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