第三話 ミューラの一日
ミューラはただの妖怪食っちゃ寝じゃないよというお話です。
竹取物語の結末に触れていますので、(一応)未読の方はご注意を。
ミューラ・シルヴァラッドの朝は、意外かもしれないが、決して遅くはない。
転移魔法の大成功により、地球へやって来た異世界の王女。
それだけであれば、まだ気軽に外出も可能な身だったかもしれないが、気品のある可憐な容姿が許さなかった。
ウェーブのかかった、輝くようなではなく、実際に輝いて見える銀髪。それに、宝石よりも美しいサファイア色の瞳。やや幼いが、それだけに愛らしい相貌。それに反して、たわわに実った双球。
どれひとつとっても、ミューラの存在が非凡だと強調している。ゆえに、目立つことのできないミューラは、家の中に引きこもらざるを得なかった。
そんなミューラに、決まった時間に起きなければならない道理はない。
では、なぜ非常識ではない時間にきっちり起きてくるのか。
それはひとえに、家主である三浦誠司の生活リズムが健全であることに起因していた。
「おはよーございます、セージひゃん……」
「おはよう。顔を洗ってこい」
しゃきっと背筋を伸ばし、キッチンに立っている誠司。
既に、愛犬の散歩を終え、朝食と昼食の準備に取りかかっている。毎朝のことだからか、ミューラへの対応も調理の手と同じぐらい、淀みがない。
「コタロウちゃんも、おはようございまふ……」
「ゥワンッ! ゥワンッ!」
「うう……。コタロウちゃんは、朝からテンション高いですね。今日も寒いのに……」
結露対策で開け放たれた窓から入ってくる外気と、フローリングの冷たさ。
そして、それらをひっくるめても勝てない、凍えるような誠司の対応にもめげず、ミューラはふらふらと洗面所へと移動する。
「さあ、いきますよ!」
そして、気合いを入れて蛇口をひねった。勢いよく、冷水が流れていく。
それをしばし眺めてから、えいやっと水に触れた。これくらいしないと、この季節の水には立ち向かえない。
もっとも、本当に立ち向かう必要があったのかは疑問が残る。誠司に頼めば、給湯器をオンにして、お湯を使うこともできたはずだ。
しかし、ミューラはそんなこと知らなかったし、誠司がそこまで気が回るはずもない。というよりは、問題自体認識していない。
そのため、ミューラは今朝も冷水で顔を洗う。
とはいえ、それも悪いことばかりではない。
「つめたーー。ああ……目が覚めますぅ」
それだけで、肌が艶を取り戻し、生気がみなぎった。洗顔料など使う必要のない張り艶。
世の女性が知ったら、どんな魔法なのかと疑いと羨望の視線を向けられることだろう。そして、種も仕掛けも魔法でもないことを知り、羨望は絶望に変わるのだ。
そのままルーティンワークとして歯を磨き、丹念に髪を梳く。
やることは、基本的にそれだけ。身支度にかかる時間は20分もないだろう。女性としては短く、そもそも化粧品の類も使わないのに身支度と呼んでいいのか疑問が残る。
けれど、ミューラにとっては、それだけで充分。疑問はあっても、問題などなかった。唯一、それを知ったときの有朱の驚愕と憤りを除いては。
「お待たせしましたっ」
「待ってはいない。計算通りだ」
ミューラが戻ると、ダイニングテーブルには朝食の準備がすっかり整っていた。
毎日のことなので、誠司もミューラの身支度にどれくらいの時間がかかるかは把握している。そのため、準備は実にスムーズだった。
「あー。お腹減りました。晩ご飯と朝ご飯って、他と比べて間が空きすぎだと思いませんか? 朝ご飯とお昼ご飯、お昼ご飯と晩ご飯の間は精々五時間か六時間ぐらいなのに、晩ご飯と朝ご飯だとヘタすると半日になりますよ?」
「それを解決するには、睡眠をどうにかする必要があるな」
「悩ましい問題ですぅ……」
ダイニングテーブルにつくなり、ミューラがいかんともし難い問題だと心情を吐露した。
悩みの深さは、経済発展と自然保護のバランスをいかに確保するかという難題に苦心する為政者に匹敵するだろう。
「とりあえず、飯を食えば解決する問題だ」
「そうですね。対症療法も時には有効ですよね」
どれだけ深い悩みだろうと、蓋をしてしまえば表面上存在しなくなる。ミューラの意識は、ダイニングテーブルの上に並ぶ朝食に支配された。
炊きたてのご飯。
タマネギと油揚げのみそ汁。
焼きたてのアジの開き。
ホウレン草のゴマ和え。
そして、甘めの卵焼き。
完全に、和風の朝食だった。
銀髪の王女には似合わない。それどころか、相応しくない。
「いただきます!」
しかし、ミューラは大きな胸が張り裂けそうなほどの喜びを感じていた。それは、本能的な喜びだ。
まず、ミューラは、ホウレン草のゴマ和えに箸を伸ばした。小鉢に入っているすべてを無造作に掴み、口に運ぶ。
きゅむっとした噛み応えと、あえ衣の甘みが脳に覚醒を促した。噛む度に、意識がはっきりとしてくる。
ただ、ホウレン草のゴマ和えはミューラにとって前菜……いや、前座に過ぎない。異世界から来た王女は、好きな物を残しておくタイプだった。
ミューラは次に、みそ汁の椀を手にする。
「ふぁあぁ……。体中に染み渡ります……」
しっかりと出汁の効いたみそ汁が、食道を通って全身へ行き渡っていくような感覚。冬場のみそ汁は、舌ではなく、体全体で味わうものだ。
とはいえ、具に関してはまた別の話。
トロトロに溶けたタマネギは実にミューラ好みだ。
汁を吸った油揚げもまた、なんとも言えない満足感を演出する。大豆を発酵させた調味料のスープの具が、大豆の加工品という行いにもすっかり慣れた。むしろ、疑問を感じていたことが、疑問だ。
「おみそ汁美味しいです。セージさんのおみそ汁、毎日でも食べたいです」
「……そうか」
微妙な反応の誠司に気付かず――いつも通りと言えば、いつも通りなので――次に、メインであるアジの開きへと箸を伸ばすミューラ。
20cmほどと然程大きいわけではないが、一目で脂が乗っているのが分かる。その、骨がない側に箸を入れると、肉厚な身に箸が沈んだ。
やや大きめに身をほぐし、ご飯と一緒に頬ばる。
「んんん~~~」
適度な塩加減と、身の厚いアジの身。魚の脂を受け止める、白いご飯。噛めば噛むほど、甘みと旨味が口の中で爆発した。
どちらかと言うまでもなく肉派で、朝からステーキだって食べられるミューラだが、それが即ちアジの開きを否定することにはならない。
むしろ、この美味しさには一方ならぬ敬意を抱いていた。
干物は偉大である。恐らく、この国の成り立ちを描いた書物にも、似たようなことが書いてあるはずだ。
本能の赴くまま、アジを解体し、骨にくっついた部分まで綺麗に食べていくミューラ。
おもむろに味付け海苔に手を伸ばすと、アジの身とご飯を巻いて口へと運んだ。
「美味しいですぅ。これぞ、朝ご飯って感じですね!」
「うん……。そうか。まあ、喜んでくれているのなら、それでいい」
アジの開きから骨を取っていた誠司が、またしても微妙な反応をするもののミューラは気にしない。気にしている場合ではない。
熱々の卵焼きが、微妙に半熟で。これは焼きたてでないと味わえない感動だ。自然と、ご飯も進んでしまう。
というよりは、なくなっていた。なぜか。いつの間にか。
「おかわりか?」
「おかわり下さい!」
以心伝心。
――というわけではないが、誠司の問いにミューラは茶碗を差し出して答えた。
朝食を食べ終わり、誠司がコタロウに食事を与えたら、出勤だ。
「いってらっしゃい!」
「いってきます」
「アオーン」
有朱とともに贈ったマフラーと手袋を身につけ出かけていった誠司をコタロウと一緒に見送ると、家事の時間となる。
そう。最初は全部誠司が行っていた家事も、今では少しずつ憶えて料理以外はミューラが担当するようになっていたのだ。
まずは、洗い物。
誠司は調理をしながら洗い物を済ましてしまうので、流しには朝食に使った食器しかない。それをミューラは、お湯ではなく水で洗っていく。
しかし、早く暖かくなって欲しいとは思わない。
それは、別れの時が近づくことを意味していた……というだけではない。秘密にしてしまっているのだが、既に当初の予定を遙かに超えるペースで魔素は集まっていた。
当初の見込みである一年をどころか、今のペースでは春になる前に帰れてしまうかもしれない。
まだ、誠司にも、有朱にも言えないことだが。
「はい! 洗い物終わりです!」
沈んだ気持ちを振り払うかのように、ミューラはキッチンを出て洗濯機を回し、風呂掃除に勤しむ。
「もう、シャワーの使い方は完全にマスターしていますよ。わたしを水浸しにできると思ったら大間違いなんですからね」
それが終わったら、部屋の掃除だ。マイクロファイバーのはたきで――高いところは精一杯背伸びをして――ほこりを落とし、床はフローリングワイパーで拭く。
スキップするように軽やかなステップを踏むその姿は、草原をピクニックしているかのよう。
「あー。もう、毎日やってるのにコタロウちゃんの毛がまた取れてますよ」
「キュゥゥウウン」
そんなことを言われてもと、尻尾を下げるコタロウ。
「いいんですよ、コタロウちゃんが健康なら。お掃除は、このミューラ・シルヴァラッドが完璧にこなして見せますから!」
さりげなく恩を押し売りしつつ、掃除も完了。その頃には、洗濯も終わっている。
洗濯物の干し方だけは、少し変わっていた。
目立つことのできないミューラは、ベランダに出るだけでもリスクがある。そこで、ステンレスの物干しスタンドを室内に移動させ、部屋の中で干してからベランダへ移動させるようにしているのだ。
慣れた手つきで洗濯物のしわをしっかり伸ばしてから干していくミューラ。
誠司の洗濯物があっても気にしない。むしろ、主婦気分になって達成感がある。
逆に、誠司には自分の洗濯物を少しは気にして欲しいと思う。完全に、ただの布扱いされて、それはそれで哀しかった。
「今日はお天気もいいので、すぐに乾きそうですね。風は冷たいですけど」
洗濯物を干し終えたミューラは、コタツへと移動する。
「はふぅ……。さて、ちょっと狩りにいきましょう!」
家事が終わったら、休憩がてらクリスマスプレゼントのゲーム機で遊ぶ。その表情は、実に晴れやかだ。
「あー。素材落ちないですねぇ……。教えて下さい、コタロウちゃん。わたしは、あと何回同じクエストをクリアすればいいんですか? セージさんはなにも答えてくれません……」
「キュゥゥン」
誠司どころか、コタロウも答えてはくれなかった。
そうこうしているうちに、時計は正午を指し示そうとしていた。
「お昼ご飯っ、お弁当っ、お昼ご飯っ、お弁当っ」
ゲーム機を閉じたミューラは、微妙に調子の外れた鼻歌を奏でながらスキップするように移動。
キッチンでランチボックスを手にしたミューラは、コタツへ戻ろうとし……。
「おみそ汁も温めないといけませんね」
てへっと舌を出すと、ランチボックスを戻して一人分残ったみそ汁をコンロにかける。
「あっ、おみそ汁にタマゴを落としましょう」
これは名案と、ミューラが冷蔵庫を開けると――
「これ、なんでしょう?」
――中に、見慣れないプラスチック容器があった。
「むむむ。セージさんの新作の匂いが……」
タマゴに手を伸ばしながら、ミューラはしばし考え込んだ。
冷蔵庫に隠された誠司の新作。
気にならないと言ったら嘘になる。いや、それも嘘だ。もの凄く気になる。せめて、蓋を開けて中身を確かめたい。
それくらいなら、許されるはず。
「……こ、ここは戦略的撤退ですぅ」
だが、理性を総動員し、ミューラはタマゴだけ出して冷蔵庫の扉を閉めた。
それが美味しそうな物だった場合、中身を目で確かめるだけでは済まない。舌で味わいたくなる誘惑に、きっと抗うことはできないだろう。
そうなったら、誠司になんと言われるか。
ただ怒られるだけならいい。自業自得なのだから。
けれど、誠司は怒りはしない。前髪の奥から黒い瞳でこちらを見つめ、こう言うのだ。
『もっと、美味しい食べ方があったんだがな』
――と。
そうなったら、悔やんでも悔やみきれない。明日の笑顔のために、今は涙を流すのだ。
「それに、今のわたしにはセージさんのお弁当がありますからね。セージさんのお弁当が!」
「ワゥンッ! ワゥンッ!」
キッチンの入り口で、コタロウも跳ね回って喜びを共有する。
「って、タマゴタマゴ」
喜んでいる場合ではなかったと、慌ててタマゴを割りみそ汁に入れる。そして、タマゴが半熟になった辺りで椀に盛ってコタツへと移動した。
その足下で、コタロウが飛び跳ねながら抗議する。
「アンアンッ! アンアンッ!」
「分かってます。コタロウちゃんのおやつもありますからね~」
ランチボックスとキューブのビーフジャーキーを手にしたミューラが、改めてコタツに腰を落ち着けた。
「……さて。セージさんも、そろそろお昼ですよね」
改めて時計を見ると、既に正午を過ぎている。
誠司も、きっと昼食を摂り始めている頃だろう。
誠司と昼食の時間を合わせる。そこに意味などないはずだが、すっかり習慣になっていた。なんだか、そっちのほうが嬉しいから。
「今日は、おにぎりのお弁当ですね」
不思議な模様と手触りのランチボックスのときは、決まっておにぎりだ。ぱかっと蓋を開くと、三角形に握った一口大のおにぎりが三つ目に入ってくる。
その内のひとつは、海苔ではなくとろろ昆布が巻いてある。
「ほうほう。やりますね、さすが誠司さん」
上から目線でうなずきつつ、ミューラは海苔が巻かれたおにぎりへと手を伸ばす。やはり、中身が分からないほうが、冒険心がかき立てられる。
「ワゥンッ! ワゥンッ!」
「ああ、コタロウちゃんは、あとですからね、あとでです」
ただ、手に持って食べると、コタロウが自分に与えられる物だと勘違いしてヒートアップしてしまう。
しかし、先にコタロウへおやつを与えることは誠司からきつく戒められている。まずは、ミューラが食べなくてはならないのだ。辛い立場である。
それはそれとして、ミューラはコタロウを牽制しつつ、小さな口を大きく開いて、半分ぐらいまで一気にかぶりつく。
「あ、おかか。いいですね」
かつお節、ご飯に合う。
しょうゆ、ご飯に合う。
それらが合わさっているのだ、美味しくないはずがない。白ごまの風味も絶妙だし、みりんもはいっているのだろう。ほのかな甘みも、また良い。
海苔の風味も欠かせない。海苔がなかったら、おにぎりはなんと寂しい食べ物になることだろうか。
「美味しかったです」
残りもぱくっと食べてしまったミューラの目が、次におかずへと向けられる。
メインは、昨日の夕食の残りの唐揚げ。
唐揚げは、残りというか、残したというか、誠司が死守したというか、そんな感じの品だ。
手を箸に持ち替え、貴重な唐揚げを一口で頬ばる。
「ふんふんふ~ん。これまた、これは」
味が染み、しっとりとした食感。ショウガやしょうゆといった下味の存在感が、ぐっと際立っている。
揚げたてのような暴力的な美味さではない。しみじみと感じる美味さだ。
それから、おかずのもう一品は、朝の残り……というか一緒に焼いたであろう卵焼き。
しっかりと火が通っており、これまたしっとりと甘い。食事の途中でデザートを口にしているかのようで嬉しくなってしまう。
「というか、タマゴって美味しいですよね。さすがセージさんです」
「ワゥンッ! ワゥンッ!」
そんなことより、一人で食べてズルい。早くちょーだいと言うコタロウ。
「はいはい。もうちょっとですから」
野菜は、茹でたブロッコリーと半分に切ったミニトマト。それをぱくぱくと片付けてしまうと、ミューラは、もうひとつのおにぎりに手を伸ばした。
「お、ツナマヨツナマヨ。これも定番ですね」
異世界の王女がツナマヨのおにぎりを定番と表現するのもどうかと思われるが、この場には誠司も有朱もいない。
ただ、コタロウだけがじりじりとそのときを待っていた。
「分かりました。少しだけですからね」
根負けしたミューラが、キューブ状のビーフジャーキーを手のひらに載せると、コタロウが猛烈な勢いで飛びついた。
「もう、くすぐったいですよぅ」
その上、手のひらも涎で汚れてしまった。
コタロウの頭を軽く撫でてから洗面所へ移動し、ミューラは再びコタツへと戻る。
「それにしても、セージさんはすごいですよねぇ……」
この前、自分で料理をしてから誠司への尊敬の念が強くなっているミューラ。
魔法も使わず、食材を自由に下ごしらえできる。しかも、ミューラの何倍も手際良くだ。どれだけ練習しても、あの境地にたどり着けるとは思えない。想像もできない。
それでも、二度とやらないとは思わなかった。
自分が作った料理――有朱にかなり助けられたが、それはさておき――を食べて、誠司は美味しいと言ってくれた。
それは、とてもとても、言葉では言い表せられないぐらい嬉しい体験だった。
つまり、誠司もミューラが美味しく食べてくれると嬉しいと思っているのだ。だからこそ、毎日手間をかけてくれている。
そんなことを、嫌いな相手にやるだろうか?
「この気持ち、まさしく愛だ! ですね」
誠司が聞いていたら「なぜそこで愛ッ!?」と言っていたかもしれないが、超能力者ならぬ彼にはできない相談だ。
ゆえに、ブレーキの効かない暴走車のようにミューラの誤解は留まるところをしらなかった。
「あ、おみそ汁忘れてました」
笑顔でごまかし、ミューラは椀を手に取った。
そして、半熟のタマゴをわずかに崩し、とろっと溢れ出たところで一緒に啜る。
「ふぁあ……」
タマゴひとつで、いつものみそ汁がごちそうになる。しかも、タマネギと油揚げのみそ汁は、タマゴとの相性がすこぶるいい。ミューラの主観では、キャベツのみそ汁に比肩する。
満面の笑みを浮かべながら、ミューラは本命とも言えるとろろ昆布のおにぎりに手を伸ばした。
「むむむ。これは……ッッ」
昆布の旨味のお陰で、冷めても美味しい……だけではない。
おにぎり自体に、細かく刻んだ魚肉ソーセージが混ぜ込まれていたのだ。
「このサプライズ。セージさんも腕を上げましたね」
うなずきながら夢中で食べるという器用なことをした結果、あっという間になくなってしまった。
「空っぽ……ですねぇ」
やや恨めしそうな視線でランチボックスを見つめるが、感謝の心も忘れてはいない。
「ごちそうさまでした」
昼食を摂り、後片付けをしたら、勉強の時間だ。
そのお供は、誠司が出かける直前に水筒に淹れてくれた紅茶と、有朱が差し入れてくれた手作りクッキー。
クッキーに関しては、ミューラのためという建前で誠司から受け取り拒否されず、食べてもくれるということで、Win-Winの関係が構築されている。
それをはむはむと味わいながら、ミューラは勉強の準備を行う。
「さくっさくで美味しいですね。さて、呪文の効果を停止させて……」
ミューラが、誠司や有朱とコミュニケーションを取るために重要な魔法。
それを一時的とはいえ切るのは、当然理由がある。
ミューラの目の前には、一冊の本が置かれていた。
誠司が日本語の勉強用にと買ってきた、昔話が何編か収録されている本。
ミューラが読み進めようとしているのは、『かぐや姫』だった。
竹取物語。
作者不詳だが、源氏物語で「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」と呼ばれている通り、日本最古の小説と言っていいだろう。
だいたいの内容は日本人なら誰でも知っていると表現しても過言ではない。特に、かぐや姫が竹から産まれる冒頭のシーンは。
「竹……植物ですよね? 昔は、この国にもそういう種族がいたのでしょうか?」
しかし、異世界人であるミューラが素直に読むと、こういうことになる。
エルフやドワーフ草原の種族、ケンタウロス等々、様々な異種族が存在する世界で生まれ育ったミューラにとっては、不思議な種族の存在が逆に当たり前。
不死鳥など火口から産まれるのだ。それに比べたら、異常でもなんでもない。
「なるほど。やはり、成長が早い種族だったんですね」
そういうことかと、特に違和感もなく読み進めていくミューラ。日本語の読解力に問題はなさそうだが、前提となる常識は問題しかなかった。
こうして、翁たちに財宝を与え、成長してなよ竹のかぐや姫と名付けられた彼女は、貴公子たちから求婚を受ける。
「ダメ、ダメですよ。気持ちは分かりますが、それじゃ悪い女になっちゃいます」
紅茶で喉を潤しながら、ミューラは叫んだ。
五人の貴公子に対し、かぐや姫は『仏の御石の鉢』、『蓬莱の玉の枝』、『火鼠の裘』、『龍の首の珠』、『燕の子安貝』といった秘宝を持ってきたなら結婚しましょうと、無理難題を押しつける。
ミューラが辛うじて理解できたのは『龍の首の珠』ぐらいだが、それで他の秘宝も無茶な要求であることは理解できた。
結婚の条件に、そんな物を求めるのは――少なくともミューラの価値観では――言語道断である。
「愛がなくちゃダメですよぅ」
政略結婚が当たり前の社会にいたミューラ。それだけに、かぐや姫の気持ちは分かる。分かるが、それではいけないのだ。
断るのならば、誠心誠意心を込めて謝絶すべき。そうすればきっと、相手も分かってくれるはずだから。
「あーあーあー。案の定です……」
ミューラが心配した通り、貴公子たちの求婚は失敗に終わる。
しかも、悪い男をやっつけたというよりは、かぐや姫がわがままな女性にしか見えない形で。
「不器用すぎますぅ」
そのわがままぶりは、帝が登場しても続く。
「翁さん、もっと頑張って。ああ、ダメです。そうやって、本人の意思を無視して不意打ちしたら、かぐやちゃんは、意固地になるだけですよぅ」
かぐや姫が、帝と無理矢理会わせようとするなら消えてしまうと言ったにもかかわらず、行動に移してしまう翁。
ミューラが、クッキーをばりばりと食べながら、苛立たしげに手足をばたばたとさせた。
「それにしても、突然消えるとか、まるで導器魔法ですね……まさか……?」
ふとした思いつきだったが、すぐに消えてしまった。
だまし討ちのような真似をされたかぐや姫。数少ない味方に裏切られてどんな気持ちになるだろうかと、ミューラはそちらのほうが気になってしまう。
しかし、読み進めていくうちに、当初は然程真剣ではなかった帝が完全にかぐや姫の虜になっていることに気付く。
「ふ~ん。まあ、帝さんも、そこまで悪い男じゃなさそうですね? というか、帝には無理難題を押しつけないですし、実はかぐや姫はツンデレさんなんじゃないでしょうか?」
それは解釈次第となるだろうが、ラストシーンを見ればあながち間違いとも言い切れない。
ただし、ミューラにそれを確かめる余裕はなかった。
「うう……。離ればなれになることが分かっていたから、あんな態度を取っていたんですね……。ごめんね、かぐやちゃん。わたし、あなたのことなにも分かってなかったですぅ」
月からの迎えが来た、その夜。
ミューラは心の中で翁と帝の兵士たちを応援するが、不思議な力でまともな抵抗もできない。
その上、翁に対し「金はやったんだから、かぐや姫返せよ」と言い放つ上から目線の月からの迎えにミューラの怒りは沸騰する。
しかし、羽衣を身に纏って地上でのことを忘れてしまったかぐや姫に自分を重ねてしまい、ぱたりと本を閉じてしまった。
「うう。全部忘れちゃうなんて、可哀想ですぅ……」
かぐや姫に同情するとともに、同じことが自分にも起こったらと思うとぞっとした。
帰らなければならない。それは分かっている。
それだけでも哀しいのに、思い出までなくなってしまったら……。そう考えると、ぎゅっと心臓が鷲づかみされたような気分になる。
寂しくなって、思わずコタロウを抱きしめてしまった。
「セージさん、早く帰ってくるといいですね」
「クウゥ~~ン」
コタツでちょっとだけと横になったミューラは、そのままうとうととして夢を見る。
夢には、誠司が出てきた。
誠司が、ミューラの生まれ育った離宮に現れ、そして迎えに来たコタロウと一緒に地球へと帰っていく夢だった。
そんな一人と一匹の願いも虚しく、誠司が早めに帰宅することはなかった。
同時に、遅くなることもなかった。
繁忙期にも関わらず感心するほどいつも通りの時間に帰宅した誠司は、買い物バッグをミューラに預けると、家にも上がらずコタロウを散歩へ連れて行き……それを終えると、休む間もなく夕飯の準備に取りかかっている。
「セージさん、ピーマンは良くないと思いますよ、ピーマンは。中身スカスカじゃないですか。良くないです」
ピーマンを縦に割って中身を取り出す誠司へ、対面式キッチンの向こうから遺憾の意が伝えられた。
「中身が詰まっていればいいわけだな?」
「え? ピーマンの肉詰めですか?」
「いや。だが、ピーマンが少ないのが不満のようなので、単純に量を増やそうかなと思っただけだ」
「反対! 絶対反対です!」
好き嫌いは良くない……などとは、誠司は言わない。
余程の偏食でなければ、仕方がないとすら思っている。嫌いな食材が並んだら、食事の楽しみが失せてしまうのだから。
ただ、ミューラの場合は、嫌いと言うよりは肉が好きすぎるだけなので、容赦をするつもりはなかった。
そのため、当初の予定よりもひとつ多く、ピーマンを細切りにする。
続いて、正月用の水煮が余ったのか。安売りされていたタケノコも、同じく細切りにしていった。そんな誠司に、ミューラが今日の活動報告を行う。
「今日は、かぐや姫のお話を読んでみました」
「日本語で?」
「日本語で、です」
ふふんと、胸を張り自慢気に答えるミューラ。
起きた後、帝が不老不死の薬を焼き、その山が富士山と呼ばれるようになった――という最後のシーンまで読み切っている。
そのため、やり遂げたと誇らしげだ。
帰ってきたときは捨てられた子犬のようだったのにな……と誠司は思うが、ミューラというよりは、女性の機嫌など冬山よりも変わりやすいかと深くは追及しない。
代わりに、素直な賞賛を送る。
「それは、凄いじゃないか。大したものだ」
「それほどでも……ありますよね、やっぱり。まあ、四ヶ月以上もいたら文字を憶えるぐらい当然だとは思いますが……。えへへ。でも、セージさんが、そう言うのなら仕方がないですね」
ミューラに尻尾があったら、ぶんぶん振られていたことだろう。
それくらい喜びが隠しきれず、顔中に溢れ出ていた。
「そうか。竹取物語か。ちょうどいいな」
「ちょうどいい?」
「ああ。青椒肉絲と酸辣湯には、たけのこを使ってるからな」
誠司としては偶然の一致という以上のことでもなかったのだが、ミューラはなぜか動きを止めた。
「竹取……翁……竹」
そして、ぶつぶつとつぶやきながら何事か考え込む。
「たけのこ……竹の子!」
ミューラの中で、点が線となったようだ。ぽかんと口を開いて、虚空を見つめている。
「おせちのタケノコって、竹だったんですか!?」
「説明しなかったか?」
「ですです」
そう言われてみると、レンコンやゴボウがお節料理に入った由来は話をした気がするが、タケノコに触れた記憶がない。
タケノコが竹になるなど、自明すぎて意識の外に出ていたのかもしれなかった。
「だって、竹って堅いんですよね?」
「ああ。そうだな」
「それを食べるんですか?」
「若いうちは、柔らかいんだよ」
「……この国の人は、ほんと~~に、なんでも食べますねぇ」
「否定はしない」
豚のもも肉――今日は、牛肉ではなく豚だ――を何枚か重ねて細切りにしながら、誠司は認めた。認めざるを得なかった。
青椒肉絲――中華料理を作りながらでは、なにを言っても説得力はない。
なので、調理に没頭することにした。
細切りにした豚のもも肉には片栗粉をまぶし、酒・しょうゆ・オイスターソースなどで青椒肉絲の調味料を作る。
ここで誠司はフランパンを火にかけ、温まるまでの間に、もう一品用意していた棒々鶏サラダ用のソースもねりごま・砂糖・しょうゆ・ごま油を1:1で混ぜて作ってしまう。
「同時にいくつも作っちゃうなんて、凄いですね」
「同時じゃない。時間差で作っているだけだ」
「え? それ、同時ってことじゃないですか」
二人の溝は簡単には埋まりそうにないし、それどころでもない。
フライパンが充分に温まったところで、豚肉、ピーマン、タケノコの順番で炒め、頃合いを見計らって調味料を手早く全体に絡める。
材料は細切りにしてあるため、丁寧に火を入れる必要はない。むしろ、ぐずぐずしていては食感が損なわれてしまう。
「わっ、もうですか?」
「ああ」
コンロの火を消し、青椒肉絲をふたつの皿に分けていく。
ただ、ミューラの分には、心持ち肉が多いように見えた。
「持ってってくれ」
「はいー!」
踊るようにコタツへと移動するミューラ。その足下にコタロウがまとわりつこうとするが、上手いこと距離を取っている。慣れたものだった。
それを見送ると、既に茹でて冷ましてた鶏の胸肉を手で裂き、ソースをかけて棒々鶏サラダを完成させる。誠司が嫌っているためキュウリは存在せず、レタスとトマトだけだが充分だ。
先に作っていた酸辣湯と合わせ、青椒肉絲定食が完成する。
「では、かぐやちゃんが産まれた竹の実力を見せてもらいましょう。いただきます」
「だから、あれはちゃんと成長した竹であってタケノコとはまた違うんだがな……」
途中で言っても無駄だと悟り、「召し上がれ」と答え誠司も食事を開始する。
なにしろ、ミューラは、細薄切りの豚肉・タケノコ・ピーマンで構成される青椒肉絲しか見ていない。
それらをまとめて箸で掴み、ミューラとしては大きく口を開いて噛みしめる。
しゃきっとしたタケノコの歯ごたえと、それにはやや劣るが凛としたピーマンの歯触り。そして、しっかりとした豚ロースの食感がコントラストを奏でる。
オイスターソースの旨味とコクが、さらに奥行きを与えていた。
「美味しいですね、この炒め物」
「それは良かった」
「スープも酸っぱいけど、酸っぱいだけじゃないですしおいしーです」
やや酸味のある中華スープが、しつこさを中和してくれた。その酸味も、卵がふんわりと包み込んでくれているので、まったく不快ではない。
それどころか、さらなるハーモニーを生み出していた。
「はっ、気付いたんですけど、今日は三食タマゴ食べたことになりますね。いいことです」
幸せそうに微笑み、ミューラの周囲にだけ春が来たかのような錯覚を周囲に与える。
それに気付かないミューラは、また青椒肉絲に箸を伸ばし、今度はご飯の上に乗せた。しかし、それも長い間ではない。すぐに、青椒肉絲と米が口の中で再会を果たす。
「ご飯は、本当に懐が深いですね」
和食、洋食、中華。
なんにでも合うし、包み込んでしまう。
それに、朝から三食食べてもまったく飽きない。さすが主食だ。
感心しつつ、飢餓感が一段落したところでミューラは誠司に語りかける。
「わたし、思ったんですけど」
「なにが?」
「かぐや姫って、古代魔法帝国の人間ではないでしょうか?」
突拍子のない話に、誠司は茶碗を持ったまま動きを止めた。
こういう場合、誠司の反応は、得てして焦点がぼやけたものになる。
「ミューラの世界では、人は植物から産まれるのか」
「違いますよぅ。せめて、疑問形で語って下さい!」
そんなセンス・オブ・ワンダーはなかったらしい。少しだけ、残念に思うと同時に、ほっとする誠司。
「まあ、かぐや姫が宇宙人という説もあるし、それに比べたら異世界人の実在は立証されてる分説得力はあるかもな」
「えへへ。まあ、それほどでもありません。ですが、セージさんがわたしを見直すことを止め立てするつもりもありませんよ?」
見直す――ということは、今現在、見損なわれている自覚があるらしい。
しかし、ミューラはそのことには気付かずに続ける。
「わたしが、大成功で来れてしまうぐらいですから、より優れた古代魔法帝国の導器魔術師ならこの地球と行き来ができても不思議ではありません。案外、わたしがセージさんのところにたどり着けたのも、そういった過去のパスに乗っかっただけという可能性も考えられます」
「そのパスがなかったら、もっととんでもない星に行っていた可能性もあるわけか」
「おおおお、脅かさないで下さいよぅ」
一日の長さも、重力もそれほど違いはない。問題なく、呼吸もできる。価値観も似ており、魔法を使えば意思の疎通も可能。
それを幸運な偶然と片付けるよりは、なんらかの縁があってやってきた。
そう考えたほうが、納得できる。
誠司としては、その程度の認識だったのだが、ミューラは違うようだ。
「あ。でも、そうですね。わたしとセージさんが運命で結ばれていたと考えたら辻褄が合いますね」
「俺じゃなくて、コタロウが運命の相手だった可能性もある」
「なんでそうなるんですかぁ」
「……悪いが、コタロウは渡さないからな。他を当たってくれ」
「えー。もう、はい。なんでもないです」
そこを争っても無駄だとミューラは諦め、棒々鶏サラダに箸を伸ばした。
ただのサラダであれば最初に――それも義務的に――食べきってしまうところだが、鶏肉があるとなれば話は別だ。
ゴマのソースも濃厚でいい。一段落ちる胸肉を補って余りある。ついつい、野菜も一緒に食べてしまう。誠司は、本当に策士だ。
「ちなみに、セージさんは不老不死のお薬を焼いちゃうところ、どう思いました?」
「最初は、もったいないことをしたなと、思った」
「へー。セージさんでも、そんなことを思うんですね」
棒々鶏サラダのトマトを飲み込んでから、ミューラは意外そうに誠司を見つめる。
かぐや姫がいない世界で、不老不死になっても仕方がない……などという情緒は、最初から求めていない。
得体の知れない薬など、処分して正解。
これくらいは、言われるものと考えていたのだ。
「ああ。自分で飲むだけが使い道じゃないからな」
だが、誠司の回答は、ミューラの想像を遥かに超えていた。
「国内だと禍根を残すかもしれないから、外国……中国にでも売りつけるとかやればいいのにと思った」
ただし、竹取物語の成立時期は、唐の末期から五代十国時代の混乱期。それも難しいなと、すぐに却下している。
そうなると、保管しておくだけでも争いの種になりかねない。そうなると、焼き払ったのは英断だったのかもしれないと、すぐに考えを改めた。
……と、付け足すことはできなかった。
「ひどい……。それはひどすぎます!」
柳眉を逆立てて怒りを露わにする、ミューラ。
その怒りは、青椒肉絲を箸で鷲づかみにし、ぐわっと口に入れて乱暴に咀嚼することで発散する。
「セージさん、ダメですよ! なんで好きな人からのプレゼントを転売しちゃうんですか! しかも、最後のプレゼントですよ!」
「……焼くのはいいのか」
「いいんです。そこに愛がありますから」
「だが、為政者として、自国が有利になるように動くことも義務じゃないかと……」
「ダメです。この場合は、ダメです」
やや承服しかねるところもあるが、誠司はそれ以上の抗弁を断念した。
「悪かった。俺が間違っていた」
自分の意見は功利的に過ぎると、認めざるを得ない。世界は利益だけで回っているわけではないという認識ぐらい、誠司にもあった。
それに、ドラマツルギー的に言えば、霊薬を焼く行為は、かぐや姫は不老不死よりも価値がある存在だったと強調する意味合いもあるのだろう。
そう考えると、唐突に出てきた不老不死の霊薬にも納得できる。
「つまり、かぐや姫はあの薬を処分させるために出してきたわけか」
無理難題を押しつけてきた女だ。それくらいあり得る。いや、そう考えたほうが自然だ。中身が本当に不老不死の霊薬だったのかも、疑問だ。
案外、毒かなにかだったのかもしれない。帝が霊薬を口にしたと知ったら、かぐや姫は、言葉ほど愛していなかった罪などとうそぶくわけだ。
アイリーン・アドラーのようなファム・ファタルではないか。
「セージさん、またなんか変なことを考えてません?」
「いや、他者との会話は刺激になるなと、感心していた」
「分かりました。いえ、分かりませんけど、おかわり下さい」
「喜んで」
どうやら、誠司がミューラのあしらい方を理解したのと同じように、ミューラも誠司との付き合い方を学んだようだ。
ただ、どちらがより上手かという観点では、まだ誠司に軍配が上がる。
「だが、別腹まで埋めないほうがいいと、忠告はしておこう」
「……どうしてです?」
「デザートに、杏仁豆腐を作ってある」
誠司も初めてだったのだが、杏仁豆腐は、意外と簡単に作ることができた。
ゼラチンと砂糖を煮溶かした鍋に、スーパーで売っている杏仁霜と牛乳、生クリームを混ぜた物を加えて加熱する。
あとは容器に入れて冷やす必要があるため、朝のうちに用意していたのだ。
帰宅して確認したが、初めてとは思えない出来だった。
問題は、杏仁霜といい、棒々鶏サラダのソースに使ったねりごまといい、買ったはいいが使い切れる気がしないところぐらいだ。
「あっ、冷蔵庫にあったあれが…」
もちろん、ミューラは杏仁豆腐がなにかはしらない。根拠もない。だが、直感が正しいと告げていた。
「ちなみに、なにか手が加わるんです?」
「甘いシロップをかけて、缶詰のだけど、フルーツを載せる予定だったが……。そのままが良かったか?」
「いいえ。わたしは、わたし自身に勝利し、それによって栄光をつかみ取った。それを噛みしめているところです」
わけが分からないが、どうせ大したことではないだろう。
そう見切った誠司が、ミューラに改めて問う。
「で、ご飯のおかわり?」
「もちろん、大盛りでお願いします」
その態度は、いっそ清々しいものすら感じた……が。
人間、やはり向き不向きがあるのだろう。
ファム・ファタルには、ほど遠かった。
……それなりに家事はしているはずなのに、あんまりミューラの印象が変わっていない気が。
おかしいな。どこで間違えたんだろう……。




